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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

さて、日曜はゆっくり休んで、週明けになると、風邪もどこかへ去っていた。
  
週明けから暗闇の勢力に対して、予定していた厳しい措置を実行する。被告に法的措置を取るため、書類をしかるべき機関に宛てて送付した。これで「命令」を「実行」するためのすべての書類手続きが整ったことになる。

これは判決を得た以上、避けて通ることのできない過程である。筆者が人生で初めて足を踏み入れる新たな厳しい領域だ。
 
訴訟で負けた人には、様々なデメリットが降りかかる。仮執行は控訴によって実行を遅らせることはできない。従って、判決によって抱えた債務は、早々に整理しなければ、社会的に多くの負の影響をもたらし、ますます増えていく可能性すらもある。

被告はかつて「一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」と書いていたが、その言葉は誰よりも彼自身に当てはまるものとなることを考えてみたことがあるのだろうか?

聖書には、
 
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

とある通り、自分が他者に対して憐れみ深く接した人には、憐れみ深い態度が返って来るが、それをしなかった者には、いずれ自分が他人に行ったことが、そっくりそのまま跳ね返ることになる。

バビロンの崩壊が、今始まった。
 
掲示板の読者は特にそうだが、これから被告に起きる事柄を、読者にはぜひしっかりと見ておいて欲しい。なぜなら、掲示板において、匿名で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている者たちは、自分にだけは決して追及の手が及ばず、自分には苦しみは降りかかることはないと高をくくっているのであろうが、人物が特定されれば、だれでも同じような末路を辿ることになるのだ。

被告の今日は、掲示板の投稿者の明白であるから、警告としてよく見ておいて欲しい。そして、天に唾すれば自分の顔に落ちるように、自分が他人に向かって吐いた言葉は、いずれことごとく自分に返されることの意味をよく考えてみることをお勧めする。

彼らは自分には報いが降りかかることがないと確信しており、筆者が凡人ではないという事実を否定して嘲笑しているようだが、学者という職業の人々は、もともと物事を徹底して追及することに慣れており、またその方法論を知っている。掲示板に対しても、被告に対するのと同じように徹底した態度で臨み、必ず、権利侵害に及んだ人間に対しては、実名を公表の上、責任を追及することを予告しておく。
  
* * *

さて、筆者は今、思い出すことがある。それは筆者がアッセンブリーに所属していた子供時代に、キャンプで初めて村上密を遠目に見かけたときのことである。

あの頃、筆者は中学生で、村上は「先生」と呼ぶよりも、子供好きな「お兄さん」という若さで、筆者よりも少し年上なだけの子供たちを楽しそうに引率していた。

それを見て、筆者は「若い先生のいる教会はいいなあ」と考えたことを思い出す。筆者の所属していた教会は高齢化しており、筆者は子供心にも、教会が高齢化していることに寂しさを覚えていたのである。

その頃、村上密がどんな活動をしているのか筆者は知らず、筆者から見れば、村上はただ単にアッセンブリー教団に属する教職者の一人の「若い先生」であり、まさかその後、現在のような状況が起きるとは、予想だにすることもなかった。
 
そのキャンプでは他教会の人々とは話すこともあまりなかったので、筆者は大勢の人々とにぎわいを楽しむということはなかった。その代わりに、聖霊の存在を知り、おそらくその時、洗礼の決意を固めたのではなかったかと思われる。

キャンプの終わりに、証しをしたい人は名乗り出るようにと求められたので、筆者は手を挙げて講壇に立ってマイクを握り、何か証しの言葉を語った。何を言ったかは覚えていないが、生涯、神様に着いて行くつもりだといった決意を語ったように思う。そのキャンプに連れていってくれた引率者の信者(日曜学校の先生)が嬉しそうに頷いていたことを思い出す。

家に帰って洗礼を受けると親に報告すると、深い感動が込み上げ、涙が出て来た。嬉しいというのとは違う。筆者に対する神の深い愛を感じ、その決意が、筆者の生涯を分ける決断になることを理解していたためである。

しかし、それから、家ではバトルが始まった。我が家の宗教は分裂しており、父はアッセンブリー教団にも疑問を持ち、子供を早くから教会に所属させることに反対で、そこで、当然、洗礼を受けることにも反対であったため、それを押し切って洗礼を受けるには極めて大きな代償が必要であった。

このように、筆者の人生には、子供の頃から、神に従うために、代価を伴う「エクソダス」の過程があった。ただ単純に信じますと言って、それですべてが成就するような安易な状況ではなかった。神に従うために、筆者はまず最初に、自分の家族の情愛や理解を、心の中で後回しにせねばならなかったのである。

その他にも、この世との別離もあり、子供としての筆者は、非常に大きな苦しみを耐えねばならなかったと言える。その上、筆者はアッセンブリーの教会生活には全く満足していなかった。教会生活そのものが苦痛に近いものだったと言っても良い。その当時の教会の様子について、改めて書く必要もないとは思うが、そこには大きな問題があり、真の信仰はほとんど見られない状況であった。筆者には、教会生活は人工的なもので、本物ではないという違和感が心に絶えずあった。

だが、その頃から、筆者は、教会と信仰は別物であって、死んだような礼拝とは別に、聖書の神御自身は生きておられるという確信が心にあった。そこで、教会生活がどれほど形骸化していようと、教職者がどれほど信用できない人々であろうと、そのことは筆者の内心に影響を与えなかった。むしろ、筆者はこれほど大きな代償と引き換えに、従おうとしている存在は、筆者の全自分を捧げるだけの価値のある方であって、筆者の人生は、その方のために聖別されて、とりわけられていることを知っていたのである。

筆者は子供の頃から、幾度か親に向かって、筆者の人生の終わりは必ず普通でないものとなるだろうという予測を語ったことがあった。それは決して非業の死を遂げるという意味ではない。ただ筆者なりに、神に従って生き、神に従って召されるという、殉教の予感であった。

だが、そういう決意も、大学生くらいになると散漫になり、ある時が来て、何もかもが一変するまで、筆者の生活は世人とほぼ同じであった。しかし、そのような生活をしている時でさえ、筆者は自分の人生の終わりは、完全に主のためだけのものとなること、自分のために何か特別な召しが存在するということを、心に感じることがあった。

そして、筆者に与えられた人生の最期の瞬間が来るまで、神の愛は余すところなく筆者に注がれているということをはっきりと感じたのである。

不思議なことに、殉教の決意などなく、信仰すらもあるのか分からない暮らし方をしていても、筆者は神を離れていたわけではなく、神も筆者を離れられなかった。従って、筆者は、自分が神を選んだのではなく、神が筆者を選んだのだということを、今でも確信せざるを得ない。人は、自分の歩みを自分で決めていると考えているが、それを決めておられるのは神である。そう考える他には説明できない、あまりにも数奇な事件が、筆者の人生には多すぎる。

さて、筆者の父親は、人間洞察力に関してはピカイチで、筆者の人間観察眼も親譲りである。(筆者は論理的な思考と冷徹な観察眼を父から、豊かな情感を母から受け継いだ。)

その後、筆者は2008年になって、他教会で起きたトラブルを解決する目的で、村上の教会に向かい、そこに親を呼んで村上と対面させたことがあった。

筆者の父が、その時に村上から受けた印象を後になって述べた。父はアッセンブリー教団の非や、キリスト教についての意見を述べる前に、村上と筆者では人間のスケールが合わないということを真っ先に指摘した。彼は言った、「あれはヴィオロンを相手にできる人間だと思わない。だから、すぐに(ヴィオロンの方から)離れて行くだろうと思った。実際にその通りになった」と。さらに言った、「初対面の人間に向かって、家族カウンセリングのために、実家を訪れても良いとか、やたら熱心に自分の活動や親切心をアピールするところに、かえってうさん臭さを感じた」と。

筆者はこの感想を聞いた時には、すでに村上の教会からもアッセンブリー教団からも完全に離れ去っていたので、この印象は正しいと感じた。そして、たった一度、1時間にも満たないくらいのごくわずかな時間、会話しただけで、相手の人間性を的確に見抜ける父の洞察力に感心した。

もちろん、それは世間知らずの若い牧師に比べて、この世でもまれながら生きて来た年長者としての正しい判断と知恵でもあったろうが、それ以上に、我が親族には、父に限らず、一人一人に、何かしら非常にシビアかつ不思議な観察眼が備わっている。
 
だだ、父というものは、やはり、自分の子供の人間のスケールを直観的に理解・把握していると言えるだろう。筆者のようなタイプの人間は、通常人に理解できる域をはるかに超えた、とらえがたい要素を持ち(これも親譲りだが)、これを理解し、受け止めるためには、並々ならぬ特別な資質が必要となる、ということを、父はよく知っていたのである。

だからこそ、村上密には、筆者のために何もできないで終わるだろうことを、父は最初から分かっていた。筆者のリクエストに応えるという形で、村上の教会を訪れはしたものの、村上が、自分は経験不足の未熟者でありながら、他人の家庭に僭越に口を出し、自力で他人の家庭を是正するために家族カウンセリングに取り組むなど、もってのほかだということを、よく分かっており、口にこそ出さなかったが、最初から全く相手にしていなかったのである。
 
それよりも、村上が他人の心を癒すこともできないのに、一体なぜ、何を目的として、信者に向けて熱心にカウンセリングなどを勧め、そこに家族までも巻き込んでいるのか、父はその真の目的がどこにあるのか、当初から非常に疑問に思っていたと語った。

それから後、村上の人間性は、今やすでに余すところなく明らかになっているので、言及する必要もないと思うが、筆者は時折、「ではどういう人間ならば、父の目に適うのだろうか?」ということを考えてみることがある。筆者の父は、信仰者ではないため、価値観は全く共有できないが、親として、この人間になら、子を預けても構わないという人物が現れれば、多分、一目でそれを見抜く洞察力はあるに違いない。

だが、それだけのスケールを持った人間とは、一体、どういう人物なのだろうかと、筆者は疑問に思う。そして、今のところ、地上のどの人間の中にも、筆者はそれほどの器を見つけたことがない。

筆者から見れば、日本人は特にそうだが、男性はあまりにもナイーブで傷つきやすすぎて、女性からの絶えざるサポートや励ましを常に必要としているため、非常に厄介で面倒な側面を持った存在である。

多くの男性は、自分が強くて、大きくて、頼もしい、懐の深い人間であって、か弱い女性をサポートできることを、心の誇りとし、自信とし、よすがとしているので、女性の方が自分よりも強いことが判明した場合、それだけで打ちのめされ、自分を否定されたように感じ、侮辱を感じ、憤ったりする。女性が自分を少しでも上回っていると感じただけで、もはや愛も消え失せ、憎しみだけが残ったりもするのだ。

それはちょうど多くの男性が、自分よりあまりにも身長の高い女性と連れ立って歩くことを嫌うようなものである。学校時代、筆者の級友の中に、190cmは身長があろうかという女生徒がおり、筆者はその人を容姿端麗だと思っていたが、彼女は色々な苦労があることを話してくれた。もちろん、自分に合ったサイズの服や靴を見つけるのに苦労するだけでなく、特に、男性からの妬みのような蔑み、嘲りがひどいと嘆いていた。

このように、ただ女性の身長が高いというだけでも、男性はコンプレックスを感じるらしいのだ。つまり、多くの男性は、すべての面で、自分が女性に優っていることを確認できなければ、それだけで、心傷つけられたように感じ、侮辱を感じる非常にナイーブな生き物で、少しでも自分が女性から「見下ろされている」と感じることに、耐えられないと言えるのではないかと思う。

筆者はこのことを考えると、多くの人々がこのようにまで傷つきやすく、心が脆弱で、自信喪失しているために、自分のあるがままを認められず、それゆえ、他者のあるがままをも認められない状態に陥っているということは、非常に不憫で気の毒なことであると思わずにいられない。

さて、心の身長などというものは、誰にもはかれないにせよ、筆者の場合は、たとえるなら、見えない心の身長は190cm以上(場合によっては、200cmくらい)あるかも知れない。だが、そうなると、そういう人には、世界が他の人々とは異なって見えるのは当たり前のことである。むろん、理解者が減って行くことも、同じ価値観を共有できる人が減って行くことも、当たり前のことである。

強い女性は、自分のスケールに見合った、自分を守り、かばうことのできる、より強い男性をなかなか見つけられないどころか、男性も女性も含めて、多くの人々から、いわれのないやっかみや差別を受け、かえって心弱い男性を守る側に立たねばならず、苦労することになる。自分よりも心弱い男性たちのプライドを考慮して、絶えず、自己の強さを発揮せず、弱いふり、かばってもらっているふり、気遣われるふりをせねばならない。

これは非常に大きな負担である。何をどう言ってみたところで、大は小をカバーできるが、その逆は成り立たないからだ。かばう側には立っても、かばわれることができないというのは、恐るべき孤独である。

だが、最近、神はそういうお方なのだということが分かって来た。神は私たちがあまりにも心のスケールの小さい人間であることをよく理解して、私たちのプライドを完全にへし折って、私たちが生きて行く気力をなくすことのないように、非常に気を遣いながら接している。強く、頼もしく、大きいからこそ、絶えず私たちの限界をかばうために、ひたすら忍耐して私たちにつきあうしかなく、時には私たちがあまりにも自分のちっぽけな心にこだわりすぎるのを見て、怒り、苛立ちながら、私たちが新たな一歩をやっと踏み出すのを待っていて下さる。これは途方もない忍耐だということが分かって来る。

さて、筆者の父は、人の人間的な器の大きさを直観的に見抜くことができる人だったので、筆者のような人間は、村上密のような人間に何とかできるような存在ではない、ということを確実に知っていたし、筆者もその通りだと考えている。

だが、これは以下にも書く通り、ただ単に人間のスケール云々という問題ではなく、私たちがそれぞれ何に立脚して立っているのかという問題を伴う。

村上と筆者の立脚点は、完全に対極にあり、それ だからこそ、この争いは、村上の勝利で終わらず、控訴審に持ち込まれたのであって、そこで一審判決は覆されることになる。理解ある裁判官が下した良識的な判断でさえ、神の目には完全でないため、覆されることになる。この争いに、決着をつけられるのは、神御自身である。

筆者は、神の完全なることを証明するために立たされた人間であり、その召しに立っていればこそ、主は筆者の願うことに応えて下さるであろう。

だが、このようなことは、筆者に限ったことではない。杉本徳久がかつて書いていた「干潟」に関する記事を思い出せば分かる通り、杉本も、かつて村上とは対立関係にあり、その当時に書いた、村上をほとんど偽預言者扱いせんばかりの記事を未だ掲載し続けている。
 
この「干潟」に関する記事で、杉本は、村上がカウンセリングを通して、人の心に溜まった「悪水」を抜けば、その人はハッピーになれると書き、自分の活動を、干潟を埋め立てる公共事業にたとえて自画自賛していたことを痛烈に批判し、干潟は断じて人の心に溜まった「悪水」などではない、村上は初歩的な思い違いをしている、と非難していた。

まさしくその通りなのである。

もしかすれば、地上には、一人くらいなら、筆者よりも強く、懐の深い、頼もしい存在はいるかも知れないし、あるいはそういう人々は、十人か百人くらいはいるのかも知れない。そういう人々によりかかれば、筆者の重荷は軽くなり、筆者はより悩みなく生きて行けるように思われるかもしれない。

だが、筆者は、誰か自分よりも頼もしい人間によりかかり、支えられ、理解され、慰められて生きたいとは全く思わず、それが幸福だとも感じないのである。

仮に肉の父の目にかなう人間が十人、百人いたとしても、天の父の目にかなうのは、御子ただお一人だけである。

従って、筆者は他のすべてのものと引き換えにしてでも、ただ真に完全で価値のあるものだけを掴みたいと願っている。

筆者が何を言おうとしているかと言えば、私たちにとって、孤独や悩み苦しみは、取り除くべきものではなく、それ自体が、神に通じる十字架の道だということである。誰か孤独や悩み苦しみを埋めてくれそうな人間に手を伸ばせば、手っ取り早くそういうものは、なくなるように思えるかも知れないし、それこそが人間の幸福のように考える人々がいるかも知れないが、それは根本的な誤りである。
  
そこで、子供の頃、キャンプで遠目に他教会の子供たちの楽しそうなにぎわいの様子を見たときのことを思い出すにつけても、あの時、あの孤独の中にあって、まことに良かったと筆者は考えている。

あの時、村上とその教会の人々は、筆者から見て「対岸」のようなところで、陽気に楽しんでおり、筆者は、こちら側の岸で、自分たちの教会には若い人々が少なく、子供も少ないので孤独だと感じていたが、それは何ら嘆かわしいことではなく、まさしくそれで良かったのだと思わざるを得ない。

これは筆者の所属していた教会が正しかったという意味でもなければ、アッセンブリー教団を肯定するものでもない。ただすべての状況の中に、神の御手が確かに働いていたということに過ぎない。

その頃から、筆者には様々な重荷、様々な孤独、言い知れない苦悩があったが、筆者は、そのようにして、世から取り分けられたことは、非常に良いことであったと考えている。

投獄されたパウロなどは言うに及ばず、ガイオン夫人も、ウォッチマン・ニーも、すべての信仰の先人は、必ず望むと望まざるとに関わらず、不思議な状況の巡り合わせによって、世から分離されるという過程を辿ったのである。

そこで、自分が孤独や苦しみとは一切、無縁の、心の「悪水」などとは一切関係のない、絶えず楽しそうなにぎわいの中で騒いでいられる「あちら側の人間」の一人であれば良かったのにとは、筆者は全く思わないのだ。

人のにぎわいからは離れた静寂の中に、神の選びと、愛に満ちた眼差しがあった。死んだような教会、心の通わない信徒の交わりとは別に、神は確かに筆者に対して、筆者自身の心の願いにこたえて、個人的に語りかけ、働いて下さった。むしろ、そのような環境があったからこそ、主は筆者に応答して下さったのだと言えよう。(これは断じてそのような教会にとどまり続けることを勧めるものではない。)

あの時、神ははっきりと、筆者にしか分からない方法で、あなたを選ぶとおっしゃって下さり、そのことを、筆者はすべての人たちの前で証し、そして、それが人生の極めて重大な一歩となって行ったのだから、それで十分なのである。筆者はとにもかくにも、見せかけでないもの、束の間でないもの、一番大切なもの、永遠に残るものを掴んだ。そして、筆者の心からの決意は、神に重んじられ、聞き届けられたはずである。

このように、神は常に人を荒野に導いて、ねんごろに語りかけられる。神が好まれるのは、見栄えのしない「干潟」であって、整然と整備された街並みとしての「公共事業」ではない。神は人の心にどれほど「悪水」がたまっていようと、そのようなことは決して障害とはみなされず、そのすべてを自分が受け止めることができるから、私のもとに来なさい、とおっしゃる。

むしろ、忌まわしいのは、神の目に、人が己を完全に見せかけようと、自分を飾り、自己浄化しようとして、自分には罪などない、悪水などない、問題などない、自分は聖い人間であって、豊かで、乏しいことはなく、むしろ、自分こそ、他者の問題を解決してやれる能力を持っているのだ・・・、などと己を偽り、思い上がりに陥ることなのである。
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2019/04/09 (Tue) 神の国の働き人

短い短い休息のひと時であった・・・。

不思議なことだ。人間的な判断と、霊的な判断はしばしば大きく食い違う。判決言い渡しと共に解放感を覚えていたのは、筆者のあくまで人間としての感情、知性、判断であった。

心の深いところで、筆者の霊的な判断は、戦いがこんな中途半端なところで終わるはずがないし、終わってはならないことを的確に知って、大いなる拒否反応を起こしていたのではないかと見られる。

そこで、判決言い渡しの前日から引きずっていた風邪は、新たな一歩を踏み出すまでの間、日に日に悪くなる一方であった。
   
しかしながら、今週初めが来るまで、判決言い渡しと共に、事件は終了したものと考えていた筆者は、早くも事件の後処理をすべく、民事部にいくつかの書類作成を依頼し、事件ファイルの閲覧を申し出た。そこには、訴訟費用の計算という目的も含まれていた。

訴訟費用の計算は面倒で時間がかかる上、そこには弁護士費用などの大がかりな費用も含まれておらず、さほどの利益が見込まれないためか、裁判に勝っても、訴訟費用の確定をする人は非常に少ないという。だが、一応、ひと通りの手続きを学ぶ必要があるし、できることは時間のある間にきちんとやっておきたいと思った。

だが、筆者が晴れ晴れとした顔で記録閲覧を頼んだのとは対照的に、書記官はいささか顔を曇らせていたように見えた。

「訴訟費用の計算をしたいんですが」
「まだ送達が完了してませんし、判決の確定まで待った方が?」
「今の時点で見ておいた方がいいんで。後になると面倒なんでしょう」
「今はまだ記録の整理中で。しかも、控訴があるかも知れませんよ?」
「ないですよ」
「分かりませんよ、まだ」
「そんなのないですってば・・・」
 
筆者は、これまで書記官が常に裁判官の判断に忠実に従って動いて来たのを知っていたので、まさか書記官が控訴によって、裁判官の下した判決が覆されることを望んでいるわけでないことは理解していた。だとすれば、何が書記官の心にひっかかっているのだろうと、腑に落ちないものを感じた。
  
しかも、筆者は控訴を無意味なものとして一審判決を確定させるべく、早々に書記官に様々な書類作成を依頼していた。(これは被告が控訴しても全くと言って良いほどに利益がないようにするための措置である。)
  
ところが、4月1日に被告村上の出したブログ記事ですべての状況が変わり、思いもかけないことに、原告側から控訴を考える事態となった。その事情を電話で詳しく告げてから、再度、記録閲覧を申し出ると、書記官の表情が曇り後晴れになっていた。

もう一度記録閲覧に出向くと、再び緊張モードに入った筆者とは裏腹に、今度は書記官が晴れ晴れとした表情をしていた。そして、気前よく大量のファイルを出して来てくれた。

ちなみに、訴訟費用などは、実際に、全く微々たるものでしかないが、このようにほんのごくわずかな費用であっても、負債は負債に違いないと言える。従って、筆者は、このような負債が、たとえどんなにごくわずかであろうと、神の子供たちに負担として生じることは、絶対にあり得ないことだと理解している。

(なぜなら、キリストは私たちにとって不利な債務証書を、すべて十字架で破り捨てられたのであるから、私たちには債務というものが存在しないためである。)

そういう意味で、筆者は裁判官の判断に異議を唱えるつもりはないが、一審の判決は、霊的観点から見れば、必ず覆されることが前提とされているような内容だったと言える。

さらに、どういうわけか知らないが、筆者は訴えを出すときに、訴訟費用の負担を、仮執行の範囲から外した。なぜそうしたのか、今になっては理由がよく分からないが、そうしたことにより、実際に、現時点で、不法行為に問われなかった村上の訴訟費用の負担が、判決確定前に筆者にかかって来ることは決してないという結果が出ているのである。

従って、現時点で、筆者にはいかなる「債務」もない。こうしたことは、まさに神の知恵であるとしか言いようのないことである。従って、それにも関わらず、筆者が訴訟費用の計算をしているのは、いずれこれを被告ら(後の被控訴人ら)に請求するための備えである。
  
さて、控訴状を事件係に持って行ったとき、早速、訂正があると告げられ、見栄えにこだわりたかった筆者が、まだ日にちはあるので書き直すと言ったところ、係がいつになく断固たる表情で首を横に振った。

「いいえ、一か所くらいの訂正なら、今ここで訂正した方がいいです。とにかく早く出した方がいいですから・・・。これで十分にきれいですよ」
   
何だか抗いようのない口調であったので、筆者はそれに従うことにした。筆者は別にその日でなくても良いと考えていたのだが、付与された番号を見ると、まさにこの日のために特別に用意されていたような数字の並びで、天には今日でなくてはならない何かの事情があったのだろうという気がした。
 
その後、分厚いファィルに埋もれて、記録の閲覧謄写をした。筆者は書類の山に埋もれると、自分のことなど何もかも忘れてしまうたちで、朝からずっと様々な書類を作り続けて、その時まで、ほとんど何も食べていなかったことに気づいた。それに加えて風邪が追い討ちをかけた。
 
本当は判決言い渡し後、せめて一週間くらいは、ゆっくり休まなければならない。記録の閲覧など後回しである。だが、こういう事件の場合、そうも言っていられず、事件の記録を一つ一つめくっていると、様々な思いが込み上げて来て、思っていた時間をあっという間に過ぎ、5時前に急かされるようにして庁舎の外に出た。

車に乗り込んだ時、突然、ふとこの事件を担当してくれた裁判官の気配を、まざまざとそば近くに感じたような気がした。それはちょうどまるで筆者の目の間に、事件ファイルを持った裁判官が現れたかのようで、人間の常識を超えて、何か切迫したメッセージを伝えられたような気がした。

実におかしな出来事であった。裁判官は異動して横浜地裁にはいないはずであり、もちろん、筆者が記録閲覧したことも知るはずがなく、今ここで起きていることに関心を寄せる理由があるとも思えないが、一体、何かが起きたのだろうか・・・と筆者はいぶかしく思った。

理由は帰宅してから分かったような気がした。村上密のブログに、まさに筆者が裁判所を出る直前の時間に、早くも筆者が控訴したというニュースが投稿されていたのだ。
 
村上密が筆者の行動を、筆者自身よりも早く報道しているとは、驚き呆れることであった。しかも、彼が「完全勝訴」と書いた同日の夕方、3時から5時にかけて、裁判所の業務時間が終了するまでに残されたわずかな時間の筆者の動きを、これほど正確に知って素早く報道しているとは、実に奇妙かつ不気味なことである。
   
まさにジョージ・オーウェルの世界を彷彿とさせる出来事である。双方向のテレスクリーンには、「祖国を捨てた人民の敵ビオロン、本日夕刻、ビッグ・ブラザーを控訴!!」などという文字が踊り、テレスクリーンには、その他にも連日のように、筆者を人民の敵として告発するニュースが新たに流されている。まるでエマニュエル・ゴールドスタインさながらの扱いを受けている気分だ。

筆者が約10年前に、ビッグ・ブラザーの支配するあの国を、秘密警察の暗躍する全体主義国と呼び、そこから国外亡命を遂げてからというもの、筆者はあの国では、まさに祖国を捨てたゴールドスタインさながらの狂人・罪人として扱われているのだ・・・。

なぜ杉本ブログに賠償が命じられて後、また、掲示板が大々的に刑事告訴の対象とされて後、村上が自らのブログで、当ブログ執筆者の実名を公表したり、当ブログを名指しで非難する記事を次々と書き始めたのか、そこに、筆者の言う「全体主義国」の有様を、読者は伺い知ることができよう。

一審では、村上―杉本の共謀関係は立証されていないが、筆者はこのような結果となることを前々から予測していた。つまり、杉本による権利侵害は、杉本が独自の判断により、単独でなしたことでは決してない――というのが筆者の以前からの推測なのである。もしそうでなければ、村上は、杉本が自らのブログで筆者を批判できなくなったことを皮切りに、今度は自分のブログで筆者を批判し始めることは決してなかったであろう。

二人はメール文通も書証として提出して来ているが、その内容は、二人が完全に気脈を通じていると言えるものであり、さらに、杉本に賠償が命じられても、村上は決してそのことを報道しない。このことか分かるのは、つまり、村上には、杉本がしたことが許しがたい人権侵害であるという認識が今もって欠けているということである。

そして、杉本が果たせなくなった役割を担うために、村上はずっと何年も前から当ブログに掲載されていた記事について、今になって自らのブログで批判を展開し始めたのである。(だが、村上が書いている控訴以外に関する記事については、おそらく刑事事件等の捜査が進み次第、筆者の主張の裏づけとして、証拠を提示しながら書いて行くことになろう。)
 
さて、話を戻せば、おそらく裁判所の関係者ならば、事件番号が付与された時点で、リアルタイムで控訴の情報を把握することは可能であろう。

だから、裁判官も(村上の記事はさておき)、控訴のことを知っていておかしくないと思われるが、書記官の態度を見る限り、裁判官にも、きっとこの控訴が、判決内容を不服としての控訴でないことくらいは、十分に理解してもらえるだろうと思う。むろん、二審の裁判官にもそれが分かるように、理由書をきちんと作成する予定である。

裁判官には、法的根拠に基づいた判決しか出せない。そこにはいささかの情も込めるわけにはいかないし、事実と異なる事柄や、推測に過ぎない事柄も書けない。しかしながら、彼らにも人間的な感情はあって、それは必ずしも、法的な解釈に沿うものとは限らないのだ。

しかも、一審でこの事件を担当してくれた裁判官と書記官の二人は、筆者が口頭弁論の際に、被告杉本・村上の双方から、提訴・反訴・控訴の脅しを受け、被告杉本からは徹底的な誹謗中傷を受け、どれほど二人から見下され、蔑まれ、踏みにじられていたかを、実際に、その目で見て知っている生き証人のような人々である。

さらにもっと言えば、被告杉本は、一信徒に過ぎない筆者を、宗教指導者と呼び、まるで筆者が魔女か何かででもあるかのように形容した書面を提出して来た。杉本が提出した準備書面は、杉本が公表したブログに輪をかけて、筆者に対する恐ろしいほどの誹謗中傷に満ちており、こうした常軌を逸した内容の書面は、裁判所の関係者の目に触れたのである。
 
裁判官も、書記官も、裁判所の権威を守る側に立っているので、誰かが判決に異議を唱えることを自分から望んだりはしない。むろん、争いが長引くことを望んだりもしない。それでも、筆者は、この人たちに限らず、筆者を取り巻く、雲のような無数の証人たちから、「ヴィオロンさん、あなたはもう戦いが終わったと喜んでいるようですけど、本当にそれで満足なんですか。本当にこれがあなたの心から納得できる答えなんですか。これがあなたが命をかけてまで、立証しようとした内容なんですか。あなたは自分が目的達成できたなんて、本当に思っているのじゃないでしょうね。あなたは安全になったわけでなく、依然として、立ち向かうべき危機の最中にあるのに、まさか本当にこのような結果で、満足して立ち止まってしまうつもりじゃありませんよね・・・」と迫られていたような気がしてならない。

被告杉本からの控訴はあり得ないと、筆者は今も判断しているが(なぜなら、村上が完全勝訴したと宣言しているものを、杉本が控訴すれば、かえって敵に判決を覆すチャンスを与えることになるからである)、そのこととは別に、筆者自身が戦うことをやめて立ち止まってしまうことに対し、無言の警告が投げかけられていたように思う。

ここで立ち止まることは、妥協であって、偽りの平和への安住であって、それを選べば、たとえ被告から控訴がなされなくとも、あなたは遅かれ早かれいずれ死へ向かうだけだと。

だが、そのことは、誰よりも筆者自身が霊の内でよく分かっていたと言えよう。筆者は人間的な判断としては、この成果で十分だと考え、それ以上、争いを続行する理由もなかったので、ひとまず戦いは終わったと喜んでいたが、その心情とは逆に、日に日に具合が悪くなって行ったことが、人間的な観点から見る事実と、霊的事実がいかに異なるかをよく示している。

筆者がようやく食べ物をまともに口にできるようになったのは、控訴状を出し、さらに刑事告訴の具体的な相談を警察と始めてからのことであった。

今では被控訴人となった村上密の内心が、まずはブログを通じて、余すところなくぶちまけられるのを待つのみである。まずは隠れていた事柄が明るみに出されなければならないためである。
 
筆者は、この道は、筆者が考えているよりもはるかに長く、ずっとずっと先まで続いていることを思い知らされている。人間的な休息は、霊的停滞をしか意味しないのかも知れない。
 
こうして、筆者はお世話になった民事部を後にして、人生で初めて得たまずまずの判決をも後にして、さらに遠くへ歩いて行こうとしている。たった一人で、どこまで歩いて行かねばならないのかも分からないが、待ち受けている何もかもが、見知らぬ世界なわけではない。

いずれにしても、すべては天の采配である。ここで立ち止まってはいけないのだと、筆者は警告されている。塩が塩気を失えば、誰がそんなものに注意を払うだろう。心から望む通りの目標に達するまで、代価を払うことをやめてはいけない。もっともっと深く井戸を掘りなさい。もっともっと高く、遠くまで歩いて行きなさい。リスクを取って自分の十字架を負い、日々、主と共に戦い抜いて、勝利と解放を勝ち取る姿あってこそ、人々からも、真の意味での理解や尊敬を勝ち得ることができるのだ・・・。
 
どうして女性が一人で戦わなければならないのか。筆者はこの深い井戸から何を汲み上げようとしているのか。筆者が争いのために争いを起こしているわけでないことは、今後の一連の記事の中でも、説明して行かねばならないし、きっとそれは可能だろう。

というよりも、筆者は己が利益のためにここに立っているわけではないのだから、この仕事を貫徹するのは、筆者だけでなく、神のなさる仕事であると考えている。これは主との共同作業である。そうである以上、この先は、もっと多くの気負いを手放して行かなくてはならない。そうでなくては、各種の重荷を負いつつ、軽快な足取りで先に進んで行くことはできないだろう。

ここではっきりと断っておきたい。二審で出る結果は、筆者からいかなる負債をも将来に渡ってまで完全に取り除くものとなるであろうと。たとえ数千円に満たない被告1名の訴訟費用であろうと、残らずそれらは取り除かれる。

今、筆者がせねばならない仕事は、この事件に限らず、目には見えないが、うず高く筆者の机の上に積み上げられた悲痛な嘆願書を、次から次へと処理することだ。これが筆者の「お仕事」なのだと、今は非常によく分かる。週末も、作成せねばならない書類が山積みだ。

かつてできるだけ見栄えの良い履歴書を作成しては、何とかして人々に良い印象を与え、誰かから出来合いの仕事を与えてもらおうと奔走していた頃は、こんな仕事が存在することに、心を留めたこともなかった。

誰からも振り返られず、打ち捨てられていた、目に見えない訴えを取り上げ、それを悪魔と暗闇の勢力を打ち破るために、大いなる武器として行使する。誰も述べなかった新しい言葉を述べて、社会をよりよく変える起爆剤とするために、戦いの武器として行使する。これは心から意義があると言える敬服すべき有益な仕事だ。

そういう仕事が、一つ着手すると、次から次へと入って来る。そして、どういうわけか、戦い続行するために必要な材料も、自然と向こうから集まって来る。

今、筆者が「干潟」にとどまって掘り起こしているこの「仕事」には、はかりしれないほど深い意義がある。そうである以上、その仕事を果たすための前提は、神が整えて下さるであろう。そもそもそれがなければ、筆者は第一審の判決にたどり着くことさえ不可能だったのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。

わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さを意味のないものにする。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
 
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:18-25)

  
判決というものは、言い渡されてすぐに確定するわけではない。
ちょうど熱して熔けた金属が鋳型に注ぎ込まれてから、徐々に冷え固まって行くように、時と共に確かな動かせないものとなって行く。

判決が動かせなくなるまでには期限がある。従って、これを変えたいと思うならば、固まってしまう前に行動を起こすことが必要である。

村上密は、判決正本が届いたのか、その内容を知るや否や、早速、ブログで自分は勝訴した、原告は敗訴したと、得意げな記事を綴っているようだが、判決の確定前にそのようなことを断定するとは、何と軽率かつ気の早いことだろうかと思わざるを得ない。

世では判決内容を不服とした控訴は無数に行われているが、裁判官が権威を持って宣言した内容を覆すためには、よほどの理由が必要であり、新たな証拠の提出等がない限り、ただ内容が不服というだけでは、控訴が受け入れられる見込みも薄く、事実認定を覆すことは困難で、心証が悪くなるだけだ。

そこで、筆者は裁判官の判断に異議申し立てをするつもりはなく、とりこぼした内容は新たな訴訟でカバーしようと考えており、今回、村上密が4月1日の記事を投稿しなければ、この判決は、少なくとも村上に関する部分は、確定していた可能性が高かったのである。

ところが、村上が早々と勝負は終わったと考えて、早速、当ブログ執筆者を標的に、個人情報を記して批判記事を投稿したことにより、すべての事情はガラリと変わった。

やはり、高慢は破滅に先立つという、聖書のあの御言葉は本当なのであろう・・・。

村上はあとから記事を書き変えたようだが、一旦、投稿した実名入りの記事は、あっという間にあらゆる検索サイトを通じて、全世界に拡散してしまった。むろん、掲示板等でも報告がなされ、おびただしいほどの数の証拠があるが、たとえば、書き変え後も、検索結果はこのようであった。



さらに、村上密は当ブログからの言及を知って慌てて内容を変えたのか、被告杉本徳久の名前も一時は公開していたようである。いずれにしても、覆水盆に返らず、である。



通常は、判決言い渡しがあったからと言って、早速、意気揚々と「勝ったぞ!」という趣旨の記事を投稿することは控え、しばらくは相手方の出方を静かに待つであろうが、このような軽率な記事を投稿したことが、あだとなって自身に跳ね返ることになったのである。

村上は今も自分はA43ページの準備書面しか提出せずとも、本人訴訟に臨んで勝ったのだから、それで良かったのだと、今回のことをまるで大いに自らの手柄のように吹聴する記事を投稿しているが、今回の訴訟で真に奮闘したのは、主イエス・キリストだけを弁護人として、複数の訴訟に直接・間接的に関わったことのある二人の被告を相手に、彼らからの反訴の脅しにも屈さず、掲示板での日夜の嵐のような誹謗中傷にも負けず、一人目の被告にまずは勝利を果たした原告であると言えよう。
 
だが、牧師や教師は、常日頃から、生徒や信徒の成功を自分の手柄のように誇っているから、こういう話が作られるのは不思議ではない。他人の紛争を日々の糧として生きる弁護士という職業も、似たようなものだと筆者は考えている。

ちなみに、弁護士は元が取れない事件には気乗り薄なので、取りはぐれがありそうな場合には、本人訴訟を勧めるのは当然である。それは「あなたなら一人で戦える」という太鼓判ではなく、採算が取れないので自分はやりたくないという意思表示でしかない。

被告らは、控訴があった場合には、弁護士をつけると豪語していたが、筆者には、このような事件につく弁護士がいるとは、到底、考えられない。それでも「暮らし向きの自慢」をしようと、見栄を張って弁護士に依頼すれば、負ければその費用はすべて自己負担だ。負けなくとも、そんな高額な費用が帰って来る見込みはどこにもない。そこで、まずは先立つ費用の計算が必要となろう。筆者から見れば、訴訟物の価格に照らし合わせても、それはあまりにも馬鹿らしいことである。

筆者の見えない弁護人はイエス・キリストであり、この方は、信仰と誉以外には、筆者に着手金も成功報酬も要求されない。しかも、カルバリで悪魔を打ち破り、最強の敵を打ち負かし、これまで一度も負けたことのない世界で最も信頼できる、最強かつ名うての弁護士である。

被告らの弁護人は誰だろうか。掲示板で日夜誹謗中傷する者たちの信奉している世界で最も毒舌かつ詭弁に満ちた悪名高い弁護士、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)だろうか。

筆者は、被告とされた人間の恐るべき慢心と油断を見ても、やはり、神は生きておられるのだと考えないわけにいかない。

筆者は、判決を手にしたのは、今回が初めてであり、二審、三審を戦ったことはないが、かつてふとしたことから、東京高裁を訪れたことがあったのを思い出す。そこは、まさに省庁の庁舎というべき、どんよりとした陰気な建物で、地下に郵便局とさびれた食堂があり、そこにはげんなりするようなメニューが並び、死んだようなまなざしの職員が黙々と食事していた。(霞が関の庁舎はどこもそんな雰囲気だ。)

横浜地裁は、それとは比べものにもならない、活気に満ちた場所である。明るい光が窓から降り注ぎ、窓から海を見下ろせ、建物も新しく、きれいで、職員も活気がある。何もかもが新鮮で陽気だ。待合室も明るく、法廷の扉でさえおしゃれで、心を陰鬱にさせる要素は何もない。

もちろん、建物の外に出れば、観光地のように、しゃれた店が立ち並び、海風が吹き、秋には銀杏の葉がこぼれおちる。ここから筆者の訴えの記念すべき歩みが始まったことは、まさに象徴的な神の恵みだ。

だが、筆者の訴えはこの海辺の町から空高く飛び立っていく・・・。
 
* * *

さて、判決を受ければ、そこから新たな手続きを始められることは、すでに書いた通りだ。これこそ、通常人はほとんど足を踏み入れることのない、まるで悪魔が専売特許として来たような世界である。

判決を受け取ったからこそ、できること、これが訴訟の極意と言っても良いものと筆者は考えている。それは、いわば「命令」と「実行」が一つになる世界で、この二つを一つにする方法を知らなければ、判決には意味がない。

今、この手続きに精通しておくことは、今後、何かもっと大きなことのために、必ず、役立つ時が来るという確信が心にある。
 
そこで、筆者は今、司法という大きなビルの暗い地下室に降りて、基礎構造を一つ一つ確かめているところだ。一体、この建物全体の中に、どのような機能が備わっているのか、可能な限り、自分自身の目で確かめてみなければならない・・・。

ここからが、戦いのもう一つの側面、本番であり、腕の見せ所である。これまでさんざん筆者を嘲り、罵って来た人間の身には、苦難が降りかかることになる。その人が筆者に対して投げつけたすべての言葉が、その人自身に跳ね返るステージに入ったからである。

そこで、これから何が起きるのか、注目されたい。バビロンの崩壊が始まる。今は具体的に書かないが、手続きが進み次第、随時、過程を公開して行くつもりである。掲示板で日夜、誹謗中傷を重ねている人々は、明日には同じことが自分の身に降りかかるかも知れないため、ぜひ今後の参考にしていただきたい。

* * *

さて、エクレシアの一員としての筆者の人生に関わり、筆者を助けてくれる人たちは、まるで水面に浮かぶうたかたのように、常に新しいメンバーに入れ替わる。これは、固定的な人間関係ができないように、感情的な癒着が生じないように、主がなされていることである。

もちろん、今回の事件を担当してくれた裁判官も、筆者の事件のために、休日出勤までして奔走してくれた警察官も、役目を果たすや否や、すぐに慌ただしく去って行った。裁判官は、異動が決定したことを書記官を通じて伝達してくれた。それは嬉しい伝言ではあったが、筆者はどこへ行くのか、尋ねることもしなかった。もう会うことは決してあるまいと思ったからである。
 
ある部署のお世話になった警察官からは、これまで連絡が来るのはほとんど休日で(何しろ、筆者の事件は最後の順番で、休日出勤する以外には、事件を処理する時間がなかった)、いくつもの告訴状を受理してもらった経緯もあるが、ちょっとしばらく連絡が途絶えたなと思っていると、ある日突然、当直時間帯に、異動になるという旨の連絡が電話であった。
  
だが、そのような連絡が来ること自体が稀なのである。通常は、警察官は異動が決定したからとて、市民に事前に何も知らせてくれない。むろん、行く先も教えない。異動が発覚した後で、本部に問い尋ねても無駄である。(ほとんどの場合は、面倒な事件に異動先でまで関わるなんてとんでもないとばかりに跳ねつけられる。)

だが、お世話になったその人は、持ち前の真面目さからか、数日後に起きることをきちんと予告してくれた。本来ならば、会って別れを告げるべきところ・・・などと、まるで目上の人間に対するかのように、非常に丁寧な口調で、話を切り出した。

ところが、筆者はあまりにも突然の連絡に動揺し、そして、せっかく手続きが前に進もうとしている今、急に担当者がいなくなり、すべてが膠着状態に陥りはしまいかと、非常に不安に感じ、思っているままを口にした。

そして同時に、そのように自分が衝撃を受けて、言っても仕方のないことを口走っていることに驚き、そのように自分が他人を当てにし始めていることこそ、最大の危険であるから、神がこのように采配されたのは当然であると心に感じた。

その警察官とは、手続きがまだ押しても引いても動かなかった頃には、かなり緊迫したやり取りがあった。何年か前から署におり、数年前からの相談記録も残っているはずだが、当初は、何の信頼関係もなかったどころか、互いにまるでいけ好かない奴だとでも、心の中で思っているかのような、よそよそしい関係しかなかった。

(むろん、これはその警察官が筆者に不親切な態度を取ったという意味ではない。事件がなかなか前に進まないことに、筆者の側でも、当時、焦燥感を覚えていたということである。数年前まで、特定の職員だけでなく、この署全体が、筆者にとって、きわめてよそよそしく、近寄りがたい場所に感じられていた。それが変わるまでには、相当な時間の経過と、やり取りの積み重ねが必要であった。)

だが、今回の訴訟が提起されてから、そうした状況が変わり始めた。ある時、筆者はどうしても民事で警察に証言してもらわなくてはいけない必要性を感じた。
 
関係する別の機関へこの問題を相談したところ、「何ですって? まだ刑事事件としての捜査も終わっていないのに? 警察を民事訴訟で証人に呼び出す? そんなの前代未聞ですよ。裁判所が許可したとしても、どこまで証言できるかどうか・・・」といった、まさに予想通りの返事が返って来た。

実際に、その通りなのだ。そんな事例が過去にあったとも思えない。だが、その頃には、この問題について、それ以外の立証方法は思いつかなかった。
 
結果的に、警察を証人に呼ぶ必要はなくなり、他の手段が取られることになったのだが、その頃からであろうか、その警察官とも、以前ほど緊迫したやり取りはなくなり、むしろ、次第に互いのペースがつかめるようになった。

もしかすると、民事訴訟を起こしたことで、やっとこちら側の本気度が警察に伝わったのかも知れず、あるいは、証人になってもらうことをお願いした弱みのゆえに、筆者が以前ほど強く出られなくなったことが影響していたのかも知れない。

理由が何であれ、明らかに以前とは関わりが変わり、やり取りが円滑になり、互いに好感が持てるようになった。そして、その警察官こそ、他部署に連携を取って多くの事件を進める陣頭指揮を執ってくれた人であった。

体格の良いその人は、相談室の椅子に座ると、別の警察官が、その後ろをお茶を運んで通るスペースも残らないほどであったが、そんな様子も微笑ましく感じられた。

そして、筆者がそう思うようになった頃から、よく気のつく人だったその警察官は、筆者が気づかないうちに、様々なことで、筆者の必要を先回りして察知し、整えてくれるようになった。

最後にその警察官に会ったのは、2月に調書作成のために来署した時のことである。その時の調書作成には、困難が伴い、土曜日と日曜日の両日が費やされた。

筆者が取調室には入りたくないと言うので、調書作成は講堂で行われ、我々は一つの長机を挟んで、向き合って座った。

その時、些細だが、重要な気づきがあった。1日目に、警察官と筆者とが、講堂に並んでいる机の一つを挟んで、両側に座るために、筆者が自分の椅子の向きを変えると、その警察官は、筆者がそうしたことを覚えていて、2日目には、筆者がまだ何もしないうちから、1日目に筆者がした通りに、筆者のために椅子の向きを変えてくれた。まるで自分がそうするのが当然だというように、何の他意もなく、無意識的にそうしてくれたのである。

後になって、この出来事を思い出すと、そういうことは、もう随分前から――数ヶ月ほど前から――始まっていたように思われた。やり取りがスムーズになったというより、いつの間にか、筆者はこの人の「守備範囲」の中に入れられ、無意識的に、多くの配慮を受け、気遣われる立場になっていたのである。

そして、そうなったのは、筆者の方でも、きっと、似たような注意を払っていたからであろう。つまり、初めのうちは、電話連絡さえ満足に取れないギクシャクした関係の中、ひっきりなしのすれ違いが続き、どのようにして関わりを打ち立てれば良いかさえ分からず、途方に暮れていたが、ようやく互いのペースが理解できて、互いの仕事を邪魔せず円滑に進められるよう、無意識的に、配慮し合っていたからこそ、いつの間にやら、そこに同僚同士か、もしくは、身内のような、ある種の親近感と、好感情が生まれていたのである。

だが、もしかすると、それは何よりも筆者が、民事で証人になってもらえるようお願いしようとしていたことに端を発していたのかも知れない。そのような件があったために、その警察官も、筆者の陥っている状況を、他人事でなく理解するようになったのかも知れなかった。

だが、もともと身内でもなく、同僚でもない人々の間に生まれたこのような協力関係が、長くは続くはずもなく、実際に、民事での協力は必要なくなったばかりか、ようやくスムーズに連絡が取れるようになったかと思うと、すぐに終わりが来たのであった。
 
この警察官と最後に調書作成の作業をしていたその日、交わした会話は、印象的なものであった。筆者はその時、KFCの元信徒に関する刑事事件について尋ねられたため、この事件の概要を説明してから、言った、自分はかつて9年ほど前に、この事件に関連して、ある宗教指導者のために、警察で証人になろうとしたことがあると。

その頃、筆者は、KFCの元信徒ではなく、指導者の言い分が正しいと考えていたため、困っている宗教指導者のために、有利な証言をすることが必要だと考えて、依頼に応えて、管轄の警察署に行った。ところが、そこには、多分、来ているだろうと思っていた指導者の姿はなく、筆者が語る前に、すでに調書の台本までも用意されており、その内容も、宗教指導者の身の潔白を証明するという事前の約束の通りではなく、ただ単に、起きた事件の何もかもをすべて筆者のせいにかこつけて終わりとするような身勝手な筋書きであった。

しかも、警察が印鑑を持って来るようにと、前もって告げるのを忘れたために、指紋を捺印せよと言われ、筆者が渋っていると、「この調書に同意を断るなら、あなたのお友達が速やかに助からないかも知れないが、それでもいいのかね?」などと言われ、とんでもなく不愉快な思いをさせられて帰って来たのだと。

その当時、筆者はこの出来事のために、ペテンにかけられたような思いとなって憤慨し、筆者に助力を頼んだ宗教指導者に苦言を呈したが、さらにもっと驚くべきは、もっと後になってから、事の真相は、その指導者の主張とはまるで逆であり、むしろ、指導者に訴えられた信徒の発言に信憑性があったとみなさざるを得ない状況が生まれたことだ。それは筆者自身が、その信徒と同じような目に遭わされて、初めて分かったことだったのである。

筆者は言った、この事件は、筆者にとって非常に手痛い教訓となったと。その当時は、あまりにもその信者の置かれている状況が尋常でなく悲惨に見え、行動も常軌を逸しており、主張内容が荒唐無稽と感じられ、それに引き換え、宗教指導者には学識があり、常識的な立ち居振る舞いがあると見え、言葉も巧みであったので、筆者はおろか、誰もその信者の言い分の真実性を信じようとは思わなかった。ところが、事実はそのような見かけには全くよらなかったのである。

教養ある立派な宗教指導者の言い分が完全な嘘であって、狂言で自殺未遂を繰り返しているような常軌を逸した信者の言い分の方に、まだごくわずかに正当性があったのである。
 
そこで、この事件は筆者にとって大いなる教訓となった。それ以来、筆者は、決して人の見かけや、教養や、社会的地位や、言葉の巧みさによって、人を判断しようとは思わなくなった。そして、物事は常に、最も力弱く、蔑まれ、世間で無価値のようにみなされている人々の立場から見なければ、正しい判断ができないことに気づいた。むろん、そのような人々の言い分も、常に正しいわけではないにせよ、世の人々から拍手喝采を浴びる権力者や有名人の言い分を鵜呑みにすることは、さらにもっと恐ろしい危険である。

このように、人の見かけなど、何のあてにもならない。私たちは、他者がどんな人間であるか、内心を知り得ない以上、誰についても何の保証もできはしないのだ。神以外の者には、人の内心を見極めることなど決してできない。そこで、筆者は、金輪際、誰のためにも、証言などしようと思わないし、その代わり、筆者自身のためにも、誰にも証言を求めるつもりはない・・・。

はからずも、筆者は以上の話を、自分のために、民事で証人になってもらえるように自分から依頼しようとしていた警察官に向かって、直接、語ったのであった。その時には、まだ自分の語っている内容が、いかに以前の依頼と食い違っているかに気づいていなかったが、実はその会話には、深い霊的な意味があった。その当時は誰もまだ知らなかったとはいえ、その会話自体が、筆者とその人との間にようやく生じた協力関係が、間もなく明白な終わりを迎えることを示唆するものだったのである。
  
おそらく筆者は、神以外の誰にも、筆者のために、証人になってもらおうとしてはいけないのであろう。それにも関わらず、証人になることを誰かにお願いしようとしたこと自体が、ある種の危険をはらんでいたのだが、神は、筆者が気づかないでしたことについて、責任を問われることはない。ただ静かに、誰にも何の問題も生じないうちに、裁判官の判断を用いて、この提案を却下されただけであった(とはいえ、裁判官は代わりにきちんと別の措置を講じてくれた)。
 
その後、この問題で助力してくれようとしていた警察官も、筆者に命を与える判決を書いてくれた裁判官も、共に筆者の人生の外へ連れ出され(おそらくは直接的な関わりとしては永遠に)離れ去って行くことになった。(むろん、彼らもその後、一度は関わったこの事件の行く末を、関心を持って見守ってくれているであろうことを疑わないが・・・。)

こうした別離は、人間的な心情としては、決して歓迎すべきものではないが、その背後には、主の深い采配が働いていることを、筆者は思わないわけにいかない。筆者は人々から職務としての必要な手助けを受けることは許されるが、その関係は常に一過性のものであり、決して職務上の範囲を超えない。それを一歩でも超えて、誰かから恒常的に助力や情けを受けるようなことは許されておらず、そのような個人的な関係が芽生えそうになると、ただちにその人は筆者から遠ざけられる。表向きの理由は色々あるが、結局のところは、主がそうされていると筆者は考えずにいられない。
 
なぜなら、主の御心は、決して地上に肉なる団体を築き上げることにはなく、筆者の心を常に主以外の何者にも依存させないように、自由にしておくことにあるからだ。

それは、筆者が地上のどんなものにもとらわれず、完全に独立して自由な判断を下すために、欠かせない前提条件なのである。

神の助けを受けるためには、神以外の何者にも栄光を帰さない生き方、神以外の何者にも頼らない生き方を継続することが必要である。どんなに心細いと感じられる瞬間にも、誰にも頼らず、ただ神だけを信頼して、自分のすべてをかけて、御言葉に沿う正しい判断を自分で選び取って行ける心の自由さと、独立性が必要である。

もちろん、職務上の範囲を超えないうちは、助けてくれる人々を、大いに信頼しても良い。だが、だからと言って、私たちは、決して、その人々の判断に自分を委ね、彼らに自分に代わって物事を決めてもらうまでに依存してしまうことは許されない。キリスト者の人生は、基本的に、すべての試練や困難を、常に神と自分との二人三脚で乗り越えて行かねばならないというものだ。神を置いて、誰もその間に入り込んだり、先回りして、筆者を助けることができる存在はいない。どんなに親切で善良な人間も、どんなに経験豊かな人々も、決してまことの助言者なる神の代わりを果たすことはできないのである。

だから、人々がどんなに大きな働きをしてくれたとしても、その働きは一過性のものであり、それが重要な働きであればあるほど、彼らは役目を終えると足早に去って行き、その代わりに、また新しい人たちがやって来る。こうして周りの人々は常に入れ替わるが、神はいつまでも永遠に変わらない筆者の最も信頼できる助け手である。
 
そこで、訴訟についても、筆者は誰からも教えてもらうことなく、自分自身ですべてを一歩一歩、確かめている。宗教指導者という存在が必要ないのと同様に、弁護士などという存在も、筆者には無用である。

本当に、民事訴訟からは学ぶことが無限にあり、一審は、言葉に言い尽くせないほどの貴重な学びに満ちたものであった。それはとてつもない人生経験であったと言える。スリルと、ドラマと、感動があった。だが、筆者は、ここですべての学びが終わったとは考えていない。この「干潟」に秘められた可能性、この巨大なビルの中に隠されている宝は、この程度では終わらないはずで、できる限り、そのすべてを発見し、掘り起こしたいと願わずにいられないのだ・・・。

「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、

目が見もせず、耳が聞きもせず、
 人の心に思い浮かびもしあかったことを、
 神は御自分を愛する者たちに準備された

と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(Ⅰコリント2:6-12,15-16)

2019/04/04 (Thu) 神の義なる裁き

4月1日 補記

●村上密が本日投稿した記事に、判決の前提を覆す可能性があることについて

(村上は一旦、当ブログ執筆者に関する権利侵害に及んだ上、後になって該当部分を伏せたらしいですが、記事は保存してあります。検索結果にも残っていますね。まさか書き換えるとは思いませんでしたが・・・。

今回、村上が杉本同様の権利侵害行為に及んだ上で、筆者が以下の記事を投稿したことを知るや、記事を書き換え、「実名を伏せた」と追記していることを、読者は決して忘れないで下さい。
  
刑事告訴の対象になるとしたら、まさにこのような人格権侵害の記事であり、筆者の記事が論評の域を超えることはありません。筆者がこの記事で述べている事実には、杉本・村上が自ら書証として訴訟に提出した数多くの証拠の裏づけもあります。それについては随時、説明して行きます。


(以下は、権利侵害が行われていた時点での村上の記事について)

 考えて見ますと、村上密が4月1日にブログに投稿した記事「判決」は、今回下された判決を根底から覆す可能性のある内容のようです。


なぜなら、今回の訴訟で、村上が2009年にブログに掲載した当ブログ執筆者に関する2つの記事が、不法行為に当たらないと認定されたのは、そもそもそれらの記事で、著作者人格権の侵害(要するに氏名の無断公表)が行われていなかったことを前提とするからです。

判決文
pp.28-29
(3)被告らの責任について
ア 被告村上のブログは、それ自体「ヴィオロン」がブログで表明した意見ないし論評を批判するものにすぎず、その言及も「ヴィオロン」を対象とするものにとどまり、原告個人に関する事実を公表するものではない。<略>以上によると、被告村上は、被告村上のブログを通じて原告のプライバシー、名誉権及び名誉感情を侵害したとは認められない。よって、被告村上の不法行為責任を認めることはできない。
pp.47-48
11 人権侵害に基づく作為等の請求について
(1)ブログの削除を求める部分について
 <略>なお、被告村上に対する請求は、被告村上による人格権侵害が認められない以上、前提を欠く。

このように、村上は「ヴィオロン」に関する評論を述べただけなので、人物の特定もできない記事に人権侵害が成立する余地はない、ということが、今回の判決の大前提だったわけですね。

むろん、「ヴィオロン」が執筆しているブログに関して、氏名を公表するかどうか(著作者人格権)は、筆者自身に属する権利であるため、それを侵害する行為は、不法行為に該当し、さらに、そうして人物特定可能な記述を行った上で、その人物をブログで誹謗中傷すると、名誉毀損や侮辱が成立してしまう可能性が生じるため、杉本のブログ記事における人権侵害が認められ、一連の記事削除と賠償が命じられる結果になったわけです。

掲載当初はペンネームだけしか記していなかったために、人物特定が出来ず、人権侵害が成立する余地がなかった記事についても、後になって、著作者人格権を侵害して、人物特定可能な情報を自ら公開すれば、人権侵害の発生の余地が生まれ、内容が、名誉毀損又は侮辱に当たると判断される可能性がある、ということは、以下の文からも分かりますね。

p.30
(1)緒論
ア 以下においては、被告杉本が掲載したブログごとに、原告が主張する不法行為の成否を検討する。なお、被告杉本のブログのうち、「ヴィオロン」が原告であることを公表する前に掲載したブログ<略>は、いずれもその掲載当初は原告に関する事実を摘示するものではなかったが、被告杉本自身による「ヴィオロン」が原告であることの公表の結果、上記の各ブログの内容は原告が「ヴィオロン」としてしたブログの掲載や電子メールの送信に言及するものとなったと認められるから、上記の各ブログについても、原告に対する名誉毀損又は侮辱に当たるかを検討する<略>。

ちなみに、筆者がこの記事で、村上密の記事に言及していることは、決して自ら著作者人格権を放棄していることを意味しません。また、筆者が自ら訴訟を起こしたことも、筆者が筆名で執筆しているブログについて、被告らが勝手にインターネット上に氏名を公表したする行為を許したことにも該当しません。

ですので、仮に村上がそうした行為(人格権の侵害)を行いますと、村上の書いた「ヴィオロン」に関する記事は、人格権の侵害に該当し、さらにプライバシー権その他の侵害にも該当する可能性が生じ、今回、村上に対して下った判決が、次回の訴訟においては、完全に覆る可能性が出て来るわけです・・・。

分かっていて故意にやったのでしょうか。それとも、自覚がなくやったのでしょうか。リスクを知らなかったのでしょうか。理由は分かりませんが、次回の訴訟の時に本人に確かめてみれば良いことですね。
 

  
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これまでは静かに判決を待つため、あえて記事では言及しなかったのだが、これからしばらく、当ブログを巡る裁判結果と、掲示板で続けられて来た権利侵害について、総括を述べていきたい。まずはかいつまんで短い報告から挙げておく。
  
昨夜、村上密についての記事を書くことをひとこと欄で予告すると、早速、それからほとんど間をおかず、村上密のブログから、当ブログ執筆者の提起した民事訴訟に関するものと見られる記事(断定を避けるためリンクを貼らない)がアップロードされていた。当ブログのコメント投稿欄の隅々に至る記述まで、おそらく目を通しているものと予想される。少しでも不利な内容の記事を書かれそうだと察知すると、先手を打って行動しようとする素早さにはいつも驚き呆れる。
 
村上密は、記事で都合の良い部分にしか触れていないが、この事件では、当ブログ執筆者が、村上密と共にブログ『現代の風景 随想 吉祥寺の森から』を執筆する杉本徳久を名誉毀損等の不法行為で訴え、杉本には、3月27日に言い渡された判決において、当ブログへの名誉毀損・侮辱、著作者人格権の侵害が認められ、賠償請求が命じられた。かなりの数のブログ記事の削除と、決して少なくない損害賠償が認められたのである。

ところが、村上は記事で杉本徳久に記事削除および賠償請求が命じられたという判決の内容には、一切、触れていない。もちろん、杉本徳久との共同不法行為(杉本に対する個人情報の提供)の疑いが、当ブログ執筆者から村上に対する訴えの重要な部分の一つであったという事実にも触れていない。

村上は自分は不法行為に問われなかった、記事の削除も命じられなかったという勝利に満ちた部分だけを報告したいと考え、この記事を投稿したのかも知れないが、村上はこの記事で、筆者の筆名と共に、杉本徳久が幾度となく権利侵害に及んで公表した筆者の個人情報まで明らかにすることにより、牧師として今まで以上に致命的な行動に及んでしまった。

(むろん、こうした情報だけでは、当ブログ執筆者の著作者人格権の消滅とならず、人物の特定にも至りつく根拠ともならないことを読者に断っておく。村上があえて法的責任追及を逃れるためか、ブログ標題や過去記事にリンクを貼っていない手法も注目に値する。)

なぜなら、この記事の発表によって、村上密は、今後、自分を批判する信徒が現れれば、誰であっても、裁判等を通じて信者の個人情報を入手し、それを全世界に向けて発表する用意があることを自ら世に示してしまったからである。

はからずも、この記事の公表が、裁判結果とは裏腹に、村上密という人物の内心を余すところなく証明するものとなったと言えよう。

筆者が知っている限り、村上密はこれまで信徒の実名を挙げて批判記事を書いたことはなかった。従って、この記事は、村上がこれまでとは異なり、一線を超えて、かつて自分のもとに相談に来た信徒に対する批判を、個人を標的に可能な限り人物を特定して開始したことを明らかに示すものである。
 
読者はこの事実をはっきりと見ておいて欲しい。筆者は2007年から2008年にかけて、メールおよび実際に村上密の教会へ幾度も足を運んで、村上に対して他教会で起きたトラブルの相談を詳しく行った。しかし、村上を通じて事件を解決することはできず、筆者は疑問を持ったまま、村上の教会を離れ、2009年に筆者が村上密の活動に対して批判的になるや否や、村上はネット上で筆者および当ブログに対するバッシングの態度に転じたのである。
  
このように、村上が信徒を実名で批判する記事の投稿を開始している様子を見ながら、村上密のもとに宗教トラブル相談に訪れたいと考える信徒は、今後、おそらくほとんどいなくなる可能性が高いと見られる。

筆者としても、それは到底、お勧めできる行為ではない。読者に言えることはただ一つ、どんなにあなたに宗教上の悩みが生じたとしても、この牧師に個人情報を告げることはやめておきなさい。後々、あなたをも標的として、以上のような記事が発表されないとも限らないからです。カルト被害者たちは、みな相談の際に自分の個人情報を詳しく握られたことがあだとなって、相談した指導者らを批判できない状況に置かれているのです。

さて、今回の裁判では、幾度も断って来た通り、裁判官の異動という出来事も手伝って、審理を早期に終結する必要が生じ、杉本に対するおよび掲示板に対する刑事事件の真相究明も間に合っていないため、当ブログで最も解明したいと考えていたインターネット犯罪ネットワークの責任追及に関する立証は十分でなかったと言える。

従って、今回、村上密に対する共同不法行為の責任追及が行えない結果になったのは、何ら予想外の出来事ではない。
 
しかし、そのことが、決して、村上密が杉本徳久による不法行為に全く関与していなかったことの証拠になるわけではなく、一体、杉本徳久による当ブログ執筆者に対する権利侵害行為に、村上密がどの程度関わっていたのか、関わっていなかったのかという点は、今も不明なままであり、掲示板のコメントを対象とする刑事事件の進展も待たれる。
 
ただし、大きな成果であったと言えるのは、この訴訟の最中、村上が杉本と共に筆者を罵るメールを書証として提出して来たことである。それによって、両者の間でメール文通が行われている事実、さらに、村上が杉本と意気投合して、事実でないことを根拠に、筆者を罵っていた事実も発覚した。
 
村上が提出した準備書面や、両者のメール文通については、次回以降の記事で具体的に触れる。

さらに、村上は裁判の最中、筆者の側からはまだ何も言わないうちから、自ら当ブログ執筆者を非難した2つの記事の削除を申し出たが、途中で、記事を削除しないと自ら提案を翻した。

そして、何より重要なこととして、村上が口頭弁論の最中、杉本と一緒になって、筆者に反訴すると言い立てたことも、むろん、村上の記事では全く触れられていない。

筆者は反訴などするのであれば、その前に、村上から提出されたすべての書面を公開すると応酬したため、二人は筆者に対する反訴を行わなかった(結審後、もし反訴状が提出されていたとしても、それは裁判官が却下している)。

そして、昨日まで、筆者は一つたりとも村上・杉本の実名入りで判決に触れる記事を書かなかった。ひとこと欄で、筆者が予告したのも、「ネトウヨが掲示板に書き連ねたコメントを引用して、村上氏に関する分析記事を書く予定」という言葉から分かる通り、掲示板における村上に関する投稿をまとめるということだけであって、判決を公表するとは述べていない。

筆者は、先の記事で、判決文は大きな代価を払って勝ち取ったものであるから、公開するつもりはないと述べている(読む価値は十分にあるので、ぜひ読むことをお勧めするが、希望者は山下公園まで料金を払って見に行かれれば良いことである。)

そこで、以上の投稿記事は、あくまで村上が先に判決の公表に及んだものであることも強調しておく。
 
いずれにしても、今回の村上密の記事の発表を通しても、読者は村上、杉本の両名が、これまで信徒の裁判に関係することにより、信徒の個人情報を入手しては、それを使って、自らに批判的な信徒を非難する(もしくはコントロールする)材料として利用して来た様子を伺えるのではないかと思う。

村上は、当ブログ執筆者が個人情報の公開を望んでいなかったにも関わらず、杉本徳久から執拗に個人情報を公開され、プライバシー権の侵害を受けたと主張したことが、判決で認められたにも関わらず、あえて以上の記事に公表に及んだ。
 
また、今回の裁判では、杉本徳久が、かつて2013年に杉本が坂井能大牧師を訴えた裁判において、唐沢治を通じて書証として提供された筆者のメールの内容から、筆者の個人情報を入手したと自ら述べた。(むろん、杉本はそれ以前から、筆者の個人情報の入手に及んでいた。)

こうした事実は、杉本が裁判を通じて、信徒の個人情報を入手した事実を物語っている。杉本がかつて自らのブログで、ネット上で個人情報を明らかにせずに情報発信していたカルト被害者に対して、個人情報を明かすよう要求していたことも興味深い事実である。
 
(なお、今回の裁判で、杉本徳久は、裁判以外の場でも、唐沢治にメールで接触し、当ブログ執筆者の個人情報を入手したことおよび唐沢が杉本の要求に応じて筆者の情報を杉本に提供したことを、唐沢とのメール文通を書証として提出することにより明らかにした。

むろん、唐沢治は、KFCの指導者として、当然ながら信徒に対して守秘義務を負っているはずであり、筆者は唐沢に裁判へのメールの提出を許可した事実もなければ、杉本への情報提供を許可した事実もない。

そして、唐沢治が、現在、自らの行為を正当化するために、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」と主張していることも、強調しておかねばならない。
  
なお、唐沢治は2010年に杉本徳久に自らへの権利侵害を理由として民事提訴を予告していたが、後になってから、その提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るための提訴予告であったかのように主張をすり替え、杉本に対して、筆者の実名が公表されていないから、提訴に及べなかったのだと筋違いの弁明をして、提訴予告を実行しなかった責任があたかも筆者の事件にあるかのように弁明していたことも、強調しておかねばならない事実の一つである。
 
唐沢には、一方では、KFCで「クーデター」があったことを自ら認めながらも、他方では、それが事実でないかのように主張して、筆者が記事で主張しているKFCで起きた事件の記述が嘘であるかのように主張しているという自己矛盾も存在する。この問題についても、また追って詳しく記述することにしたい。

このように、唐沢治も、多くの点で事実に反する主張を行っており、当ブログ執筆者を杉本と一緒になって非難し、かつ、杉本と情報交換して来た経緯があるため、今後、村上密と並んで、当ブログに関して非難記事を数多く投稿する可能性が十分に考えられる人物の一人であると言えよう。)
 
このように、2012年頃まで(ちょうど筆者がKFCにいた頃まで)は、唐沢は杉本に提訴予告をしており、杉本と対立関係にあったが、2013年に杉本が坂井能大を裁判で「勝訴的和解」により打ち破ったことにより、坂井を支援していた唐沢治も、共に杉本に敗れ、杉本との対立関係を解消するに至ったものと見られる(唐沢治はこの裁判の当事者ではないが、いわば、杉本が両名を打ち負かしたような恰好となった)。それ以後は、唐沢は杉本と一緒になって当ブログ執筆者を非難・中傷する立場に転じた。
 
杉本は、このように、自らが訴えられたために訴訟に関わったけでなく、自ら裁判を起こすこれによって、自分にとって不都合な発言を行う信者や宗教指導者を沈黙に追い込むことに成功して来た経緯がある。訴訟では不敗記録を更新し続けていたとのもっぱらの噂だが、少なくとも、当ブログ執筆者が杉本に不法行為で賠償責任を負わせたことで、その記録には終止符が打たれたと言えよう。

さらに、興味深い事実として、今回の裁判では、杉本は「自分はカルト被害者救済活動などしていない」と主張していたことが挙げられる。杉本は「カルト被害者救済活動」という言葉を否定するだけでなく、カルト被害者を支援するために裁判に関わっていた(傍聴・報道していた)事実すらも否定した(はぐらかした)のである。

そこで、筆者は杉本のブログから、実際に杉本が被害者を支援するために発表した数々の記事を、杉本がカルト被害者の裁判をブログで取り上げることにより、支援していたことの証拠として提出した。

このように、杉本はかつて自分が理不尽な訴訟で訴えられた経験から、カルト被害者が起こした裁判を放ってはおけないと、被害者の裁判に応援のための傍聴を呼びかけたり、自ら傍聴に駆けつけたり、盛んにブログでアピールしていた事実があるにも関わらず、今回の裁判では、自分がそうして被害者を支援してきた事実さえも、ないがごとくにとぼけるか、もしくは否定する立場に転じたことを強調しておかなくてはならない。

あれほど「被害者のために」と公然と訴え、被害者の権利回復を自らの信念のように掲げて活動していた人間が、「カルト被害者救済活動」に関わっているとみなされると不利な立場に置かれるかも知れないとなると、途端、被害者の裁判に関わった事実がないかのように、被害者を切り捨てるような主張をしたことに、筆者は心底、驚かざるを得なかった。

そこで、今後、筆者の提起した事件に対して、杉本徳久がどのように対処していくかという事実を見ることによっても、我々は、杉本という人物の内心を明らかにする大きな手がかりを得られることであろうと思う。自分自身も裁判を利用して他者を打ち負かしておきながら、自分にとって不利な判決だけは、認めない態度を取るのかどうかだ。
  
筆者は今回の判決を非常に妥当なものであるとみなしているため、誰かがこの判決に抗ったとしても、覆せる見込みはないであろうと考えている。そして、そのようなことが起きないための手立てを早急に始めているところである。
   
さて、村上が今回の裁判において、提出してきた準備書面は、毎回、A4たった3ページといった長さのものであり、短い時間でワープロ打ちしたようなその軽い内容は、これまで「訴訟のエキスパート」として知られてきた牧師には、あまりにもふさわしくないと思われるような、拍子抜けする印象のものがほとんどであった。

さらに、村上は自分がどの準備書面を提出したのかさえ覚えていないこともあり、そのことからも、この裁判をあまりにも軽視している(もしくは筆者を侮蔑している?)様子がはっきりと伝わって来た。また、杉本徳久の行為を、村上が当時、名誉毀損と認識していなかったことも、村上と杉本と一緒になって筆者を罵ったメールの内容からも明らかであった。
 
このように、村上には(自分を批判した信徒憎しという感情のためか)、法的根拠に基づいた客観的で公平な認識が当初から欠けており、杉本のしている行為に対して、現実的な判断が下せないでいたことは、筆者にとっても実に驚きであった。

以上のような事実および、判決の全体をきちんと踏まえず、自らにとって都合の良い点だけをかいつまんで説明しているという意味で、村上の記事は、今回の事件を公平かつ客観的な観点から分析したとは、到底、言い難いものである。

こうした記事内容の偏りだけを取っても、いかに村上が、杉本が賠償責任を負わされた現在になっても、未だに杉本徳久をかばう立場に立って情報を発信し続けているか、また、都合の良い偏った観点からしか、記事を書いていないかという事実がよく伺えると言えよう。
 
読者には、村上密のブログについては、そこに発表されている内容だけを鵜呑みにするのではなく、そこに書かれていない膨大な事実が存在することをまず疑ってみることをお勧めする。そして、この牧師が、自分を批判する者に対しては、約10年近い以前から、信徒であっても、容赦のない措置に及んできたことをよくよく心に留められたい。
 
さて、筆者はこの裁判を第一段階に過ぎないと考えている。今回の訴訟ではとりこぼした内容、もしくは、今回の訴訟で初めて明らかになった事実があり、それについては、今後の責任追及をしていかねばならない。この事件に関わってくれた人たちのためにも、今後、真相がどこにあるのかという情報を発信していくことは、当ブログの重要な仕事であると考えている。

だが、とにもかくにも、まずは村上が以上の記事を投稿したことは、彼の人格を全世界が判断するに当たり、非常に良い材料になったものと筆者は考えているし、当ブログを巡る大規模な嫌がらせ(権利侵害)がどこから来ているのかを判断するための重要な手がかりの一つになって行くだろうと思う。

杉本のブログに記事の削除と賠償が命じられたことによって、ようやく批判の舞台が村上のブログに移ったのである。当ブログを巡るバッシングは、2009年の村上のブログが最初のきっかけとなって始まっていることを考えれば、何らそれは不思議なことではない。

おそらくは、村上の信者を標的にした同様の行為は、今後も、何らかの形でエスカレートして行くのではないかと予想される。というのも、村上は自らのブログに、子供の頃から、親父に喧嘩の仕方を教わり、売られた喧嘩では、負けて泣いて帰宅することを許されず、「勝つまでやり直して来い」と言われ、負けたままでは、家に入れてもらえなかったと、繰り返し、記事に書いているからだ。

村上の行動パターンには、そうして父から教え込まれた喧嘩の教えがよく表れているのではないかと感じられる。「やられる前にやれ。」「やられたら倍返しにしろ。」「黙っているのは恥だ。負けることは許されない。」
 
もしもこうした筆者の予想が的中していれば、村上は鳴尾教会に対して執拗にいくつもの批判記事を投稿して来たように、今後、筆者と当ブログをも標的にして、おびただしい数の批判記事を投稿し続ける可能性も否定できない。

だが、仮にそうなったとしても、それも、村上密の人格を極みに至るまで明らかにするための、とても良い材料になると筆者は考えている。どちらにしても、隠れていた事実が明らかにされる行程が必要なのである。
 
幾度も書いて来たように、当ブログの目的は、批判をかわすことには初めからない。そして、筆者という個人が、ごくごく限られた権利を有するだけの取るに足りない人間であることを見ても分かる以上、誰がどれほどの誹謗中傷を筆者に向けようとも、それによって生じるダメージというものはごくごくわずかなものに限られている。

筆者にとって重要なのは、永遠に揺るぎない御言葉の正しさに生きること、神の国の権益を守ること、聖書の神の正しさを証明し、この方に栄光を帰することであり、筆者自身のこの世で過ぎ行く束の間の有様を必死になって保存しようとすることではない。そして、筆者がキリストと共にすでに十字架で死んで、よみがらされている以上、地上的な利益が失われることを恐れる理由は、筆者には何もないのである。

(どうして筆者がパウロのような生き方を勧めるのかを、読者には考えてみて欲しい。筆者は御言葉を第一として生きるためには、失われるべき利益を最初から神に捧げて、持たない生き方もあるものと考えている。)
  
そこで、批判を恐れることなく、これからしばらくの間、当ブログでは、今回の裁判を通して新たに発覚した事実について公表していくことにしたい。

その第一回目として、書きたいのは、杉本徳久・村上密の両名を被告とする裁判が、昨年末の12月に結審して、いよいよ今年3月の判決を迎える段階になってから、この数ヶ月間というもの、インターネットの掲示板で、当ブログへの夜昼を問わない、またとない集中的で激しい誹謗中傷が展開されたことだ。

こうした悪意あるコメントの投稿は、これまでにもなかったわけではないが、結審から判決言い渡しまでの期間、夜となく昼となく続けられ、苛烈を極めた。その掲示板は、もともと当ブログのために作られたものでもないにも関わらず(杉本徳久のブログを論じるために立てられたスレッドである)、当ブログだけが、そこで主たる標的とされ、筆者個人や、当ブログの記事の内容を徹底的に罵る投稿が、日夜、絶え間なく連続して続けられたのである。

そうした投稿内容の大半は、杉本徳久・村上密の唱えた説に深く共感し、筆者は訴訟に負けるに違いないと断言して、筆者を嘲笑い、誹謗中傷するものであり、筆者が当ブログに新たな記事を投稿する度に、記事内容を剽窃しては、無断で転載する著作権侵害のコメントが、おびただしい数、投稿された。その執拗さと、常軌を逸した敵意の集中は、想像をはるかに超えるものであった。
 
さらに、特筆すべきは、こうしたネガティブ・キャンペーンと言うべき掲示板での激しい中傷の多くが、筆者がかつて村上密の教会に赴いた際に、村上に対して直接、個人的に相談した際に伝えたトラブル内容や、今回の訴訟において、両被告に送付した書面に記載した筆者の個人情報を利用して、それを材料に筆者を叩き、嘲笑い、中傷するものだったことである。

そこで、こうした事実を見るならば、今回の裁判結果とは裏腹に、杉本・村上を擁護する立場から行われたこの激しい中傷と権利侵害に、両名が全く関与していないと見るのは自然ではないと言えよう。

共同不法行為が行われたのかどうかを立証するためには、直接的な関与を証明する証拠を入手することが急がれるが、そうした意味も込めて、この事件は、まだまだ最初の第一歩が踏み出されたに過ぎず、今後の解明が待たれる事柄が数多く存在するのである。

おそらく掲示板での悪質な書き込みは、判決の言い渡し前に、当ブログの評判を貶めることで、何とかして、判決によって、杉本・村上に及ぶダメージを少しでも最小限度に押さえることを目的としていたのではないかと見られる。

つまり、両者を日頃から支持して来た人たちが、筆者を集団で誹謗中傷し、精神的に圧迫することで、当ブログを閉鎖に追い込むことができれば、訴訟の結果が世間に知れることもないと考えて、予防策を張ったものではないかと見られるのだ。
 
掲示板で行われている大がかりな犯罪行為(権利侵害)は、ことごく刑事告訴の対象となっており、判決の言い渡しと同時に、かなり沈静化した。やはり、杉本徳久に賠償が命じられたことが、他のコメント投稿者にも大きな影響を与えたものとみられる。

そういう意味では、この裁判には、至らない点もあったとはいえ、初めの第一歩としては、まずまずの成果であり、何よりも、犯罪の抑止力としての大きな効果を持つものであり、これまで集団的に行われて来た当ブログに対する大がかりな権利侵害にも、かなりの程度、(正当な)萎縮効果を与えるものであったと言えよう。
 
* * *

ところで、本日(この記事を書き始めた3月31日)にも、筆者がひとこと欄にわずかに2、3行、文章を付け加えただけで、早速、掲示板に以下のような文章を掲載する者が現れた。

この投稿者は、どうやら日曜日に筆者がブログを更新した行為を責めたいらしい。
 


筆者は何も騒いでおらず、ただこの投稿者が筆者が、2、3行ひとこと欄を更新しただけでも、それを許せず、針小棒大に騒ぎ立てているだけのことに過ぎない。同調者もめっきり減っている。

むろん、筆者の関係者は誰一人としてこのような掲示板を見てもおらず、このような中傷を鵜呑みにする人がいるとすれば、筆者も、そういう人と関わろうとは願わない。

だが、筆者があえて今、この稚拙なコメント内容を引き合いに出すのは、この主張内容が、杉本徳久が当ブログに向けた名誉毀損に相当する非難に酷似しているのみならず、主イエスが地上におられたときに、律法学者やパリサイ人が、主イエスのわざに難癖をつける時に使ったものと全く同じであることに、驚かざるを得ないからだ。

主イエスは、安息日に人々の病を癒され、数々の奇跡を行われ、とらわれ人を解放された。ところが、律法学者やパリサイ人たちは、それを見て、長年不自由にとらわれていた人々が自由にされたことを喜ぶどころか、「イエスが安息日に労働をして、掟を破った!」と非難したのである。
 
そこで、イエスは言われた、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4) 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

クリスチャンには、主日に他人を誹謗中傷して罪を犯して良いなどという努めはない。従って、こうした投稿者は、自らクリスチャンでないと告白している上、主日に罪のない他人を罵ることで、主日を穢して罪を増し加えているだけとなる。

今回、筆者が起こした民事訴訟では、すでに述べた通り、精神異常に陥ってもいない人間を精神異常者呼ばわりする記事内容が、名誉毀損に相当することがはっきりと認定された。

こうした判断は、筆者の知る限り、刑事事件でも、民事でもほぼ変わらない。それを考えれば、以上の投稿に示されているような汚い言葉を使って、他者を誹謗中傷した場合、もしも人物特定が可能と判断されれば、それは名誉毀損に相当するか、どんなに少なく見積もっても、侮辱に該当するという判断が下される恐れは十分にあるのだ。

一つのコメントの中で人物特定ができずとも、他のコメントと合わせて人物特定が可能と判断されれば、名誉毀損が成立する可能性があることは、かつて唐沢治がKFCの元信徒を訴えた際に証明されている。その信徒は、心神喪失により不起訴になったが、刑事事件としての処理スピードはかなり速く、病がなかった場合には、まさにどうなっていたか分からない。

そこで、民事裁判の結果が出ているにも関わらず、以上のような投稿を続けている者は、最後には非常に重い罪に問われることになるであろうと予告しておきたい。もちろん、他者の公表されていない親族関係を暴いたりすれば、それもプライバシー権の侵害として扱われる可能性があるし、刑事事件で個人が特定された後に、民事で賠償請求の対象となることも考えられる。

このように行き過ぎた誹謗中傷が大目に見られるのはネット上だけのことで、現実世界では厳しい判定が下されて来た。万一、名誉毀損で刑事告訴が成立しているのに、同一人物が再犯を重ねていれば、当然ながら、情状酌量の余地も減って行く。

さて、この投稿者は「キリストを知るという知識の香り」についても、どうやら、何も知らないようだ。おそらく、「キリストの香り」と言えば、誰にとっても、甘く、芳しく、心地よい香りに違いないと決めつけているのだろうが、あいにく、聖書にははっきりとこうある。

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

つまり、「キリスト(を知る知識)の香り」とは、救われない者(「滅びる者」)にとっては、「死から死に至らせる香り」、まさに「腐臭」のようなものだと、はっきりと聖書に書かれてあるのだ。

従って、当ブログの記述を「腐臭」としか感じないと告白しているこの人間は、自分で「滅びる者」に属すると告白しているに等しい。

さらに、キリストに従う道は、人を寄せつけない「狭き門」である。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

この御言葉を考えれば、当ブログの信仰告白が、万人受けするものとはならないのは、当然であろう。それは筆者が「狭い門」を通過しているからこそのことで、まさに当然の結果なのである。それにも関わらず、万人受けする内容であることだけが、あたかも内容の正しさの証拠であるかのように主張するこの投稿者は、自分はまさに大勢の人たちが好んで入って行く「滅びに通じる門」に入る人間だと自分で述べているだけである。

哀れ、この投稿者には、何から何まで救いに至らない条件が兼ね揃っているのだから、自分で予告した通りの結果を辿ることになるだろう!

ちなみに、以上の投稿では、復活祭についても触れられているが、筆者は、今回の民事訴訟では、結審からきっかり3ヶ月間、判決を待った。この3という数字は、当然ながら、イエスの死と復活を表す数字である。

ちょうど判決が出たのが、復活祭を目前に控えた今の時期であったことも感慨深い事実である。

これは筆者にとって非常に重要かつ象徴的な「葬りの期間」であったと言えよう。原告であっても、生涯で初めて受ける判決言い渡しは、それなりに緊張を伴うものであり、いかに裁判官を信頼しているとはいえ、まさか笑顔で聞くというわけにいかない。

さらに、3ヶ月も判決を待つことには、それなりの苦労が伴った。だが、この待望の期間こそ、筆者にとっては、まさに主と共なる葬りの期間だったのである。

判決は筆者にとって、それほど予想と異なるものではなく、それは筆者にまぎれもなく命を与える内容であったが、筆者はまだその解放を、これから受けるのであって、今も葬りの期間は続いている。

このように、今年は例年よりもさらに意味深い復活祭を迎えることができた。

筆者は今年、文字通り、主と共に死んでよみがえる経験を、いつになく深いレベルで体験でき、また、今もその最中にあるのであって、このように感慨深い復活祭を迎えることを、心から主の恵みとして受け取り、喜んでいる(ただし、筆者は祝祭日を祝おうとは思わないが)。
 
従って、このことを考えても、以上の投稿がいかに的外れであるかよく分かろう。さて、裁判の総括は、次回以降の記事でするため、今回は短い報告にとどめておく。

裁判が終わると、色々とせねばならない後処理も残っているが、これからが正念場である。そうした手続きの一つ一つに習熟することは、将来起きうるもっと大きな戦いに対する重要な予行演習であると感じられてならないため、これも感慨深いことである。

2019/04/01 (Mon) 神の国の働き人

ウォッチマン・ニーは、信仰とは天の目に見えない預金口座から、目に見える形で預金を現金化することに似ているとたとえた。これを聞いて、何という現金なたとえだろうかと思う人もあるだろう。あるいは、「そんなことが本当にあるはずがない。あれば、誰も苦労しませんよ」と笑う人もあるかも知れない。

ところが、そういうものが確かに存在するのだ。それは、イエスがスカルの井戸で出会ったサマリヤの女に語られた、尽きることのない命の泉である。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

このいつまでも絶えることのない命の水の泉、多くの人は、これを単なる比喩か何かだと考えている。命の水、クリスチャンはこの言葉が好きだ。しかし、多くの信者は、本当にそのようなものが存在するとは信じていない。

ところが、それはあるのだ。これは信じる者の内側で起きる御霊の働きである。御霊が、私たちの内側で、まさにとめどなく溢れる命の泉としての働きをなすのであって、それは目に見えない霊的秩序、天的な圧倒的な支配力として、私たちに必要なすべてを供給する。

御霊の命を供給する働き、それは、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)との御言葉にもよく表れている。

この命の泉から汲み出すためには、神の国と神の義を第一に追求して生きる必要がある。それは、筆者自身の言葉で言えば、ただ神を心から愛し、神に栄光を帰し、御言葉の正しさを世に証明するために、全身全霊を捧げて、実際に御言葉に生きることである。

私たちの神は、正しい方であるから、神を愛し、その戒めを守って生きるとは、言い換えれば、真実を愛し、正義を愛し、慈しみを愛し、公義を行うことだと言うこともできよう。今、これらの言葉の定義について、長く説明することはしない。

信仰によって、神の御言葉に従い、神が喜ばれる生き方をするために、身を捧げるとき、その人は、天に直接雇用される。そして、その人が生きるための必要のすべてが、この世の方法によらない、不思議な方法で天から与えられる。

このことが、聖霊による命の泉が人の内側から湧き出ることの意味であり、その泉は、ただその人一人が生きるためだけの必要を供給するのではなく、やがて洪水のように溢れ、周囲を潤すようになる。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

私たちは、この泉を開拓しなければならない。今、筆者が「干潟」にとどまってやっているエネルギー資源開発が、ちょうどそれに当たるが、このように、この世を超越した不思議な方法で、私たちはとめどのない命の流れを汲み出す秘訣を実際に知らなければならない。

当ブログでは、数年前からこのことについて書いて来た。つまり、馬車馬のように生きることをやめ、生活の心配から解かれたいなら、真に正しいと心から信じられる目的のために、自分のすべてを捧げなさいと。御言葉の奉仕者となるために、自分を完全に捧げなさいと・・・。

地上の団体に雇用されて月給をもらっていれば、どんなにその月給が多いように思われたとしても、それは決して一定額を超えることはない。それはいつも人間の予想の範囲を超えず、あなたの必要に応じて変化して、伸び縮みすることもない。

何よりも、その給与では、ジョージ・ミュラーのように、信仰だけによって、5千人の孤児を養うにはあまりにも少ない。すべてが人間の定めた決まり事であり、予想の範囲内から一歩も外に出ず、そこには何一つ不思議も奇跡もない。

だが、信仰によれば、人間の予想の限界を大きく超えて、無からとどめようのない命の流れを汲み出すことが可能なのだ。もちろん、最初からすべてが一足飛びには行かない。だが、あなたはもしも本当に信仰があるなら、ぜひともこの方法を開発しなければならない。そうでなければ、イエスを信じた意味がない、と言っても差し支えない。

さて、こうした結論を当ブログでは何年も前から述べ、また、一部、実際に実行に移しながらも、筆者は今まで、完全には御言葉の奉仕者として生きず、世俗の所属先をかけもちし、バビロン化した経済体系からエクソダスしても完了していなかったゆえ、この命の泉の汲み出し方がまだ十分には分からないまま、現在まで来てしまった。

だが、今や筆者は、資本主義からも、プロテスントからも、本格的に足を洗わねばならないと考え、この度、やっとそれを実行に移すことができたと考えている(これは冗談で述べているのではないため、嘲笑しないでいただきたい)。これらはともに「バビロン」という一つの宗教に組み込まれた複合的な体系なのであり、その呪われた体系の一員として生きている限り、決して人には自由はやって来ないのである。

筆者は長い間、この体系の一員であったので、今やこのバビロンが本当に破滅に瀕していること、早急にそこを出て、真に御言葉の奉仕者として、天に雇用されて生きることによってしか、この先、生きる道がないという時代が到来していることを心から確信している。

当ブログを嘲笑っている人々は、そのような生き方が可能だとは全く考えないだろう。彼らは、筆者がいたずらに自分を王妃エステルや預言者エリヤになぞらえているだけだと言っては、筆者の裁判を嘲笑い、当ブログの信仰の証しを嘲笑して来た。

彼らは、筆者の生き様がこの世の常識から外れているため、筆者はただ破滅に向かって進んでいるだけで、筆者がより頼んでいる神は、筆者を助け得ないと言って今も嘲笑っている。ちょうどノアが箱舟を建設していた頃、人々が彼を嘲笑ったのと同様である。

ところが、結果はどうだったであろうか。神は生きておられ、エステルのように死を覚悟して、筆者が目に見えない王の前に進み出たところ、王は金の笏を伸べて「生きよ」とおっしゃり、筆者に命を提供して下さった。

また、現在も、筆者は、バアルの無数の預言者の前に、たった一人で立ち向かったエリヤと同様、一体、どこからこんなに湧いて来るのかと思うほど、名も知れない大勢の人たちから、夜となく昼となく、向けられる非難や中傷にも、一人で勇気を失わずに立ち向かっている。

筆者のたとえを嘲笑する人々は、このようなことが、冗談でできるはずがないことを知らないのだろうか。

彼らは、自分たちが「バビロン王国」の一員であって、立派な所属先として「バビロン株式会社」に就職していることを誇っている。彼らにとって、それはかけがえのない輝かしいステータスであるらしい。ところが、その国にも、会社にも、やがて間もなく倒産と破滅が決定していることを彼らは知らない。それは沈みゆく泥船であって、その「会社」や「社会」に仕えている限り、誠実な人は、何一つ築き上げることができないのが現状である。

あなたは「バビロン株式会社」の社員として、毎月、雀の涙のような給与と、負いきれない多忙なスケジュールの仕事を任され、それに押しつぶされそうになりながら生きている。その会社は、強欲な幹部や役員らによって支配されているので、あなたの売り上げがどんなに伸び、あなたがどれほど優秀な働きをしても、あなたの給与が増えることはなく、あなたに課せられる任務は、日に日に重くなる一方で、休みさえ満足に取ることができない。

あなたは、その会社の人間関係に疲れ果てるまでがんじがらめにされて、日々、取引先の接待に追われ、休日も携帯電話が鳴って上司に呼び出されることも稀でなく、いつか取れるという有給休暇に憧れているが、なぜかそれを取得した経験がない。賞与などというものも、約束されていたはずだが、一度も受け取ったことがない。むろん、昇進もするはずだったが、なぜかずっと平社員にとどめおかれている。

約束されていた夢のような待遇は、どれもこれも実現したことがないし、最も恐ろしいことに、当初は終身雇用と言われていたはずだが、今や雇用契約は一カ月ごとの更新である。給与も、当初は年俸制だったはずだが、すぐに月給制に変わり、今や時給制になっている。あなたは毎月、生きた心地もしないが、そうなったのは一体、なぜなのか、真剣に考えてみたこともない・・・。

ルターは、ピラトの階段を膝でのぼるうちに、このような精進を通してしか、人が罪赦されて聖化されて神に近づくことはできないというカトリック教会の教え全体が、全くのまやかしでしかないことに気づいて、その苦行を放棄した。

我々が生きるのは、自分の力で階段を上って精進するからではない。「義人は信仰によって生きる」(ヘブル10:38)からだと気づいたのである。

この御言葉が真実ならば、信仰は、我々が生きるためにすべてを供給するまことの命に直結しているはずである。すなわち、ただ一人の命なるお方が、私たちのためにすべてを成し遂げて下さったと信じることこそ、私たちのすべての必要が満たされる根拠なのだから、膝で階段を上るという苦行によっては、人が自分で自分を救うことはできず、自由も解放も得られないのは当然である。

この世で今、多くの人々が獲得しようともがいている安定や、社会的成功は、まさにこのピラトの階段を膝で上るのと同じ苦行でしかない。はた目には、成功例も、あるように見えるかも知れないが、その階段には終わりがなく、上に上って行くためには、あなたは今よりもさらに多くの理不尽な苦悩を耐え忍ばなくてはならない。そして、上に行けば行くほど、ますます解放されるどころか、自由がなくなり、あなたは自分の良心を殺して生きなくてはならなくなる。

さらにもっと言えば、ピラトの階段を上まで登りつめれば、待っているのは死だけであって、そこには約束された自由も解放もない。それはすでにイエスが私たちの代わりに上って下さった階段であって、その先にはゴルゴタの十字架がそびえたっているのであって、私たちはイエスと共にすでにその階段を信仰によって上り切ったのであるから、再びその苦行を身に負う必要はないのである。

従って、あなたが真に健全に、自由に、豊かに、幸せに生きたいならば、この階段を上に上るのではなく、できるだけ早くそこから降りて、このようなまやかしとは無縁の人生を生きなくてはならない。このような階段を他者と競争しながら、誰よりも早く上へと上って行くことが、あたかも正しい人生であり、成功であるかのような幻想と錯覚を、愚かしい誤謬として、一刻も早く捨て去らねばならない。

これが、資本主義とプロテスタントからのエクソダスの意味である。それは双方ともにヒエラルキーに組み込まれて、自分よりも上の階層に位置する人間に利益をもたらすための道具として生きることを意味し、エクソダスはそのような生き方自体をやめるという意味を持つ。
 
さて、天的な命の法則性を確かなものとして習得するために、このような生き方を選ぶことを、当ブログでは、少し前から宣言して来た。昨年の初め頃から、筆者はソドムとゴモラと化したこの地に嫌気がさしたので、ここから脱出するという考えを繰り返し述べて来たが、その脱出は、筆者がどこか地上の別な町へ逃れることを意味するのではなく、ただ地から天へ向かって逃れることを意味した。

筆者は、予めバビロン王国からの国外亡命の準備を整えていたので、まずはエクレシア王国の住人としての永住権を取得し、さらに、亡命後、安定した雇用からあぶれなくて済むよう、エクレシア会社に終身雇用されるための入社手続きも済ませておいた。
 
そして、ある日、信仰と名付けられた飛行機に乗って、ソドムを脱出したところ、離陸の際、バビロン王国とは、全体が一つの高い塔であって、ピラトの階段は、この塔にからみつくように、地上から天に届くほどまで渦高く続いている様子が見えた。ああ、あんなにも長く果てしない階段を膝で登らされようとしていたのかと分かり、そんな不可能事を可能であるかのように教え、自分をそこまで騙したバビロンへの失望と幻滅はさらに募った・・・。

さて、エクレシア王国に着いて、前もって入社しておいた会社へ挨拶に行くと、社長自らが出迎えてくれて、歓迎会を開いてくれた。「エクレシア無限会社」に就職するときには、入社時にただ一人の慈悲深い社長のもとで、社長に栄光をもたらす働きをするためだけに、終身雇用となる契約書にサインを求められる。

社長は言った、この会社では、すべての社員が、社長の直属の部下であるから、上司は、ただ一人しかいないのだと。そして、ダブルワークは禁止されているから、他の社長のためには、二度と働いてはいけないと。

実際に、この会社には、あの頭痛しかもたらさない尊大で横暴な幹部は一人もいなかった。同僚もいるはずだが、一人一人が全く違う部署にいて違う働きに従事しているため、競争や妬みが発生することもない。
 
不思議なことに、雇用契約書には、サラリーの規定がなかった。なぜなら、この会社では、社員のサラリーは、社員の必要に応じて、変化するからである。そして、サラリーという言葉の語源が塩であると同様、一人一人の社員の仕事も、「地の塩」としての役目を果たすことである。
 
 社長は、エクレシアへ脱出してきたこと自体が、あなたの果たした最初の仕事であると労をねぎらってくれ、最初のサラリーも、すでに見えない給与口座に払い込まれていると教えてくれた。
 
手渡された給与明細を見ると、そこには、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)と書いてあり、それは、地上の人々の言葉では、判決という名で呼ばれていると告げられた。

社長は述べた、この会社では、すべての社員のサラリーは、必要に応じて十分な額が支給されることになっているが、それはいつも支給される時期も形態も異なる。ただし、常に目に見えない給与口座に振り込まれる仕組みになっているので、それを天の銀行で、「現金化」して持ち帰ることも、社員の重要な仕事の一つである。だが、それには困難も伴うことを覚えておいてもらいたい。仕事が常に容易だなどとは決して思わないでもらいたい。だが、信仰によってすべてを乗り越えられると信じなさい。あなたがそうしてミッションを果たすことにより、天には栄光がもたらされる・・・。
 
さて、最初のサラリーを現金化するこの作業がどのように成し遂げられるかを、読者はよく見ておいて欲しい。この世の人々は、筆者の述べていることは、愚かしいたとえ話でしかないと考えて笑うかも知れないが、これは決してたとえ話などではないからだ。

ウェーバーなどを引き合いに出すまでもなく、この世では、実はキリスト教の最先端の信仰回復運動こそ、目に見えない圧倒的優位を誇り、政治体制のみならず、経済をも支配してきた。それは、ピラトの階段を上る者こそ出世するというのが、この世の掟だからであって、それゆえ、この階段を上ったと自負する聖職者階級が、今日に至るまで、この世で最も大きな力を誇っているのは何ら不思議ではない。むろん、プロテスタントの牧師階級もその一部である。

プロテスタントの牧師たちは、信徒とは異なり、教会で俸給をもらい、特権的な地位についている。だが、何ゆえ、彼らと信徒との間に、そのような「格差」が生じるのかと言えば、それもピラトの階段ゆえである。牧師たちは、フルタイムで献身する御言葉の奉仕者を名乗っているゆえ、信徒よりも霊的に一段上の階層に立っているのである。

すなわち、この世の人々は、世俗の仕事に従事しており、世俗に生き、御言葉への献身度が低いために、牧師に比べて罪人であるから、その罪人らが月曜から金曜までフルタイムで汗水流して働いた労働は、牧師たちに捧げられ、彼らの俸給となるのは当然だというわけなのである。
 
筆者は、こんな理不尽かつ愚かしい制度に何ら賛同するつもりはないが、少なくとも、そこにも、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。 」という見えない法則が働いているのは確かなことであろうと思う。

このような制度を見ても、いかに神の御言葉を独占的に扱う者(御言葉の奉仕者)が、この世において、歴史時代や、国境や、制度を超えて、御言葉に奉仕しない他者に比べて、圧倒的な優位を占めて来たかが、垣間見えると言えよう。

だが、御言葉の奉仕者になる資格は、今日、信じる者には誰でも与えられているのであって、なおかつ、我々は、ピラトの階段を自力で上ることによって、ヒエラルキーの階段を上って行く必要はない。むしろ、信仰によって、この階段をはるか足の下にして、命の御霊の法則に従って、圧倒的な自由と解放を掴んで生きることが可能なのである。ただし、そのための唯一の手段は、「神の国と神の義を第一として生きる」こと、すなわち、「地の塩」としての役目をきちんと果たすことである。
 
このように、「天に直接雇用されて生きること」は、あらゆる時代の信仰の先人たちの証しを見ても、彼らに共通して必要なステップであったことが分かるだろう。ハドソン・テイラーなどもそうであろうが、多くの宣教師たちは、任地へ赴いた後、自分たちを任地へ派遣した所属団体を離れた。それは、組織に所属していることによって、必ず、心のしがらみが生じることを知ったからである。その後、彼らは、所属団体から俸給を受けとることによってではなく、天から直接、俸給を受けることによって生きることを余儀なくされ、それゆえ、信仰を試された。

今日も、神に従って生きる人々にとって、これは避けては通れない学びの一過程であると、筆者は考えている。

さて、今はバビロン王国を脱出したことにより、とりあえず最初のミッションを果たしたので、しばし休息が必要である。慣れない飛行機に長時間座るのは、やはり緊張が伴い、それなりの苦労もある。これから、次回以降の記事で、天のサラリーをいかにあらゆる困難を乗り越えて「現金化する」かという具体的な作業について、書いて行くことにしたい。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしていなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

裁判所との最終調整が終わったので報告しておきたい。

巨大なエクソダスが完了した。判決はまずまずの内容であり、不本意な和解を退けただけの甲斐は、確かにあると言えるものであった。

今回の判決では、まず被告1名(信徒)に対し、被告のブログにおける、当ブログ執筆者に対する名誉毀損、侮辱、著作者人格権(氏名公表権)の侵害、プライバシー権の侵害が行われた事実と、それに対する当ブログの側からの損害賠償請求、当該記事の掲載差し止め請求がおおむね認められた。

早い話が、ペンネームで執筆されている当ブログの執筆者の氏名を勝手に公表したり、当ブログ主の個人情報を調べて無断でネット上に公表したり、ネット上で人格障害者呼ばわりするような行為が権利侵害に該当するという、当ブログの主張が認められたということである。

その他、非常に重要な成果として特筆すべきは、当ブログと当該被告のブログとの間で2009年以来、起きた論争の発端は、そもそも被告が、当ブログ主から受けたコメント削除の依頼に、正当な理由なく応じなかったことにあることが、事実として認められた。

他者の管理するブログに投稿したコメントであっても、その著作権は投稿者自身にあるため、コメントの削除依頼を受けたのに、これを正当な理由なく拒むことは、公衆送信権の侵害に当たるという見解が示されたのである。

しかしながら、今回の裁判では、十分に立証が行えなかった点もいくつか今後の課題として残る。

その第一は、これまで幾度か断ってきた通り、今回の裁判は、急ぎ足で終了したということもあって、刑事事件の進展と、犯罪ネットワークの全容の解明が追いついておらず、被告らの共謀関係については十分とみなされうる立証が行えなかった点だ。

そのため、今回の紛争は、2名の被告のうち、宗教指導者である被告は、法的責任を問われない形で終了した。

だが、筆者の心には、事実はどうなのかという深い疑問が残る。もちろん、今回の訴訟でも、宗教指導者の関与が全くなかったという事実が立証されたわけではなく、推定無罪の原則が働いているのみである。

被告らは、この裁判の過程でも、当ブログ執筆者を馬鹿にしたメールを書証として提出したりもしており、宗教指導者である被告は、信徒として相談を行った当ブログ執筆者を個人的にターゲットとして非難する記事を約10年間もブログに掲載している。

そして、当ブログ執筆者に関する個人情報を、信徒である被告に伝えたのが、誰なのかを特定する作業は、いまだ完了していない。その上、掲示板で行われた当ブログに対する大々的な権利侵害を、誰が主導したのか、どのようなネットワークがその背後に存在するのかなどといった事項も、すべて今後、刑事事件の進展を待たねばならない。

従って、宗教指導者の被告は、罪に問われなかったことをもって、すべての疑いが晴れたとは決して言えない。特に、当ブログがこうむってきたほとんどすべての中傷は、筆者から見て、まさにこの指導者を擁護する立場から行われたものであることは極めて興味深い事実である。

このように、今回の裁判では、当ブログの請求のすべてが認められたわけではなく、十分な論証・立証作業が間に合わなかった主張も多々あるとはいえ、点数に換算するならば、60点から(甘くつければ)70点くらいの点数は取れ、まずまず及第点には達したと言えるだろう。
 
筆者から見て、この判決は、決して偏った、もしくは、筆者にとって極端に甘い内容でもないため、従って、感情に流されたものではない。むしろ、極めて冷徹かつ客観的な分析と、合理的な法的解釈に基づくものであるため、当事者の誰かが控訴したとしても、この判決を覆すことは、極めて困難なように思われる。

そのようなことは、単なる時間と費用の無駄にしかならず、報復以外に目的が見当たらないということで、(仮に被告が控訴しても)心証をより悪くすることにしかつながらないであろう。

そこで、筆者は、今回の判決でカバーされていない問題、そして、今回の訴訟の最中に新たに判明した事実については、今後、新たな係争の提起という形で責任追及を行うことを考えており、訴訟後の手続きも控えているため、戦略的に、今は言及を避けることにしたい。

だが、一つ、今回の裁判でつくづく分かったことがある。それは、やはり民事訴訟は、受けた損害を完全に償わせる手段としては、適切ではなく、ただ賠償請求だけが目的ならば、民事裁判は起こさない方が良いということだ。

特に、当ブログが過去10年間にも渡り、様々な嫌がらせ行為を受けて来たことを考えれば、筆者は今回の判決で言い渡された賠償金額(それは決して少なくはない)が3倍だったとしても、それも妥当であると考える。
 
だが、むろん、筆者は賠償金が少なすぎるなどと不満を述べているのではない。民事訴訟を起こすことの主要な目的は、決して金銭的な利益にはなく、そのような成果が目的であれば、裁判には期待薄である、ということを言いたいのである。

すなわち、個人の利害の対立という次元を超えて、正しい事実認定を行うことで、何が真実であるのかを世に公然と知らしめ、今後起きうる同様の犯罪の抑止力とすること、目に見えない正義と真実を追求することで、社会をより良く変えるきっかけを作りたいという強い使命感がなければ、このような戦いを個人で最後まで戦い抜くことは非常に困難であり、仮に弁護士を立てなかったとしても、到底、元が取れるようなものではないということだ。

だが、筆者は、この訴訟を提起したことに何の後悔もなく、その全プロセスに心から満足している。筆者自身にとって、今回の訴訟は、はかりしれないほど大きな学習の機会であった。これは他のどんな紛争にも比べられないほどの深い霊的意義を持ち、まさに全力投球して取り組む価値のある記念すべき紛争だったことは確かである。

筆者は今回の訴訟で、決して法的解釈にとどまらず、聖書に基づく自らの見解を、思うだけ主張・披露できたことに、非常に深く感謝している。事件を担当してくれた裁判官が、もしも宗教論争を一切、この紛争に持ち込まないようにと釘をさすようなことがあれば、それは決して実現できなかった願いである。

そういう意味で、今回の紛争は、他のもろもろのこの世の紛争とは全く違った意味合いを持つものであり、それだけに、こうした結果が得られたことは、聖書の御言葉の正しさを公然と世に証明するに当たっても、実に大きな成果だったと言える。
  
今回、裁判官が、その50倍はあろうかという書面を基に書き上げてくれた、分厚い本のような判決文は、それ自体が、筆者にとっては、示唆に富んだ、宝のような文面である。この貴重な判決文は、筆者が大きな代価を払って得たものであるから、万人に公開することは控えたい。

だが、重要なのは判決文だけではない。当ブログの側から提出した様々な主張書面、資料は、それ自体、記録として保管する価値のあるものであり、今後、教会を巡る裁判の問題を研究する際に、カルト被害者救済活動を批判的な観点から分析する資料として、大いに参考材料となりうるものと確信している。
 
今回は、裁判所という「干潟」を通して、当ブログの見栄えのしない「泥水」に光が当てられ、そこに神秘的な光合成が働いた結果、このような判決が生まれた。

だが、まだまだ今後の課題も多く残されている。そこで、少なくとも、一年か二年間くらいは、筆者と当ブログは、この「干潟」としての裁判所にお世話にならねばならないものと考えている。
 
数多くの戦いが控えているため気は抜けないが、とりあえずは、関係者に心から感謝を述べておきたい。

そして最後に、自己の信念は、きちんと主張しなければ、実現もできず、他者の努力に便乗して、自分の願いを実現することは、誰にもできない相談なのだということを断っておきたい。

日本社会には、長いものには巻かれろ式に、権力者におもねり、絶えず周囲の顔色を伺って、自分の主張を控え、周囲と波風立てないことが、あたかも正しいことであって、それさえやっておけば、自己の権利を保ち、幸福に生きられるかのような考えがある。

要するに、「和の精神」である。しかし、当ブログでは、これは偽りの平和であって、聖書の御言葉に立脚するものではなく、この精神に絡め取られてしまうと、自分自身を失い、まことの命をも失うということを述べ続けて来た。

今回、筆者は自らの信念に基づき、自分の主張を公の場に持ち出したことで、激しい批判と嘲りと中傷を浴びはしたが、それとは引き換えにならないほどの貴重な教訓を得たと思っている。それはやはり、この社会の中には、正義、真実、公正を愛し、良心に生きる人々が確かに存在しており、自らの信念を曲げずに、希望を捨てずに生きていれば、そうした人々に出会うことも、かつ、協力して、善良な願いを実現に至らせることもできると分かったことである。

すなわち、今回の紛争の最も大きな成果は、ただ有利な判決を得たということではなく、それ上に、これほどまでに激しい妨害や、徹底した誹謗中傷、敵意を向けられる中でも、筆者が、全くと言って良いほど、絶望に至らず、死へ追いやられることもなく、それどころか、以前よりも一層、御言葉の真実性を知って、喜びに溢れていること、また、筆者一人の力だけでは成し遂げられなかったであろう成果を、様々な人々との協力関係の中で打ち立てることができたことである。

このような成果は、人間の力にはよらないのであって、ただ神を賛美するのみである。筆者自身はネットワークを築こうとしたことはなく、人々の心に善良な願いを起こさせて下さったのも、すべては主の采配である。

もちろん、今回生まれた協力関係はほんの一時的なもので、長くは続かない。だが、筆者は、誰がどこへ去ろうとも、これからもこの地にとどまり続けるだろうと思う。そして、ここでバプテスマのヨハネがしたように、(もちろん、筆者なりの方法で!)、主の到来に地道に道を備えたいと願っている。

すなわち、この地が真に永遠に至る実りを結ぶ場所となり、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」と言えるようになるまで、どこにも去らず、ここで根気強く奮闘し続けたいと願っている。

キリストは、まことに筆者のためにも、神の知恵となって下さり、義と聖と贖いとになられた。この方の御名にのみ栄光を帰したい。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

2019/03/29 (Fri) 神の義なる裁き

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしていなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

裁判所との最終調整が終わったので報告しておきたい。

巨大なエクソダスが完了した。判決はまずまずの内容であり、不本意な和解を退けただけの甲斐は、確かにあると言えるものであった。

今回の判決では、まず被告1名(信徒)に対し、被告のブログにおける、当ブログ執筆者に対する名誉毀損、侮辱、著作者人格権(氏名公表権)の侵害、プライバシー権の侵害が行われた事実と、それに対する当ブログの側からの損害賠償請求、当該記事の掲載差し止め請求がおおむね認められた。

早い話が、ペンネームで執筆されている当ブログの執筆者の氏名を勝手に公表したり、当ブログ主の個人情報を調べて無断でネット上に公表したり、ネット上で人格障害者呼ばわりするような行為が権利侵害に該当するという、当ブログの主張が認められたということである。

その他、非常に重要な成果として特筆すべきは、当ブログと当該被告のブログとの間で2009年以来、起きた論争の発端は、そもそも被告が、当ブログ主から受けたコメント削除の依頼に、正当な理由なく応じなかったことにあることが、事実として認められた。

他者の管理するブログに投稿したコメントであっても、その著作権は投稿者自身にあるため、コメントの削除依頼を受けたのに、これを正当な理由なく拒むことは、公衆送信権の侵害に当たるという見解が示されたのである。

しかしながら、今回の裁判では、十分に立証が行えなかった点もいくつか今後の課題として残る。

その第一は、これまで幾度か断ってきた通り、今回の裁判は、急ぎ足で終了したということもあって、刑事事件の進展と、犯罪ネットワークの全容の解明が追いついておらず、被告らの共謀関係については十分とみなされうる立証が行えなかった点だ。

そのため、今回の紛争は、2名の被告のうち、宗教指導者である被告は、全く法的責任が問われない形で終了した。

だが、筆者の心には、事実はどうなのかという深い疑問が残る。もちろん、今回の訴訟でも、宗教指導者の関与が全くなかったという事実が立証されたわけではなく、推定無罪の原則が働いているのみである。

被告らは、この裁判の過程でも、当ブログ執筆者を馬鹿にしたメールを書証として提出したりもしており、宗教指導者である被告は、当ブログ執筆者をターゲットとして非難する記事を約10年間も掲載している。

そして、当ブログ執筆者に関する個人情報を、信徒である被告に伝えたのが、誰なのかを特定する作業は、いまだ完了していない。その上、掲示板で行われた当ブログに対する大々的な権利侵害を、誰が主導したのか、どのようなネットワークがその背後に存在するのかなどといった事項も、すべて今後、刑事事件の進展を待たねばならない。

従って、宗教指導者の被告は、罪に問われなかったことをもって、すべての疑いが晴れたとは決して言えないのである。

このように、今回の裁判では、当ブログの請求のすべてが認められたわけではなく、十分な立証が間に合わなかった主張もあるとはいえ、点数に換算するならば、60点から(甘くつければ)70点くらいの点数は取れ、まずまず及第点には達したと言えるだろう。

だが、筆者から見ても、この判決は、決して甘い内容ではなく、感情に流されたものでもなく、極めて冷徹かつ客観的な分析と、合理的な法的解釈に基づくものであるため、当事者の誰かが控訴したとしても、この判決を覆すことは、極めて困難なように思われる。

そのようなことは、単なる時間と費用の無駄にしかならず、報復以外に目的が見当たらないということで、(仮に被告が控訴しても)心証をより悪くすることにしかつながらないであろう。

そこで、筆者は、今回の判決でカバーされていない問題、そして、今回の訴訟の最中に新たに判明した事実については、今後、新たな係争の提起という形で責任追及を行うことを考えており、訴訟後の手続きも控えているため、戦略的に、今は言及を避けることにしたい。

だが、一つ、今回の裁判でつくづく分かったことがある。それは、やはり民事訴訟は、受けた損害を完全に償わせる手段としては、適切ではなく、ただ賠償請求だけが目的ならば、民事裁判は起こさない方が良いということだ。

特に、当ブログが過去10年間にも渡り、様々な嫌がらせ行為を受けて来たことを考えれば、筆者は今回の判決で言い渡された賠償金額(それは決して少なくはない)が3倍だったとしても、それも妥当であるとさえ考える。
 
だが、むろん、筆者は賠償金が少なすぎるなどと言っているのではない。民事訴訟を起こすことの主要な目的は、決して金銭的な利益にはなく、そのような成果が目的であれば、裁判には期待薄である、ということを言いたいのである。

すなわち、個人の利害の対立という次元を超えて、正しい事実認定を行うことで、何が真実であるのかを世に公然と知らしめ、今後起きうる同様の犯罪の抑止力とすること、目に見えない正義と真実を追求することで、社会をより良く変えるきっかけを作りたいという強い使命感がなければ、このような戦いを個人で最後まで戦い抜くことは非常に困難であり、仮に弁護士を立てなかったとしても、到底、元が取れるようなものではないということだ。

だが、筆者は、この訴訟を提起したことに何の後悔もなく、その全プロセスに心から満足している。筆者自身にとって、今回の訴訟は、はかりしれないほど大きな学習の機会であった。これは他のどんな紛争にも比べられないほどの深い霊的意義を持ち、まさに全力投球して取り組む価値のある記念すべき紛争だったことは確かである。

筆者は今回の訴訟で、決して法的解釈にとどまらず、聖書に基づく自らの見解を、思うだけ主張・披露できたことに、非常に深く感謝している。事件を担当してくれた裁判官が、もしも宗教論争を一切、この紛争に持ち込まないようにと釘をさすようなことがあれば、それは決して実現できなかった願いである。

そういう意味で、今回の紛争は、他のもろもろのこの世の紛争とは全く違った意味合いを持つものであり、それだけに、こうした結果が得られたことは、聖書の御言葉の正しさを公然と世に証明するに当たっても、実に大きな成果だったと言えるのである。

今回、裁判官が、その50倍はあろうかという書面を基に書き上げてくれた、分厚い本のような判決文も、それ自体が、筆者にとっては、示唆に富んだ、宝のような文面である。この貴重な判決文は、筆者が大きな代価を払って得たものであるから、万人に公開することは控えたい。

今回は、裁判所という「干潟」を通して、当ブログの見栄えのしない「泥水」に光が当てられ、そこに神秘的な光合成が働いた結果、このような判決が生まれた。

まだまだ少なくとも、一年か二年間くらいは、筆者と当ブログは、この「干潟」としての裁判所にお世話にならねばならないものと考えている。

数多くの戦いが控えているため気は抜けないが、とりあえずは、関係者に心から感謝を述べておきたい。

そして、最後に、自己の信念は、きちんと主張しなければ、実現もできず、他者の努力に便乗して、自分の願いを実現することは、誰にもできない相談なのだということを断っておきたい。

日本社会には、長いものには巻かれろ式に、権力者におもねり、絶えず周囲の顔色を伺って、自分の主張を控え、周囲と波風立てないことが、あたかも正しいことであって、それさえやっておけば、自己の権利を保ち、幸福に生きられるかのような考えがある。

要するに、「和の精神」である。しかし、当ブログでは、これは偽りの平和であって、聖書の御言葉に立脚するものではなく、この精神に絡め取られてしまうと、自分自身を失い、まことの命をも失うということを述べ続けて来た。

今回、筆者は自らの信念に基づき、自分の主張を公の場に持ち出したことで、激しい批判と嘲りと中傷を浴びはしたが、それとは引き換えにならないほどの貴重な教訓を得たと思っている。それはやはり、この社会の中には、正義、真実、公正を愛し、良心に生きる人々が確かに存在しており、自らの信念を曲げずに、希望を捨てずに生きていれば、そうした人々に出会うことも、かつ、協力して、善良な願いを実現に至らせることもできると分かったことである。

すなわち、今回の紛争の最も大きな成果は、ただ有利な判決を得たということではなく、それ上に、これほどまでに激しい妨害や、徹底した誹謗中傷、敵意を向けられる中でも、筆者が、全くと言って良いほど、絶望に至らず、死へ追いやられることもなく、それどころか、以前よりも一層、御言葉の真実性を知って、喜びに溢れていること、また、筆者一人の力だけでは成し遂げられなかったであろう成果を、様々な人々との協力関係の中で打ち立てることができたことである。

このような成果は、人間の力にはよらないのであって、ただ神を賛美するのみである。筆者自身はネットワークを築こうとしたことはなく、人々の心に善良な願いを起こさせて下さったのも、すべては主の采配である。

もちろん、今回生まれた協力関係はほんの一時的・束の間のものであった。だが、筆者は、誰がどこへ去ろうとも、これからもこの地にとどまるだろうと思う。そして、ここでバプテスマのヨハネがしたように、(もちろん、筆者なりの方法で!)、主の到来に地道に道を備えたいと願っている。

すなわち、この地が真に永遠に至る実りを結ぶ場所となり、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」と言えるようになるまで、どこにも去らず、ここで根気強く奮闘し続けたいと願っている。

キリストは、まことに筆者のためにも、神の知恵となって下さり、義と聖と贖いとになって下さった。この方の御名にのみ栄光を帰したい。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

2019/03/29 (Fri) 神の義なる裁き

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。

それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。

わが子よ ならず者があなたを誘惑しても
くみしてはならない。

彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
陰府のように、生きながらひと呑みにし
丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

金目の物は何ひとつ見落とさず
奪った物で家をいっぱいにしよう。
我々と運命を共にせよ。
財布もひとつにしようではないか。」

わが子よ
彼らの道を共に歩いてはならない。
その道に足を踏み入れるな。

彼らの足は悪事に向かって走り
流血をたくらんで急ぐ。

翼あるものは見ている。
網を仕掛けるのは徒労だ。

待ち伏せて流すのは自分の血。
隠れて待っても、落とすのは自分の命。

これが不当な利益を求める者の末路。
奪われるのは自分の命だ。

知恵は巷に呼ばわり
広場に声をあげる。

雑踏の街角で呼びかけ
城門の脇の通路で語りかける。

「いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。

立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。

しかし、わたしが呼びかけても拒み
手を伸べても意に介せず

わたしの勧めをことごとくなおざりにし
懲らしめを受け入れないなら

あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

恐怖が嵐のように襲い
災いがつむじ風のように起こり
苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

そのときになって
彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
捜し求めても
わたしを見いだすことはできない。

彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。

だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。

浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。

わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。 」(箴言第一章)

* * *

当ブログが始まった頃から述べて来たスローガンの一つに、「主を畏れることは知識の初め」という箴言1:7の御言葉がある。

この御言葉は、裏を返せば、「主を畏れないことは精神崩壊の始まり」となる。

あらゆる異端思想は、必ず、聖書の御言葉を歪曲するものであり、そのようにして御言葉を曲げ、これに逆らった人は、必ず、知性を狂わされ、精神の正常性を保てなくなり、やがては破滅に落ち込んで行った。

そのことが、今日、インターネットで、当ブログに敵対・挑戦して来た人々の人生において、確実に証明されつつあると言えよう。

ある人々は、かねてより、当ブログの主張を精神異常の産物であるかのように声高に非難して来たが、今日、そのような人々が、いかなる犯罪行為に手を染めているかを見れば、彼らがすでに正常な思考を狂わされてしまっていることは、誰の目にも明白である。

もしも彼らの非難している対象が、当ブログだけであったならば、そのような結果にはならなかったに違いない。だが、彼らは、当ブログを非難する際に、当ブログの背後に存在する聖書の御言葉につまずいた。それだからこそ、これらの人々はこのようにまで健全な思考を失って、犯罪行為にまで手を染めるに至ったのである。

私たちのまことの命は、御言葉なるお方であるキリストただお一人である。この方が私たちのすべてのすべてであり、生きるために必要なすべてを供給して下さる方である。

御言葉は、私たちの安全を確保するための最強の装甲であり、堅固な砦である。その外に出れば、私たちの命も、平安も、安全も、無事に保たれるものは何もない。

そこで、御言葉にあからさまに躓いた人々の結末は、とても悲惨なものとなる。彼らは、ただ信仰を失うだけでは済まされず、世人よりもはるかに悪い罪人となって、人生を破滅で終えることになる。そのような例に倣ってはいけない。

さて、当ブログでは、先週も掲示板で行われた犯罪行為について、警察署に告訴状を提出したばかりだが、本日も、ちょうど新たな分厚い告訴状を追加で警察署に送ったところである。これも週が明ければ間もなく受理されるだろう。

掲示板における犯罪的なコメントは、すでに30件以上、告訴対象に含まれている。著作権侵害だけでこれであるから、その他の罪状を含めれば、被告訴人の数は50名以上には達するものと見られる(同一犯の可能性はあるが)。

これが、当ブログの信仰の証しを、精神異常の産物であるかのように、非難し続けた人々の末路である。彼らは、自分たちの行っている行為が、犯罪であるという認識さえも失っているが、そのような事態は恐るべきことであり、彼らが当ブログに投げつけた精神異常との悪罵の言葉が、まさに彼ら自身に跳ね返ったことをよく表している。

筆者はこの犯罪ネットワークの全容を解明するために、これから約1年間ほどの月日が必要であろうと考え、そのために必要な時間と労力を提供するつもりでいる。警察署にも、犯罪行為が完全に終了するまでの間、随時、告訴状を追加で提出する旨を説明し、了承を得ている。

筆者は、ただ当ブログに対する権利侵害を明らかにするという以上に、こうした仕事は誰かが必ずせねばならないことだと考えている。
 
今回の裁判では、この犯罪ネットワークは、まだ全容が解明されていないうちに、判決を迎えることになる。だが、ちょうど裁判の終結間近に、掲示板における犯罪行為がここまで大々的に明るみに出て、誰もの目に触れたことには、非常に意義があったと言えるだろう。

おそらく暗闇の勢力は、判決言い渡し直前の「駆け込み」として権利侵害に及んだのかも知れないが、残念ながら、そうした行為によって、筆者が不利になることもなければ、筆者が信仰の証しをやめることもない。かえって、筆者が本訴訟において訴えていた事実が、ますます裏づけられるだけである。

さて、先の記事で、筆者は、今回の裁判を、非常に良心的で、事件に深い理解のある裁判官が担当してくれた旨を感謝しつつ書いた。これは主の采配である。被告らにとっても、裁判官が相当な努力を払って進めていた電話会議の様子はまだ記憶に新しく、おそらく、裁判所のすべての関係者の誰一人として、悪印象を与えなかったろうと思う。

だが、万が一、被告らがこれらの人々の労にあだで報い、これから言い渡される判決に不服を覚え、控訴などを考えるならば、当ブログでは、その際には、これまで被告らが送付して来たすべての書面をただちに公開する用意があることを改めて断っておく。

これまで当ブログで被告らの書面を公開しなかったのは、裁判官が静かに判決を考える邪魔をしたくなかったからであり、世論の風を味方につけることで、有利な判決を得ようとするような真似をしたくなかったためだ。(筆者は支持者の数によって有利な判決を得ようとは全く願っていない。)

だが、判決が言い渡されれば、被告らの書面の公開の妨げになるものは何もない。

さらに、もしも被告らが良心的な裁判官の公平な判決に不服を覚えて、一信徒を控訴審に引きずり出したいなどと考えるならば、被告らの活動は、完全に世間の理解を失って一貫の終わりとなるだろうと断っておく。

なぜなら、もしもどこかの牧師が、自分のところへ相談にやって来た一信徒を、ブログで批判されたからと言って、10年間もの間、インターネットで名指しでバッシングしただけでは飽き足らず、控訴審(場合によっては最高裁)まで引きずり出して争おうとするならば――そんな牧師の説教を、誰も聞きたいとは願わないであろうし、そんな恐ろしい牧師のもとに、身の上相談に行く信徒は、絶えていなくなることは明白だからだ。

被告らはかねてより、控訴審に争いが持ち込まれた場合には、弁護士に依頼すると予告していたが、そうなった場合には、弁護士費用は三桁に達する可能性もあり、一審と違って、冷酷無慈悲な裁判官が事件を担当して、訴えが棄却されれば、その費用はまさにドブに捨てることになるだろう。

また、控訴すれば、その間に、刑事事件の捜査も進展し、取り調べも進行するであろうし、掲示板において現在、おびただしく行われている犯罪行為への関与なども疑われたりすれば、さらに罪状も増える可能性がないとは言えない。

このように、控訴は誰にとっても何のメリットもなく、今回は、良心的な裁判官が、奇跡的なスケジュール上の都合で、最初から一年以外に判決の言い渡しを予定してくれていたことは、当事者の誰もにとって、極めて幸いな出来事なのだということを関係者は心に刻みつけるべきである。

特に、当ブログに対して行われた権利侵害が、約10年間の長きにも渡っている事実や、今回、原告側から提出された書面の尋常ならぬ膨大な分量を裁判官が考慮する手間、そして、あらゆる訴訟は一年以上長引くことが決して珍しくないなどの事情を考慮すれば、当ブログを巡る訴訟が、一年にも達しないうちに終了することは、まさに奇跡的とも言える幸運なのだということを、当事者はよくよく覚えておく必要があろう。

原告側には、事件の全容が解明されていないうちに審理を終結することに、デメリットがないわけではない。しかし、筆者は、この訴訟においては、努力の限りを尽くして、すべての論証作業を終えたと考えており、何一つ思い残すことなく、その上、神の憐れみに満ちた采配が大いに働いて、信仰を証しするチャンスも与えられたことに、とても満足している。

このように、一切の心残りなく、判決を迎えられることは、この上ない幸いであって、筆者は裁判官を信頼しており、不服を述べるつもりは一切なく、今、自分自身も判決に服する一人として、厳粛な気持ちで、深く頭を垂れるのみである。

今回の事件を通じて、神が信じる者にとって、どれほど憐れみ深い方で、真実で公正な方であるか、そして、地上においても、公正な裁きを見せて下さるか、それを多くの人々が知ることができればと筆者は願っている。

また、悪者にはしたたかな報いがあることが、明らかにされるべきだと筆者は考えている。

筆者はこれまで、悪者に懲罰を加えることや、強制的な判決によって、人の心を縛ることに大きな躊躇があった。

だが、その躊躇が、事態の一層の深刻化を招いた事実や、それから現在に至るまで、当ブログに対する尽きせぬ憎悪を持つ人々が、これほど執拗かつ激しい権利侵害を繰り返しているのを目にし、筆者は、考えを変えざるを得なくなった。すなわち、信仰を捨てた人々の中には、まるで騾馬のごとく、轡をかけられる以外の方法では、決して行動を変えられない人々が存在するのだと思わされたのである。

とはいえ、筆者は決して、自分自身の手で報復しない。ただ正当な法的手段を用いて、悪者への懲罰という仕事は、しかるべき権限をもった人々に委ねるのみである。

信仰を持った人々に対する裁きは、教会の外に持ち出されるべきではないと、筆者は今でも考えている。だが、信者に偽装しながら、御言葉の真実性を否定する人々は、この世によって裁かれても、何の不思議もない。この世のことは、この世が裁くのだから、当然である。

いずれにしても、神は今日も生きておられ、ご自分に頼る人々を決して見捨てられることはないという確固たる事実を、間もなく、多くの人々が知る結果となるだろうことを、筆者は心から確信している。

2019/03/25 (Mon) 神の義なる裁き

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 
そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

* * *


2019/03/21 (Thu) カルバリの十字架

「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
 主はこの地を圧倒される。

 地の果てまで、戦いを断ち
 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
 
力を捨てよ、知れ
 わたしは神。
 国々にあがめられ、この地であがめられる。

 万軍の主はわたしたちとともにいます。
 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(詩編46:9-12)
 
さて、判決が近づくに連れて、言い知れない喜びが心に込み上げて来る。そして、心静まって、これを厳かに待ちたいと願わずにいられない。神が私たちのためになして下さった勝利と解放のみわざが、どれほど偉大なものであるか、神がご自分を愛してその約束を忠実に待ち望む民に、どれほど不思議で驚くべき方法で応えて下さるか、生きてこの目で確かめ、その喜びを心に迎えるめに、自分自身を整えたいと思わずにいられないのだ。

上記の御言葉の11節は、口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とあり、こちらの訳は、全被造物が、神の偉大な裁きの前に、静まり、沈黙せねばならないことをよく表しているようで、筆者には耳慣れて、気に入っているフレーズである。

私たちの神は、偉大な神、力ある神、真実で、正義を実行される方、正しい者を力強い御手で苦難から救い出し、悪人には容赦のない裁きを宣告される方である。

今回の訴訟の決着には、主イエスの御言葉の正しさが、神の国の権益がかかっているわけであるから、どうして神がこの紛争をご覧にならず、これを心に留めず、見捨てて通り過ぎて行かれるようなことがあろうか。

そこで、筆者は、心から神を信頼して待ちつつも、まず筆者自身が、その大いなる正しい裁きに服する者として、深く頭を垂れて、厳粛に判決を待ちたいと思うのだ。
 
筆者は地上の裁判官の善良で情け深く親切な側面しか知らない。警察官についても同様で、筆者は彼らと常に市民として関わって来た。どんなにやきもきする瞬間があっても、彼らは筆者の目には、常に市民の権利を守る側に立っていたのであり、筆者は自分の思いのたけを彼らに告げることが許されており、彼らは筆者を威嚇したり、筆者の権利を否定し、これを取り上げて、追い払ったりするような恐ろしい人々ではなかった。

だが、権威を行使するということには、もう一つの恐ろしい側面が確かに存在する。筆者は彼らの手に、悪人どもへの裁きと報復を委ねた以上、これらの人々が、ふさわしい人々に向かって処罰を下すという恐るべき権限を行使することを願い出、かつ許したのである。

そこで、今、筆者は、改めて神の御前に心静まり、私たちの信じている神が、偉大な裁き主であって、恐るべき権威を持ち、しかるべき刑罰を下すことのできる方であることを思う。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)
 
もしかすると、今回の訴訟の最も大きな収穫の一つは、それであったかも知れない。つまり、これまで筆者は、この事件を自分自身で持ち運び、可能な限りの策を自分で講じ、また、悪事を働く者どもに対しては、その報いが、正しい裁きが確かに存在することを警告して来たのだが、今や、その裁きは他の人々の手に委ねられたのだ。

従って、筆者が受けた仕打ちのために誰よりも憤り、筆者の名誉を守るために毅然と立ち上がり、そして、筆者に害を加えた悪人どもに対して、容赦のない裁きの宣告を下す存在は、筆者自身ではないのである。

少し前の記事で、筆者は、私たちに加えられた攻撃が、キリストに加えられた攻撃とみなされるほどまでに、私たちとキリストとは一つにならなければならない、と書いた。

ただ個人が攻撃されているというだけでは、神は立ち上がって下さらない。神が本当に立ち上がって、これ以上、悪事を見逃しておくことはできないと、怒りに満ちて天から裁きの宣告を下されるためには、神の国の権益に触れる事態が起きていなければならないのである。

そこで、そうなるまでに、キリストの十字架は、私たちの肉を深く貫通していなければならない。私たちのセルフは死んで、それ以上に深い攻撃がなされ、もはや、私ではなく、キリストに対する攻撃がなされ、神の国の権益が害されていると言えるだけの根拠が必要になる。

そこで、今回、白昼堂々、掲示板で犯罪行為が行われたことには、おそらくは深い意味があるに違いないだろうと思う。こうしたことは、何年も前から行われて来たことなのだが、やっと今になって、誰もが知りうる客観的事実として明るみに出され、ようやく彼らに処罰されるだけの根拠が整った。

だが、同時にそれは、いわばこの訴訟の最後の総仕上げであって、この訴訟が、筆者のセルフ(生まれながらの古き自己)を擁護する目的のためでないことが、公然と証明されるために必要な段階でもあった。

つまり、これから読み上げられる判決は、筆者のセルフを擁護するためであってはならず、また、筆者が、自分の弁論の巧みさや、もしくは、生まれながらの頭脳や、知性、受けた教育、社会的地位などの優位性によって、勝ち取ったものであってはならず、それはただ純粋に、神の御言葉の正しさを擁護するためのものであり、また、御言葉に立脚するがゆえの正しい裁きでなくてはならないのである。

そこで、この訴訟において、栄光を受けるのが、微塵も、筆者の生まれながらの自己であってはならない。そのために、筆者の自己はさらに深く徹底的に主と共に十字架で死に渡され、いかなる肉的な要素も有利にならず、また、主の他には、誇るべきものが何もないという地点へともたらされることが必要だった。

そして、この段階まで来たからこそ、神が筆者を擁護して下さること、これから筆者に起きることが、神の御言葉の正しさを公然と証するものであって、神の誉めたたえられるべき栄光に満ちたみわざであって、断じて筆者の力によるものではないと言えるのである。
 
このように、真に神に味方していただきたいと願うならば、私たちは、もはや自分の生まれながらの自己には、何の弁明の余地もなく、それによって状況を有利に変える見込みが全くなく、ただ神に対する全身全霊の信頼と希望以外には、何一つ頼るべきものがないという地点まで、もたらされなければならない。

そうなったとき、神は初めて私たちを擁護するために、天を引き裂いて降りて来られ、大胆に力強く私たちを苦難から救い出し、私たちのために勝利を宣言して、汚れたものの一切の痕跡を、私たちから断ち切り、私たちの涙を拭い去って、滅びの縄目から完全に解放して下さるだろう。

さて、筆者はこれから判決言い渡しまでの間にも、作成せねばならない新たな書面がいくつもあるが、今回の民事訴訟においても、次の御言葉を引用して、いずれ掲示板で行われているような犯罪ネットワークの全貌が、万人の前に明らかにされる日が来るだろうと予告して来た。

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

今回、民事訴訟に関わってくれた人々も、おそらくは今起きている騒ぎを知って、筆者が訴訟において訴えていた事実を、より深く知ることになっただろうと思う。そこで、このタイミングでこうした出来事が明るみに出されたことは、決して偶然ではなかったと思うが、今後も、筆者はこの訴訟に関わってくれたすべての人々に向けて、さらに事実を明らかにし続けていきたいと考えている。

聖書においては、神は隠れたことをみておられる」(マタイ6:6)方であると記されている。

また、「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:16)とある通り、裁きの日には、神は人々の隠し事を明るみに出され、イエスを通して裁かれると予告しておられる。

だが、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」というのは、何も終わりの日のことだけを指しているわけではない。

今日、神をも畏れず、御言葉への反逆を続けている人々は、自分たちが暗闇の中で行っていることは、常に自分たちしか知らず、決して人々に知れ渡ることはないと高をくくっているのであろうが、そのような者に対する宣告は、次に記す通りである。

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。

これらの二つの事は一日のうちに、またたくまにあなたに臨む。すなわち子を失い、寡婦となる事はたといあなたが多くの魔術を行い、魔法の大いなる力をもってしてもことごとくあなたに臨む。
あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、「わたしを見る者はない」と。あなたの知恵と、あなたの知識とはあなたを惑わした。あなたは心のうちに言った、「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。
しかし、わざわいが、あなたに臨む、あなたは、それをあがなうことができない。なやみが、あなたを襲う、あなたは、それをつぐなうことができない。滅びが、にわかにあなたに臨む、あなたは、それについて何も知らない。 」(イザヤ47:7-11)
 

バビロンは、自分を神以上の存在であると思い上がって、「わたしは、とこしえに女王となる」と心に思っただけでなく、「わたしを見る者はない」とつぶやいて、自分の悪事が誰にも知られておらず、暴かれることは決してないと考えた。

だが、神は彼女の悪事を確かに見ておられ、しかも、その報いを彼女に二倍にして返すと宣言された。しかも、その日は盗人のように思いがけない形でやって来ると言われている。

さて、筆者はこれまでの記事で、暗闇の勢力からの言いがかりに対抗するための弁論を、ほぼ言い尽くして終了したと思うが、今言い足すことがあるとすれば、ごくわずかに次の通りである。

パウロはコリントの信徒への手紙で、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。」、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。」(Ⅰコリント7:7-8)と記し、あくまで主のために生涯を捧げるのが最善であって、娶ったり嫁いだりすることは、積極的には勧められないという考えを示している。

だが、すでに結婚している信者に対しては、「妻は夫と別れてはいけない」「また、夫は妻を離縁してはいけない」。」(Ⅰコリント7:10-11)と述べて、夫と妻が別れることを禁じた。だが、これにも例外がもうけられている。

「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと、妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(Ⅰコリント7:15-16)

信者であると言いながら、イエス・キリストが神の独り子であることを否定したり、あるいは、御言葉にそぐわない異端の教説を信じている者が、後者に当てはまるのは当然であろう。

このように、パウロは地上における結婚に全く積極的でなかったどころか、むしろ、それを地上的な移ろいゆく些末な事柄として奨励せず、それよりも、信仰にあって救いを保ち続けることの方が、はるかに重要であるとみなしていた。地上のどんな関係にも、信者の救いを失わせたりするほどまでの価値はないと彼は断言していたのである。

そこで、今、筆者は、地上の目に見える富や、自分を取り巻く擁護者の人数でなく、私たちのために天に用意されている恵みに満ちた栄光を思いつつ、次の御言葉を思う。

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブライ12:22-24)

むろん、筆者はまだこれらの言葉の具体的な成就を見ておらず、シオンの山も、無数の天使たちの祝宴も、長子たちの集会も、見たことはない。だが、それでも、自分が近づいている生ける神の都である天のエルサレムを思う度に、言い知れない喜びが込み上げて来る。その晴れやかな祝宴には、一体、どれほどの栄光、喜び、感謝が満ち溢れていることであろうか。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、私たちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ10:19-23)

前から幾度も書いている通り、地上の法廷は、天におけるまことの裁き主なる神の御座の絵図である。

そこで、筆者は、王妃エステルがすべての覚悟を決めて、王の前に進み出た時のように、塵と灰を被り、さらに入念にイエスの死を身に帯びて、王の王、万軍の主なる神の御前に進み出る。

前よりも随分、大きな苦難をかぶったために、やつれたかも知れないが、その分だけ、喜びも大きくなり、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)と言われる殉教者らの道に、また一歩近づいたと言えるだろう。

こうして、イエスがご自分を割いて開いて下さった「新しい生きた道」を通って、筆者は聖なる裁きの御座に進み出る。そこには、白い衣を身に着けた人々の大群衆はあっても、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)の姿はない。そこは聖なる場所であって、汚れた者はそこに立ち入れず、彼らのための余地は全くないのだ。

こうして、心は清められ、もはや良心のとがめはなく、体は清い水で洗われて、ただ神を信頼しきって、真心から、御前に進み出て、こう言うことができる。

全能者である神、主よ、
 あなたの業は偉大で、
 驚くべきもの。
 諸国の民の王よ、
 あなたの道は正しく、また、真実なもの。
 主よ、だれがあなたの名を畏れず、
 たたえずにおられましょうか。

 聖なる方は、あなただけ。
 すべての国民が、来て、
 あなたの前にひれ伏すでしょう。
 あなたの正しい裁きが、
 明らかになったからです。」(黙示15:3-4)

「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。

救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。

 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。

 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、
 世よ限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」

 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を来た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。
 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。

彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。


 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
 昼も夜もその神殿で神に仕える。
 玉座に座っておられる方が、
 この者たちの上に幕屋を張る。
 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
 太陽も、どのような暑さも、
 彼らを襲うことはない。
 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
 命の水の泉へ導き、
 神が彼らの目から涙をことごとく
 ぬぐわれるからである。」(黙示7:9-17)

我が主よ、あなたは正しい方、真実で、偉大な誉めたたえられるべき方。ご自分の約束を忠実に守り、あなたに頼る民を決して見捨てず、心砕かれた者を軽んじず、卑しめられた者を蔑まれない方です。あなたは永遠に変わらない、確かなお方であって、あなたを信じる民は、決して恥をこうむることなく、失望に終わることがありません。

ハレルヤ。主よ、来たりませ。私たちは喜びを持ってあなたを迎えます。栄光はとこしえにあなたのもの。力と威光と尊厳もあなたのもの。私たちの誉れと賛美はとこしえにあなただけに、ただあなたお一人だけに捧げられます。

我が主よ、あなたは私たちにとってどれほど偉大な喜びであり、かつ希望でしょうか。あなたはとこしえに私たちの主、そして私たちはあなたの民です。

2019/03/18 (Mon) 神の義なる裁き

「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)
 
* * *

さて、掲示板での騒ぎのために心痛めている人があるかも知れないので、一言書いておきたい。我々信じる者を巡って起きる対立は、人間的な対立ではない。その背後には、神の霊とそれに逆らう汚れた霊の対立がある。聖書には、次のように書かれている通りである。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

私たちが敵としているのは、目に見える肉なる人間ではなく、彼らを導いている悪の諸霊であり、暗闇の世界の支配者、それが率いるもろもろの支配と権威である。
  
はっきり言えば、私たちが敵としているのは、目に見える人間ではなく、彼らの吹き込む嘘偽りの教えである。

人間はたかだか100年ほどしか生きないが、おそらく霊には寿命というものがないのではないと思われる。創世記で蛇の姿をしていたサタンが、黙示録では、年老いた竜になっているところを見ると、サタンと暗闇の勢力にも、年を取るということはあるのかも知れないが、彼らには体がないので、寿命が来て死ぬことはなく、従って、世の終わりが来て、神の永遠の刑罰が彼らに下され、彼らが己が悪行の報いとして、火の池に投げ込まれるときまで、この諸霊どもは生き続けるものと見られる。

つまり、暗闇の勢力に属する悪の諸霊は、神の天地創造からこの方、ずっと変わり映えのしないメンバーで、人類を欺き、惑わし続けているのであって、彼らは自分の体を持たないために、常に宿主となる人間を探し出しては、その人間を通じて、堕落した惑わしの力を行使しようと、この人間を要塞として利用して来たのであって、悪の諸霊の吹き込む嘘を受け入れた人々が、その宿主となって来たのである。

従って、もう一度言うが、私たちが無力化して粉砕すべき対象は、目に見える人間ではなく、また、悪の諸霊それ自体でもなく、その霊どもが、人間を要塞化してそこから宣べ続けている「偽りの教え」である。

悪の諸霊は、人間の手によって根絶されることはない。これを最終的に裁かれるのは神である。従って、私たちの戦いの目的は、悪霊そのものを対処するというよりも、悪の諸霊の述べる嘘に満ちた偽りの教えを粉砕して、彼らの脅しを無効化することにあるということを、いつも覚えておかなければならない。
 
私たちが目にしている人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、もしも我々信者の証しを否定するために、立ち向かって来る人間があるとすれば、その人は自分の考えを述べているのではなく、彼らを導く悪霊の考えを述べているのであって、その究極の目的は、聖書の御言葉を否定することにあると理解しなければならない。
  
私たちは、どのような相手であれ、人に向き合うに当たり、彼らの述べている思想がどのようなものであるかを把握することによって、彼らがどのような霊に導かれて生きているのかを見分けることができる。

聖書が次のように教える通りである。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は、すべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)
  
 さて、当ブログでこれまでずっとグノーシス主義の構造を明らかにして来たのは、それが悪霊の教えの基本形だからである。基本形と言っても、これは聖書をさかさまにしたものであるから、悪霊にオリジナルの教えがあるわけではない。とはいえ、この基本形を知ってさえいれば、悪の諸霊が時代を超えて作り出すすべての思想は、すべてそのバリエーションに過ぎないことが理解できる。

たとえば、長年、当ブログに激しい攻撃を加え続けているカルト被害者救済活動の支持者の一人は、キリスト教徒を名乗っているにも関わらず、自らのブログで、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物ではなく、人間が書いたものに過ぎないとか、悪魔もなければ、暗闇の勢力も存在せず、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って現れて人類を惑わせたなどのことは事実でなく、ノアの洪水もなく、聖書の記述を文字通りに信じるなど、精神異常の産物であって馬鹿げている、という見解を公然と述べている。
 
当ブログでは、そのような見解からは、必然的に、乙女マリヤが御霊によって身ごもってイエス・キリストを生んだという聖書の記述などは、すべて「馬鹿げた作り話」という結論しか導き出せず、従って、このような人々は、うわべだけはキリスト教徒を名乗りながらも、結局、イエス・キリストが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定しているのだと示した。

このことから、彼らを導いているのは、反キリストの霊であると言える。そして、このように、彼らが、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、イエスが神の独り子なることを否定していることを理解した上で、改めて彼らが当ブログに投げつけている悪罵の言葉を見れば、その内容が、ほとんど彼らが聖書を非難している言葉とほぼそっくりであることも、すぐに分かるはずだと指摘した。

つまり、彼らは聖書が「嘘に満ちた作り話」であると確信していればこそ、当ブログの信仰の証しが「妄想の産物」であるかのようにみなして攻撃・中傷しているのであって、当ブログに向けられた非難は、それを通して、彼らが聖書の御言葉を否定し、聖書の神に敵対するための手段なのである。
 
さらに、彼らが「聖書の記述は嘘だ」と主張していることに加えて、彼らが何より広めたい第二番目の主張は、「神は唯一でない」ということである。
 
当ブログは、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。」(Ⅰテモテ2:5)の御言葉に基づき、聖書のただお一人の神以外の「神々」など存在せず、牧師などの指導者は、とどのつまり、キリストになり代わって信者の心を支配しようとしている偶像に過ぎないと主張して来た。

この主張こそ、彼らにとって最も許しがたいものなのである。なぜなら、この主張は、宗教指導者の権威を否定するのみならず、それに属する彼ら自身が、「神々」であることを否定するものだからである。
 
上記のような人々が、すでに心の内で、自分たちを「神々だ」と宣言していることは、これらの人々の一人が「神々の風景」という題名のブログを開設していたことや、当ブログにもかつて書き込みをしことのあるある集会の指導者が、今や「自分たちはエロヒム(神々)だ」と公言している様子を見てもわかる。これは決して偶然ではない。

彼らが言いたいのは、結局、「俺たちは神々だ! それを否定して、神は唯一だなどと宣言する輩は、俺たちの『神聖』を『冒涜』しているのであって、許せない」ということであり、自分たちこそ「神々である」と宣言するためにこそ、彼らは、彼らの考えに大いに水を差す当ブログを、何とかこの世から駆逐しようと、あれやこれやの言いがかりをつけては、当ブログの信仰の証しを否定しているだけなのである。

だが、恐れないでもらいたい。今、掲示板で馬鹿騒ぎを繰り広げている連中は、筆者に指一本触れることはできない(そのようなことは、彼らには許されていない)。彼らにできることは、彼らの偽りの教えを否定し、真実な信仰の証しを続けるクリスチャンに、あらん限りの罵詈雑言を投げつけることで、聖書に基づく信仰の証しを公然と続けることは、ためにならず、危険なことであるかのように多くの人たちに思わせ、信者を威嚇することだけなのである。
 
そこで、筆者は、このような卑劣な脅しには断じて屈しないようにと人々に呼びかけておく。

これまで幾度も書いて来たように、クリスチャンが信仰のために主に献げるものは、すべて前もって、神と信者との間で了承のもとに取り去られるものに限られている。従って、今起きていることは、将来起きることの予表ではあるにせよ、彼らは決して神が許した限度を超えて、クリスチャンに手をかけることは許されていないのである。
  
イエスが何を言われたか、思い出してもらいたい。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や楼に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

それはなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)


このように、クリスチャンが世から憎まれ、迫害を受けるのは、人々の前で立派に信仰を証する目的のためである、と主イエスははっきり言われた。

従って、私たちが迫害を受けたとき、せねばならないことは、人々の前で敵の嘘や詭弁に満ちた主張を、対抗弁論によって毅然かつ堂々と打ち破ることであって、彼らの脅しを恐れて退却することではない。

なぜなら、すでに述べた通り、私たちが向き合っているのは、あれやこれやの人間ではなく、悪の諸霊が吹き込む偽りの教えそのものであって、私たちがなすべきことは、すでに述べた通り、彼らの嘘を指摘し、聖書の御言葉が真実であることを公然と証明することで、大勢の人々に対して行使されている彼らの嘘による脅しと、惑わしの力を、無効化することだからである。

それが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉の意味なのである。

* * *

さて、今回は、「聖書の記述は嘘だ」という彼らの第一の言いがかりに加えて、「我々は神々である」という彼らの第二の嘘が意味するところについて、重点的に考えてみたい。

なぜなら、聖書のまことの神である唯一の神を否定して、自分たちが「神々である」と詐称することこそ、グノーシス主義思想の最大の目的だからだ。

福音書には、ぶどう園をあずかった悪い農夫たちのたとえ話が複数個所、登場する。

むろん、誰でも知っているように、この悪い農夫たちは、直接的には、ユダヤ人を指す。ユダヤ人たちは、神が自分たちのために遣わされた預言者たちを迫害して殺し、神が独り子なる救い主を遣わされたのに、これをかえって十字架につけて殺した。

そこで、救いはユダヤ人から取り上げられて、異邦人に与えられ、それだけでなく、主イエスを拒んだユダヤ人の都エルサレムは、やがてローマの進軍により滅ぼされ、神殿は石組一つも残らないほど徹底的に壊滅した。

実は、グノーシス主義の構造とは、まさにこの悪い農夫たちの策略そのものであると言える。そして、恐るべきことに、今日、目に見える教会には、まさに神と人とが主客転倒したグノーシス主義の教えが広まり、まさにこのぶどう園の有様が広がっているのである。

今回は、マタイによる福音書からそのたとえ話を引用しよう。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
 
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。


さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。

 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。


 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』

  だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイ21:33-46)

私たちは、このたとえを読んで、首をかしげるだろう。一体、なぜこの悪い農夫どもは、ぶどう園の主人の跡取り息子を殺したからと言って、農園が自分たちのものになると考えたのだろうかと。殺人によって所有権を奪うことなどできるはずもないのにと。

全くその通りで、そんな考えが荒唐無稽であることは言うまでもない。しかし、暗闇の勢力は、有史以来、殺人によって神の国(神への礼拝)を正しい人々の手から奪い取ろうとして来たのであって、カインはアベルを殺すことで、神への礼拝を奪い取れると考え、ユダヤ人たちも、キリストを殺せば、自分たちの教えだけが、正しいものとして残ると考え、自分たちが本当は神に受け入れられておらず、全くの罪人でしかないという事実を誰からも暴かれずに済むと思ったのである。

要するに、これらの人々は、本物を駆逐しさえすれば、誰にも本物と偽物との区別がつかなくなり、偽物である自分たちが、正体を暴かれることなく、公然と本物を名乗れるかのように考えたのである。

ここに、「唯一の神から、神であることを奪って、自分たちが神になりかわりたい」というグノーシス主義の究極的な願望が込められていると言える。

当ブログにおいては、グノーシス主義とは、被造物が主体となって、自らの創造主を客体に貶め、被造物が創造主の神聖を盗み出して自ら「神々」になろうとする「模倣と簒奪の思想」であると述べて来た。

要するに、グノーシス主義は、聖書の神と人とを主客転倒した「さかさまの思想」であって、神によって罪に定められ、神聖から排除された、堕落した生まれながらの人類が、自分たちを罪に定めた聖書の神に反逆し、神に復讐を遂げることを正当化するために造り出された思想なのである。そして、もちろん、その起源は、創世記において、人類を誘惑した蛇の教えにある。

グノーシス主義思想が、「擬制(フィクション)としての父の物語」だと言われるのもそのためで、この思想の持ち主は、神の国の後継者ではないのに、後継者であると詐称して、まことの神から、神であることを奪って、己を神としたいからこそ、彼らにとって「父なる神」はフィクションでなければならないのである。なぜなら、本当の父というものがあれば、彼らの嘘がすぐにバレてしまい、彼らは父の圧倒的な権威によって、家を追われることになるためである。
 
聖書において、父なる神は、「わたしは有る」(出エジプト3:14)と力強く宣言される方であって、断じてフィクションなどではない。

お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」(詩編2:7-9)

この箇所は、キリストを指したものであるが、父なる神が聖霊によって独り子なるキリストを生んだように、私たちクリスチャンも、バプテスマを通して下からの出自に死んで、御霊を通してキリストによって上から生まれた者たちである。

私たちはこうしてキリストによって、父なる神から生まれていればこそ、この父に、子として何でも願い求めることができるのであり、もしも私たちが「父が分からない」子だとするならば、私たちは信仰によって、何一つ神に願い出る資格を持たない者となる。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

と書かれてある通りである。

ここでは、神の子供であることを見分けるために、いくつかの条件が提示されている。まず、「神の霊」によって導かれていること。そして、その霊とは、人を恐怖によって奴隷とする霊ではなく、私たちが神の子であることを証する霊であること。

次に、私たちが神の子であるならば、キリストと共に「共同相続人」でもあること。これは私たちが、やがて来るべき新しい天と地で栄光に満ちた贖いに預かることを指している。

さらに、私たちがキリストと共に苦しみを受けることによって、栄光を受けることが出来ること。これはクリスチャンが地上で主の御名のゆえに負わねばならない苦難を指す。

また、非常に重要なこととして、神の霊によって導かれて生きるためには、「肉に従って生き」ず、かえって「霊によって体の仕業を絶つ」ことが必要になる。これは主と共なる十字架の死の効果が、信者の肉に対して絶えず及んでいることを意味するが、このことについては後述する。
   
ところが、被造物を主とするグノーシス主義は、「父なる神」をもの言わぬ「虚無の深淵」や「鏡」に貶め、「存在の流出」という考えにより、あたかも天地万物のすべての被造物は、父なる神の意志によらず、自動的に流出したかのように述べる。

幾度も述べた通り、ここには、父の意志というものが介在しないため、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」という父から子への明白な承認が全くない。それどころか、もの言わぬ「父」は、いるかどうかも分からない存在へと追いやられている。

このようにグノーシス主義は、「父なる神」から発言権を奪った上で、神の姿が水面に映って乱反射した映像から流出して出来たとされる被造物を「神々」として誉め讃えるのである。

このように、まことの神を骨抜きにして、その神から神聖なるリアリティを盗むがごとくに生まれた被造物を「神々」として賛美するという人類の自己満足、自己賛美のために造られた思想が、グノーシス主義である。

どこまでも人類の自己満足、自己賛美の思想であって、それを力強く承認してくれる者の存在がないからこそ、この思想には、この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。と言える「神の子とする霊」「証」の存在はなく、ただひたすら「俺たちの父祖は神だ!俺たちは神の子孫であって、神々だ!」という「自称」の世界が広がっているだけなのである。

しかし、彼らの自己満足にも、決定的に水を差す存在がある。それが、ソフィアの失敗作と生まれたヤルダバオートである。

グノーシス主義においては、地上を支配する醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)は、アイオーンたちのヒエラルキーを飛び超えて、単独で神の神聖を盗もうとして失敗したソフィアの過失の結果、生まれた悲劇の産物であるとされる。そして、これが聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されて、徹底的に悪罵と嘲笑の対象とされるのである。

私たちは、グノーシス主義とは、聖書の唯一の神を徹底的に憎悪し、悪罵・嘲笑することを目的に生まれた思想であることを覚えておく必要がある。

グノーシス主義がヤルダバオートを憎むのは、まず彼の存在そのものが、母としてのソフィアの企ての失敗(被造物の失敗)を示すものであることに加え、彼の外見が、自分たちは美しいと思って自画自賛しているアイオーンたちから見て醜く見え、さらに、何よりも、ヤルダバオートが「わたしの他に神はない」と宣言しているためである。

もちろん、ヤルダバオートのこの宣言は、「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。」(イザヤ45:5)などの聖書の神の宣言を、グノーシス主義者が皮肉り、嘲笑するために悪用したものである。
 
つまり、「神々」なるアイオーンたちから見れば、自分一人だけが神であるかのように宣言し、他の「神々」の存在を頑なに認めないヤルダバオートは、「高慢」で「無知」で「愚か」な悪神であって、許せない存在と見えるのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想は、至る所で、ヤルダバオートに聖書の唯一の神を重ねて、これを高慢で無知で愚かな神として、徹底的に嫌悪し、嘲笑の対象とするのである。

このように、グノーシス主義が最も憎んでいるのは、神は唯一であって、他に神はいないと述べている聖書の真理なのであって、この思想の持主の目的は、神が唯一であることを否定して、その代わりに、被造物を「神々」に据えることにこそある。

先に結論から述べるならば、掲示板において当ブログに盛んに悪罵の言葉を向けている人々が、当ブログの主張を「高慢」で「狭量」で「僭越」なものであるかのようにみなしているのも、同じ理由からである。

当ブログの信仰の証しを「妄想」や「精神異常の産物」として罵っている人々は、聖書の記述をも、人間に精神異常をもたらすだけの「作り話」だとみなして否定しているだけでなく、当ブログの信仰の証しを「高慢」だと罵ることにより、自分たちこそ「神々」であるとして、唯一の神を否定しているのである。

もちろん、彼らが神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いも認めていないことはすでに述べた。だとしたら、ただ一人の救い主を信じないのに、自分たちが救われていると自称している彼らは、自分たちが生まれながらにして「神々」だと詐称しているに過ぎない。
 
こうした悪罵の背景には、太古から続いて来た、聖書の神に反逆する思想があるということを、私たちは覚えておく必要がある。

グノーシス主義というのは、初代教会の時代に名付けられた呼び名に過ぎず、この思想それ自体は、もっと前から存在している。その起源は、創世記で人類をそそのかした蛇にさかのぼり、いわば、蛇の教えを体系化したものが、グノーシス主義なのであって、それが多くのバリエーションを作って、世界の宗教、哲学、政治思想などに受け継がれている。
 
結局のところ、世界の思想は、根本的に大別すると、キリスト教と非キリスト教(グノーシス主義)の二つしかないのであって、聖書の御言葉が真理であることを認めない思想は、すべてグノーシス主義のバリエーションとして分類することができるのである。

私たちは、このように、太古から、聖書の唯一神を徹底的に悪罵、憎悪し、神を誹謗中傷の対象として来た悪魔的思想というものが存在し、それが悪の諸霊によって、現代にも、惑わされた人々に連綿と受け継がれていることを理解しておく必要がある。

だから、掲示板における人々の当ブログに対する非難の根底には、グノーシス主義が存在しているのであって、当ブログがこの偽りの教えの嘘を体系的に明るみに出していればこそ、彼らの非難は苛烈を極めるのである。
 
とはいえ、私たちの神ご自身が罵られ、嘲られている時に、私たちがキリストの苦しみにあずかるのは当然であって、それによって、私たちは来るべき世において、主と共に栄光を受けることができるであろう。約束の相続人であるからこそ、キリストと共に苦しむという栄誉も与えられているのである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

話を戻せば、グノーシス主義には、もの言わぬ「虚無の深淵」とされているとはいえ、一応、形ばかりは「父なる神」が存在している。これは「神々」の誕生にほんのわずかなりとも口実を与えるために造り出された、骨抜きにされた沈黙する神であって、すでにフィクションのような存在である。

だが、東洋思想においては、このようにフィクションによって抜け殻と化した「父なる神」すらもなく、万物の生命の源は、公然と「母なる神」(神秘なる混沌)にあるとして、女性原理が神聖なものであるかのように誉め讃えられる。

この「母なる神」(老子によれば玄牝)は、言い換えれば、人間の肉の情欲そのもののである。詳しくは省略するが、東洋思想では、天地万物は、「神秘なる母胎」なるものから、情欲の交わりによって誕生したのだとされ、東洋思想の根本には、堕落した肉の情欲をあたかも神聖なものであるかのように誉め讃える思想がある。

幾度も述べて来た通り、このような思想は、ペンテコステ運動の中にも、「母なる聖霊」論などという荒唐無稽な形を取って入り込み、キリスト教の「父なる神」を骨抜きにし、堕落させようとして侵入しているのは言うまでもない。

このようなものは、要するに、唯一の神を否定して、「父なる神」の戒めなど完全に無視して、己の肉の欲望のままに、あらゆるものと奔放に交わり、無責任に子を生み出し続ける、忌むべき「母」バビロンのことである。

女は紫と赤の衣を来て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」(黙示17:4-6)

(ちなみに、今日、このバビロンが堕落した肉欲の象徴であり、偽りの教えの総体であることを否定する信者はほとんどいないであろう。そして、バビロンがどれほど豪奢に着飾っているかの描写が、次のパウロの言葉といかに対極にあるかもよく分かるはずだ。

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、髪を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(Ⅰテモテ2:9-11)

ところが、今日、ある人々は当ブログを非難して、このくだりの「婦人」とは、象徴を指すものではなく、文字通りの意味だと主張している。そして、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」(Ⅰテモテ2:12)という続くパウロの言葉を文字通りに解釈し、これを実行すべきだと述べて、彼らの教会の講壇に立っているわけでもない当ブログの記事が、ただ女性執筆者によるものだというだけの理由で、許せないなどと支離滅裂な非難を展開している。

だが、バビロンとの対比によっても、この「婦人」が象徴であることは明らかであり、そうでないと主張したい人は、まずは自分たちの教会の講壇から女性説教者をすべて追放すれば良かろう。そして、自分たちの娘にも、いかなる結婚式やその他の宴会でも、決して高価な着物を着させず、生まれてから一度も髪を編まず、金や真珠を一切、身に着けるのをやめさせると良いのである。そして、教会に足を踏み入れてから立ち去るまで、彼女たちには一言も口を利かないように教えるがよい。それが以上の御言葉を文字通りに受け取ることの意味なのだから、この人々は、まずは自分たちが信じるところを忠実に実践すべきなのである。)

このように、グノーシス主義における「神々(被造物)」とは、本質的にバビロンと同じく、堕落した被造物のうちに働く生まれながらの肉の欲望を「神聖なる女性原理」として誉め讃えたものであり、彼女の行いが悪いからこそ、グノーシス主義者は、「父なる神」には沈黙しておいてもらわなくてはならないのである。

彼らは「父」の戒めに従っていないからこそ、彼らにとって「父」はフィクションである方が都合が良く、むろん、バビロンの姦淫によって生まれた「子ら」にとっても、父が誰かなどといった問題は、タブーであって、放っておいてもらわなくてはならない問題なのである。

このような思想の特徴は、肉に対する霊的死がなく、心に割礼を受けていないという一言に尽きる。

だが、先の御言葉でも、正統な神の国の後継者には、「霊によって体の働きを殺す」という「一つの義務」が課せられている。

「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

これが、罪に対する赦しとは別の、キリストの十字架のもう一つの側面である。私たちの旧創造に属する堕落した肉を霊的に死に渡すことのできる絶大な十字架の効力である。

だが、グノーシス主義においては、罪もなければ、十字架もないため、この思想は、人間の肉欲を聖なるものであるかのように褒めたたえるだけで、それに対するいかなる処方箋も提示しない。

グノーシス主義では、天地万物の創造は、真の至高者が、水面に自分の姿を映し出すことによって、そこから「神々」の存在が、映像のごとく「流出」して生まれたとされる。

だが、この筋書きも、人間の自己愛の産物であって、ちょうどギリシア神話に登場するナルシス(ナルキッソス)が、水面に映った自分の映像に恋い焦がれて死んだのと原則は同じである。

ナルシスの悲劇は、「本体ではなく、映像こそが真のリアリティだ!」と宣言して、主客転倒して、本体からオリジナリティを強奪しようとするグノーシス主義者の願望をよく表していると言えよう(だからこそ、しばしばグノーシス主義の研究者らはこの物語に言及する)。

だが、ここで言う「映像」とは、堕落した被造物全体を指すだけでなく、人の肉の欲望そのもののことなのである。

ナルシスは、水面という鏡に自分を吸い取られることによって、本体は虚無であって、映像こそがまことのリアリティだという転倒したものの見方を提示し、その恐るべき思想の至り着く当然の結末として、自分を失って死んだのであるが、ここには、神は虚無であって、被造物こそがまことのリアリティだという転倒した思想が表れているだけでなく、被造物も、肉に対する霊的死など帯びる必要がなく、思う存分、肉欲に翻弄されて生きた結果、肉欲を「主」として、その持ち主たる人間(自分)を「従」として、肉欲に自分を吸い取られることにより、いずれ神にまで至れるとする完全に転倒したグノーシス主義の考え方がよく表れている(むろん、そんなことが起きるはずもなく、彼らを待ち構えている結論は、死だけである)。

ギリシア神話では、あくまで物語の主役は、まだナルシスにあったが、グノーシス主義は、そこからより進んで、主役(至高者)を完全に沈黙に追い込んだ上、ナルシスの自己愛を、水面に乱反射させるようにして「神々」という形で結実させる。そして、この「神々」の動向の方に巧妙に物語の中心を移していく。そして、東洋思想になると、形骸化して沈黙する「父」もいなくなり、被造物(「母」)だけが勝ち誇っている。

無限とも言えるほどにたくさんの鏡、数えきれない映像、それらがせめぎ合って、みな本体を押しのけては、自分たちこそ本体だと、真のリアリティだと叫ぶ――これは、東洋における八百万の神にも通じる考えであって、グノーシス主義のアイオーンたちの形成する世界と同じものであり、現在、掲示板で起きている現象そのものであると言える(彼らは無数の鏡を作り、そこに当ブログについても悪意ある歪んだ映像を作り出し、それがリアリティであるかのように叫んでいる)。

これらの「神々」は、すべて時期尚早に結ばれた肉の実、「ハガルーイシマエルーバビロン」の系統に属する、心の割礼を受けない堕落した人類の欲望を表している。

自己愛というのは、自己保存願望と同じである。そこで、「神々」などと言っても、結局、グノーシス主義における「神々」の正体は、煩悩とでも呼んだ方がふさわしい、数えきれない欲望を表しているだけなのである。それらの欲望の中で最たるものが、人類が自力で子孫を残し、自己保存することによって、神の永遠にまで至り着きたいという願望である。

その欲望が、老子の言う玄牝であり、東洋思想の神秘なる混沌であり、グノーシス主義における最初の被造物にして万物の母なるバルベーローであり、これらはすべて人類の肉の欲望の総体である「ハガル」を象徴し、最終的には「大淫婦バビロン」に至り着くものである。

旧約聖書におけるサラは、アブラハムの妻であったにも関わらず、自分に子が生まれないことに悩み、このままアブラハムの家の子孫が絶えては困るという考えで、肉なる力によって、アブラハムの血統を保存しようと、自分の代わりに奴隷のハガルをアブラハムに差し出した。

この時点では、サラは神の御言葉の成就を待てず、「霊によって体の働きを殺す」どころか、肉の思いによって、早々に実を結ばせようと、奴隷を主人に差し出して、苦しみを招いてしまう。

だが、ここで言う奴隷のハガルとは、罪と死の奴隷となって、絶えず死の恐怖に追い立てられている人類の肉欲そのものであって、何とかして死に至る前に、自力で死に打ち勝って、永遠に至り着きたいという、人類の焦り、恐怖を指している。

つまり、「ハガル」とは、罪と死の法則によって支配され、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」の象徴であると言えよう。

人類の肉の欲望は、何であれ、すべて究極的には、死の恐怖に追い立てられて生まれる自己保存願望である。

そこで、グノーシス主義とは、心に割礼を受けていない、人を奴隷として恐怖によって支配する霊、堕落した肉欲の実を結ばせようと願う「ハガル」という母胎を、あたかも神聖なものであるかのように誉め讃え、ハガルの生み出す肉の実によって、神に喜ばれる信仰によって生まれる聖なる約束の子を駆逐し、消失させようという思想であると言える。

そこで、ぶどう園の悪い農夫たちは、みな「ハガル」の子孫である、と言えよう。彼らは、アブラハムの正式な妻であるサラから生まれた約束の子を殺して、奴隷のハガルから時期尚早に生まれた子を跡継ぎに据えれば、神の国を強奪できるだろうと考えた。

彼らの言いたいのは、こういうことである、「本物を殺して、コピーだけを残せ。そうすれば、俺達がコピーであって模造品に過ぎないとは、誰にも分からなくなり、俺たちの犯罪行為はかき消される。」

「本物の信仰の証しを地上から消し去り、神の子供たちをインターネットから駆逐しろ。そうすれば、何が本物で、何が偽物かなどと、誰にも分からなくなる。本物の神の子供たちを教会から追い出せば、神の国の後継者を名乗れるのは、俺たちだけだ。俺たちは神々であって、神聖で侵すべからざる存在だ。俺たちを冒涜する者は、誰でも同じ苦しみに遭わせてやれ。」

それが、この悪い農夫たちの悪質な企みであり、いわば、悪魔の教えの根幹であると言えよう。そして、このような盗人・人殺しによって支配されるぶどう園の行く末がどうなるのかは、聖書に書かれている通りである。

今日、無数の「ハガルの子孫たち」が現れて、自分たちは神の国の後継者だと詐称しては、聖書のまことの神に反逆し、キリストに連なる神の子供たちを教会から追い出し、彼らに憎しみを燃やして迫害を繰り返している。そして、すでに地上の目に見える教会は、これらの詐称者によって占拠されてしまった。だからこそ、このような場所からはエクソダスせねばならないし、彼らの偽りの教えに加担してはならないと言うのである。

* * *

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)



「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

最後に、冒頭に挙げた御言葉は、私たちが神に従う上で、肉による下からの生まれに死ぬのみならず、肉による絆、魂の愛情にも死なねばならない時があることをよく示している。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。<略>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とある通り、時には、親族や、兄弟や、友人からさえも、迫害されて、厳しい試練を通過せねばならない場合がありうることが予告されている。

だが、それゆえに、イエスは
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)と言われ、迫害に耐え抜いたことに対して、大きな栄光があることを約束されたのである。

だが、ここには、妻と夫との関係だけは含まれていない。それは、妻と夫の関係は、血縁によるものではなく、キリストと教会を予表するものであるため、信仰による迫害によって捨てなければならないものの中に含まれていないのである。

しかしながら、冒頭に挙げた通り、「
天の国のために結婚しない者もいる。」と、主イエスははっきりと述べ、それを受け入れられる心のある人は、そうした心構えで生きるようにと勧められた。パウロも、これに準ずる考えを述べている。

ところで、夫と妻との関係を論じるに当たり、ある人々は、
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ19:9)というイエスの御言葉を取り上げて、聖書は絶対的に離婚を禁じていると主張しているが、「不法な結婚でもないのに」とある通り、イエスはそこに例外をもうけられたことに注意が必要であろう。

このことについて、終わりのない愚かしい議論を繰り返している人間どもがいるため、そういう彼らには、サドカイ派の人たちの質問を裏返しにして、お尋ねしたい。

たとえば、カルト被害者救済活動の指導者は、カルト宗教で、指導者が信者に「神の啓示」として命じた結婚は、解消しても構わないと触れ回っているが、それはイエスの言われた
「不法な結婚」に相当するのか、しないのか。

さらに、ある人が結婚して、二人か三人の子供をもうけた後に、自ら家族を捨てて、しばらく経ってから、誰か別の、誰とも結婚したことのない若い人をつかまえて、その人の無知と弱みにつけこんで、結婚したと仮定しよう。しばらく経ってから、その人は、その若い伴侶を捨てて、さらに別の若い人を見つけて結婚したとしよう。そうして、七度、その人は、家庭を築き、その度毎に、子をもうけるか、もしくはもうけないで、伴侶を捨てて、ついには独身になった。そのような場合に、その人が地上で築いた七つの家庭のうち、その人が離婚を禁じられた伴侶とは、誰(何人)を指すのか。

この質問にきちんと答えられる人が、他者に向かって石を投げつければ良いのである。だが、果たして、これに答えられる人間が、目に見える教会や指導者にしがみつき、それを己が神聖の根拠であるかのように主張している信者の中にいるのかと疑問に思う。

要するに、愚かでむなしい議論にははまらないことである。

エクレシアのまことの伴侶はキリストであるから、信者は地上の移ろい行くものに心を留めないで、真っすぐに神の国を見上げて生きるのが、最も賢明な策であることは、誰にも否定できない事実であろう。

「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい

兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を招集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。労苦している農夫こそ、最初の収穫の分け前にあずかるべきです。わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。

しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:1-13)

この御言葉は、まさに詩のように響く。

徴兵された者がどうして世俗の仕事を営めようか。競技に参加する者がどうして訓練をおざなりにして出稼ぎに出られようか。農夫がどうして自分の畑の収穫をすべて地主に与えてしまってよかろうか。

もしも私たちが本当に神によってこの世から召されたならば、神は必ず、私たちが自分で自分の命を維持するために、馬車馬のように労苦して暮らさなければならないような生き方から解放して下さり、心に平安を保つ秘訣を教えて下さるはずだ。

そこで、パウロが述べている言葉は、まさに筆者自身に対する個人的な語りかけのように響く。

たとえ私たちが不誠実であっても、主は誠実な方であって、ご自分の約束を否むことがおできにならない。だから、私たちが神を信じて待ち望むことをやめないならば、必ず、神は私たちを失望に終わらせず、速やかに助けの手を差し伸べて下さる。

だから、勇気を出しなさい、神の子供たちよ! 主にあって、強くなりなさい! イエス・キリストのために召された兵士として、主人を喜ばせるために、あらゆる苦難を立派に耐え忍び、栄光に満ちた褒賞にあずかる覚悟を固めなさい! あなたを召して下さった方が、あなたたがそのすべての訓練に耐えられるだけの必要を満たして下さいます…。

* * *

裁判所は筆者にとって特別な場所で、目に見える建物に近づく度に、見えない大地の奥底から、こんこんと命の泉が湧き出て、周囲を潤しているように思われる。

そこは、まさに「干潟」だ。人が目を背け、誰もが耳を傾けたくない、泥水のような紛糾した訴えが、毎日のように届けられる場所。虐げられ、踏みにじられ、かえりみられなかった人々の叫びが、あぶくのように、うず高く積み重なり、処理されるのを待って溜まっている場所。

いや、泥水は溜まっているように見えるが、それだけではない。ゆっくりだが、流れているのだ。毎日、裁判官らが紛糾した事件簿を人知れぬ法廷で紐解き、書記官らが新たな訴えを受理し、原告被告らが目を合わせずに廊下や待合室ですれちがう・・・。

誰も事件番号さえ知らない山のような訴えが、毎日のように人知れず処理され、当事者が誰も来ない法廷で、判決文が読み上げられる・・・。

この見栄えのしない、誰もができるだけ近づきたくないと思っている「干潟」を見る度に、筆者は、そこに注がれる神の正義の眼差しを思わずにいられない。

この世には不正な裁判官もいれば、不正な裁判もある。だが、そんなことは筆者にはどうでもよいし、関係もないことだ。この世に一つでもいいから、虐げられた者が、その訴えを届けられ、正義の実現を待ち望むための場所が残っていること自体、どれほど大きな恵みであるか分からないのだ。

どういうわけか、裁判所へ近づく度に、筆者はそこが、まるで生きた法の泉から、目に見えない命の流れが汲み出されている場所であるように思わずにいられない。

だが、この世の法体系よりも、さらに深いところに、我々の信じる神の御言葉の泉がある。そこにあるものは、この世のどんな法よりももっと完全な掟である。

だから、まことの命の流れを汲み出したければ、深く、深く、井戸を掘りなさい、神の御言葉の泉の前に、自分の心を注ぎだしなさい。

そこから汲み上げることができれば、それはこの世の法の基準も、御言葉の求める基準もすべて満たし、見えない神の御心に触れる訴えを作り上げることができる。あなたの心の叫びを、天におられる神のみもとへ届けることができる。

そのために、筆者は深い深い井戸を掘り、本当の命の泉の水脈に到達し、そこから水を汲み上げようとしている。それは、最初は汲み出せても、わずかな流れに過ぎないかも知れないが、次第に水量が増し、いつかは洪水のように溢れ出すはずだ・・・。

それは筆者の周辺だけでなく、もっともっと広域を潤すようになり、県内全域を覆うようになる。目には見えずとも、きっといつかは、この日本のすべての地域のうちで、唯一、神の名のついたこの都道府県から、果てしない広域に及ぶことであろう・・・。

この「干潟」は、筆者にとって不思議なエネルギー資源の採掘場だ。

泥水のようにしか見えない数々の訴えに、命の水が流れ込み、そこに上から光が当たって、神秘的な光合成が起きる。そして、汚水のようにしか見えなかったものが、神の光に当てられて、人間を生かし、潤す糧となって行く・・・。

筆者はその変化をまだ一度もこの目で見たことがないが、やがて来るべき変化を思うだけで、深い感動を覚えずにいられない。こんなにも深いスケールの戦いは、これまで見たこともなかったが、それだけに、その解決のためには、他のどんな恵みとも代えがたい、特別な答えが与えられると信じている。
 
筆者は初めて真の戦いと呼べるものの始まりに立っている。この戦いを通して、筆者は、この地に正義が実現されるためならば、筆者自身、どれほどの代価を払い、どれほど長い間、待ち望んでも、惜しくないと思った。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイ4:6)と主イエスが言われた通り、この地に正義がなされ、悲しむ者が慰めを得、義に飢え渇く者が心飽かされ、心の清い者が神を見、「正義と平和は口づけし」(詩編85:11)、正義が天から注がれるのを見るためならば、筆者は幾度、自分を完全に投げ出しても惜しくない。

それほど、神の義というものを、生きてこの目で見たいと熱望したのだ。

だから、筆者は、自分が待ち望んでいる判決を、まだ見てもいないうちから、喜びを持って迎えている。むろん、筆者の訴えはこれでは終わらず、まだすべては始まりに過ぎないのだが、筆者は己が人生で初めて受けとる判決を、神聖なもののように厳かに、そして、喜びを持ってすでに心に迎えている。

神の御心にかなう決定に、心厳かに、深い感動をもって、思いを馳せる。そして、その感動はきっと、生きている間中、なくならず、心に思い返す度に、主の恵みに満ちた御業を思い起こしては、感謝するものとなるのではないかという気がする。

山上の垂訓をもう一度引用してみよう。

心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3-12)

この目に見えない神の国の秩序がこの地に信仰によって引き下ろされることを、どれほど筆者は強く心に待ち望んでいることか。むろん、これは地上の法廷における判決のことだけではない。やがて来るべき神の完全な宣言に、どれほどまでに強く思いを馳せ、それを今から待ち焦がれていることだろう。

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)
  
我が神よ、悪人どもが、私について何を言っているか、あなたはご存じですね。
彼らは、私の神は、もの言わぬ、私を助け得ない神であって、
私はむなしいものにより頼み、いたずらに期待をかけて、
強がっているだけだと言って、私を嘲笑っているのです。

でも、私は知っています。
あなたは決して私を失望させる方ではないと。

主よ、あなたがどんな方であるか、私は生きてこれまでずっと確かめて来ました。
あなたは偉大な神であって、恐るべき方であると知っています。

あなたが私に下された自由の決定を覆すことのできる人は誰もいません。
あなたは正義と真実と平和を愛される方。
寄る辺なく、打ち捨てられた者の悲しみを慰め
虐げられた者を決して蔑まれることのない方。

主よ、あなたご自身が正義であり、真実であり、平和であり、
すべての問題に対する解決なのです。

ですから、この地のすべての生きとし生ける者の前で、
あなたの正義を現して下さい。

私は喜びを持ってあなたを迎えます。
見えないものを、見ているもののように、すべての苦しみを忍び通して、
あなたの解放のみわざを慕い求め、信じて待ち望むのです。

主よ、あなたはご自分を頼みとするすべての人々を
決して見捨てず、失望に終わらせない方です。
私はそれを固く心に信じており、かつ知っています。

来たりませ、主よ、
私たちはどんなにかあなたの義を慕い求め、
あなたの下さる平和を待ち望んでいることでしょう。

義に飢え渇いた民は、あなたの正しい裁きを知って、
ご自分の民のために、十字架で命を捨てて下さったあなたのはかり知れない愛に、
深く頭を垂れて、御名を讃え、とこしえに賛美し、感謝するでしょう。


* * *


「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。」
(エフェソ5:25-28)

パウロの言葉には多くの比喩がある。いや、比喩というよりも、二重の意味が込められている。先に挙げた「婦人」(Ⅱテモテ2:8-15)に関する箇所もそうであるし、以上のくだりも、夫婦に向けられたものである以上に、キリストと教会との関係を指す。

そのことは、パウロが次のように述べている通りである。

「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31)

自分が独身でありながら、パウロがこのように語っていたとは、驚くべきことのようだが、地上の夫婦は単なる絵図に過ぎず、真のリアリティは、キリストと教会にあるのだから、それを知っていたパウロが、このように述べたのは、不思議ではない。

キリストと教会との関係は、自己満足のためでない、肉の堕落が一切入り込む余地のない、清い愛の結びつきである。

それは神が先に独り子なるキリストを地上に送って、私たちの贖いのために十字架につけ、命を捨てて下さったその愛に、私たちの側からも、命をかけて応答する愛の結びつきである。

このような愛の中で、信じる者がキリストに固く結ばれ、離れることなく一つにされ、キリストの愛の中を生きることが、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」であり、それこそが、まさに私たちのテーマである、小羊の婚礼のために整えられた花嫁エクレシアの姿を指すのだ。

キリストはすでにみわざを成就されて、神の右に御座に座しておられる。次はエクレシアが信仰によって地上でキリストに応答してわざをなし、それによって、天に収穫をもたらし、天的な喜びの中で、主と共に生き、そして栄光の内に入れられる秘訣を学ぶべき時なのだ。

「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない」というのは、どういうことだろうか。

それは、罪の痕跡が一切なく、堕落して、汚れた、古き肉の痕跡の一切がない、全く清められ、聖なるものとされて、神の目に完成した花嫁のことである。

今、すべての被造物が、虚無に服し、産みの苦しみの中にあるのは、このように神の目に全く聖なるものとして完全に贖われるときを待っているからである。

黙示録には、新しい天と地が到来し、花婿なるキリストが教会を花嫁として迎えられ、その時には、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)とある。

だが、これはただ単に、私たちが空を見上げて待ってさえいれば、いつか主が天から降りて来て、私たちのためにすべての不幸を拭い去って下さる、というような受け身の意味ではない。

これは、私たちの側からの、贖いの成就に向けた信仰の前進によって勝ち取られるものなのだ。教会が、信者が、完全に贖われて、罪の痕跡がなくなり、すべてが新創造とされ、キリストの性質で満ちあふれるためには、私たち自身が、戦い抜いて、試練をくぐり抜け、大胆に前進して行かねばならないのである。

その程度に伴い、神は教会をご自分と同じ性質にあずかるものへと変えて下さるであろう。そのようにしてすべてが新しくされればこそ、サタンのわざが打ち壊され、この世を覆っている悲惨、不幸、災い、嘆きが取り除かれ、年老いた蛇が、天から投げ落とされ、私たちの自由の喜びが満ち溢れるのだ。

その新しい秩序は、すでに信じる者一人一人の中に来ている。だが、その贖いがどれくらい前進して完成に近づくかは、あくまで私たちの信仰にかかっている。

「でも、ヴィオロンさん、主は私たちのためにすでにすべてをなして下さったのではないですか?」と問われるだろう。

もちろん、そうだ。すべては主が私たちのためになして下さったことであって、私たちの側の努力によるものではない。だが、主がなして下さったことを、私たちは自分の手を伸ばし、自分の意志と行動によって、受け取る必要がある。

神の恵みを、御言葉の確かさを、自分の人生でどれだけ生きて実際として経験できるのかは、あくまで私たちの信仰による応答にかかっているのだ。

もちろん、地上にいる間には、完全な聖化には誰も到達しないが、それでも、神が私たちのために用意して下さっている完全に、近づくことはできる。主が求めておられる、古きものの痕跡が何も残らない、純潔の花嫁なるエクレシアの姿に、神の喜ばれるキリストのご性質を備えた新しい人に、限りなく、近づこうとすることはできるのだ・・・。

だが、そのために必要なのは、信者に対するより深い十字架の死の働きである。信者の存在が、真にサタンに取って恐るべき脅威となるのは、信者の堕落した肉に、完全に主と共なる十字架の霊的死の効果が働き、サタンの足場となるものが、その人の内に完全になくなる時である。

肉はサタンの作業場である。従って、それが生きている限り、私たちには、あの忌むべき堕落の痕跡がつきまとい、罪と死の法則が働き、私たちはこれに振り回されて苦しまねばならない。信者の肉に対して十字架の死の働きが成就していないうちは、サタンはいくらでも信者を利用することができる。

だが、主の十字架の死が、私たちの自己、堕落した肉に真に完全に及ぶ時、私たちはその時こそ、大胆にキリストと一つになって、暗闇の勢力に対して、御言葉の衝撃力を存分に行使し、そして神のみわざを体現して生きることができるようになるだろう。

このように、信者がどれくらいキリストと一つになっているかが、信者が、神の御思いをどれくらい現して生き、かつ、キリストのために、その信者の受けた苦難が、神の目の前に、大いなる信仰の従順として尊ばれるかの基準なのである。

私たちが信仰によって、キリストと完全に一つであると、はっきりと確信を持って言える時に、サタンが我々に対してなした攻撃は、我々個人に対しての攻撃でなく、キリストに対する攻撃であると、神はご覧になる。それに対しては、私たちの側から防衛する前に、神御自身が応答される。

そこで、 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と大胆に言える程度にまで、つまり、生きるにも死ぬにも、すべての瞬間が、完全に主のためであると、はっきりと言えるほどまでに、私たちは、霊において彼と一つにならなければならないのである。

そんなことができるのだろうか。いや、信仰によって、そのことを、切に知りたいと願うならば、主は必ず私たちに知らせて下さるであろう。

もう一度、以下の御言葉を繰り返しておく。

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)


 「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。
(Ⅱテモテ2:11-13)

2019/03/15 (Fri) 神の義なる裁き

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。


   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。
 
 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。
 
 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。
 
 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

先の記事でウェーバーを取り上げたとき、彼はその著書で、社会は、宗教すなわちキリスト教の最先端の信仰の運動が原動力となって動かされていることを指摘したのだと書いた。

ウェーバーは、マルクスのように下部構造(見えるもの)が上部構造(見えないもの)を規定すると考えることなく、むしろ、その逆に、見えないものこそ、見えるものを規定するのであって、その決定的要素となるものが、キリスト教であるとみなしたのである。

その考えはおおむね聖書の原則に合致している。現代人のほとんどは、宗教と社会の動きや、国際情勢は別物であって、キリスト教の最先端の信仰回復運動が社会を動かしているなどとは考えていないであろう。
 
しかし、聖書の原則は、すべてのものは、神の御言葉によって創造され、また御子によって支えられているのであり、目に見えるものは、見えないものから出来たのであって、見えるものが見えるものを生んだのではないというものだ。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)

すべての聖書に基づかない宗教や、あらゆる詐欺師・錬金術師も、毎日、何とかして少しでも労苦せず、無から有を生み出し、濡れ手に粟式に富が手に入らないかと考えを巡らせていることであろうが、私たちを真に命の豊かさに至らせる秘訣は、まことの命である聖書の正しい御言葉にしかない。

そこで、もしも私たちが、真に今、世界で起きていることは何なのか知りたいと願い、また真に無から有を生み出すような豊かで生産的な人生を送りたいと願うならば、まず第一に、聖書の神の御言葉をよく研究してこれを理解し、神の御心(関心事)がどこにあるのかをとらえることが必要となる。

そうして、私たちの関心が、神御自身の関心と重なるならば、次の御言葉が私たちの人生の上に成就して、どれほど多くの錬金術師・魔法使いが束になっても、彼らには絶対に生み出すことのできない本当の命の豊かさに、私たちはあずかって生きることができるだろう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
神の命の豊かさに支えられて、平安のうちに生きる秘訣は、神の国の秩序を飽くことなく追い求めて生きることにのみある。

先の記事で、終末へ向けての神の関心事は、小羊の婚礼にこそあると書いた。それはエクレシアが完成に向かい、人がキリストのための花嫁なる教会として整えられることである。

だが、イエスのたとえでは、婚礼に招かれたほとんどの人々は、自分の生活の心配、自分の命の心配であまりにも心がいっぱいだったので、神の関心事にはまるで注意を払わず、神に招かれていたのに、祝宴に出かけず、その喜びと栄光に共にあずかる機会を逸し、悪い場合には、神の使いに反逆して滅ぼされ、あるいは、準備が出来ていないのに婚礼に出席しようとして、外の暗闇に追い出されてしまった。

このように、神の関心事に全く心が及ばない人々が、御心の外を、計画の外を歩いていて、祝福にあずかるわけもない。だから、真に祝福を受けようと思うなら、信者は神の関心事の中に入り込まなければならない。

先の記事で、イエスが幼子だったとき、イエスの両親が彼を長子として主に献げる儀式を行うため、エルサレムの神殿に入ったとき、シメオンとアンナが出迎えたことを書いた。シメオンはもちろんのこと、アンナも、シメオンがイエスを腕に抱いて神を誉め讃えているのを見て、幼子がメシアであることをすぐに悟って、人々にその到来を告げに行った。

彼女について書かれたくだりは、次の通りである。

「また、アシェル続のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ2:36-38)

筆者は「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」というフレーズがとても好きである。この箇所は、ダビデの詩編の次の箇所を思い出させる。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り
 主を仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

  災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:4-6)

ダビデが願ったように、私たちも命のある限り、主の家に住むこと、すなわち、夜も昼も、神に仕え、神を賛美し、その御心を尋ね求めて生きことができる。

そのようにして、主の御心の中に入り込み、主の関心事が何であるのかを第一に追い求めて生きるならば、シメオンとアンナが幼子イエスを見た瞬間に、それがメシアであることが分かったように、私たちも、神のなさることの一つ一つの意味を、誰から説明を受けずとも、分かるようになるに違いない。
 
あらゆる宗教には、大抵、その宗教の聖典の研究だけに従事して生きる人々がいる。その人々は、一切、世俗の仕事をしないで、神の宮に仕えることだけを己が職業としている。
  
もしも私たちが真に願うならば、私たちも、自分を完全に主に捧げて、神の御心のためだけに自分を注ぎだして生きる人となることができるであろう。神はそのようにして御自分を待ち望む民を、これまでにも用意して来られたのであるが、これからも、そうした心意気の信者を歓迎して下さることを筆者は信じて疑わない。

これが、筆者がプロテスタントと資本主義を離れると言っていることの意味内容である。つまり、御言葉の奉仕者として、神に直接、養われて生きることは、いつの時代にも可能なのであって、その願いを持つ者は、ぜひそうすべきである。プロテスタントを離れる必要性については後述する。

* *  *

さて、聖書は、万物は、御子によって、御子のために造られたとしている。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:15-20)

神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座におつきになりました。」(ヘブライ1:3)

このように、御子は万物が創造される前からおられ、さらに、万物は御子によって、御子のために創造されたのであり、今でも、御子によって支えられているのだと分かる。

筆者は訴訟を進めるに当たり、法体系を調べた。その際に行った作業は、たとえるならば、まるでこの世という巨大な高層ビルの裏側に入り込み、人々が行き交う美しいエントランスや清潔なエレベーターではなく、誰も目にしない、立ち入ることもできないような、暗く、埃っぽい地下に降りて、むきだしのコンクリートの壁や、頑丈な鉄骨にじかに手を触れ、ビル全体の基礎構造を確かめているような具合であった。

人々は美しく整えられたビルの表面しか知らないので、その裏側や、ビルを支えている構造がどうなっているのかを知らない。法体系は、この世を支えている見えない秩序であって、いわば、ビルの基礎構造のようなものである。

むろん、この世では必ずしも定められた秩序の通りにすべてが動いているわけではないが、それでも、法は生きていて、この世に起きる諸事情を規定し、修正し、違反を罰することもできる。

だから、筆者は自らの訴えを書くに当たり、まずはその構造を調べに行き、その中に入り込んで、この基礎構造を支えとして自分の主張を作り上げた。そうすると、それはもはや単なる一個人の意見や主張のレベルではなくなり、しっかりとした基礎の裏づけに支えられる頑丈なものとなるのである。
  
この世の法体系は、世界を構成している見えない霊的秩序の絵図のようなものである。聖書は、イエスは神の御言葉そのものであって、万物はこの方によって生まれ、この方によって支えられていると言う。御言葉は、この世を規定している見えない秩序であるだけでなく、やがて来るべき秩序でもある。

そこで、私たちがこの世を生きるに当たり、自分の主張や生き様を、真に確かなものとしたいと願うならば、永遠にまで変わることのない、御言葉の堅固な基礎構造によりかかり、その裏づけを得て、これと一体化して、自分の歩みを進めるのが一番安全なのである。
 
私たち自身は、弱い被造物に過ぎないかも知れないが、御言葉と一つになることによって、それが私たちの強さとなり、力となり、私たちの主張が、神の御前に正しいと認められるために必要なすべての根拠を提供してくれる。神の御言葉こそ、全世界を成り立たせている基礎構造であり、私たちの個々の人生の中でも、基礎構造をなすべきものである。
 
しかし、万物は御子によって創造されたにも関わらず、アダムの堕落と共に、サタンに引き渡されて堕落していまった。それゆえ、現在の目に見える被造物全体は「虚無に服して」(ローマ8:20)いる。だが、神は被造物をこの虚無から救い出し、復活の輝かしい栄光の中に入れようとなさっておられるのである。

このことについて、オースチンスパークスの今日の論説は非常に興味深いので引用しておきたい。

 「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(6)

 さて、これはとても実際的なことです。イエス・キリストを経ないまま神に至ろう、とあなたは思っていますか?御父の定めでは、すべてが御子と共にあります。さて、これは包括的であって、被造物全体を網羅します。彼の中で、彼を通して、彼に至るよう、万物は創造されました。それゆえ、被造物全体についての神の定めは御子と共にありました。すなわち、神は御子という立場に基づいて、創造された万物に対応されるのです。

さて、被造物がその最初の君主であるアダムを通して神の御子の諸々の王権を破り、それらを敵対者であるサタンに手渡した時、神は何をされたでしょう?パウロの素晴らしい言葉によると、神はただちに、全被造物のまさに中心に、「失望」を書き込まれたのです。御子の嗣業に対する彼の妬むほどの情熱は、彼は御子の外の敵対者や反逆をご覧にならないことを意味します。パウロは「被造物は虚無に服した」(ロマ八・二〇)と述べています。

そしてその瞬間から、被造物の中心に失望があります。これは人にも言えます。人のいかなる達成、成功、偉業、発明にもかかわらず、最後の結末は失望です。私たちの周囲の被造物の中に魅力的で美しいものがあったとしても、それはそこそこ進んだ後、色あせて死んでしまいます。すべてが死と腐敗に服しています。これは失望です。定めは破られました。

栄光、豊かさ、究極的完成は、御子に対して定められました。御子の外側では、そのように定められておらず、すべてが失望です。そうではないでしょうか?どうして人々にはこれが分からないのでしょう?他の誰も知らなくても、私たちクリスチャンはそれを知っています。

しかし、神はほむべきかな、私たちは神の定めに戻って、この失望は一掃されました。神は私たちのもとに、御子における定めに、キリストとの合一に戻って来て下さいました。


 
 聖書は言う、すべての被造物は、贖われるときを待ち望んで、産みの苦しみを味わっていると。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。


見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

以上のくだりは、先の記事でも触れたパウロの言葉、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)とも重なる。

ここで「婦人」とは人類を象徴していることを説明したが、パウロがこのくだりで、「子を産むことによって救われます」と指しているのは、人類がすべての被造物と共に、体の贖いにあずかり、完全に滅びの縄目から完全に解放されて、主と共に栄光に輝く復活の自由に達すること、また、そうなるまでの間、「産みの苦しみ」が存在することを表していると言えよう。
   
従って、ここでは、「産みの苦しみ」を耐え忍んでいるのも人類(全被造物)ならば、その苦しみの結果として、新しく生まれて来るのも人類(全被造物)なのだと言える。これは新創造が生み出されるまでに、全被造物が耐え忍ばねばならない産みの苦しみであって、そうして、すべてが新しくされる時には、人はさらにキリストに似た者とされて、彼と共に栄光にあずかる神の国の共同相続人とされている。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:15-18)
 
そこで、現在、全被造物が味わっている「産みの苦しみ」は、被造物が完全に贖われてキリストと同じ姿に、主の栄光を映し出すものへと変えられるための過程なのであり、そのときには、もはや人類(被造物)は虚無に服するものではなくなり、本体なるキリストと同じ姿を持ち、同じ栄光を持つ者とされる。

今日でも、私たちはキリストにあって霊による一致の中に入れられているが、その時には、さらにこの一致が完全なものとなる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)
 
この約束を通して、どれほど神が人を愛し、人を重んじて下さっているかが分かるはずである。人はあくまで造られた被造物に過ぎないにも関わらず、神はキリストを通して、人に、ご自分を知ることのできる方法を備えて下さり、キリストはご自分を愛する人々に、御自身を現して下さり、ご自分に似た者となる道を開いていて下さるのである。

ここには、創世記で蛇が人類をそそのかしてささやいた、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)という、神の御言葉を排除して、人が神の性質を盗み取ることでしか、神に至りつけないという発想の入り込む余地が全くない。


  
図1 聖書における神と人との主従関係   
 
これに対し、依然として、蛇(サタン)が人類をそそのかすにあたり、述べたように、神は故意に、人をご自分よりも劣った卑しい存在として創造され、たのだから、人がこの劣った性質を克服するためには、神の意志に反してでも、神の神聖な性質を盗み取るしかないという考え(神に対するコンプレックス)に基づき、人が神の御言葉によらず、自分自身の意志と力で、神の性質を盗み、神と置き換わろうとしているのが、グノーシス主義だと言えよう。

グノーシス主義には一応、「原父(プロパテール)」という存在があり、聖書の父なる神に似たような存在が設定されている(真の至高者と同一)が、これはほとんど存在しないも同然の、形骸化した「お飾りの神」のようなものである。

すでに述べた通り、この至高者は、物言わぬ「鏡」であり、「虚無の深淵」であり、自らの意思によって力強く万物を生み出す存在ではなく、むしろ、被造物に受動的に自らの姿を映しとられて、自らの意思とは関係なく、信的存在を「流出」させることを、制御することもできない「神」である。

これは父としての権威と力を持たない「沈黙する神」と呼んでも良いだろう。この「沈黙する神」は、初めから他者から模倣され、自らのリアリティを侵害されて、神聖を簒奪されており、それに抵抗できない。
 
この思想では、「父なる神」が自らの意志に基づき、人を自分に似せた存在に創造したのではなく、神(至高神)の性質が「流出」(コピー)されることによって被造物が誕生している。すでに述べた通り、まだ「神々」なる被造物の誕生当初の段階では、この「流出」は「簒奪」と呼べるほどの故意性がなかったにせよ、それでも、誕生の段階から、すでに被造物の側からの至高神への浸食・侵害が起きていたことは確かなのである。

このことを見れば、グノーシス主義の思想の本当の主役は、神にあるのではなく、被造物の方にあるのだと分かる。つまり、これは「違法コピーを正当化し、偽物をオリジナルと置き換えるために造られたさかさまの思想」と言って良く、至高神の性質を盗み取るようにして生まれて来たあまたの被造物の存在を正当化するために造られた思想なのである。
  
グノーシス主義でも、原父(創造主―オリジナル)は父性原理を、被造物(被造物―コピー)は女性原理を代表するものとみなせるが、この思想は、母性原理(被造物―コピー)を「主」として、父性原理(創造主―オリジナル)を「従」とする、一言で言ってしまえば、神と人との主従関係を逆転して、目に見えるものを目に見えないものの根源に置き換える唯物論である。

これと同じ特徴が、万物を生み出す命の源は、女性原理にあるとみなして、女性原理を神とするすべての思想に流れており、むろん、「神秘なる混沌」「母なるもの」(女性原理)をすべての生命の源とみなす東洋思想にも、同じ発想が流れている。

従って、女性原理をすべての生命の源であると掲げているすべての思想は、要するに、見えるものを見えないものの根源としているのであり、根本的には唯物論だと言えるのである。

グノーシス主義では、至高者が「虚無の深淵」とされていること、すでに見て来たが、ここにも、神と被造物との関係を逆転させようとする聖書とは真逆の原則が表れている。聖書においては、被造物こそが堕落して虚無に服しているのであって、グノーシス主義はこれをさかさまにして、父なる神を虚無に服させたのである。

さらに、存在の流出に加えて、よりはっきりした形で、被造物が至高神の意志を無視・侵害して、神の神聖を模倣・簒奪したのが「ソフィアの過失」である。この事件は、ちょうどエバがエデンの園で、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」(創世記3:6)木の実を取って食べて、自ら神のようになろうとしたのと同様に、被造物が、己が情と欲に基づいて、自らの感覚を喜ばせることによって、神のようになろうとした企てとみなせる。

以上で確認した通り、聖書における「産みの苦しみ」とは、被造物の贖いが完成するまでのプロセスを指すため、これを考慮するならば、グノーシス主義のプロットにおいて、ソフィアが単独で子を産もうとした行為は、「被造物が、神(の意志)を抜きに、単独で己が贖いを完成しようとした」試みを指すことは明白となる。

ひとことで言ってしまえば、ソフィアの行為は、堕落した被造物が自分で自分を義とし、贖おうとしたこと、つまり、コピーに過ぎないものが、自らの力で本物のオリジナルに置き換わり、被造物であることをやめて、神の完全に達しようとした企てを意味する。

そして、グノーシス主義では、ソフィアの企てが、失敗に終わった後も、そのミッションは人類に受け継がれ、「母の過ち」を修正することが、人類の使命とされるのである。


   
図2.グノーシス主義における神と人との主従関係の転倒
  
こうして、グノーシス主義は、その骨組みだけを取り出せば、人が己の肉の情欲を満足させることによって、神へと至り着こうとする、聖書とは真逆の思想なのであって、そのために、この思想は、被造物の側から、創造主に対して、果てしない「模倣と簒奪」を繰り返すことを正当化するのである。
 
そこには、人類の罪も堕落もなければ、肉に対する十字架の死もない。だから、この思想に生きる人は、己が欲するままに生きた挙句、神の神聖に至りつけるかのように考えるが、それによって生み出されるのは、神とは似ても似つかない失敗作だけである。
 
このようなものが、女性原理を万物の生命の源とみなす思想の根本に存在するのであり、さらに極言すれば、そこには、人が己が情欲を「神」とする思想があるのだと言えよう。そのことを指して、パウロは次のように言った。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

「腹を神」としているとは、肉と欲を神としているという意味であり、「恥ずべきものを誇りとし」とは、罪に生きることをあたかも正しいことであるかのように唱道していること、「この世のことしか考えていません」とは、己の欲を満たしてくれそうな、目に見えるものだけにより頼んで生きていることを指す。

だが、パウロは、これに続けて、私たちキリスト者が目指しているのは、そのようなものでは断じてなく、私たちは、主と共なる十字架において、この世に対してははりつけにされて死に、自分自身の肉に対しても死に、罪と死の法則に従ってではなく、命の御霊の法則に従い、目に見える都ではなく、あくまで見えない都、見えない天を目指していると述べる。

私たちは、そこからキリストが再び来られ、最終的に、私たちが完全に贖われて、もはや二度と堕落した肉に支配されることのない、キリストと同じ栄光の体へ変えられることを待ち望んでいる。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)

そこで、結論として、これまで繰り返して来たように、今日、キリスト教における神への礼拝は、目に見える指導者、目に見える場所から解放される必要がある。

プロテスタントの牧師制度は、カトリックの聖職者制度や、荘厳で立派な礼拝堂を建設するための献金集めとしての免罪符の支払いから信者を解放した代わりに、今度は、目に見えないキリストを、目に見える指導者(牧師)に置き換え、聖書の御言葉を、信者がキリストではなく牧師を介在して受けとらざるを得ない状態にとどめたことで、改革を中途半端に終わらせただけでなく、最終的には、目に見える被造物(母性原理)を、創造主なる父なる神(父性原理)以上に高く掲げるという唯物論的逆転に陥ってしまった。プロテスタントの礼拝が、特定の教会の礼拝堂に固定化されていることも、同様の原則に基づく。

これでは結局、イスラエルの建国を促し、地上のエルサレムに再びユダヤ教の神殿を建設することで、キリストの再臨が促されると言っている人々と、原則はまるで同じである。
 
「目に見えるもの」が、贖いの完成へとつながる神聖な要素であるかのようにみなし、その発展を促すことで、人類の贖いが成就するかのように思い込んでいるという点で、これらはグノーシス主義と同じ、さかさまの理論であり、プロテスタントは牧師制度や教会籍制度を固定化することで、そこへ落ち込んでしまったと言える。
 
こうした「さかさまの理論」を主張し始めた人々は、「目が開け」るどころか、その顔に覆いがかかり、見えないキリストの栄光を映し出すことができなくなり、かえって、神を「虚無」に服させて、自分自身が神であるかのように錯覚するようになる。

そして、高慢になって、神の御名を自分たちの栄光を打ち立てるために利用し、己が肉の情欲を満たすことこそ、己が存在を神聖化する秘訣であるかのようにはき違えるようになる。
 
だからこそ、牧師制度からは離れなければならないのである。それはこの制度が、被造物を神と置き換えようとする思想の体現だからである。むろん、固定的な礼拝堂からも離れなければならない。その点で、カトリックからのみならず、プロテスタントからも脱出する必要があり、両者ともに信仰回復運動としての意義は失っている。

これを離れなければならないのは、そこにあるのが、被造物を父なる神以上に高く掲げ、目に見えるものを、目に見えないものの根源に置き換えようとする、本質的には唯物論と何ら変わらない聖書への反逆の思想だからである。
 
このような汚れた思想と分離せず、それを受け入れてしまうと、人は信仰によらず、己が情欲に従ってしか歩めなくなる。そして、このような転倒した教え、神不在の理論の中に身を置いていながら、同時に、まことの神を知りたいと願っても不可能なのである。

このことは、今日、当ブログが、目に見える指導者に従い、目に見える礼拝堂に通わないことを、恫喝と悪罵の言葉と共に非難し続けている人々が、どれほど常軌を逸した不法を働く者どもになり果てているか、その様子を見ても、よく分かると言えるだろう。

必至になって目に見えるもの(指導者、礼拝堂、儀式その他)を擁護し、あたかもそれが神聖であるかのように主張する彼らの姿は、いわば、目に見えるものを神とするプロテスタントの行き着く終着点なのである。今やプロテスタント全体が、このような不法の子らの恫喝を前に、抵抗する力を失ってしまったが、それはすでに述べた通り、プロテスタントが、教会がより本来的な姿へと回復されていく変遷の一過程でしかなく、その中には、過ぎ去らなければならない古き要素が含まれていたにも関わらず、これと訣別しなかったことの必然的な結果である。

今やプロテスタントの中の「目に見えるもの」(神への礼拝を目に見える牧師や礼拝堂の中に見いだそうとする制度)が、まことの神への礼拝の妨げとなっているのに、この宗派は、「目に見えるもの」を擁護して、これを神聖であるかのように保存しようとしたために、神の御言葉を退け、その結果として、上記のような不法の者たちと手を結び、行きつく先が同じとなってしまったのである。

プロテスタントであろうと、カトリックであろうと、神の御心から遠く離れたものを、あたかも神聖なものであるかのようにいつまでも擁護し続けていれば、誰しも、結局、サタンの虜となり、暗闇の勢力に引き渡されて行くのは仕方がない。

 
図3 キリストは神と人との唯一の仲保者であるから、エクレシア(教会)における兄弟姉妹はみな対等な関係にあるはずである。

図4 ところが、プロテスタントでは、牧師が神と人との唯一の仲保者であるキリストに置き換わってしまったために、神の栄光が反映しなくなり、神が無きに等しい者として形骸化した(唯物論的転倒)。
 
おそらくカトリックもプロテスタントも、ずっと前から、生きた信仰を見失って、目に見えるものを、目に見えないものに置き換える神不在の理論と化していたからこそ、その只中から、マザー・テレサや奥田牧師(もしくは遠藤周作)が唱えたような、人間を不条理の中に見捨てて「沈黙する神」のイメージが、発生して来たのだと言えよう。
 
このように人類の苦しみを見捨て、助けることもできないで、苦難の中に置き去りにして行くだけの、弱々しく沈黙する神は、聖書の神ではなく、御言葉からは、あまりにもかけ離れている。むしろ、これは人間が虚無に服させて自ら骨抜きにしてしまった神の姿であると言えよう。

しかし、人が目に見えるものの中だけを巡り続けている限り、まことのリアリティである神は決して見いだせない。その代わりに、このように人類を助ける力を全く持たない、無きに等しい神しか、見えて来るものはない。それは神というよりも、無力な人類が、自分自身の姿を、鏡に投影するようにして作り出した自己の似像に過ぎない。つまり、人間が自ら神を規定しようとした結果、彼らの神は、そのようにまで弱体化し、虚無にまで服してしまったのである。

だからこそ、こうした汚れた教えからは「エクソダス」せねばならない。そして、私たちは目に見えるものに従ってではなく、自分たちを本当に生かす力のある、目に見えない御言葉に従って、見えない都を目指して歩むのである。
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。<略>神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

さて、今回は、前回の続きとして、グノーシス主義および東洋思想といった、非キリスト教的異教の思想の中には、決まって「ハガル―シナイ山―バビロン」の原則が流れている、ということに触れておきたい。

ハンス・ヨナス教授が述べた通り、グノーシス主義思想とは、特定の時代に限定された特定の思想を指すものではなく、時代の様相が混迷を極め、人々の思いの中に悲観が広がり、政治的にも危機的状況となり、明白な希望が失われているような時代には、いつでもどこでも、発生しうるものであり、さらに、この思想は、独自の神話を持たないため、あらゆる宗教や思想の中にもぐりこみ、それを換骨奪胎しては、自分に都合よく変えてしまう性質がある。

グノーシス主義は、いわば、常に何かの思想や宗教哲学などを宿主として、そこに潜り込み、寄生して成り立つ模倣と簒奪の思想なのである。

グノーシス主義には、独自の神話はないが、一応、神話的なプロットの原型はあり、果てしない模倣と簒奪を正当化するためだけに存在しているこの思想では、その神話的プロットも、当然ながらその原則に沿ったものとなる。それが「存在の流出」という考え方である。

まず、グノーシス主義思想では、真の至高者なる神が存在するとされるが、その神はあまりにも神々しい存在であるため、(一部の説では「独り子」以外には)、誰も見たことのない「知られざる神」であるという。

それにも関わらず、どういうわけか、その「知られざる神」が、この思想では「虚無の深淵」や「鏡」にたとえられ、その深淵である「鏡」に至高者の姿が映し出されることによって、無数の神的存在(アイオーン)が流出したとされる。

だが、これは非常に奇怪千万な話である。至高者にも関わらず、グノーシス主義の神は、自分の存在が「流出」することを自分でコントロールできなかったというのだろうか。

このことから、グノーシス主義の「神々」(アイオーン)は、至高神自身の意志とは関係なく、至高神の存在を模倣・簒奪して、まるで神の神聖が盗み取られ、漏洩されるようにして「流出」したものであると言える。つまり、グノーシス主義のプロットの中では、至高者は、神であるにも関わらず、自己存在が、自己の意志と関係なく「流出」することを、自分で制御することができない存在なのである。

このことを考えると、グノーシス主義における「神々」(アイオーン)の誕生は、聖書の神が、被造物を創造された時のように、主体的で能動的な創造行為ではなく、むしろ、被造物の側から、至高者の存在を盗み取り、これを模倣して自らを生んだも同然のものであるとしか言えない。

その点で、グノーシス主義の「神」は、至高神という名とは裏腹に、最初から自己存在を他の被造物によって見られ、知られ、盗み取られる受け身の神であって、主体ではなく、客体なのだと言えよう。
 
こうして、グノーシス主義の「神」は、最初から客体として、他の被造物に存在を盗み取られ、侵害されているのであって、神と呼ばれるにはふさわしくない存在である。その受動性、沈黙、弱さ、非独立性は、聖書における神が、「わたしはある」と言われ、自らの意思によって被造物を創造し、被造物が神に背いて堕落した際には、被造物を追放したり、滅びに定めることのできる、強い権限を持ち、人格と意志を持った能動的存在であることとはまさに逆である。
 
グノーシス主義の「至高神」は、たとえるならば、「御真影」のようもの言わぬ神であって、無数の「神々」であるアイオーンの存在に神的位置づけを与えるためのアリバイ、もしくは、お飾りのような存在に過ぎないと言えよう。

この点で、グノーシス主義は、最初から、神と被造物との関係を逆転し、至高神という神を規定しながらも、その神を「知られざる神」とすることによって、至高神に「リアリティ」があるのではなく、むしろ、至高神の神聖を映し取って生まれた模造品である被造物なるアイオーンの方に、「リアリティ」が存在するとして、神と被造物の関係性を逆転していると言えるのである。
 
結局のところ、グノーシス主義とは、本体である至高神から、その神聖を流出させて、模倣・簒奪して、無数の影のようなアイオーンたち(模倣者たち)を作り出すことを正当化するために生まれた思想であると言える。(ちなみに、アイオーンの間にもヒエラルキーがあって、至高者から遠ざかるに連れて、質の悪いコピーのようになって行く。)

そういう意味で、グノーシス主義とは、終わりなき質の悪いコピペを正当化する模倣と簒奪の思想なのであって、本来ならば、万物の創造主でなければならない神に主体性を持たせず、かえって神を客体として、被造物の方に主体性を与える「さかさまの思想」だと言えるのである。

さらに、グノーシス主義思想において、当初のアイオーンの流出は、アイオーンの側から至高者の神聖を盗み出すために意図的に起こされた反乱ではなかったが、この思想においては、その後、「ソフィアの過失」というさらに決定的な出来事が起きる。

グノーシス主義の神的世界では、すべてのアイオーンは男性名詞と女性名詞のペアとなっており、そのペアからしか子供は生まれないとされているにも関わらず、最下位の女性人格のアイオーンであるソフィアが、単独で子を産もうと欲して、何かしらの禁じ手を使って、おそらくは至高者なる神を「知り」、その「過失」の結果として、醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)という子を生んで、この子を下界に投げ捨て、この悪神が、下界(地上)の支配者となって、悲劇と混乱に満ちた暗闇の世界がそこに創造され、悪神の子孫として人類が生まれたというのである。

ここで、ソフィアが単独で子を生んだことは、至高者の側からの願いに基づくものではなく、ソフィアの側からの意識的な反逆として、彼女が至高者の神聖を盗み取って、故意に流出させたものであるとみなせる。

このように、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、繰り返し、神の神聖が、被造物の側から盗み取られていることが分かる。そして、後になるほど、その盗みは、より意図的で、より悲劇的で、より悪意あるものとなって行く。

そして、そのように、至高神の意志を介在せずに、被造物の側からの違反によって、神の神聖が不当に盗み出された結果、グノーシス主義では、人類が誕生したとされているのであって、父を不明として、ソフィアの過失をきっかけとして生まれた人類は、初めから悲劇を運命づけられている。

それでも、この思想においては、どういうわけか、父不明のはずの人類には、至高者のものである「神聖な霊の欠片」が宿っているため、人類は、自分の直接的な父である悪神よりも知恵があり、悪神を否定的に超えて、真の至高者へ立ち戻ることができ、それによって、「母の過ち」を修正することができるとされている。

グノーシス主義では、悪神ヤルダバオートが、聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されるため、この思想では、聖書の神を徹底的に愚弄して、これを出し抜くことが、あたかも人類の正しい使命であって、人類を真の神に回帰させることにつながるかのようにみなされるのである。

だが、ここで人類の母とされているソフィアが、どうやって単独で子を生んだのかがはっきりしない以上、グノーシス主義においける人類が、真に至高神から神聖な霊の欠片を受け継いでいるとする客観的な根拠は何もない。何よりも、グノーシス主義思想それ自体において、至高神は、人類を己が子孫と認める発言を行ってないのである。

それにも関わらず、人類が、自分は至高神の子孫であると名乗り出て、自分を天界に認知せよと求めただけで、至高神に連なる者となれるとしていること自体が、これまたこの思想のどうしようもない模倣と盗みの原則をよく表していると言え、グノーシス主義の世界観の中では、誰かが「自称」しさえすれば、何ら客観的な根拠がなくとも、それが真実であるかのようにまかり通ることをよく示している。

このように、グノーシス主義思想とは、初めから、誰かが自分よりも優れた他者の性質を模倣し、盗み取り、本体を映したおぼろげな映像に過ぎないものを、本体と置き換える盗みと反逆を正当化する思想なのであって、そこには、神に逆らって堕落した人類が、不当に神の性質を盗み、これを模倣・簒奪することにより、聖書の神を否定して、自ら神であると宣言して、神と置き換わろうとする悪魔的思想が流れていると言えるのである。

ところで、この悪魔的思想の「模倣と簒奪の原則」は、インターネットの掲示板でも、顕著に見て取れよう。今日、掲示板は、そこに集まった悪意ある人々が、現実世界に存在する様々な事物の姿を歪めて映し出しては、存在を流出させてディスカウントするための「鏡」となっている。

そこで、悪意ある人々は、掲示板で、この世の事物をターゲットとして映し出し、そこで自分たちが盗み取って流出させた歪んだ映像の方が、本体を凌ぐリアリティであるかのように言いふらし、自分たちにこそ、本体を見定める資格があると主張して、本体のオリジナリティを侵害し続けている。

さらに、そうして存在を盗み取られた人々の一部も、ヴァーチャルリアリティである掲示板の方に、あたかも「リアリティ」があるかのような虚偽を信じ、掲示板に書かれた誹謗中傷を苦にして、自殺に追いやられたりまでしている。

こうして、本体とその歪んだ映像に過ぎないものの主従関係を逆転し、本体の質の悪いコピーに過ぎず、影に過ぎないものを、本体であるかのように偽り、出来そこないのコピーの大量作成によって、本体を凌駕し、駆逐することを狙っている点で、掲示板は、本質的に、グノーシス主義と同じ、見えない悪意による「模倣と簒奪の原則」に基づいて成り立っていると言えるのである。

さらに、グノーシス主義における、人類の悲劇の誕生は、先の記事で触れたハガルとイシマエルの運命にも重なる。

ハガルは、女主人であるサラの考えによって、アブラハムに子をもうけるために与えられた奴隷であるから、自ら反逆として、アブラハムをサラから奪ったのではなかった。

とはいえ、アブラハムはハガルの夫ではなかったわけであるから、やはり、ハガルの行為は一種の盗みのようなもので、なおかつ彼女が子を産んでから、奴隷であるにも関わらず、自らが女主人であるかのように思い上がって、サラを見下げるようになったことは、主人らに対する反逆であったと言えないこともない。

また、ハガルが子を生んだことは、肉の働きであっても、信仰によるものではなかったわけであるから、その点でも、ハガルの行為は、本来は至高者を知る権限がなかったにも関わらず、己が欲望に基づき、至高者の子を欲したソフィアの過失に極めて近いものであったと言える。

さらに、ソフィアがその「過失」ゆえに天界から転落しかかり、その子であるヤルダバオートが下界に投げ落とされたように、ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放されて、父のいない母子家庭になったという点も似ている。

そして、彼らは自分たちが行ったことが深い罪であって、自分たちが神の御心にかなわない不完全な存在であるとは決して認めたくないがゆえに、その後も、自分たちは神の家の正統な後継者であるかのように偽って、約束の子らを迫害し続けるのである。

このように見て行くと、グノーシス主義では、「信仰によらず、己が肉の力によって、神を知り、その実としての子を生みたい。」という、人類の肉の欲望を肯定する思想が、一貫して流れているのだと言えよう。

従って、これは一貫して、人類が自らの下からの生まれを、あたかも神聖なルーツであるかのように偽り、自らを神とする、聖書における大淫婦バビロンを肯定する思想だと言えるのである。

グノーシス主義は、どんな思想や宗教の中にでも入り込むものであるから、その発生は洋の東西も問わず、東洋思想において「母が脅かされている」とする考え方の中にも、これと本質的に全く同じものが流れていると言える。

東洋思想においても、万物を生み出す源は「神秘なる混沌」という母性原理にあるとされており、万物の生命の源は、「父」ではなく「母」にあるとされる。そこに我々は、被造物(女性原理=人類)と、創造主(父性原理=父なる神)との主従関係の逆転が起きている様子を見て取れる。

ちなみに、グノーシス主義思想の研究者である大田俊寛氏は、このような思想の発生を、古代社会においては、DNA鑑定もなく、母が誰であるかは明白であるが、父が誰であるかを確かめる術がなかったことに見いだし、「擬制(フィクション)としての父」という考えを提示している。

それに基づき、大田氏は、古代社会から家父長制から現代に至るまで、人類が父によって支配されるという考え方は、「フィクション」に過ぎないのだとし、そこから、聖書の父なる神もフィクションに過ぎないという考えを導き出すのである。

このことは、むろん、「父なる神」をフィクションどころか、「わたしはある」という絶対的なリアリティであると定義する聖書の真理に悪質に反する虚偽であることは明白であるが、グノーシス主義の核心を表すたとえとしては、言い得て妙である。

グノーシス主義では、ソフィアの過失が、具体的にどんな事件であったのかが全く明らかにされていないことを見ても分かるように、要するに、この思想においては、何らかの形で「子」が生まれさえすれば良いのであって、本当の父が誰であるかは、さして重要ではないのである。
  
もちろん、グノーシス主義は、このような考えが、聖書の唯一の神である「父なる神」を否定し、キリストと教会の関係に基づく一夫一婦制を否定するものであることを知っていればこそ、己が思想が、本質的に、キリスト教における、揺るぎないリアリティであるまことの父なる神に対する裏切り、反逆であり、キリスト教に悪質に敵対するものであることを無意識的に知っており、そうであればこそ、この思想の中には、潜在的にキリスト教(の「父なる神」)に対する恐怖、すなわち、いつか自分たちがキリスト教の「父なる神」によって罰せられることになるという恐怖が内包されているのである。

そのため、この思想には、父のいない母子家庭に生まれ、父からの正当な承認がないのに、神聖な神の子孫を自称(詐称)する人類が、いつか「父なる神」から罰せられることになるため、その御怒りから自分たちを守らなければならないという、自己防衛と被害者意識による連帯願望が流れていると言えるのである。

なお、東洋思想においては、この自己防衛の思想が「禅」という形で結晶化し、また、手段としての自己防衛は、「武士道(武術)」という形で結実した。武士道の根底にあるものは、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怒りと憎しみの感情であって、それは神の御怒りに満ちた裁きから身を避けようとする人類の自己防衛の手段であり、永遠から切り離されて滅びに定められた者たちの生んだ悲痛な「死の美学」であることも、すでに確認した通りである。

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 (上二つの画像は、映画『龍の正体』から)



筆者はこれと同じ自己保存・自己防衛の願望を、戦前・戦中の日本の国体思想に、またユダヤ教メシアニズムにも、見出さずにいられない。

第二次大戦中の日本の沖縄戦における集団自決、そして、マサダの集団自決などに流れる思想は、根本的に全く同じものであると筆者はみなしている。つまり、それは、まことの父なる神の承認によらず、父なる神を避けて、人類という「母子」が、自らの力で自分たちのルーツを浄化して、神からの恵みと承認によらず、自力で神の神聖に至り着くことができるかのように主張して、自己防御しようとした結果、必然的に行きついた悲惨な滅びなのである。

そこには、己の力で神に達しようとする者が、霊的に罰せられずには終わらないというバベルの塔と同じ原則が働いている。

おそらく今日、ホロコーストを生き延びたユダヤ人によって建設されたイスラエルでも、自己防衛のための団結の願望は、以前にもまして強いものとなっていることが予想される。それがパレスチナ住民たちに対する攻撃の激しさの中にも現れているのだろう。

なお、プロテスタントの宗教改革の指導者であったマルチン・ルターは、ユダヤ人をキリスト教に改宗させることができると望んでいた間は、ユダヤ人を擁護していたが、それが不可能であることが分かってからは、ユダヤ人を激しく批判したことも知られている。今日、ルターのそうした言説は、反ユダヤ主義を促すものとして非難の対象となることもあるが、いずれにしても、人は神の恵みによって、信仰によってしか救われないとするキリスト教の信仰が、人は律法を守ることによって救われるとしているユダヤ教の理念と相容れないことは確かであるから、ルターによるユダヤ人への批判の中には、不思議とは言えない部分がある。

こうしてキリストを拒んだがゆえに、都を破壊されて失い、さらにプロテスタントのキリスト教徒からも激しい非難と迫害を受け、全世界に散らされた歴史的過去は、今日のユダヤ人には、トラウマに近い感情を残しているのではないかと想像される。それだからこそ、その悲痛な歴史的記憶の只中から、より一層、強固な自己保存、自己防御の感情が生まれて来るのであり、それが彼らのメシア待望という、聖書の神に最終的に逆らう終末の反キリストを生み出す原動力となって行くのではないかと考えられるのである。

人は信仰によって何かを獲得するためには、神が定められた約束の時まで、忍耐強く御言葉の成就を待つことが必要とされる。それは、あくまで神の決定としての御言葉の成就であって、人間の側からの欲望に基づく思いつきではなく、その約束を成就して下さるのも神である。そして、神がご自分の約束の成就される時、それは決して人間の肉欲を満足させる形で成し遂げられることはない。

だが、人は肉の情欲によって、神の約束を待つことができず、性急に自分で自分を保存しようとする。そして、常に感覚的満足(快楽)を欲し、己が力で成果を勝ち取ることで、神を喜ばせることができると考える。
 
しかし、どんなにそこに悲痛なまでの幸福への希求の思いが込められていたとしても、神の御言葉に立脚しないものは、すべて真のリアリティを持たず、永続性がない。だからこそ、肉によって生まれる子は、霊によって(信仰によって)生まれる子よりも、先に勢力を増して勝ち誇るがものの、その勢いは、ほんの一時的でしかなく、肉によって生まれたものは、神の計画によらないため、初めから滅びを運命づけられ、すぐに消えて行くのである。
 
「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

そこで、当ブログでも、己が肉の力を誇り、この世の栄耀栄華を誇るクリスチャンに偽装する指導者らの唱える幸福が、草のようにしおれ、消失して行くのは当然だと主張している。

当ブログでは、とある宗教指導者の家庭に降りかかった様々な不幸のことにも言及したが、これもまさに、以上で述べた通りのバビロンに働く聖書の原則が成就したものに過ぎず、筆者が述べている個人的な見解ではない。

これに対する唯一の処方箋は、悔い改めて神に立ち帰ることである。

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

かつてイスラエルの家が責められているように、今、プロテスタントの神の家と呼ばれる教会やその牧者たちも責められているのである。

だが、彼らが依然として、悔い改めを退け、己が富、権勢、支持者の人数、家庭、所属団体の規模、安楽な生活などを誇り、貧しい主の民を蔑み、嘲笑し続ける限り、彼らの繁栄は束の間の風のように過ぎ去るであろう。

主イエスが地上の都エルサレムに対して下された宣告と、その後のエルサレムの歴史、そして人類の肉に対する滅びの宣告を、私たちは思い出すべきである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
  
だが、何一つ絶望する必要がないのは、エクレシアは最終的に、「夫ある女よりも多くの子を生む」と言われており、バビロンの栄耀栄華をはるかに超えて、永遠に至る栄光を約束されているからである。

だからこそ、私たちは地上にある間、己が権勢や、能力を誇らず、より一層、神の御前に「夫を持たない女」「やもめ」「子を生まない女」として、キリストだけを待ち望んで生きるつつましい純潔の花嫁、聖なる天の都を目指したいと願うのである。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。」(ヘブライ11:6)

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、
 決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。
 
 「主はわたしの助け手。
 わたしは恐れない。
 人はわたしに何ができるだろう。
 
 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。
 彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。
 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。」(ヘブライ13:5-8)

* * *
   
神の国の権益を真に確保しようとするクリスチャンが、誰であれ迫害を受けることは、イエスが聖書の随所で予告しておられることである。

暗闇の勢力による神の子供たちへの理由なき激しい憎しみは、地獄から来る。悪魔は人殺しであるから、最終的には、悪魔は神の子供たちを殺害しようとする。それが許されない間にも、悪魔と暗闇の勢力は日々、正しい人々に対して精神的殺人を繰り返している。

だが、私たちはこのような地獄の軍勢の激しい憎しみを恐れたり、その前にたじろぐべきではない。主の御名のために犠牲を払うことは、貴い価値あることであり、そして、神は御自分を呼び求める民を決して孤独の中に打ち捨てておかれることはないから、私たちは御名のゆえに悪しざまに言われることを決して恐れることなく、これを大いに喜ぶべきであろう。天での報いは大きいからである。
  
オリーブ園の連載でも、オースチンスパークスの次のような記事が掲載されている通りである。

「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(4) から抜粋

キリストの権益の前進を目的とするものはみな、それが何であろうと、ただちに邪悪な嫉妬、疑い、憎しみ、偏見、そしてもし可能なら殺害の対象となります。この反対は、人々に関する限り、何の理由もなく生じます。取り調べや調査もせずに生じます。それはたやすく、自動的に生じます。そして、それは極めて理不尽で非合理的な姿勢で取り囲まれます。そういった姿勢の多くは公正な調査で破綻します。しかし、それは存在します。どうして人々はこの手のものに捕われてしまうのか、という疑問が依然として残ります。しかし、それがどこから来るのか、私たちはよく知っています。そして、それは御子に関する神のあらゆる働きに対する愛とは正反対なのです。



さて、今回は、エルサレム問題の根底にある思想的対立を考えるに当たって、極めて重要な鍵となる、聖書に登場する「二人の女」について触れたい。もちろん、ここで言う「女」とは、象徴であって、二種類の人類のことを指す。

おそらくこのテーマは、今日、ほとんどの教会で語られることがないものであろう。なぜなら、こうしたテーマは、多くの女性にとって、あまりにもデリケートな問題をはらんでおり、ともすれば、誤解を持って受け止められかねないためだ。

だが、これが聖書において極めて重要なテーマである以上、私たちはこのテーマを避けて通ることはできない。そして、当ブログではこれを題材として書くに当たり、今ほどそれに適したタイミングはないものと思う。

当ブログにおいては、人類は神の助け手として造られた霊的な女性であるということを、繰り返し述べて来た。

創世記では、神は最初の人類であるアダム(男)からエバ(女性)を創造された際、次のように述べられた、「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 」(創世記2:18)

以上のフレーズを指して、これはアダムからエバが造られたことを意味するだけでなく、神がご自分のための助け手として人類を創造されたことを指しており、その意味で、「神の独り言」であると述べた人もある。

つまり、このフレーズには、アダム(男性)の助け手としてエバ(女性)が造られたというだけでなく、神がご自分の聖なる独り子のために、助け手、花嫁として、人類を創造されたという意味が込められているのである。

そこで、神の助け手として造られた人類は、霊的には女性である。そして、人類がどのような「女」として生きるのかは、一人一人にとって非常に重要である。
 
さて、聖書に登場する一人目の「女」は、神の恵みによって救われて、聖なる花婿なるキリストを忠実に待つエクレシア(教会)を指す。

しかし、彼女は花婿なるキリストがまだ目に見える形で現れていないがゆえに、「未婚の女」、「夫に捨てられた女」、「やもめ」などと呼ばれ、かつ、「子供を産まない女」として蔑まれる。以下のガラテヤ人の手紙に引用されている箇所は、エクレシアを指したものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」(ガラテヤ4:27)

他方、もう一人の「女」とは、エクレシアとは対照的に、神の恵みによって救われるのではなく、自力で神に至り着こうと、神の御言葉を捨て、手っ取り早く、己の情欲に身を委ねる、堕落した教会、バビロンである。

バビロンは、キリストだけを孤独や試練の中で待ち続けることを嫌って、己の欲を満たすために、非常に多くの愛人(異端の教え)と霊的姦淫を重ね、忌むべき子を産み、それゆえ、黙示録では「大淫婦」という恥ずべき名で呼ばれる。また、富んでおり、貧しさや孤独を知らないことから、「女王」や「夫と子供のある女」にたとえられる。

「彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。」(イザヤ47:7-8)

バビロンは、見た目には富んでいて悲しみを知らず、幸福の絶頂にあるように見えても、情欲のままに生きる、堕落した人類として、その末路は厳しいものとなる。

それは、彼女が罪に生き、主と共なる十字架を通して己が情欲に対して死んでキリストだけをを待ち望むエクレシアの孤独と貧しさを蔑み、神の聖なる御心を成就する新しい人類を憎み、迫害し、神の御言葉を退けたからである。

ちなみに、かつて当ブログでは、バビロンが「混ぜ合わせた杯」を持っていることに触れたが、この言葉は、共同訳では「彼女が注いだ杯」(黙示18:6)となっており、この言葉に、異なる性質のものを混合するという意味は特に込められていないようである。

だが、バビロンはそれ自体が、混合の教えである。ぜなら、バビロンはキリストを知らないがゆえに罪に生きる人類を指すのではなく、キリストの教えを知っていながら、これを受け入れず、うわべだけ神の教えで身を飾り、内実は、堕落した生き方を続けるキリスト教と異教的要素が合体して生まれる背教を指しているからである。

従って、バビロンが持っている杯には、混合物が注がれていることは容易に想像がつくが、同時に、それは彼女が聖徒らを迫害に酔いしれながら流した血や彼らの苦悩を混ぜ合わせた杯であると考えられるのである。
 
聖書のプロットは、ある意味、最初から最後まで、この「二人の女」の相克と、最終的なエクレシアの勝利を描いたものであると言うことができよう。
 
人類最初の女であるエバは、系統としてはバビロンに属する。彼女は、エデンの園で、神が、それを食べれば死ぬから食べてはいけないと禁じた善悪を知る木の実について、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)と言った蛇の誘惑に負けて、己の力で、神のようになろうとして、神の掟を捨てて、その罪のゆえに堕落して、夫と共に楽園から追放された。

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 」(創世記3:6)とある通り、エバは自分を喜ばせてくれる感覚に身を委ね、己の情欲に従って生き、それによって神に到達しようとして、堕落したのである。

以来、人間の堕落した肉は、罪と死の法則に支配され、神に従い得ないものとして、滅びに定められた。そのため、すべての人類は、生まれながらに滅びゆく神の御怒りの子となったのである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
 
エバは夫と共に子供を産むが、生まれた子供の間では、早くも人類最初の殺人が起きた。

兄であるカインは、地の産物を得る者、すなわち、肉の欲望のままに生きて神に反逆する民を象徴していた。他方、弟アベルは羊を飼う者、すなわち、まことの羊飼いなるキリストおよびキリストに連なる民を象徴する者であった。

カインは地の産物を神に捧げものとして供えたが、弟アベルは、動物のういごの犠牲を神に捧た。そして、カインは、弟の供え物だけが神に受け入れられたのを見て、弟アベルを激しく妬んで、野原に連れ出して殺害した。

こうして、最初の人類の子であるカインとアベルの中にも、早くも「バビロン」と「エクレシア」につながる二つの系統の人類が、象徴的に現れているのを見て取れる。

むろん、誰もが知っている通り、アベルが理由なき憎しみによって殺されたのは、やがてキリストが堕落した人類の憎しみにより、罪なくして十字架にかかって殺されることの予表であった。

今日も、当ブログの証しが十字架の死に基づいているために、これに理由なき憎しみを燃やしている人々がいるが、冒頭でオースチンスパークスの論説に挙げたように、このようなことが、太古から今日まで、神への礼拝を巡って起きているのであり、神の御言葉を守る子供たちが肉によって生まれた子らに迫害されることは、歴史始まって以来絶え間なく続いている現象である。

この二系統の人類すなわち「二人の女」は、旧約聖書と、以下に引用するガラテヤ人への手紙の中で、アブラハムを巡る「二人の女」すなわち、ハガルとサラとして、よりはっきりした対比の中で描かれている。

ここでは、ハガルは、性急で、神が定められた時まで忍耐して待つことができず、何とかして自分の力で死を回避して、自己保存して生き残り、神に到達して永遠にまで至ろうとする人類の肉的な力とその情欲を象徴している。

他方、サラは、忍耐強く神の御言葉の成就を待ち望み、その信仰が認められて、ついに恵みによって、約束の永遠の命を得る忠実な神の子供たち(教会)を象徴する。

彼女たちを巡る話はよく知られている。アブラハムとサラは、百歳になっても子供が生まれなかったため、サラは夫アブラハムのために何とかして子孫を残そうと、己が知恵に頼って、自分の侍女(奴隷)を夫に差し出す。

ハガルはアブラハムのためにイシマエルを生んだが、自分が女主人よりも先に子供を生んだことで、高慢になって、サラを見下げるようになった。

さらに、ハガルが子を生んだ後で、サラとアブラハムは、高齢で子を産む能力を完全に失っていたにも関わらず、信仰によって、御言葉の成就として、「約束の子」であるイサクが与えられた。

その後、ハガルとサラの間には、壮絶な女の戦いが起きるようになり、さらにハガルの子イシマエルも、母にならって、サラの子イサクをいじめるようになった。

アブラハムは、ハガルとサラの板挟みになり、悩んだ末、神の御心を問い、その結果、肉の力によって生まれた母子であるハガルとイシマエルは、奴隷の出自であって、神の御心にかなわず、アブラハムの家の正統な後継者の資格を持たないため、二人を家から追放するしかないという結論に至った。

こうして、肉の力によって生まれた母子は、アブラハムの家から追放されて、約束の相続人としての地位から正式に排除されたのである。

さて、ガラテヤ書において、パウロは、ハガルとサラという二人の女が、霊的な比喩であるとみなして、次のようにその意味を解説している。

ここでは、ハガルは、人類が律法を守り抜くことで、自らの力で義とされ、神の聖にあずかることができると信じる「地上のエルサレム」、すなわち、ユダヤ教の教え全体を指している。

他方、サラは、人は律法を守ることによっては罪に定められるだけで、決して救われることはなく、救われるには、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れることによって、神の恵みによって義とされるしかない、という信仰によって生きる「天のエルサレム」(教会)を指している。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)

 
ここでは、肉の力によって子を産み、早々に孤独とは無縁になった女奴隷ハガル(地上のエルサレム)が、約束の子を忍耐して待ち続けるサラ、(天のエルサレム)を、「子を産まない不妊の女」、「産みの苦しみを知らない女」、「一人取り残された女」、「やもめ」、「夫を持たない女」などと呼んで、罵り、蔑んだ様子がよく分かる。
 
ちなみに、旧約聖書におけるサラは、イサクを生んだことにより、「産みの苦しみを知らない女」ではなくなったし、アブラハムという夫があったので、厳密に言えば、以上の定義には当てはまらない。

それにも関わらず、サラがこのように呼ばれているのは、サラに生まれた子供が、信仰によって、神の恵みによって与えられた子であり、アブラハムとサラの肉的な力によって生まれた子でなかったことを指している。そういう意味で、サラは「夫のない女」と呼ばれているのである。

天のエルサレムが「夫のない女」と呼ばれているのも、彼女が、人間の生まれながらの肉的な力に頼って、収穫を得ようとすることがなく、ただ御霊によってのみ、永遠に残る実を生み出すという、神の教会の聖なる性質を表している。

このようにして、肉の力を誇る者は、早々に繁栄して孤独ではなくなり、幸福を勝ち取ったように見えるものの、それは永遠に残る実ではないため、神の御国では排除されて、忌むべきものとして滅びに定められ、かえって、孤独を耐え忍んで、神の約束の成就を待ち望んだ者が、約束の成就として、御国の後継者となる、という原則が示される。

この原則は、その後、聖霊によって乙女マリヤがイエスを生んだことで完全に成就する。

マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ結婚していないうちに、聖霊によってイエスを身ごもり、救い主が生まれた。イエスは、聖霊によって生まれたという意味で、人間の生まれながらの肉の力とは何の関係もなく、一切の罪による汚れや堕落と無縁の、神の聖なる独り子であった。

マリヤがキリストを生んだとき、「夫を持たない女」であったことは、キリストの生誕には、人の生来の肉の力が働く余地がなかったことを指している。

イサクが生まれるためには、アブラハムの介在が必要であったが、マリヤがキリストを生むに当たり、ヨセフの存在は、ないがごとくに影が薄くなっている。ヨセフは確かに悩んだ末に、御使いに示されて、マリヤを離縁せず、彼女の身の安全を守るためにベツレヘムまで付い、その後、イエスが生まれた後で、彼女の夫になったが、キリストが生まれたことには、ヨセフは何の関与もなかった。

こうして、聖霊によりキリストを生んだマリヤは、やがて御霊の実を結んで多くの収穫をもたらすエクレシア(教会)を予表している。

また、肉の力によらず、聖霊によって生まれた神の独り子なるイエスの出自は、私たちクリスチャンが、バプテスマを受けて地上の肉なる生まれ(下からの出自)に死んで、水と霊によって新しく上から生まれた出自を代表している。

クリスチャンは、キリストを信じ、水と御霊を通して、上から新しく生まれ、さらに、キリストの死と復活にあずかって、聖なる民とされているのであり、このように、キリスト者が、上から御霊によって生まれた者であることを指して、パウロは、「天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」と述べているのである。

下から生まれた者は、肉の力によって生まれたのであり、罪と死の奴隷である。上から生まれた者だけが、御霊によって、命と平安の自由の中を歩むことができ。

とはいえ、私たちキリスト者も、贖われた者であるとはいえ、その贖いは、地上にあるうちには、まだ完成していない。

私たちの内で贖われているのは霊であって、堕落した魂と肉体は、依然として「罪と死の法則」に支配される旧創造(肉)に属する。それゆえ、信者が地上にいる間、古き肉の情欲に支配されないためには、肉に対して、主と共なる十字架の霊的死の働きが絶えず必要になるのである。

黙示録第12章には、竜(サタン)に追われながら、身ごもって男の子を産む「女」が登場する。これを何の比喩ととらえるのかは諸説別れるが、少なくとも、この女の子孫の残りの者たちが、「神の掟を守り、イエスの証しをまもりとおしている者たち」(黙示12:17)と呼ばれていることを見れば、この「女」は、天のエルサレムに属する者であることが分かる。

このくだりには、女とこれを迫害する竜(サタン)がいるだけで、女の夫たる者の影はない。この時点では、聖徒らを生み出すために、人間の肉なる力が全く必要とされておらず、人類にはまことの主人としてキリストが備えられているため、目に見える「夫」の存在が必要なくなっているためだと見られる。

このように、人類が肉の力で己が子孫を残すという「系図」の意味は、キリストが生まれた時点で終わったのだと言えよう。それ以降、神が注目しておられるのは、人類がどのような者を父母として、どんな系図によって生まれたのかではなく、その者が、果たして、御霊によって上から(キリストから)生まれたのか、それとも、肉なる力によって人類から生まれた堕落した人類に過ぎないのかということだけである。

地上に子孫を残さねばならないという考えは、人間が死ぬことを前提としてのみ成り立っている。一つの世代が死ぬからこそ、自分の命を次世代につなげようとするのであり、これは種としての人類が、自己保存の願望に基づき、世代が連続して続いて行くことによって、あたかもそこに永遠性が保たれているかのように見せかけるトリックのようなものに過ぎない。

だが、キリストによって新しく生まれた人類は、永遠の命を内にいただいているため、この自己保存の願望に支配される理由がないのである。イエスはこのことを指して、サドカイ派の人々と次のような問答をされた。

「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。
 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。

 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」」(マルコ12:18-27)

もちろん、この問答は、サドカイ派の人々が、復活を否定するために、イエスを陥れようとしてしかけた論争であったが、イエスの答えを見るならば、復活の時、すなわち、やがて来るべき神の国、新しい天と地においては、人類にはもはや死はないため、人類のうちに、夫も妻も存在しないことが分かるだろう。

強いて言うならば、その時には、キリストが人類の夫であり、人類がその花嫁なのである。ヨハネの黙示録に、

「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」(黙示21:3)

と書かれている通りである。つまり、この時こそ、神の助け手として、霊的に女性として創造された人類が、まさにあるべき地位について、幕屋としての責務を果たすのである。

だが、そうして新しい天と地が到来する前から、御霊を内にいただいているクリスチャンの内側には、神の国がすでに到来しており、従って、その者はすでに永遠の命にあずかっているわけであるから、死に追い立てられて、子孫を残さねばならないという切迫した生存本能からは解放されているだけでなく、その者にとっての第一義的責務は、地上で滅びゆく子孫を生み出すことではなく、滅びることのない永遠の実を結ぶこと(神の国の権益を増し加え、キリストに連なる者を信仰によって生み出すこと)である。

そのことを指して、パウロは、「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。」(Ⅰコリント7:26-27)と述べたのである。

このように、「めとったり嫁いだり」する行為は、人が有限なる肉体を維持するために、食べたり飲んだりするのと同じく、滅びゆく肉の古き情欲に支配されて起きる、この世の移ろいゆく有様に過ぎず、永遠とは何の関係もないものであり、そのことを、主イエスも次のように示されたのである。

「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」(ルカ17:26-30)

従って、終末の時代、すなわち、キリストの再臨が近づくに連れて、人が古き肉の情欲に従って、自己保存の願望に突き動かされて生きるのか、それとも、キリストにあって永遠の命によって生まれた者として、神の国の新しい法則(命の御霊の法則)によって生きるのかは、人の生死を分ける決定的な分かれ目になることを知るべきである。

キリストが近づいているにも関わらず、依然として、罪と死の法則に支配されて己が情欲に生きる者は、時が来ているのにそれが分からないまま、この世の些事に没頭しているうちに、滅ぼされてしまう危険があると警告されているのだ。このように、神の御心に反し、それをとらえることに失敗する人々の没頭しているこの世の些事に「めとったり嫁いだり」という行為が含まれていることは、見逃すことのできない事実である。

すでに示した通り、黙示録の終わりには、小羊なるキリストと、聖なる花嫁なる天のエルサレムとの婚礼が描かれており、神の目から見て、最も重要な「婚礼」は、ここにある。
 
婚礼の祝宴に招かれているのに、それに注意を払わず、己の命の心配だけに心を費やしている人々は、みな神の御心が分からず、役に立たない僕として、滅ぼされるか、外の暗闇に追い出されてしまうのである。

「イエスは、また、たとえを用いて語られた。
天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、その人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。


そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。その者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:1-14)

むろん、このたとえは、直接的には、まずはユダヤ人に救いが伝えられたのに、選ばれた民が、キリストを救い主として受け入れることを拒んだので、かえって異邦人たちに福音が伝えられたことを指している。

ルカによる福音書1第14章7-24節でも、同様のたとえが記されており、そこでは、祝宴に招かれたにも関わらず、出席を断った人々は、口々に「畑を買ったので、身に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」とか、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」とか、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。などという理由で、これを辞退する。

まさに、売ったり買ったり、嫁いだりめとったりして、己の欲に突き動かされて、個人的な生活に没頭していたことが、小羊の婚礼に彼らが全く注意を払わない理由だったのである。

このように、時代が終わりにさしかかるに連れて、神はますます人類の肉なる力には注目されなくなり、滅びゆく人類が、己が力で子孫を残すことは、何の重要性もなくなるどころか、神の御旨に悪質に対立する行為にさえなり、その代わりとして、目に見えない花婿キリストが、花嫁として準備が整ったエクレシアを迎える真の婚礼の喜びに、誰があずかれるのかという問題が、クローズアップされる。

なお、聖書では、終末が近づくに連れて、すべてのもののスケールが拡大している。創世記では、蛇であったサタンは、「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙示12:9)と呼ばれている。

そして、バビロンは、大いなる都として発展しており、おそらくは堕落した世界的な規模の一大宗教勢力にまで拡大している。

すでに述べた通り、バビロンは、うわべだけキリスト教の装いをしているが、異教と混合した堕落した疑似キリスト教である。そして、「彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:5)とある通り、バビロンは高慢になって、おそらく己が力で天にまで到達しようと、天にまで達するほどの罪をうず高く積み重ねたのである。

これに対して、エクレシアに連なる人々は、獣およびバビロンからの様々な迫害を受けて散らされ、荒れ野に逃げたり、殉教したりしているものと見られるが、バビロンの倒壊後には、聖なる都エルサレムとして姿を現す。これも巨大な都であり、二度と主から離れることのない、聖なる永遠の都として確立する。

このように、主の民は、バビロンと獣からの迫害の中、巨大な試練を受けて、徹底的な弱さの中で、信仰によって、神の力だけによって強められることを知って、すべての試練に勝利をおさめた後で、花婿なるキリストを迎える準備を整えた純潔の花嫁として姿を現すのである。

* * *

さて、以上に挙げたような聖書のくだりを見ても、地上の目に見える都であるエルサレムは、本質的に堕落した都バビロンに通じるものではあっても、贖われた民からなる聖なるエルサレムとは、何の関係もないことがすぐに分かる。

聖書の御言葉のどこを見ても、現在、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三大宗教の聖地とされている地上のエルサレムが、キリストの再臨と大いなる関係を持つ神聖な都であるなどという事実は全く見いだせない。

「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。」(黙示14:1)という黙示録の記述をも、額面通りに受け止めて、キリストが再臨されるのはシオンの山だ、などと言うことはできないであろう。

なぜなら、聖書が一貫して私たちに告げていることは、私たちの目指している都は、地上の都ではなく、「天の故郷」だということだからである。

こうして天のふるさとに達するためにこそ、私たちは目に見えるものに目を留めず、この世的な富、己が欲望を満たすことに心を砕かず、この世に深入りすることなく、かえって、イエスの負われた辱めを身に受けて、宿営(目に見える神殿)の外に出て、みもとへ行こうとしているのである。

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに行こうではありませんか。
わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13:12-14)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)


このように、私たちが求めているものが「天の故郷」であると聖書が告げているのに、どうしてキリスト者が地上の国であるイスラエルの建国や、エルサレムにおける神殿建設などに注目する理由があろうか。

むしろ、救い主であるキリストが来られたのに、これを受け入れず、十字架につけて殺したユダヤ人たちが、聖なる場所として尊んでいた地上の都エルサレムに向かって、主イエスが、どのように厳しい宣告をなされたかを思い出すべきである。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはできない。」(マタイ23:37-39.24:1-2)

主イエスの言葉は、西暦70年に成就して、エルサレムはローマ軍の進軍によって陥落した。エルサレム神殿はその時に滅ぼされて壊滅し、神殿に入れば安全だと考え、そこにたてこもっていたユダヤ人は殺害され、ローマの進軍を避けてマサダに逃げたユダヤ人たちは、そこで集団自決を遂げた。マサダとは「要塞」の意味であり、この要塞へ続く道が「蛇の道」と呼ばれていたことも、偶然とは思えないような話である。

そのとき、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(マタイ24:15)との主イエスの警告も成就したと解釈されるのである。

だが、今日、プロテスタントの信者の一部(キリスト教シオニズムに影響を受けた人々)は、この御言葉には、将来的に起きることを告げる二重の意味があって、やがてエルサレムにユダヤ教の神殿が建設され、そこに反キリストが立つことを預言したものであるとみなし、こうした出来事が成就するのを手助けすることによって、キリストの再臨を早めることができるなどと主張する。

だが、それではまるで反キリストを目に見える都の神殿に立たせることで、キリストの再臨を促そうと言っているのと同じであり、そのためにイスラエルを支援するなどというのは、ほとんど荒唐無稽と言う他ない。

むしろ、こうした状況を吟味すれば、推測できる結論はただ一つであって、反キリストは、異邦人の中からではなく、まさにユダヤ教徒が待望する「メシア」を名乗って、地上の都エルサレムに登場して来るだろうということである。そして、欺かれた一部のキリスト教徒らが、これを聖書預言の成就のため、キリストの再臨のためと称して、イスラエルの諸政策に賛同することで、今からバックアップしようとしているだけなのである。


従って、こうした考えの中には、ユダヤ教とキリスト教の混合という恐るべき発想が込められていることを見なければならない。トランプ米大統領も、娘夫婦がともにユダヤ教徒であり、ユダヤ教の強い影響を受けていると見られるし、トランプの支持層とされるプロテスタントの信者らも、シオニズムが、聖書に合致するものであるかのように思い込むことで、その実、ユダヤ教からの影響力を取り込み、ひどく欺かれているだけであることに気づいていないのである。

だが、日本のプロテスタントも、こうした欺きとどこまで無縁であれるのかは疑わしい。日本のプロテスタントは、米国プロテスタントにあまりにも大きな影響を受けており、さらに、日ユ同祖論などの荒唐無稽な説も流布されており、それを信じて、日本人の生まれながらのルーツを神聖なものとみなそうとする信者すらも現れている。

そのため、日本のプロテスタントにも、イスラエルの行っていることを聖書の御言葉を結びつけて正当化しようという考えがかなり広く普及している。日本が第二次世界大戦中にナチス・ドイツと同盟国であったなどの歴史的過去への罪悪感も、それに影響を与えていることであろう。

こうして、地上のイスラエルという国を、あたかもメシアを生み出すための神聖な母体であるかのようにみなす思想が、プロテスタントの中にも、まことしやかにキリスト教の仮面をつけて入って来ているのであり、こうした動きはすべて、筆者には、目に見える宗派としてのプロテスタントが、反キリストの到来へと整えられつつあることの現れであるように見受けられる。

だが、もちろん、このようなキリスト教シオニズムは、聖書の記述を文字通りに真理であると信じる信仰とは何の関係もない考えであるから、それは聖書信仰に基づく思想ではあり得ないこと、むろん、当ブログの見解とも何の関係もないことを、何度でも断っておかなければならない。

* * *

さて、パウロの言葉の中で、今日、信者の間で多くの議論を呼んでいる箇所がある。それはテモテへの手紙第一の中で、パウロが次のように述べていることである。

「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。この言葉は真実です。」(テモテ一2:12-15,3:1)

今日、ほとんどの教会は、これを文字通りの原則として取り入れるようなことはしていない。

私たちは、主イエスが地上でまだ幼子だったとき、エルサレムの神殿で、長子を神に捧げるための儀式を行うに当たり、シメオンとアンナが彼を出迎えたことを知っている(ルカによる福音書第2章)。そのうち、アンナは八十四歳になったやもめの女預言者であった。

このように、この時点でも、神殿には女預言者が仕えていたのであり、今日のプロテスタントにも、多数の女性牧師や説教者がおり、今日のプロテスタントでも、女性が教会では黙っていなければならないとか、女性が子を産むことによって救われるなどという教説を教えている教会はまずない。
 
なお、ローマ帝国においては、女性には基本的に市民権が与えられておらず、政治参与が認められておらず、その点でローマの女性たちの教養がひどく低かった可能性は考えられ、パウロが、そうした事情の下で、以上の言葉を、文字通りの意味で使っていた可能性も全く考えられないとは言えないものの、それがパウロの勧めという域を超えて、聖書の原則に合致するものであると言えるかと問えば、答えは否であろう。

なぜなら、以上の言葉は、パウロ自身がガラテヤ書で、天のエルサレムを「夫のない女」「子を産まない女」にたとえていることと、全く矛盾するからである。

さらに、イエスがスカルの井戸で出会われ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と告げられ、かつ、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<略>まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)と告げられた女も、ユダヤ人からは蔑まれているサマリヤの女であり、しかも、かつては五人の夫があったのに、イエスと出会った時には、夫ではない者と連れ添っている女であった。

このように、聖書の原則は、強い者ではなく弱い者、高ぶる者ではなくへりくだる者、人に認められて評価される者ではなく蔑まれる者、選ばれた者ではなく見捨てられた者、人の目から見て取るに足りない者、無に等しい者を、神は常に用いられるというものである。

従って、以上に挙げたパウロの言葉も、一種の比喩としてとらえられる。つまり、ここで言われている「婦人」とは、エクレシア全体すなわち人類を指しており、男から女が造られたように、人類は神の助け手として、神に仕えるために創造されたのであって、その意味で、神と人類、キリストとエクレシアとの主従関係は、逆転されてはならないものである。
 
人類には神に言い逆らうことはできず、御言葉に従わなければない。だが、エバが蛇に最初にそそのかされたように、人類は神に背いて堕落したのであって、もともと罪になびきやすい性質があるゆえ、イエスの御言葉に従うためには、自分の堕落した肉の力である情欲に対して、絶えず十字架の霊的死を帯びていなければならない。そして、偽りの教えに惑わされず、固く信仰に立ち続けて、たゆみなく善を行うならば、高ぶって滅びゆく肉の子孫を誇るのではなく、キリストに連なる永遠に至る収穫をもたらし、神に喜ばれることができるだろう。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(ガラテヤ6:7-10)

従って、神が人類に求めておられるのは、どこまでも肉の力によらず、信仰によって、永遠に至る実を結ぶことなのであり、己の欲により目に見える成果を残すことではない、ということが分かるだろう。

そういう意味で、今日のキリスト教の礼拝は、ますます目に見えるものから解放される必要に迫られていると言える。すでに述べたように、プロテスタントは、神への礼拝を教会の目に見える様々な装飾からくる感覚刺激から解放し、信者をより深い御言葉への知的理解へ向かわせた点で、大きな信仰の回復を成し遂げたが、今日、私たちは、神への礼拝をさらに目に見える指導者や、目に見える礼拝堂からも解放して、「この山でもエルサレムでもない所で」、より一層、見えないキリストを通して父なる神にのみ捧げる必要に迫られている。

そこで、目に見える既存の教団教派が、今後、ますますバビロン化へ向かう一方で、御霊の働きは、地上では何も持たないつつましい「やもめ」として、目に見える団体や指導者にではなく、見えないキリストだけに頼って歩む、エクレシアの各々の信者の中に受け継がれて行くであろう。

2019/03/12 (Tue) キリストの再臨

「預言者ハバククが、幻で示された託宣。

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
 いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
 あなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ
 労苦に目を留めさせられるのか。
 暴虐と不法がわたしの前にあり

 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
 
  律法は無力となり
 正義はいつまでも示されない。
 神に逆らう者が正しい人を取り囲む。

 たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。

 諸国を見渡し、目を留め
 大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。
 それを告げられても、お前たちは信じまい。

 見よ、わたしはカルデア人を起こす。
 それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め
 自分のものでない領土を占領する。

 彼らは恐ろしく、すさまじい。
 彼らから、裁きと支配が出る。

  彼らの馬は豹よりも速く
 夕暮れの狼よりも素早く
 その騎兵は跳びはねる。騎兵は遠くから来て
 獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。

 彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き
 砂を集めるようにとりこを集める。

 彼らは王たちを嘲り
 支配者たちを嘲笑う。どんな砦をも嘲笑って
 土を積み上げ、それを攻め取る。

 彼らは風のように来て、過ぎ去る。
 しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。

 主よ、あなたは永遠の昔から
 わが神、わが聖なる方ではありませんか。
 我々は死ぬことはありません。
 主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。
 岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らを立てられた。

 あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。
 人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。
 それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか
 神に逆らう者が、自分より正しい者を
 呑み込んでいるのに。

 あなたは人間を海の魚のように治める者もない、
 這うもののようにされました。


 彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、
 投網を打って集める。

 こうして、彼らは喜び躍っています。

 それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ投網に向かって
 香をたいています。

 これを使って、彼らは豊かな分け前を得食物に潤うからです。

 だからといって、彼らは絶えず容赦なく諸国民を殺すために
 剣を抜いてもよいのでしょうか。 


 わたしは歩哨の部署につき砦の上に立って見張り
 神がわたしに何を語り 
 わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

 主はわたしに答えて、言われた。
 「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。

 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。
 それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。
  (ハバクク第1章1節~2章4節)


* * *

今、非常に大きな感動が心に込み上げて来る。
これほど、上記の御言葉がタイムリーに響く瞬間が他にあろうか。

筆者は昨年、暗闇の勢力から挑まれたおびただしい数の不法行為に対して、ふさわしい裁きが下されることをを待ち望み、この争いを司法の場に持ち出した。

結審するまでの間に、極めて激しい戦いがあったことは先の記事で記した。筆者は、提訴、控訴、反訴の脅しのすべてに立ち向かって、この脅しを粉砕しなければ、判決にたどり着くことができなかったのである。

だが、そこで戦いは終わりとならなかった。

結審から判決が出るまで3ヶ月。その間にも、空中で激しい論戦が行われた。

口頭弁論が開かれていた頃にも、暗闇の勢力からは、嘘に満ちた険悪な議論が、書面および口頭にて幾度もしかけられた。その際、この事件を担当してくれた裁判官は、親切で善良な人であったので、筆者がこれ以上の権利侵害を受けて、より一層の身に危険が及ぶことを案じて、議論がひどくなる前に制止してくれたり、筆者が答弁する前に、被告らに対して、筆者の答弁を代弁するかのようなしかるべき注意を述べてくれたこともあった。

裁判官は、か弱い一人の女性としての筆者の身を案じ、何とか審理が平和裏に解決することを願っていたのであろう。だが、それは人間的な観点からは正しい措置であったかも知れないが、しかし、筆者には、依然として、自分一人で受けねばならない「杯」が残っていたことが分かっていた。

筆者はキリスト者として、誰の力にも頼ることなく、自らの意思により、信仰の証しを貫徹して、霊的戦いを制することができなければならない。

この裁判に限らず、筆者が心の底から待ち望んでいる正義の判決は、筆者自身が、死に至るまでの従順によって、神に従う決意表明をすることなしにば、勝ち取れないものなのである。

そこで、結審を勝ち取ったことそれ自体は、極めて大きな勝利だったとはいえ、この戦いは、裁判が結審しても、終わりにならず、筆者は、土の器である自分がさらに裂かれることに同意せねばならず、その後も、暗闇の勢力からの論戦は、掲示板に飛び火して、そこでこれまで以上に徹底的な誹謗中傷と、権利侵害がなされたのである。

これがこの訴訟におけるいわば最終戦で、弁論が打ち切られた後も、暗闇の勢力はこれを場外乱闘に持ち込んだのだと言えよう。

むろん、この世の法に違反する者は、この世の法によって裁かれる。従って、彼ら不法行為に及んだ者どもが、処罰に値するのは言うまでもない。そして、しかるべき措置は取られている。
 
だが、筆者がここで言いたいのは、キリスト者には、主の御名のゆえに、受けねばならない苦難があって、それは私たちが信仰を守り抜く上で、避けては通れないものであり、私たちは御名の栄光のために、その代価を払うことを惜しんではならないということである。

この世の人々は、弱い者の身に危険が及ばず、より一層の権利侵害が起きることを防ぐためには、議論を早々と打ち切って沈黙することが、最善であるかのように思っているかも知れない。

だが、そうではない。キリスト者には、決して語ることをやめてはならない瞬間があり、絶対に退却することのできない戦いがある。

たとえ、ある瞬間に、誰かキリスト者が、自分の身を案じて、語ることをやめたとしても、その戦いは、決してそこで終わりにならないだろう。キリスト者は、一つの戦いに自分で立ち向かって勝利をおさめない限り、生きている間中、それに圧迫され続けるだけなのである。従って、身の安全を考えるならば、まずは暗闇の勢力に毅然と立ち向かって、敵の武器をへし折ることなくして、圧迫も脅かしも止むことはないと知るべきなのである。

当ブログにしかけられている論戦は、人間対人間の争いではなく、それを超えた領域にある、神の聖霊と、それに逆らう霊的勢力との間で行われている激しい戦いである。

それが証拠に、当ブログに対して投げつけられている非難と悪罵の言葉をよく見れば、誰しも、その根底には、聖書そのものに対する非難と悪罵があることがすぐに分かるだろう。

たとえば、当ブログの証しが「妄想」によるものであって、精神病の産物であるかのように主張している人たちは、驚くべきことに、聖書の記述そのものが、荒唐無稽なファンタジーであるかのように主張している。

彼らは、創世記において、エデンの園において、悪魔が蛇の姿を取って人の前に現れ、人類をそそのかしたなどという記述は嘘であると言う。むろん、ノアの洪水や、悪魔や悪霊の存在なども、みなファンタジーに過ぎず、そもそも聖書は古代文献の一つでしかなく、そこに書かれていることは、神話であって、額面通りに信じること自体が愚かしいことだと主張している。

恐るべきことに、当ブログに激しい論戦を挑んでいる彼らは、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、聖書が、神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、聖書は人間が書いたものに過ぎないなどと主張している。

彼らの主張を要約すれば、「悪魔なんてない。暗闇の勢力もない。そんなものはみな精神病の産物だ」ということになろう。

そこから察するに、人類の堕落も、悪魔の存在も、ノアの洪水も認めない彼らは、当然ながら、マリアが聖霊によって身ごもってキリストを生んだなどの記述も、認めていないであろう。

だとすれば、聖書をファンタジーに満ちた古代文献に過ぎないとしている彼らは、結局のところ、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、キリストが神の独り子であって、人類の罪の贖いのために十字架にかかられたという聖書の基本的な真理を、全く認めていないことになる。

そこから導き出される結論はただ一つであって、彼らが当ブログをバッシングすることで、真に広めようとしていることは、結局、キリストは神の子ではなく、人類の救い主ではないという一言に尽きる。

要するに、イエス・キリストが神の子であることを否定し、十字架の贖いを否定したいがために、彼らは2009年に当ブログに発表された「キリストの十字架以外に救いはない!」という記事に猛反発し、それ以来、執拗に当ブログに対するバッシングを続けて来たのである。

従って、そのバッシングの根底にあるのは、聖書の御言葉が真理であることを否定して、イエスが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定する反キリストの思想である。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:18-21)

従って、このような恐るべき聖書の御言葉を否定する冒涜的発言が投げつけられている時に、我々が沈黙しているとすれば、それはまさに我々が反キリストの思想に屈したことを意味するだけである。

この争いは、人間対人間の争いではなく、神と悪魔との間で繰り広げられている激しい論戦であり、私たちキリスト者は、その戦いにおいて、最後まで、固く神の側に立って、聖書の御言葉の正しさに立脚して、暗闇の勢力の前で、自らの信仰の証を毅然と続けねばならない。

初代教会の使徒、信者たち、全世界のクリスチャンたち、また、日本における戦前、戦中の信者たちも、同じように迫害を受け、そこで信仰の証しを選び取るのか、身の安全を選び取るのか、選択を迫られたのである。

誹謗中傷がなされたからという理由で、さっさと退却しているようでは、そこですべてが終わりとなり、激しい戦いを勝ち抜いて信仰の証しを守り切ることなど決してできるはずもない。
 
我々はこの地上の全被造物の前で問われている。我々にとって最も大切なものは何か。自分の名誉や、身の安全か。それとも、神の御言葉の正しさなのか。

私たちは、悪人にはふさわしい裁きが下されることを願い求めているが、それが実現する前に、まず、自分の信じている神の御言葉の正しさを公然と世に証明せねばならず、そのために自分の持てるすべてを捧げ、死をも辞さないという覚悟で、すべての圧迫に立ち向かって、勝利をおさめるべきである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

とある通りである。もしも私たちが命をかけて証をしなければ、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)すなわち、サタンを天から投げ落とすことはできない。

「イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)
 
口先だけの内実の伴わない言葉では、悪魔と暗闇の勢力に対して、何の脅威をも圧迫をも、もたらすことはできない。

仮に私たちが自分の命を惜しんだとしても、それによって自分の命を保つことはできない。自分の命を真に大切にするならば、なおさらのこと、主に従い抜くために、死に至るまで自分の命を惜しまない覚悟で、御言葉の確信に立ち続け、信仰の証を守り通すことが必要となる。それによって自分の命を再び得ることができよう。
  
それが、主イエスの受けた辱めを負って、この世の宿営の外に出て、御許へ召されることの意味である。世の人々が、私たちの信仰をどんなに嘲笑い、罵ったとしても、その脅かしを恐れてはならない。もしも私たちが真に主の民に属し、心の内で、主の御名のゆえに苦難を受けていることを知っているならば、その杯を最後まで受け切ることを恐れてはならない。
 
「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに行こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13:12-14)

このように、キリスト者が、完全に自分自身を主の死に同形化するとき、初めて暗闇の勢力の最大の脅しも打ち破られて無効化され、復活の力の大胆な現れが起きて、彼らは退却して行く。

さらに、それに伴って、大きな富の明け渡しが起きるだろう。

前の記事で書いた通り、神はご自分を信じる民を、絶望の中に沈黙して見捨てて行かれるような方ではない。神は私たちを苦難の中に見捨ててはおかず、ふさわしい時に、力強く御手を伸べて、私たちを救い出して下さる。

しかし、山々を引き裂いて天から降りて来て、すべての被造物を一瞬で沈黙させ、圧倒的な裁きを下すことのできる神は、まずは地上において、私たち信仰者自身が、果たすべき責任を果たすのを待っておられる。

そのために、私たち自身にも、代価を払うことが求められる。すなわち、私たちは、古いもの(魂、肉体)に霊的死の働きがなされることを許し、自分を祭壇に横たえ、全勝のいけにえとして、自分自身に御言葉の剣が刺し通されるのを許さなければならない。

そうして、私たちの古いものがまず死に渡され、私たちがキリストの苦しみにあずかるとき、私たちの内に、より一層の清めと、肉に対する霊的死の効果が働き、私たちはキリストの死に自分を同形化しつつ、彼の復活の力を知って、戦いに勝利することができるようになる。

こうして、主の苦しみにあずかり、試練を忍び通して勝利を得る決意を固めることが、私たちの「心の武装」である。

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」(Ⅰペテロ4:1-2)

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして使者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)

主イエスは地上におられた間、絶えず、パリサイ人や律法学者から論戦を挑まれ、罪人たちから猛烈な非難を浴びせられ、その反抗を耐え忍ばれた。

そこで、私たちも、あらゆるいわれのない論争をしかけられる時にも、忍耐強く応戦して行かねばならない。もしかしたら、一人くらいは、その論戦を見聞きして、考えを改める者も出て来るかも知れない。

へブル書にはこうある、

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)
 
* * *

これまで2009年来、当ブログをバッシングして来た人々が、最もひどい攻撃の対象として来たのは、プロテスタントの教会の中でも、いわゆる聖霊派と呼ばれる、聖霊の働きを強調・重視する教会の関係者に対してであった。

ペンテコステ運動の中には、怪しげな霊の運動も混入しており、今や数々の混乱が引き起こされているのは事実であるが、上記の人々が、聖霊派の教会や信者に対して最もひどいバッシングに及んだ背景には、彼らが、聖霊の働きを心底、憎んでいることが挙げられる。

それはちょうど戦時中、キリスト教徒の中でも、ホーリネス信者に対して、最も激しい迫害が行われたのと、構図は同じである。ホーリネス信者は、その当時、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」を文字通り信じており、そこには聖霊の目覚ましいわざが働いていた。それが国体思想の持主にとって最も恐るべき脅威と映ったであろうことは想像に難くない。
 
ホーリネスの運動が形骸化した後、その流れを汲んで登場して来たのがペンテコステ運動であり、さらに、ペンテコステ運動が当初の純粋性を失った後では、御霊の働きは、この運動を離れて信仰を守る民に最も顕著な形で受け継がれた。

聖霊は、やがて来るべき神の国の秩序そのものであり、サタンがどんなことをしても手を触れることのできない、破壊することもできない復活の領域である。そこで、サタンは、聖霊を攻撃できないので、信者を攻撃するのであり、暗闇の勢力は、いつの時代も、キリスト教の中でもとりわけ、聖書の御言葉を文字通り真理であると信じ、信仰を通して、御言葉を忠実に体現し、これを実際として地に引き下ろし、神の聖霊のみわざを大胆に実現しようとしている人々の証を、集中的に攻撃・破壊しようとして来た。
 
ちなみに、聖書には「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)とある。

悪魔と暗闇の勢力には、聖霊そのものを冒涜することも、破壊することもできないが、信者は人間であって、旧創造から成る贖われていない部分を持っているので、神の聖霊を持ち運んでいる外側の「器」としての信者を攻撃することは、暗闇の勢力には、ある程度、可能である。そこで、敵は、信者の心と体という旧創造の部分に対して、激しい攻撃をしかけて来る。

私たちが心を圧迫され、肉体が危険にさらされることを案じて、早々に信仰の証しをやめることが、彼らの狙いである。
 
しかし、これは、人間対人間の争いではなく、
聖書の御言葉の真実性を否定する思想の持ち主と、聖書の御言葉の真実性を証する者との間の、霊的な激しい論戦であるから、私たちは、自分の魂と肉体に対してしかけられる攻撃に対して、主と共なる十字架の死に自分を同形化して応戦せねばならない。

その時、私たちの霊的死の只中から、目覚ましい復活の命の働きが起きて来る。死がなければ、復活も生じず、私たちがまずキリストの苦しみにあずかり、その死の中に、大胆に御言葉が信仰によって働くことなくして、復活の命の現れはないことを知るべきである。

黙示録を見ても、キリストが再び来られるまでの間、エクレシア(教会)は激しい戦いを戦い抜かなければならないことが分かる。

そこで、私たちも、試練を通される覚悟を固めるべきであり、おびただしい証人たちの前で、自分に定められた競争を勇敢に走り抜き、賞を勝ち取ることができるかを試されていることを思うべきであろう。

暗闇の勢力は、聖書の御言葉の真実性を破壊するために、キリストの十字架に逆らい、聖霊に逆らって、神に反逆しており、あれやこれやの信者を迫害することで、聖書の御言葉の真実性そのものを破壊しようとしている。だが、私たちはそれに対抗して、より一層、公然と御言葉の正しさを世に掲げなければならない。
 
もちろん、私たちの主は、遅れることなく、速やかにやって来て、最後まで忍耐して勝利をおさめた者たちには栄光を与え、悪人にはふさわしい裁きをなして下さる。

だが、それを待つ側である私たちは、主を迎える準備が出来ていると言えるだろうか? よくやったと主人に褒められる働きを確かになしたという確信があるだろうか?
 
判決を待ちながら、主の再臨を思う。そして、地上に置かれている間、より一層、心の武装をして、御言葉を実際として地に引き下ろし、サタンのわざを無効化し、御霊の自由と解放を実現するための方法を知らねばならないと思う。主の再臨は、そのように御言葉を実際として生きる主の民の存在によってこそ、早められ、引き寄せられることであろうと確信する。「主よ、来たりませ」と言いたい。



* * *

さて、暗闇の勢力から当ブログに対する非難が最も激烈なものとなった時期の一つが、昨年の5月頃であり、それは当時、国際社会でエルサレム問題が再び注目されていたこと密接な関係があった。

2017年末から、米国のトランプ大統領は、エルサレムをイスラエルの首都として公式に認めると宣言しており、昨年5月にはイスラエル独立式典70周年の記念式典に合わせて、それまでテルアビブに置かれていた在イスラエル米国大使館が、エルサレムに移転された。また、同月、トランプは現職大統領として初めてエルサレムの「嘆きの壁」を訪問し、ユダヤ教徒の装束でユダヤ教式の祈りを捧げるなどしている。

(この問題については、
米、エルサレムをイスラエルの首都と承認へ 各国で初めて」(BBC news 2017年12月6日)、
焦点:米大使館移転で中東緊迫化、「エルサレム問題」とは何か」(REUTERS 2018年5月15日)、
トランプ家とユダヤ教、その浅からぬ関係 現職で初めて聖地「嘆きの壁」を訪問した意味」(東洋経済ONLINE 内田 通夫  2017年5月30日)、
エルサレム問題」(コトバンク、知恵蔵 大迫秀樹 フリー編集者 2018年の解説)などを参照されたい。)

だが、日本を含め、国際社会の多くの国々は、イスラエルがエルサレムを自国の主都と宣言していることを認めておらず、依然として大使館をテルアビブにおいており、米国大使館の移転に伴う式典にも代表者を送らなかった。その移転に伴い、パレスチナ側からの抗議行動も高まり、イスラエルによるパレスチナ占領を非難する論調が、マスコミを通じて一気に広まり、ネット上でも大々的に拡散された。

その時、マスコミは一斉に、トランプ大統領を以上のような行動に突き動かしたのは、彼の有力な支持基盤であるキリスト教福音派(米国プロテスタント)であるとして、キリスト教福音派は、親イスラエル的な態度を取って、国際社会の非難を無視してイスラエルの不法な占領を正当化しているとして、一斉にキリスト教福音派をバッシングするニュースを展開したのである。

その際、マスコミは、一般の日本人にはそれほどなじみのないエルサレム問題を訴えることで、キリスト教福音派を攻撃するのではなく、むしろ、キリスト教福音派がLGBT(同性愛)を聖書に基づかないものとして否定しているとか、妊娠中絶を否定しているなどの理由を挙げつつ、あたかも福音派が、現代社会になじまない非常に偏狭かつ狭量で短絡的な主義主張をいくつも掲げており、それゆえに、エルサレム問題についても、イスラエルの占領を正当化しているかのように結びつけて、キリスト教福音派を非難するという態度を取った。

このように、昨年5月にエルサレム問題がマスコミで取り上げられ、トランプ大統領の支持基盤であるキリスト教福音派へのマスコミによる攻撃的なニュースが流されたことを機に、それに煽られた愚かな人々が、未だかつて一度もエルサレム問題など論じたこともない当ブログにまで押しかけ、大いなるバッシングを加えたのであった。

彼らの言い分は、要するに、当ブログが、すべてのプロテスタント教会と同じく、聖書を神の霊感を受けた書物であって、そこに書かれている記述は真理であると信じて、信仰の証しを続けていること自体が、許しがたいことであって、当ブログが、同性愛に反対し、LGBTを擁護せず、妊娠中絶を認めておらず(当ブログは一度もこの問題を論じたことがない)、イスラエルによるパレスチナ占領を非難した記事も見当たらないことが、その証拠だというのである。

そういう決めつけを持ち出して、彼らは、聖書を額面通りに信じるキリスト教徒こそ、現代社会において許容されない恐るべき差別と偏見を生み出すカルト思想の思想の持主であって、要するに、聖書を文字通りに信じることは恐るべき誤謬であると主張して、当ブログを非難したのである。

ちなみに、この滅茶苦茶な問題提起の中には、あまりにも多くの錯綜がまじりあっているため、誤解のないように丹念に紐解いて行かなくてはいけない。

まずはエルサレム問題からだ。

ここで、まず、マスコミが十把一からげに用いているトランプの支持層であると呼ばれている「キリスト教福音派」という用語を我々は整理しなければならない。

キリスト教福音派とは、元来、聖書の記述を真理であると信じる米国プロテスタント全体を指すような、かなり広義かつあいまいな用語であって、現存する一定の団体などを指すものではないから、プロテスタントのどれくらいの信者をこれに含めることができるのかも、正確には定義できない。

実際には、プロテスタントには数限りない流派があって、考え方も詳細は様々に異なり、むろん、キリスト教福音派の中にも、イスラエルによるパレスチナ占領に反対しているクリスチャンは存在している。そこで、キリスト教福音派全体が、米国大使館のエルサレム移転をみな歓迎しているかのような言い方自体が、正確ではないと言えよう。

エルサレムをイスラエルの主都と認めることを歓迎しているプロテスタントのキリスト教徒とは、結局のところ、米国福音派というよりも、米国プロテスタントに浸透している「キリスト教シオニズム」に感化された人々を指すと言うべきである。

彼らの考え方がどのようなものであるかは、「イスラエル首都エルサレム移転」を福音主義者が支持するのはなぜか? 」(BizSeeds 2017年12月19日 )などを参照されたい。ここで「福音主義者」とされているものを、「キリスト教シオニズムに影響を受けたプロテスタント信者」とすれば、彼らの考え方が見えて来る。

「これらの記述を信じている福音主義者たちは、「イスラエルがユダヤ人のものであり、イスラエルの首都がエルサレムだ、ということは神が決めたことであり、議論の余地はない」、「イスラエルが神の意向に沿って、エルサレムを首都とした形で再建されれば、イエス様が再臨してくれる」と本気で信じているわけである。」



一言で言えば、キリスト教シオニズムに影響を受けたプロテスタントの信者らは、世界中に散らされた民であるユダヤ人が、イスラエルに集まって自分たちの国を建国し、エルサレムを首都と定め、そこに第三神殿を再建することが、聖書の記述に合致しているものと信じ、それらの出来事は、聖書の預言の成就であるから、絶対に起こらねばならず、さらに、それはキリストの再臨をもたらすために不可欠な将来的な歴史事件であるから、その実現を早めるために、イスラエルを支援するのは当然だ、と信じ込んでいるのである。

こうして、彼らはイスラエルによるエルサレム占領と神殿建設を推し進めることによって、キリストの再臨を引き寄せることができると信じ込んでいる。

一体、現在の米国プロテスタントにどのくらいの割合で、キリスト教シオニズムが浸透しているのか、筆者はよく分からないが、恐るべきことに、このような考え方は、米国プロテスタントには相当に広く普及している可能性があり、筆者が知っている限り、米国のみならず、日本のプロテスタントにおいても、相当に広くプロパガンダされつつあることは確かである。

「イスラエルのために祈れ」とか、第三神殿の再建に注目することで、聖書預言の成就を観察することができるなどと言っている人たちがそれに当たる。

ちなみに、当ブログは次の記事でも詳しく根拠を記すように、そのような人々と同じ考えには立っていない。そして、キリスト教シオニズムのような考え方が、聖書の記述を忠実に信じた結果として導き出されるとも到底、考えられないものとみなしている。
 
むしろ、当ブログで危惧しているのは、プロテスタントのキリスト教界が、カルト被害者救済活動(当ブログをバッシングしている勢力)の恫喝に屈して信仰の証しを保ち続けられなくなった以上、プロテスタントはすでに霊的に役目を終えており、新たな信仰回復運動が待たれるが、こうして、御言葉に基づく信仰の証しを離れ、御霊の息吹を失って、形骸したプロテスタントは、この先、反キリストの到来の下準備に利用されていく危険があるということである。

その際に非常に大きな役目を果たすのが、キリスト教シオニズムではないかと考えられるのである。
 
いずれにせよ、マスコミは、米国大使館のイスラエル移転をきっかけに緊張が高まったエルサレム問題を利用して、本来、「キリスト教シオニズム」に限定して向けられるべき非難を、ターゲットをすり替えて、プロテスタント全体(福音主義)へ置き換え、さらに、それをあろうことか、「聖書を文字通りに真理であると信じる信仰」(聖書信仰)に置き換え、聖書の記述を真理であると信じるすべての人々の信仰を非難・攻撃する材料として利用した。

それに便乗して、かねてより、当ブログに対して非難を展開していた人々が、これに飛び付いて、当ブログの信仰の証しに今まで以上に悪質なバッシングを加える材料としたのである。

だが、彼らの主張の根本は、すでに述べた通り、LGBT擁護や、妊娠中絶の容認や、エルサレム問題の考察にはなく、要するに、彼らは、聖書は荒唐無稽なファンタジーであって、それを額面通りに信じるなど、まさに愚の骨頂であり、精神病の産物に過ぎないという主張をしたいだけなのであり、エルサレム問題は、彼らが聖書を攻撃して、自らの反キリスト的思想を述べる新たなきっかけとなっただけである。
  
同性愛や、LGBTや、妊娠中絶を肯定する記述が聖書に存在しないことは、すでに記した通りであるから、反論するまでもない。ただし、エルサレム問題については、上記した通り、これはプロテスタント全体を新たな恐るべき誤謬に陥れる可能性のある非常に危険な思想的問題をはらんでいることから、このテーマについては次の記事で詳しく論じるつもりである。

* * *

予告として、多少、先走って述べておくと、プロテスタントはカルト被害者救済活動の恫喝に屈し、すでに霊的に役目を終えているが、M,Kなど、カルト被害者救済活動に迎合したクリスチャンの指導者らが、みな東洋思想からの強い影響を受けていることにも見られる通り、当ブログにおいては、終末のバビロンは、キリスト教と東洋思想を融合した「混ぜ合わせた福音」であるという考えを、これまで幾度となく述べて来た。

戦前・戦中の日本の国家神道・国体思想も、西洋思想と東洋思想の融合を掲げていたのである。

当ブログでは、東洋思想の根底にはグノーシス主義があること、すなわち、「母が脅かされているから、母を守らなければならない」という恐怖と被害妄想による自己防衛の連帯願望があることを述べて来た。東洋思想は、日本で「禅」という、最も洗練されて完成された形態にまで発展したが、そこで指摘されている、「母」を脅かしている存在とは、「父」すなわちキリスト教であるということも論じた。

つまり、東洋思想の根底には、自分(この思想の持主)がやがてキリスト教によって罰せられ、駆逐されるという潜在的な恐怖があるのだと言える。言い換えれば、これは聖書の父なる神を敵として、人類の罪意識から出て来た自己防衛の思想なのである。

さて、戦前・戦中の日本の国体思想は、日本という国を、「万世一系の天皇家という神聖なる血統とそれに赤子として連なる臣民」を容れるための「神聖な母体」であるとみなすものであったが、このような思想が起きて来たこと自体が、東洋思想の側から、キリスト教に対する必死の自己防衛反応であったと言える。

国体思想の中では、東洋思想と西洋思想を合体して新たな日本文化を創造することがその使命であると提唱されていたことも確認したが、このような発想の中には、「敵にやられる前に、敵に近づいて、敵を味方に取り込み、敵と合体することで、何とかして生き延びよう」という東洋思想の側からの生き残りをかけた必死のあがきが見て取れる。

さて、単純に言えば、この国体思想を、思想の形態は違えど、基本形は同じまま、日本からイスラエルに置き換えたようなものが、キリスト教シオニズムであると筆者はとらえている。

なぜなら、キリストを救い主と認めないユダヤ教徒は、メシアは自分たちの只中から将来的に出現すると信じ、イスラエルという国は、その母体となるとみなしているからである。しかも、現在のユダヤ教およびイスラエルには、国が消滅し、全世界から迫害され、散らされて来たという歴史的過去のために、自分たちが絶えず脅かされているという潜在的な被害者意識と自己防御の願望がある。そして、彼らをそのように脅かしたのは、キリスト教国の人々であり、とりわけ、プロテスタントであると言うことができるであろう(この点については、後述する)。

そこで、ユダヤ教の中にも、キリスト教に対する潜在的恐怖が内包されていると言えるのであって、それゆえに、今やユダヤ教のシオニズムの側から、キリスト教に対する(融合のための)手招きがなされているのである。

その罠を見抜けず、この招きにキリスト教徒を名乗る人々の一部が浅はかに乗り、ユダヤ教とキリスト教の折衷案のようなアイディアを作り上げたものが、現在のキリスト教シオニズムである(ただし、これは現在のプロテスタントに広まっているものを指し、キリスト教シオニズムそれ自体はもっと古い起源を持つ)。

その結果、ユダヤ教徒は、イスラエルをメシアを生む母体となる国(国体)であるとみなし、キリスト教シオニズムに感化されたキリスト教徒は、イスラエルはキリストの再臨を促す神聖な母体であるかのように考え、両者ともに、地上の国としてのイスラエルとその諸政策を賛美することにより、ユダヤ教とキリスト教の融合という、歴史最後の最も洗練された「混ぜ物の福音」のカクテルを作っているところなのであり、彼らはそのようにして、まさに反キリストの到来の下準備をしているというのが、当ブログの見解である。

そこで、これから先の、目に見える組織や団体としての日本のプロテスタントは、戦前・戦中に国体思想を受け入れてこれと合体することで、真実なキリスト教徒を迫害する側に回ったように、今また新たに東洋思想との融合という「混ぜ物」の作業に加えて、最後の総仕上げとして、ユダヤ教シオニズムを内に取り込み、キリストの再臨を願うと言いつつ、イスラエル発の新たなる「国体思想」に賛同し、時間をかけて、反キリストの到来に道を備え、人類最後の蜂起へと向かって行くという恐るべき仕事を果たすことになるのではないかと考えられる。

いずれにしても、カルト被害者救済活動に立ち向かうことができなかった時点で、プロテスタントはすでに役目を終えている以上、これから先、これが新たな信仰回復運動の源となることはもはや見込めない。役目を終えたものが存続し続けると、どういう諸政策が起きるかは、改めて説明する必要がない。

私たちは、聖書原理主義者とか福音主義者などと呼ばれる人々が何を主張しているのかに注目するのではなく、聖書そのものが何を言っているのか、自分できちんと吟味し、考えなくてはならない。聖書原理主義者が唱えている内容が、すなわち、聖書に書かれている内容ではないからである。

聖書はユダヤ教(キリスト教)シオニズムを全く唱道してなどいないというのが、筆者の考えである。それは歴史的には成就する出来事を含んでいるかも知れないが、むしろ、反キリストへとつながる動きなのだとみなされる。従って、そのようなことを口実に、当ブログがあたかもイスラエルによるパレスチナ占領やその他の諸政策を奨励・賛美しているかのようにみなして、「キリスト教原理主義者」とか「福音主義者」などとレッテルを貼って、聖書に忠実に歩む当ブログの信仰の証しを非難するのは、まさしく完全な筋違いと言う他ない。

2019/03/10 (Sun) キリストの再臨

前回の記事を多少、補っておきたい。

以下の事典の抜粋にもあるように、今日でも、キリスト教の宗派の中で、とりわけ説教を重要視しているのは、プロテスタントである。

世界大百科事典 第2版の解説 せっきょう【説教 preaching】

 一般に宗教集会において,その教えを信徒および未信徒に説く言葉。仏教では,説法,唱導,説経など諸種の呼び名がある。今日,説教をその布教の最も重要な手段として重視するのは,プロテスタント教会である。古来キリスト教会では,集会(礼拝)において,聖書朗読と,その聖書の言葉の意味を会衆に説き明かして聞かせる説教とが重視されてきた。カトリック教会や東方正教会では,説教の重要性が薄れ,これを再び強調したのが宗教改革である。

プロテスタントの礼拝では、牧師の説教は、礼拝時間全体の6~8割くらいを占め、説教題が、その日の礼拝の主要テーマとなる。聖歌や讃美歌、祈りの内容、証等も、基本的には、すべて説教に合致するものが選択される。

今日、カトリックのミサでも、説教は行われるが、カトリックの礼拝における説教の重要性は、プロテスタントとは比べられないと、かつてカトリックに去った信者が言っていたことを思い出す。

『[シリーズ・世界の説教]近代カトリックの説教』(高柳俊一編、教文館)という著書に関する石井祥裕氏による書評「近代におけるカトリック教会の多面性」にも解説されている通り、現在、カトリックのミサで今日行われている説教は、20世紀のバチカン公会議によって義務づけられたものである。

「カトリック教会における説教のあり方に関しては、ちょうど半世紀前に開幕した第二バチカン公会議(一九六二~六五年)が新たな時代を切り拓いた(編者序文参照)。同公会議は説教を神の民全体の救済史的使命によって基礎づけ、ミサにおける神のことばの食卓での奉仕としての姿がその根本的な姿であることを明らかにした」

このことは裏を返せば、20世紀半ばの第二バチカン公会議の時点まで、カトリックでは主日礼拝における説教が義務づけられていなかったことを指す。そして、今でも平日ミサでは説教は義務とされていない。

こうした事実だけを見ても、プロテスタントが、カトリックよりもずっと先に、カトリックでは失われていた説教の重要性を、宗教改革として取り戻した様子が分かるだろう。
 
このように説教を重視するプロテスタントの伝統と、プロテスタントが教会内の装飾を取り払ったことには密接な関係がある。

カトリックと東方正教会は、今日でも基本的に礼拝の儀式的な側面に重きを置いており、信者は礼拝堂の荘厳な装飾や、美しい讃美歌の音色や、聖画などを通して、宗教的荘厳さ・敬虔さを視聴覚的に感覚受容する傾向が強い。こうした感覚的要素を、カトリックも正教会も、偶像崇拝であるとか、悪魔的な堕落を含む悪しき誘惑であるとみなして排除してはいない。

そこで、今日でも、カトリックの聖堂には、ステンドグラスなどから始まり、美しい多彩な装飾が施され、東方正教会では、さらに壁や柱に一面に聖画が描かれ、大量に金をあしらった装飾が施され、まさに寺院という言葉がふさわしい印象を、訪れる者に与える。

しかし、プロテスタントでは、聖画やステンドグラスやその他の教会の装飾を、偶像崇拝につながるものとして徹底的に取り払い、教会の礼拝堂を、無駄な装飾を一切、排除して、無味乾燥と言っても良いほどまでに、極めてシンプルなものとした。

こうして、「見えるもの」から来る視聴覚的な要素を、信者を偶像崇拝に導く堕落した感覚的要素として排除し、感覚的要素に依存することをやめた結果、プロテスタントの礼拝は、知的な内省(個人の心の内省ではなく、聖書の御言葉の知的理解)を重んじるようになったのである。

つまり、プロテスタントの礼拝が、牧師の説教にとりわけ重きを置くようになったのは、教会の中から目に見える装飾を排除して、神への礼拝というものを、目に見える感覚的刺激によってとらえるのではなく、目に見えない御言葉に対する知性による理解、また、霊的理解によってとらえようとしたことの結果なのである。
 
このことは、プロテスタントが礼拝のあり方を、カトリックに比べ、より初代教会のあり方に近づけ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)
「それで、わたしたちは<略>目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(Ⅱコリント5:6-7)
という聖書の御言葉を、より忠実に実践しようとしたことを意味する。

従って、プロテスタントの礼拝は、キリスト教の礼拝を、信徒が目に見えるものに心奪われるのではなく、見えないキリストに思いを馳せ、キリストから直接、啓示を受けて聖書を理解し、神を崇めるために行うものにすることで、本来あるべき礼拝に、確かに近づける役目を果たしたと言えるのである。

このような文脈で、プロテスタントの牧師の説教も、先に述べたように、人間が目に見えるものから来る感覚的刺激に頼らず、目に見えない聖書の御言葉を、自分自身の内面を通過させて、知的によりダイレクトに理解することを始めたという点で、画期的な意味を持っていた。

しかしながら、すでに述べた通り、当初は画期的な宗教改革として始まった牧師による説教も、今日は、牧師にあまりにも大きな権限と、信徒との不平等を言える経済格差を生んだ結果として、かえってキリスト教の信仰の前進の大きな妨げとなる要素に転じたと言える。

プロテスタントは、信徒の目を、教会内の装飾という目に見える事物からは引き離したであろうが、見えないキリストご自身に向けさせるには至らず、その代わりに、目に見える牧師へと逸らしたのである。

しかも、カトリックのような統一的なヒエラルキーがない中、ただ牧師だけが、他の信徒らに優って、神の御言葉を正しく理解し、他の信徒を教え、導くことができる指導者であるとみなすプロテスタントの牧師制度は、必然的に、教会内で、独裁的とも言える権威を牧師に与える。

プロテスタントの牧師の権威は、神の御言葉を取り継ぎ、これを信徒に伝える「説教」という召しからこそ来ている。この神聖かつ崇高な召しがあればこそ、牧師は、フルタイムの献身者として、その召しに専念できるよう、他の信徒とは違い、教会の献金から謝儀を受け取ることが許されているのである。

もちろん、歴史的には、プロテスタントからは多数の優れた説教者が登場して来ており、その説教が今日の信徒にも非常に有益な内容として伝えられていることは事実であるが、その一方で、毎週日曜の礼拝において、礼拝のほとんどの時間を、ほとんどこの世での苦難に遭遇したこともない牧師が、独演会のようなスピーチによって信徒を教化するというスタイルが取られると、必然的に、牧師が独裁者化して信徒へのマインドコントロールが起きやすい土壌が生まれる。牧師も人間であるから、他者からの監督や指導なくして、自分一人で教会の主となってこれをコントロールして行くことは難しい。

さらに、そこに金銭的な不平等が付け加わわれば、独裁者を生む完全な土壌が整うのであって、今やプロテスタントの牧師制度は、牧師が実質的に信徒に君臨し、信徒を搾取して成り立つ差別的特権階級に他ならないものとなってしまっていると言える。

こうした牧師制度の弊害が、20世紀後半になって、多数のカルト化教会の出現という形で浮き彫りになったのであり、現代という時代は、ただ牧師一人だけが、他の信徒に抜きんでて、聖書の御言葉を正しく理解して、信徒に向かって教えることができるとするプロテスタントの牧師制度そのものが、教会全体にとって重荷となり、信徒の信仰の前進の大いなる妨げとして、役目を終えて廃れつつあると言える。

私たちは、初代教会における礼拝が、たった一人の牧師が、毎週日曜日に講壇から大勢の信徒らに向かって、長広舌のスピーチを宣べて終わるというスタイルではなかったであろうことを容易に想像できる。

そこで、今日、より本来的な教会のあり方を取り戻すためにも、また、礼拝が真にキリストに捧げられるものとなるためにも、信徒は、ますます牧師に頼らず、自分自身で聖書の御言葉を理解し、これを実戦すべく、自分自身が神の神殿としての機能を正常に取り戻し、神との一対一の直接的な交わりを回復すべき時に来ていると筆者は確信している。

さらに言えば、礼拝とは、もともと真理と霊を持って捧げられるものであって、場所を問わないものであるから、牧師だけでなく、固定化された教会の建物からも、今や解放される必要性があると言える。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、プロテスタントは、教会内の無駄な装飾を施し、信徒の心を、目に見えるものではなく、見えない聖書の御言葉へと向かわせ、神との直接的な交わりを回復するための第一歩としては、大きな役割を果たした。

しかし、プロテスタントは礼拝堂から無駄な装飾を排除した代わりに、今度は、牧師という目に見える「装飾」をそこに置いて、神ではない一人の人間を偶像化して、その言葉に信徒の心を向かわせた。
 
その他にも、特に20世紀になってからは、牧師が偶像化したことに加えて、情緒的な讃美歌や、感動的な信仰の証の披露など、まるでアーティストのショーのような感動的な演出効果を伴う大衆伝道のスタイルが編み出され、それらも結局のところ、教会の装飾に取って代わる目に見える新たな感覚刺激として、新たな偶像と化してしまった向きが非常に強いと言えよう。

そこで、今、キリスト教の礼拝は、こうしたすべての「目に見える偶像」すなわち、五感を楽しませてくる魅力的な視聴覚的要素、さらには、特定の礼拝堂という時空間による制約から解放されて、より自由に、より純粋に、神にダイレクトに捧げられるものとなる必要に迫られていると言えよう。

そのことは、2008年に当ブログ始まって以来、再三、語り続けて来たことである。

当時、このようにプロテスタントにおける礼拝のスタイルを偶像崇拝として批判し、初代教会において見られたような、真の礼拝を回復しようとして、既存の教団教派を離れることは、別段、信者にとって珍しいことではなく、あわや一大運動が起きてもおかしくないほどの状況があった。

その後、集まるための特定の場所を持たないことが弱点となり、この人々は散らされて行き、ある人々は、礼拝堂を持たない代わりに、家庭集会こそが、本来的な礼拝のあり方だと主張し、ある人々は、再び、教団教派に戻って行くなどしたが、筆者は、そうした議論や、信者の離散によって、すでに明らかとなった結論が、覆されるとは思っておらず、今必要なのは、あくまで一人一人の信者が、目に見える指導者に頼らずに、キリストに直結する信者として、神の神殿として、生きた礼拝堂としての機能を取り戻すことにあるという結論は、決してこの先も変わらないものとみなしている。

聖書のどこを見ても、教会というものが、特定の時代の、特定の場所や、建物を指すものであることを示した記述はない。ましてそれが特定の指導者によって率いられる特定の群れであると示した箇所はない。

教会とは、キリストを頭として、キリストの権威と支配の及んでいるキリストの体を指すのであって、その体とは、神の神殿である一人一人の贖われた信者を指し、また、信者らの総体を指すものと理解できる。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:22-23)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Ⅰコリント12:27-28)

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:11-13)

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:19-22)

別の言葉で言えば、教会とは、死と復活を経たキリストの命の支配が及んでいる領域のことである。

「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体は悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)とある通り、この世はサタンの支配が及んでいる。

しかし、サタンおよび堕落したこの世のすべての目に見えるものはやがて滅ぼされ、すべてがキリストの御名に服従する新しい天と地が打ち立てられる。

そうなる前に、この世から召し出された者たちが、エクレシアなのであって、この世が罪に堕落しており、滅びに定められていることを知った一人の人間が、自らも罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信仰によって受け入れ、神に立ち帰り、この世から召し出されて、神の命によって新しく生まれ、御霊によって導かれて生かされるようになる時、その信者を通して、信者の周囲のこの世の事物にも、キリストの支配の霊的影響が及ぶようになるのである。

その信者が、真に御霊に導かれ、その働きを実現して生きているならば、その影響が及んでいる範囲は、キリストの命の支配領域である。すなわち、教会の支配下にあると言えよう。

従って、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」というエフェソ書の言葉は、教会とは、キリストの御名と権威による霊的支配の及んでいる領域、神の国の霊的秩序の満ちている領域であることを示している。

とはいえ、神の国が真に成就するのは、この世が滅び、新しい天と地が到来した時のことであるから、今日の時代の教会に現れているキリストの命の支配は、やがて到来する新しい秩序の前触れ(先取り)であり、それが信者の内側に霊的に到来し、行使されているものであると言える。

つまり、キリスト者は、この世から召し出され、来るべき時代の秩序を先取りして行使する者なのである。

さらに、教会は特定の時空を超えるものであって、同時代を共に生きている信者だけに当てはまるものではないから、初代教会から今日までの(もしくはそれ以降の歴史時代も含む)贖われた信者らの総体が、教会であると言うこともできよう。

このように、聖書を見るならば、教会というものを、特定の時空間の制約の中にある一つの建物にとどめたり、特定の礼拝堂、特定の指導者の下にとどめようとすることは、正しい解釈ではないことが分かる。

従って、プロテスタントの礼拝スタイルは、初代教会のような教会の本来的な姿が回復されるまでの、ほんの過渡的なものであって、今日、その過渡的なものが役目を終えつつある以上、より本来的な教会の姿が回復されねばならないのは当然である。

役目を終えたものが存続し続けると、やがて有害なものへ変わる。信者が、見えないキリストだけに心を向けねばならない必要が生じている時に、目に見える牧師や指導者が、信者たちの目をあくまで自分に向けさせ、自分の教えに帰依させようとすることは、有害である。

そのことを指して、オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、目に見える事物、人、組織、教え、伝統などは、時代が終末に近づくに連れて、ますますキリストのまことの命の現れから遠ざかり、むしろ、反キリストの現れ(統治手段)として利用されて行くと予告したのである。

ドストエフスキーも、終末の反キリストは、敬虔なキリスト教徒の指導者を装った異端審問官の姿で登場することを暗示している。

今日、カルトや異端を駆逐するという名目で現れたカルト被害者救済活動の中に、私たちはこうした警告がまさに的中していることを見て取れる。この運動は、まさに反キリスト的運動の先駆けである。

先の記事で書いた通り、当初は、聖書に立脚しないで教会へのバッシングに明け暮れるこの運動に、プロテスタントの諸教会も、抵抗を見せていた。

しかし、プロテスタントの教団教派は、やがてその恫喝に屈し、沈黙に入り、今や完全にこの運動の下に制圧されてしまった。そうなったのは、プロテスタントの諸教会が、すでに役目を終えた牧師制度を何とか温存しようとして、それを真に代価を払ってキリストの福音を宣べ伝える使命と取り替えたためである。

プロテスタントの諸教会は、すでに随分前から、命をかけて福音宣教することよりも、牧師一家を養い、支えることを主たる目的として存在するようになっていたため、牧師たちは、自分たちが命を脅かされ、この世での穏やかな生活を奪われるような事態に遭遇してまで、命がけで福音を守り抜くつもりはなく、そのため、早々に悪魔と取引をして身の安全を保ったのである。

たとえるならば、戦時中でもないのに、戦時中のような時代がやって来て、諸教会には、新しい国体思想のような、あからさまに聖書に基づかない異端思想への忠誠が命じられ、それに従わない教会を弾圧する異端審問官が現れ、目に見えない宗教団体法が敷かれ、それにプロテスタントの諸教会全体が屈したようなものである。
 
こうして、プロテスタントにおいても、目に見えるものの偽りが、牧師制度という形で、極限的にまで明らかになっているのが今の時代であり、それに対して、神に忠実な子供たちが出すべき結論は、かつてプロテスタントが、カトリックの教会で当然のように用いられていた教会内の装飾を拒否して、これを偶像崇拝として取り払ったように、牧師という目に見える偶像を取り払い、見えないキリストに目を注ぐという、「新たな宗教改革」なのである。

とはいえ、筆者は何ら既存の教会の打ちこわしや、牧師の罷免などを要求しているわけではない。そのような組織改革を筆者は一切提唱しておらず、結論はむしろ逆である。以上のような事実に気づいた信者たちが、自主的にプロテスタントをエクソダスして、それぞれが自らの持ち場にあって、神の神殿としての礼拝を回復すべきなのである。
 
当ブログが、このような結論を公然と提示していると、今でも、ネトウヨのような諸氏が、さして有名でもなければ、訪問人数が多いわけでもない、個人のつつましいこの信仰の証しにまで、早速、噛みついて来る。
 
必死になって、彼らは日夜、掲示板等で、当ブログに攻撃をしかけているようであるが(とはいえ、交代制の勤務の様子であるから、多分、雇われているのであろう)、そのような有様を見ても、プロテスタント全体が暗闇の勢力に制圧された今、残る最後のともし火を吹き消すことが、いかに彼らの重要なミッションとなっているかが分かる。
 
暗闇の勢力にとって何の脅威ともならない、毒にも薬にもならぬ内容ならば、このようなつつましいブログに、このような攻撃を行う理由がないはずである。

従って、キリスト教の教会が本来あるべき姿を回復するために、牧師制度から教会を解放することが、いかに重要性絵を帯びた緊急の課題であるかが改めて認識されよう。

* * *

さて、使徒パウロは、わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリント5:13-14)と記しているから、私たちも、キリストへの愛のために、ネトウヨ諸氏から正気ではないというという罵りを受けることにも、喜んで甘んじたいと思う。もしも私たちが、気が狂っているとするならば、それは神のためなのである。

さて、これまで当ブログは、暗闇の勢力からの尋常ならぬ徹底攻撃に晒されてきたが、その中で、敵の卑劣な攻撃手法がいくつも分かっため、この度、掲載しておきたい。これから暗闇の勢力に向き合う覚悟を固めた信者にはきっと役に立つはずである。

はっきり言っておきたい、もしもキリスト者として、私たちが信仰を守り通したいのであれば、こうした敵の飽くことのない卑劣な作戦と手法をよく理解した上で、このようなものに脅かされず、嘘を見抜いてさらりと交わし、どんな攻撃にでも、根気強く立ち向かって打ち勝つだけの、勇気と決意と覚悟が必要となる。

おそらくは、戦時下のクリスチャンにはそれがあっただろうと思われる。彼らは同僚の信者からも、特高警察に売り渡されることを覚悟の上で、決して信念を曲げず、福音を宣べ伝え続ける勇気と覚悟を持っていたのである。

現在は、国家が宗教と対立しておらず、信者に偽装する一部の人々が狂ったように信仰の迫害に及んでいるだけであるとはいえ、当ブログに対しても、長年に渡り、組織的犯罪行為が行われているため、そこから、このような迫害に立ち向かうために、何が必要であるかを学ぶことができる。

筆者がこれまでに学んで来た戦いの手法は、みな暗闇の勢力の側から先にしかけられた攻撃を研究した結果である。そのような攻撃がしかけられることは、誰にとっても愉快とは言えないが、それがなければ、暗闇の勢力との戦いというものが存在することも、その脅しに打ち勝たなければ、信仰の前進はあり得ないことも、また、脅しを打ち破るための有効な御言葉がきちんと存在しており、圧倒的な勝利をおさめることが可能であることも、分からなかったであろう。

聖書には、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)と記されている通り、私たちには、すでに世に打ち勝った方がおられ、勝利が約束されている以上、恐れることはないのである。

さらに、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Ⅰヨハネ4:16-18)

とある通り、敵の脅しに立ち向かうために、まず必要なのは、自分自身の内なる恐れを払拭することであり、その恐れとは、神の掟を全うしていないかも知れないという、自分自身の心の恐れ、もしくは罪悪感である。これらのものを完全に十字架に死に渡し、キリストの義と聖と贖いに固く立って、全く揺るがされないことが肝要である。

さて、これまでの組織的犯罪行為を通して明らかになった敵の手法は、以下の通りである。
 

 ネトウヨ鬼戒律(暗闇の勢力による犯罪的バッシング手段)

その➀  必ず強い方ではなく弱い方を叩け。
(男性と女性ならば、女性を、指導者と信徒なら信徒を、親と子なら子をバッシングせよ。
 なぜなら、強い者でも、自分の愛する弱い者が攻撃されれば、うろたえるからである。)

その② 本格的な攻撃前に、嘘八百の風評被害をばらまいて、標的を弱体せよ。
(裏取りなど必要ない。責任は訴えられてから考えれば良い。とにかくデマを急速に拡大し、噂の出所を水増しして大合唱に見せかけることが重要。弱い相手ならこの時点で狼狽して降参する。デマの中でも悪魔の最高の好物が性的スキャンダル。不倫など絶好の材料。なければ、でっちあげるだけ。)

その③ 個人に対して常軌を逸した集団的なバッシングをせよ。
(十年間粘着するなどは序の口。人数を水増ししつつ、殺意を感じさせるまでの執念により集団的にッシングを繰り返し、恐怖して退却させろ。)

その④ 標的から受けた非難は、すべて裏返しにして標的に返せ。
(白黒反転論法。ターゲットの言葉を使ってターゲットを攻撃せよ。)

その⑤ ターゲットを徹底的に揶揄して「裸の王様」に仕立てあげろ。
(集団的に笑いものにして、支持者を減らし、信用を引きずり落とすことが肝心。)

 
その⑦ ターゲットのトラウマとなる出来事を調べて繰り返し攻撃せよ。
(ネチネチと執念深く繰り返し急所を攻撃することが重要)

その⑧ 女性がターゲットの場合、執拗に年齢と容姿と異性関係を攻撃材料とせよ。
(若ければ若いことを、年寄りは年寄りであることをバッシングの理由に。女性は年齢を突かれることと美醜を指摘されることに弱い。若い美人には特に念入りに性的スキャンダルを捏造せよ。)

その⑨ 絶対的確信に満ちて支離滅裂な嘘を吐け。
(嘘を吐くときこそ悪魔の真骨頂。あまりにもあからさまな嘘を、あまりにも大胆に宣言されると、人は意気阻喪して、反論の意欲が萎える。蜘蛛の巣のように錯綜した嘘も、反論に手間がかかるので絶好の武器。)

その⑩ 人間関係を引き裂いて孤立させよ。
(悪魔は裏切りと密告が大好物。親しい知人に近づいて裏切らせるのは蜜の味。孤立していなくても孤立しているという噂をまき散らし、それらしい雰囲気を演出。)

その⑪ 特に家族関係を徹底的に傷つけろ。
(家族だけでなく、友人、知人、職場の関係者、可能な限り大人数を調べ上げてスキャンダルに巻き込め。人は社会的地位を惜しむので、騒ぎを拡大されることに弱い。)

その⑫ 孤立させたら即座にマインドコントロールを。
(相手がうろたえている時にこそ精神を集中攻撃して陥落せよ。)

その⑬ 優しい同情者を装って近づき情報を盗み出して裏切れ。
(スパイの古典的手法。うろたえさせることに成功すれば、ターゲットは必ず誰かのところに相談に行く。その人間に近づいて裏切らせよ。)

その⑭ 水に落ちた犬は徹底的に叩け。
(とにかく弱い者を叩きまくれ。二度と浮かび上がって来ないまでやれ)

その⑮ 正当な理由がないのに訴訟や告訴の脅しをやたら振り回せ(そして実行しない)

その⑯ ターゲットになりすませ!
(大量のドッペルゲンガー作成による惑わし。別名、分身の術。ブログ、ホームページの大量コピペや偽造だけでなく、本人になりすましてコメント投稿、ひたすら発言を盗みまくり、質の悪い模造品を大量に偽造し続けることが重要。)

その⑰ 不気味かつ不快な印象を与える接触を繰り返せ。
(人は意味の通らない支離滅裂な行為を繰り返されると、うんざりして立ち向かう気力をなくす。)

その⑱ 太刀打ちできない非難を受けたら、恋愛感情にすり替えろ!
(自分はターゲットから愛されているから非難されるのだという論法を使えば、反論する必要もない。)



これらはすべて古典的手法であって、しかも、ほんの序の口である。従って、信者はこの程度の脅しに屈しているようでは、先はない。(しかし、これらをクリアするために、約十年程度の時間が経過しているのは事実である)。

「なりすまし」については、大量の偽物を作成して本物を凌駕しようとすることは、古来から暗闇の勢力の常套手段であるが、これはグノーシス主義の「存在の流出」と密接な関係があり、掲示板もこれに深く関係しているため、このことについては、改めて記事にまとめることにしたい。
 
* * *
 
 
さて、戦時中、日本基督教団が軍国主義に加担し、兄弟たちを迫害する側に回ったことについては先の記事で触れたが、これに関連して、日本基督教団幹部がホーリネスの牧師を迫害する側に回ったことを示す解説もあるため、紹介しておきたい。

5.ホーリネス教会への弾圧と富田満 (日本基督教団 西方町教会ホームページ)

ちなみに、日本基督教団が戦争に加担したことなどは、すべて過去の出来事であって、現在とは関係ないから、このような歴史的事実を取り上げて、教団の優劣を論じたりすること自体が間違っていると言う人がいるかも知れない。

しかし、筆者はそのようには思わないし、また、筆者は教団の優劣を論じているわけでもない。筆者は、戦争体験を軽んじるわけではないにせよ、これを歴史的な出来事として客観的に知ることと、当事者(しかも深い罪悪を負った者)として受け止めるのでは、雲泥の差が生じると考えている。
 
私たちは後世に生きる者として、歴史を教訓にすることは大いにすべきであるが、主にあって、罪赦された者として、決して不必要な罪悪感に苛まれたり、無用な霊的な傷を負うべきではないと確信する。

筆者から見て、ペンテコステ系の教会は、底抜けに明るく、歴史が浅すぎるがゆえに、未熟で、軽薄と思われても仕方のない部分がある。また、あまりにも無定見に様々な霊的ムーブメントを取り込んだがために、悪霊の働きにも大きく扉を開いてしまったことは確かである。

しかしながら、こうした欠点とは別に、筆者は個人的に、聖霊の働きをなくして、キリスト教信仰は全く成立し得ないものであり、戦後成立したペンテコステ系の教団教派が、戦前・戦中に弾圧されたり、思想的転向を経験させられたりした信者ら特有の、拭い去ることのできない罪悪感や絶望感と無縁で生まれて来たことは、非常に良いことだと思っている。

キリスト者であれ、共産主義者であれ、戦時中に思想弾圧を受け、強制的に転向させられたり、力づくで自分の信念を曲げて屈服させられたりした体験のある人々は、筆者から見て、ある共通する独特かつ非常な「霊的暗さ」を持つ。

たとえば、遠藤周作の作品などを読むとき、戦時中に受けた体験のものすごい負の影響が、彼の信仰観全体に反映していることを、筆者は言外に感じざるを得ない。

たとえば、映画『沈黙』などは、予告編を見るだけでも、あまりにも絶望的で、ほとんど救いのない世界だという印象を受ける。そして、こうした世界観には、おそらくは遠藤自身の戦争体験から来る心の深い罪悪感と関係しているであろうことが容易に想像がつく。

おそらく、当時、戦争に加担させられたクリスチャンには、これと同じように、生涯、拭い去れない深い霊的な傷が生じたに違いないと思われる。

かつて当ブログにおいては、マザー・テレサや奥田智志牧師などの名を挙げつつ、若かりし頃に、あまりにも悲惨な形で他者の死や破滅の光景を目にした者は、その光景が、心に強烈なトラウマとなって焼きつけられ、生涯、その負の体験から離れられなくなり、罪悪感から弱者救済事業に身を捧げねばならなくなった例があることを紹介した。

マザー・テレサは一般には、キリストの愛を宣べ伝えるために、インドの貧しい人々を助けたのだと考えられているが、実際には、彼女自身が何十年間にも渡り「神の愛が分からない」という絶望感に苛まれていたことが、死後になって、明らかにされている。

上記の『沈黙』などは、筆者の目から見ると、それとよく似た世界観に基づいて作られており、そこには、マザー・テレサや奥田牧師と同じように、「神はどこにいるのか。なぜ私たちの苦しみに答えて下さらないのか。どうしてこのような理不尽の中に人類(私たち)を見捨てておかれるのか。」という、神の愛の中にいる信者ではなく、むしろ、神の愛から疎外された人々の悲痛な叫びが込められているように思われてならない。

しかし、筆者が知っている限り、ペンテコステ派の教会で説かれる神は、このように人間を理不尽の中に見捨てて沈黙される神ではないのである。

もちろん、ペンテコステ派の集会には、あまりにも多くの偽物の、眉唾物の奇跡体験が溢れていることは確かであり、そうした偽の奇跡の中には、悪魔的起源を持つものも、多く含まれているのではないかと考えられる。次々に新しく出て来る海外宣教師の著書も、一体どこまで信憑性を信じて良いやら分からないような話ばかりである。

しかし、その問題をさて置いても、キリストは、実際に、カルバリで悪魔のわざを打ち壊し、死を打ち破って復活されたのであって、御霊は、死と復活を経たキリストのまことの命であるから、常識的に考えて絶体絶命の状況においても、信者を勝利させる力を持っていることは確かなのである。

従って、筆者は、ペンテコステ運動に様々な問題があることは否定するつもりがなく、また、筆者自身が、真にキリストに出会ったのも、この教団を離れて後のことであったとはいえ、それでも、戦争中の暗い歴史から来る罪悪感とは無縁で、ダイナミックで奇跡的な聖霊の働きを重視する、底抜けに明るいペンテコステ系の教団で、筆者が幼少期を過ごしたことは、筆者自身の信仰観の形成にとって、極めて重要な意味を持つ出来事であったと考えている。

聖霊派の教会における底抜けの明るさと、愚直なほどに単純な喜びは、やがてその後、筆者が知ることとなる復活の命の勝利の喜びに通じるものがあったと思うのである。

今日でも、筆者の信仰は極めて単純であり、神が筆者のすべての必要を満たして下さり、筆者のためにすべてを成し遂げて下さるというものである。

しかし、特に戦時中に戦争に加担させられたキリスト教の信者には、神は、ペンテコステ系の信者が認識しているような、力ある方としては、とらえられていない。こうした人々の心の中では、神は信じる者に力強く自由と解放を与える方ではなく、むしろ、最も悲惨な状況で、人類を絶望の中に置き去りにして沈黙するような存在として認識されているのである。

だが、筆者から見れば、それは、人の罪悪感のなせるわざであって、本当は神の側の問題ではない。
 
いずれにしても、戦争を当事者として体験したかどうか、(その罪を連帯責任として共に背負わされたかどうか)という点は、それほどまでに、同じキリスト教信者の信仰観を分けたようなのである。

従って、戦後成立した聖霊派の教団教派に、そのような負のトラウマが、出発の時点から刻みつけられなかったこと、そして、筆者自身も、そうしたトラウマと無縁であることができたがゆえに、自らの信仰観に著しい制約を受けなかったのは、まことに運命的かつ幸運なことであったと思わずにいられない。

さらに、ペンテコステ派が登場して来る前の日本のキリスト教全体には、死はあっても、復活がはっきりと視野に入っていないという印象を受けざるを得ない。

このことは、戦時中に最も激しい弾圧を受けたホーリネスが、いわば、聖霊派の走りであったという点にも見て取れる。ホーリネスは、新生、聖化、神癒、再臨という四重の福音を唱えており、当時のホーリネス信者は、神癒なども、文字通りに信じていたのである。

その点で、当時のホーリネスの信者の信仰は、今日のペンテコステの信者に極めて近いものであり、御霊による神のダイナミックな解放のみわざを信じていたという点で、ホーリネス信者は、当時のクリスチャンの中で、最も先駆的で革新的な信仰を持っていた人々であったと言えよう。

だからこそ、軍国主義下の日本において、ホーリネスの信者は、政府にとって、不倶戴天の敵であるかのように、最も激しい弾圧の対象とされたのである。それは彼らが、聖書の記述が文字通りの真理であることを信じ、特に、聖霊の大胆な解放の働きを、現実のものとして受け入れ、実際にそれを行使することによって、悪魔のわざを打ち壊し、とらわれ人を解放し、キリストの再臨を引き寄せることができると信じて、それを真剣に実践していたためである。

つまり、ホーリネス信者らの働きの中には、信仰によって、聖霊による、人間の力を超えた神の大胆なみわざが実際に現れていたからこそ、国体思想の持ち主の側から見て、彼らはとりわけ看過できない重大な脅威をもたらす存在と映り、最も激しい迫害と弾圧の対象となったのである。

それ以外の、御霊の働きを重視しない形骸化したキリスト教は、おそらく軍国主義政権にとって、さしたる脅威とはみなされなかったことであろう。

そこで、聖霊のダイナミックな働きというものを視野に入れるか入れないかによって、キリスト者の信仰観は180度変わると言えるのである。

悪魔と暗闇の勢力が、現在、最も憎むべきものとして敵視しているのも、御霊の働きであって、これを一切、無視したキリスト教信仰などは、彼らにとって痛くも痒くもないものだと言える。

約2000年前、悪魔と暗闇の勢力は、キリストが地上に来られた際、彼を憎んで十字架にかけて殺害した。しかし、今やキリストは復活されて、聖霊を通して、信者の内に住み、イエスが約2000年前に地上でなされたような大胆で奇跡的な解放のわざを、一人一人の信者を通して成し遂げることができる。

彼は私たちのために義と聖と贖いとなられ、私たちをすべての苦難と脅威から実際に救い出す権威と力を持っておられるのであって、そのために、今日の信者も「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」と言うことができるのである。

しかも、聖霊は、来るべき神の国の秩序そのものであって、アナニヤとサッピラをただちに死に至らせたような聖なる支配領域であって、死の向こう側にある復活であるから、悪魔と暗闇の勢力には、どんなことをしても全く手を触れられないものである。

従って、そのような領域が、サタンの支配下である地上に出現することを、悪魔と暗闇の勢力は断じて許しがたい事態として徹底的に憎んでいるのである。

そういう意味で、今日、ある信者が、聖霊派に属し、聖霊の力ある働きが現実に存在しうる事実を知ったならば、そのことには、はかり知れない重要な意義が込められている。

たとえその信者が、ペンテコステ運動に多くの混乱が入り込んでいることに気づき、心傷ついてその教団教派を去り、あるいは、バラバラに離散することがあったとしても、彼らに求められていることは、二度と混乱を味わいたくないという思いから、聖霊のことになど言及もしない、より古く形骸化した教団教派に戻ることではないのである。

冒頭で述べた通り、キリスト教は、今日、新たなる信仰回復運動の出現に直面しているのであって、そこでは、信者らが、信仰によって歩むために、見えるものに依存せず、さらに見えないキリストだけを追い求め、より新鮮で偽りのない聖霊のみわざを通して、御言葉を地に引き下ろし、実現して行くことが求められている。

従って、私たちに与えられているミッションも、歴史的により古い団体に逆戻り、そこで、すでに後にして来たはずの霊的な負の遺産を罪悪感として背負うことではない。

御霊は人の心を刷新し、すべての傷を癒し、復活の領域において、心を全く新しくすることができる。まるで生まれてから一度たりとも罪を犯したことのない、生まれたての魂のように、人の心を刷新することができる。

私たちには、そのような刷新、すなわち、心だけでなく、霊、魂、肉体のすべてにおいて、死の後に働く復活の命の現れを、絶え間なく求めつつ、キリストの命が、私たちを生かすすべての動力源となることを信じて、さらに大胆な解放のみわざを求めて前進して行くことが求められている。

どれほど迫害が激しいにせよ、死を打ち破ったキリストの御霊は、すべてにおいて勝利をもたらすことができる。それを信じて、そのまことの命の現われを、神の聖なる自由と解放のみわざを、飽くことなく信じて追い求めて行うこと、それが私たちが、キリストの復活の証人であることの意味であり、私たちはその復活の命を、自分自身の内側に確かに持ち運んでいるのである。

* * *

 さて、これまで、プロテスタントはもはや霊的に終焉しており、聖書への正しい信仰を保つためには、ここからエクソダスするしかないという結論を繰り返し書いて来た。

 ここから先は、プロテスタントを脱出することが、資本主義から脱出することと本質的には同じ意味を持つこと、今や私たちはこれらの両方からエクソダスして、真に万民祭司の原則に基づき、新しい生き方をすることが求められている、というテーマについて書きたい。

 一つ前の記事で、カルト被害者救済活動は、プロテスタントの牧師制度の悪から出て来た猛毒の副産物であると書いた。

 プロテスタントは、その発生の当初は、カトリックの宗教腐敗を正し、カトリックの聖職者が独占していた聖書をラテン語から各国語に翻訳して全世界に普及させるなどして、聖書を一般に解放・普及するために、大きな役割を担った。

 さらに、プロテスタントは、聖書をただ一般の人々に解放しただけではなく、一般の信者が、聖書の御言葉を自ら知的・霊的に理解し、御言葉の証しを、自分自身の言葉で述べるという、初代教会には当たり前であった信仰を目覚ましく回復したのである。

 カトリックのミサは、儀式的な色合いが強く、司祭が聖書の内容を自分で咀嚼・吟味して、その解釈を信徒に説教として向かって語ることはない。

 しかし、プロテスタントの礼拝においては、人間に過ぎない者である牧師が、聖書の内容を自分自身で吟味・理解して、これを自分自身の言葉を通して、信徒に向かって証として語るという説教のスタイルが取られ、これは人間による聖書の知的理解という意味で、画期的な役割を担ったのである。
 
 プロテスタントにおいては、聖書の御言葉は、ただありがたいお経のように受け身に受容すべきものとしてはとらえられず、むしろ、信者らに積極的で深い知的な理解を要求するものとみなされた。牧師は信者の代表格として、「御言葉を取り継ぐ」奉仕に専念し、信者たちも、勉強会を開いたりすることによって、聖書研究を行おうと熱心に励んだ。
 
 20世紀頃になって、プロテスタントの中では、最も最新かつ先駆的な運動として、ペンテコステ・カリスマ派と呼ばれる、御霊の働きを回復しようとする各種の運動が登場して来た。

 もちろん、こうした運動は、それ以前から存在していたのだが、大規模な大衆運動として拡大し、各種の教団教派を生んだのは、20世紀になってからのことである。

 この運動は、聖書の御言葉を、ただ知的な文脈で、死んだ文字としてとらえるのではなく、聖霊の働きによって、そこに生きた霊的衝撃力を伴わせることで、信者たちの聖書研究に新たな息吹を吹き込んだ。それは現代の信者の生活においても、主イエスが地上におられた当時に行われた奇跡のように、人間の常識的な理解を超えた、ダイナミックな働きを取り戻すことを目指すものだったからである。
  
 だが、「霊」を識別することなく、霊的なムーブメントを無分別に受け入れたために、ペンテコステ・カリスマ運動は著しい誤謬の中に落ち込んで行き、多くの混乱を生むこととなる。

 そこで、今日、求められている新たな信仰回復運動も、聖霊の働きと切り離せないものであるとはいえ、偽物の聖霊運動を排除して、真の御霊の働きがどこにあるのかを見分けることは、死活的重要性を帯びた課題であると言えよう。

 さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り継ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

 さて、こうして、牧師階級の弊害というものが、一般に認知されるようになった大きなきっかけは、昨今、一部の教会で、牧師による信徒へのあまりにもひどい搾取や差別や虐待が行われているために、それを是正するという名目で、カルト被害者救済活動が登場して来たことによる。

 だが、この運動は、決して聖書に基づくものではなく、従って、教会に真実な信仰の回復をもたらすこともなかった。

 このことは、すでに述べた通り、ブラック企業とそれに対抗する団体との抗争を思い浮かべれば、非常に分かりやすい。

 資本主義が行き詰まりを迎えるに連れて、労働者は著しく劣悪で非近代的な労働環境に置かれるようになり、我が国でも、1995年以来続く不況の中で、追い出し部屋、賃金未払い、過重労働、過労死、リストラ、非正規雇用など、様々な悪しきトピックが取りざたされるようになり、ブラック企業という言葉も、一般に認知されて定着した。

 ブラック企業の登場と共に、ブラック企業との闘いを公然と唱える団体も、行政及び民間の中から登場して来たが、よく見てみれば分かることであるが、こうした団体が究極の目的としていることは、ブラック企業との闘いのために立ち上がった人々を支援するという名目で、これらの人々を新たに自分たちの利益の源とすることにある。

 つまり、ブラック企業との闘争を売り物にする各種団体は、弁護士ほどではないが、かなりの割合で、成功報酬をかすめ取ることを定めており、行政もまた、表向きには、ブラック企業撲滅を掲げてはいても、その本質は、ブラック企業が真になくなってしまうと、存続できないというものなのである。

 このように、ブラック企業も、ブラック企業の根絶を掲げる各種団体も、共に虐げられた弱い人々に群がり、そこにたかって、利益を食い漁る利権団体であるという点で、本質的には変わらないのであって、ただブラック企業根絶を掲げる各種の団体は、ブラック企業ほど悪質かつ強引な搾取を行わないだけである。

 それ以外の点では、これらは、双方で利益を補い合って存続している車の両輪のようなものであって、もしかすると、ブラック企業根絶を掲げる団体は、正義の旗を掲げているだけ、ブラック企業以上に悪質である可能性も否めない。

 話を戻せば、カルト被害者救済活動も、プロテスタントの牧師階級による金銭的・霊的搾取に対抗することを目的に掲げて始まったものの、結局は、牧師階級によって食い物にされた信徒を、さらに食い物にして栄光と利益を吸い上げ、かすめ取る点で、カルト牧師と同質か、より以上に悪いものであり、プロテスタントを浄化する作用を全く持たなかったどころか、かえって牧師階級の持つ致命的な毒素をそっくり温存したまま、さらにこれをより強固なものとして信徒を支配する契機となったのである。

 今や日本のプロテスタントは、牧師制度の腐敗を是正するという正義の旗を掲げて登場して来たカルト被害者救済活動によって、完全に恫喝され、沈黙に追いやられるという恐るべき状態に陥っている。

 そのようなわけで、不況下のサラリーマンがいつまでもブラック企業と労基署との間を行き来していても仕方がないように、プロテスタントの信者も、カルト化した教会とカルト被害者救済活動の間での愚かしい堂々巡りに終止符を打って、今やプロテスタントという水槽そのものから、脱出せねばならない時に来ていると言えるのである。

 「エクソダス」の原則は極めて単純であって、これ以上、人間の指導者や、組織や団体に属さず、万民祭司の原則に従い、キリストご自身に直接、属して信仰生活を送ることである。

 信者が、霊的・金銭的に搾取される立場から抜け出るためには、自分を搾取する存在から離れなければならないのは当然である。牧師制度を敷く教会の中にい続ける限り、決して搾取の構図からは抜け出られないのは明々白々の事実である。牧師のみならず、すべての聖職者制度から離れるべきである。

 さて、以上の経緯を踏まえた上で、プロテスタントからの脱出と、資本主義からの脱出は、根底では一つの事項であるという話に戻りたい。

 マックス・ウェーバーは、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタントのキリスト教国において、資本主義が目覚ましく発達したのには、宗教が大きく関係しており、プロテスタントの信者は、「自分が本当に神に救われているかどうか分からない」という不安を払拭するために、神の召し(天職)としての自分の職業に邁進し、それによって、資本主義の発達が促されたのだとしている。

(ウェーバーの著書を知らない人のためには、あまりにも要約しすぎであるとはいえ、「5分でわかるウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)」要約」を紹介しておく。)

 福音書では、主イエスは、弟子たちに、御言葉を実践して生きるように教え、信者たちには、それによって、神の国の収穫を増し加えるというミッションが与えられていることを、次の御言葉を通して語られた。
 
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、②タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントンを預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所から書かき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりをするだろう。』」(マタイ26:14-30)

 以上の御言葉は、神の国の権益拡大の原則を示したものであって、キリスト教徒が、この地上における生涯を、神の国に利益をもたらすために、有効に用いなければならないことを示している。それが商売にたとえられ、有益なもうけを出した者が、神からの褒賞にあずかるというのである。
 
 とはいえ、神の国の権益拡大といっても、プロテスタントの一般の信者たちには、牧師と違って、それぞれに世俗の職業がある。それゆえ、彼らは、毎日、聖書の御言葉だけに没頭して暮らすわけにはいかない。

 そこで、プロテスタントの信者たちは、自分の生活において、御言葉を実践して、より多くのタラントをもうけ、まことの主人である神に誉めていただくとは、一体、どのようなことを具体的に指すのかを考えた。

 その結果、信者たちは、神の国の権益を拡大するために、日曜礼拝に出ている以外の週日は、自分の「天職」としての職業に励み、自分の資産を拡大し、その結果として、利益の十分の一を教会に献金として捧げることが、神の国の権益拡大に当たると考えて、それゆえ、自分の職業に熱心となったのである。

 ウェーバーの説を極端に要約するならば、そういうことの結果として、資本主義が発達した、という結論と至るだろう。

 さらに、これと同じ理屈を用いて、さらに前進するならば、資本主義が行き詰まりに達したのも、プロテスタントの倫理そのものが行き詰まりに達したからだ、という結論が自然と導き出される。

 なぜなら、組織としてのプロテスタントは、その霊的な息吹を失った時点で、形骸化して、自己目的化してしまい、プロテスタントにおける十分の一献金には、かつてカトリックが免罪符を売ったのと全くよく似た腐敗が隠されていたからである。

 すなわち、プロテスタントの信者たちがどんなに日々、労働に励み、自分の資産を賢く拡大し、その利益の十分の一を教会に納めても、その献金が、プロテスタントの聖職者制度という、信徒の上に君臨する独占的・特権階級をより富ませ、彼らの独占状態をより強固にするという悪しき目的のために利用されるならば、それは真に神の国の権益拡大にはつながらない。

 いわば、ブラック企業の従業員が、自分が搾取されていることも知らずに、どんなに身を粉にして会社のために働いても、その真面目な労働が、すべてブラック企業の社長の利益として吸い上げられ、その企業がますます悪くなるだけに終わるのでは意味がないのと同じである。

 このような行き詰まりを打開するためには、ブラック企業の従業員は、ただ身を粉にして働くだけではいけないのであって、自分の労働が真に正しい成果を生むように、ブラック企業を退職して、自分のためになる事業を起こすなどするしかない。

 だが、そこに一つの困難がある。その従業員は、ブラック企業を辞めても、これまで、社長の定める指揮命令系統に忠実に従って労働を受け身に提供するだけの雇われ社員であったので、自分の事業を起こすためのアイディアやノウハウの蓄積がないということである。

 この状態は、プロテスタントの信者たちの霊的「赤子状態」に非常によく似ている。十分の一を教会に納める代わりに、聖書を知的・霊的に理解する仕事を、牧師という存在に任せっきりにし、自分たちは、月曜日から金曜日まで、望むがままに世俗の生活を自由に送り、牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらうことで、かろうじて信仰を保っていたに過ぎない弱々しい信者には、いざ牧師を離れて、自分自身の力で信仰生活を送る力が、ほとんど養われていないのである。

 とはいえ、どんなに信者たちが霊的に幼く弱くとも、プロテスタントが行き詰まりを迎え、牧師階級そのものがこの宗派の重荷となっている以上、牧師制度の下に身を置いている限り、信徒らも、ますます貧しく、弱くなって行くしかないのであって、そうこうしているうちに、ついに信者には牧師たちを経済的に支える力もなくなり、教会は完全に押しつぶされてしまう。

 その悪循環を抜け出すための選択肢はただ一つしかなく、信徒が牧師の霊的赤子状態から自立して、聖書の御言葉を自分自身で咀嚼・理解・実践することのできる霊的「おとな」になって、御言葉により、何者にも奪われることなく、永遠に残る収穫を生み出す存在となることである。

 このようにして、霊的「おとな」になることには、信者の生活をすべてにおいて富ませるのであって、経済的な富も、当然ながらそこに付随して着いて来る。

 もしも資本主義の発達が、ウェーバーの言うように、プロテスタントの倫理によって促されたものであるならば、新たなる経済発展の鍵も、聖書の御言葉の中にこそ存在することを、信者らは特に否定しないことであろう。

 歴史を振り返るならば、経済の発達は、霊的優位性と密接な関係があり、いわば、聖書の御言葉をよく理解し、これを実生活に応用する秘訣を知っている者が、この世においても、真の意味で支配者となり、不足のない豊かな生活を送ることができたという原則があることが分かるはずである。

 すなわち、世界史を大きく動かしているのは、戦争でもなければ、国際金融機関の動きでもなく、宗教であって、その中でも、キリスト教の最も先駆的で、革新的な信仰回復運動こそが、時の経済の発達と密接な関係を帯びていることが分かるであろう。

 現代キリスト教においては、プロテスタントが最も先駆的な信仰回復運動であり、資本主義はその倫理を土台として成り立ったと言って良いが、プロテスタントは、キリスト教の教会史の発展の一時的な形態に過ぎず、プロテスタントの次に来る信仰回復運動というものが、必ず存在するはずである。

 だが、なぜ宗教すなわちキリスト教が、経済の発達を促す原動力になり得たのか。

 カトリックの聖職者制度およびプロテスタントの牧師階級に注目するならば、そこには、救いの確信を心の内に得ている者が、救いの確信を持たない者よりも霊的に優位に立って、彼らの労働の成果を搾取して支配する根拠を得て来た、という構図があることが分かるであろう。

 ここには、非常におぼろげかつ不正確な形であるとはいえ、「罪人の富は正しい者のために蓄えられる」という聖書の原則が、影のように反映している。

 カトリックの聖職者や、プロテスントの牧師たちが、多くの信徒に君臨して彼らを搾取の材料とし、支配することのできた理由は、自分たちがあたかも人間の罪を指摘し、これを赦す権限を持ち、何が正しい生き方であって、何が誤った生き方であるかを人に教え、彼らを導くことのできる者であるかのように振る舞うことで――言い換えるならば、聖書の知識を独占し、自分たちこそ神かその代理人であるかのように振る舞うことで――罪赦されて義とされたいという人々の心の不安を巧みに利用して、彼らよりも優位に立ち、信者らに対して指導的権限を握ることができたからである。

 プロテスタントの信者は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という不安を埋め合わせ、慰めてもらう代価として、目に見える教会と、目に見える指導者の教えのもとにつなぎとめられ、週日の労働の成果を、十一献金という形で教会に納めたのである。

 今日でも、自分が確かに救われて、罪赦されているという、信仰による平安を持たない信者たちは、手っ取り早く、目に見える形で、自らの不安を解消しようと、目に見える教会に籍を置き、見えない命の書ではなく、目に見える会員名簿に自分の名前を記載してもらい、見えないキリストではなく、目に見える牧師に教えを乞い、その”ありがたい”説教を聞くことで、まるでお祓いでも受けるように、自分の罪が清められたかのように思い込み、教会に献金を納めることで、神に仕えているのだという安心感を持ち、目に見える自分の名札(教会籍)と、目に見える兄弟姉妹を見て、自分は神の国に連なって救われているのだと、心慰め、安心しようとする。

 しかし、それは手に取ればすぐに消えてしまうあぶくのような、不確かな保証に過ぎず、信者たちの心の中の永遠に取り去ることのできない確信ではないから、信者たちは、まるで鎮痛剤でも打ってもらうように、その効果が消える頃に、またも同じ痛み止めを打ってもらうことを求めて牧師たちのもとを訪れるしかない。牧師たちは、このような信徒たちの拭い去れない不安を定期的に慰めてやる代価として、彼らの献金によって支えられ、信徒らの上に君臨しているのである。

 筆者は、牧師たちが、救いの確信を本当に得ているとは言わない。ほとんどの場合、彼らは、ただ自分たちが他の信徒に優って、聖書の御言葉をよく知っており、あたかも揺るぎない救いの確信を持っているかのように振る舞う秘訣をよく心得ているだけであり、なおかつ、他の信徒たちの不安を見抜き、これを自分に都合よく利用して、利得の手段と変える心理的トリックを豊富に持っているだけである。

 多くの牧師たちは、筆者から見て、外面的行動だけを取っても、本当に救われているかどうかさえ、全く分からないような人々である。

 しかし、いずれにしても、彼らは自分たちがまるで魂の医者よろしく、揺るぎない救いの確信に立っているかのように振る舞う術を心得ている点で、一般信徒以上にしたたかなのであって、自分の心の内側に、救いの確信を持たない信者は、心の不安を巧みに利用されて、こうした自分の救いを保証してくれそうな指導者(もしくは団体)にいつまでもすがりつき、彼らに年貢を納め、心の不安を解消してもらうことで、平安を得るという生き方をやめることができない。

 こうした信者たちは、自分で自分の貧しい心の状態に気づかない限り、その霊的弱さのゆえに、自分たちの汗水流して真面目に働いた労働の成果を、いつまでも詐欺師のような人々に吸い取られ続ける運命にある。

 このような弱く貧しい信者が、経済的にも、魂的にも、自由になるためには、彼らが一刻も早く、目に見える人間の指導者から自立して、その助けなしに、キリストに直接、連なり、御霊によって直接、御言葉の意味を教わり、誰にも保証してもらう必要のない救いの確信をはっきりと心に得て、御言葉を自分の人生に実際に適用して生き、その成果を勝ち取る秘訣を自分で学ぶしかない。

 すなわち、霊的な優劣を作り出す差別的な宗教制度を離れ、霊的中間搾取者階級を自分の上に置かず、組織や目に見える人や事物に依存せず、あらゆる虐げから遠ざかり、自分の救いの確かさが自分で分からないほどまでに惨めな霊的赤子状態から抜け出すしかないのである。

 霊的な乳を、牧師から飲ませてもらうことをやめて、キリストご自身から、御霊によって、すべてを教わる方法を知り、それによって生長して、霊的に「おとな」になって、すべての物事について自立した大人の考えを持つこと、そうして生長することだけが、「赤子」と「大人」との霊的優劣を撤廃するただ一つの方法である。
 
 かくてプロテスタントは霊的に役目を終えて終焉しつつあり、プロテスタントに次ぐ新たな信仰回復運動の登場が待たれているのであるが、資本主義の行き詰まりを打開する鍵も、その新たな信仰回復運動にあるものと筆者はみなしている。
 
 その新たな信仰回復運動とは、万民祭司の原則に基づき、信者がいつまでも自分を赤子にとどめるゆりかごなる「囲いの呪縛」(目に見える組織や団体による束縛)から抜け出て、キリストご自身から来る、誰にも奪われない救いの確信を心に得て、その命の自由の中を生きることである。

 自分が救われているかどうか分からないという心の不安を埋めるために、自分で自分を贖おうと、ひたすら労働に励み、かつ、その成果を、いつまでも目に見える指導者や、組織に貢いでは、その対価として慰めを受けるのをやめることである。
 
 資本主義における労働は、救いの確信を持てないプロテスタントの信者が、自分で目に見える救いを確保しようと、自分で自分を贖う悲痛なまでの努力が、体系化して生まれたものであると言えるかも知れない。

 そのような意味で、今日には宗教的要素が抜け落ちて形骸化しているにせよ、資本主義における労働には、初めから、人類による人類の自己救済という、聖書の御言葉とは相反する願望が込められていたのであって、それゆえ、その労働は実を結ばずに終わることが運命づけられているのかも知れない。

 それでも、プロテスタントが全世界に福音を届ける使命をまだ積極的に担っていたうちは、資本主義も、その対の車輪として勢いよく回り続けたかも知れないが、今は両方のタイヤにヒビが入り、取り換えが必要な時期が来ている。

 私たちキリスト者は、信じる者として、一人一人が神の祭司であり、御言葉の奉仕者であるが、自分たちの働きが、誰からも不当にかすめ取られることなく、真に実を結ぶものとなるように、今一度、自分が誰に奉仕しているのか、どこに向かって種を蒔き、どうやって収穫を勝ち取るのか、私たちの本当の主人は誰なのか、といった問題について、考えるべきであろう。

 以下のよく知られている聖書箇所も、御言葉には、信じてこれを行う者に、天においても地においても、豊かな実りと栄光をもたらす力があることをはっきりと示している。なぜなら、御言葉は、復活されたキリストであって、私たち一人一人をすべての問題から救い、満たすことのできるのまことの命だからである。

 聖書の御言葉は、信じてこれを行う者に、どんなに少ない場合でも、三十倍の収穫をもたらすことができるのであり、その収穫とは、天的な利益だけでなく、この世のすべての必要性が満たされることをも含んでいる。

 だが、信者が実際にその収穫を獲得し、これを存分に享受し、キリストの満ち満ちた命の豊かさの中を生きるためには、盗人だけでなく、中間搾取を行う者どもをも、自分たちの生活から徹底的に排除しなければならない。

 御言葉を実践しているのに、収穫がもたらされない信者には、常に邪魔しているものが存在するのであって、自分のための泉の水を、道端にまき散らし、自分のための栄冠を常に他人に奪われているような生き方では、残るものがないのは当然である。

 従って、自分一人では十分に物事を考えられないとか、一人では救いの確信が持てないとか、一人では自己価値を感じられず不安だなどといった理由で、常に自分以外の目に見えるものにすがりつき、それによって自己価値を保証してもらおうと頼っている限り、その信者に蒔かれた種は、発芽しても、その実はすぐに奪い取られ、手元には何も残らないことを知るべきである。

 組織や、事物や、指導者に依存して、目に見えるものによって自己価値を保証してもらうことをやめ、霊的な中間搾取者から離れなさい。そうすれば、信者は、見えない神に直接、仕えることができるようになり、その働きが、誰にもかすめ取られず、信者自身の人生に利益として還元され、いつまでも残る実りになるでしょう。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出て行った。

 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ目を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 他の種はいばらの中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。


「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるのである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
」(マルコ4:1-8, 14-20)
2019/03/06 (Wed) 神の国の働き人

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12-14)
 
A教団を離れるに当たり、大きな苦労を払って、独立を勝ち取った教会が、間もなくNK教団に所属するという噂がある。
  
それが実現するかどうかは知らないが、実現すれば、プロテスタントのおよそすべての教会が、自分の身の安全と引き換えに、御言葉を曲げて教会を迫害するカルト被害者救済活動の吠えたける獅子のような咆哮に、膝を屈して、信仰の証しを捨てて、沈黙に入ったことになる。

つまり、日本のプロテスタントはこれで霊的に完全に終焉するということだ。前々から当ブログでは、プロテスタントからはエクソダスせよと述べて来た通りである。
   
筆者は以前から、偽信者、偽預言者らから投げつけられた悪罵の言葉は、単なる誹謗中傷ではなく、霊的効力を持つ呪いであるから、きちんと抵抗して、その呪いを跳ね除けて発言者自身にお返ししなければ、それは時と共に効力を発揮して現実となる、ということを再三、警告して来た。
 
これらの冒涜者は、キリスト者を中傷することで、神の神聖を穢し、キリスト者の贖いを奪い取ろうとしているのであるから、私たちが、これに毅然と立ち向かうかどうかは、ただこの世における名誉に関わる問題であるだけではなく、来るべき世における永遠の命にも関わる問題なのであると。
 
自分の教会や、神の家族である教会員らが侮辱されても、立ち上がりもせず、御言葉が曲げられている時に、沈黙している指導者が、どうして来るべき世において、神から託された羊たちをきめ細やかに世話したと評価を受けられるのか。

我々キリスト者は、外面的な強さではなく、内なる霊的な強さを帯びなければならない。それは御言葉に固く立って、何があっても揺るがされず、信仰の証を保ち続ける強さである。
 
どれほど体を鍛え、屈強な外見になっても、もしもその人が自分の家庭や信者を守れないようでは、この世においても、その力は認められることはない。まして、私たちが天から預かっているのは、神の家であり、指導者は、そこに身を寄せている信者らを守り切らなくてはならない。
 
だが、日本全国の教会の指導者の中には、教会が冒涜を受けても、もはや毅然と抵抗するところもなくなった。

なぜそのようにまでプロテスタントの教会は堕落したのか。それは、プロテスタントは、かつてカトリックがそうであったように、今や信徒に君臨する特権階級としての牧師階級を養うことだけを、第一の目的としているためである。

牧師たちの家庭を守ることが第一義的課題となっていればこそ、世と軋轢が生まれるのを避けたいと、プロテスタントの指導者は、教会が冒涜されても、争いを避けるようになったのである。
 
この点で、気に入らない信者たちをのべつまくなしにバッシングして沈黙に追い込むカルト被害者救済活動と、信徒を虐げていつまでも支配階級として君臨したいプロテスタントの牧師階級は、利害が一致している。

むしろ、すでに幾度も述べて来た通り、カルト被害者救済活動それ自体が、信徒を搾取し、食い物にするプロテスタントの牧師階級の悪の猛毒の副産物として生まれて来たものである。

それはちょうどブラック企業と、ブラック企業からの救済ビジネスが本質的に一つであって、共に貧しく、虐げられた人々をさらに食い物にするために存在しているのと原理は同じである。カルトとアンチカルトは同一であり、まさに車の両輪なのである。

さて、A教団を去って、NK教団へ移るとは、どこかで聞いたような話だ。その先に、さらにカトリックにまで霊的に後退して行った”先達”がいる。
 
NK教団のホームページを開くと、真っ先に目に飛び込んで来るのは、第二次世界大戦時、教団が正式に侵略戦争を是認したことへの懺悔のことばである。

戦時下でキリスト教の宗教団体がどのような状況に置かれていたかは、『戦時下のキリスト教 -宗教団体法をめぐって- 』(キリスト教史学会編、教文館)という書物に詳しいようだが、その書評「よみがえった反動的パワーに対峙するための基礎固めを」(石浜みかる)だけを読んでも、当時の状況がよく分かるので、抜粋してみたい。
 
戦時下で、国は宗教団体を国体思想の中に取り込んで戦争に協力させ、信者らの抵抗を抑えるために、宗教団体法を成立させた。そして、従う団体は優遇するが、従わない団体は弾圧するというアメとムチ作戦に出た。
 
 

 「宗教団体法」は、戦時下の一九三九年四月に成立し、日本の全宗教団体を横並びに串刺しにした戦時統制法です。宗教関係者にとって、法律は論じることの少ない分野ですが、憲法九条が揺らぐ今この時に、〈あの〉宗教団体法に焦点を絞った書籍が出たことは、まことに時宜を得ていると思います。本書のなかで研究者の方たちは、キリスト教界の代表的な五つの団体それぞれに、当時何が起きていたのかを(長らく語られなかった内部の状況もふくめて)、渾身の力を込めて語っておられます。

 三九年に成立した宗教団体法の草案が、文部省宗教局の高級官僚によって練られたのは、その四年前の一九三五年です。超国粋主義議員たちの突き上げにより、国会が「天皇陛下は憲法のもとで統治されるのではない。日本は現人神天皇陛下が、憲法を超越して治められる神国なり。皇国なり」と、古代のような「憲法の解釈変更」を決議したからです(三月二四日衆議院、天皇機関説排撃による国体明徴決議案可決)。

そして翌三六年の二・二六事件いらい、軍部が政治を掻き乱していき、日中戦争が泥沼化すると、国民のあいだに不安と厭戦気分がひろがり、国内秩序が崩れていきました。復古的日本精神を鼓舞する官製の「国民精神総動員運動」が始められますが、戦死者の遺骨はつぎつぎにはるか遠い中国大陸から戻りつづけます。お葬式を執り行う宗教界の絶対的服従が必須でした。超国粋主義者であった平沼騏一郎首相は、三九年二月、ついに宗教団体法案を貴族院特別委員会に提出し、「どんな宗教も、我が国体観念に融合しなければなりません。国家としては保護もします。横道に走るのを防止するために監督もいたします」と恫喝します。宗教団体法は可決されました。

  (第一条)本法において宗教団体とは神道教派、仏教宗派及び基督教其の他の宗教の教団(以下単に教派、宗派、教団と称す)並びに寺院及び教会を謂(い)う

 アメ(保護・懐柔)は「認可を受ければ所得税は取らない」という条項であり、ムチ(監督・強権)には、合法でない宗教行為には罰をあたえる、トップ解任もあるとの脅しの条項もありました。黙って「認可」を受ける指導者たちの無抵抗の従順さを見て取るやいなや、文部省宗教局官僚は一気に強制的大統合をすすめたのでした。こうして宗教界諸団体は、国体に融合し、「和」を保てという同調圧力に屈してしまったのでした。それは滅私報国・戦争協力への道でした。


 
 このように、キリスト教界においても、多くの団体が、「和」の精神という同調圧力に屈し、戦争への協力の道を選んだことは知られている。とはいえ、抵抗した者たちもいた。その当時、最も激しい弾圧を受けたのは、ホーリネスだったと言われる。
 

一番すさまじいムチを受けたのは、一部が日本基督教団にも統合された、ホーリネス関係者でした。法律が一つ成立すれば、関連法が「改正」されます(安保関連諸法の改正のように)。内務省の特別高等警察は、「改正」治安維持法を適用して一三〇名以上の牧師を粛々と検挙しました。七一名を起訴。実刑一四名、死者七名――。



 当時、国策としての戦争に協力を拒んだがために、検挙されたり、実刑を受けたり、処刑されたりしたクリスチャンは、まさに殉教者の名に値する人々であろう。

 翻って、NK教団は組織的な抵抗を何ら行うことなく、国体思想に従順に従い、今になって懺悔の言葉をホームページに掲載している。だが、それはただ戦争に加担したことへの懺悔を意味するだけではなく、この誤った国策に協力するために、罪のない牧師、信徒、神の家族を率先して売り渡し、陥れ、犠牲にしたことへの懺悔の言葉であることを忘れてはならない。

 抵抗できなかった、と言えば聞こえは良いが、要は、兄弟たちを売り渡し、見殺しにする側に回ったということなのである。

 A教団はこの恐るべき戦時下には、まだNK教団という母体の中におり、世に生まれ出ていなかった。従って、A教団は、今日、どれほど目にしたくないほどの多くの腐敗と混乱を抱えているにせよ、最も暗いこの歴史的時代に、後ろ暗い負の遺産を負わされずに済んだのである。

 それなのに、一体、なぜ、A教団の理念の誤りを見抜いた教会が、このような歴史的負の遺産を抱える団体へ後退して行かねばならないのか。

 表向きの理由は、教会を地域社会で存続させるためであっても、内実は、牧師階級を延命させるためのバーター取引であるとしか受け止められない。

 牧師たちが自力で教会を支えているのでは、万一、彼らが倒れた時に、教会がなくなってしまう恐れがあるという理屈は、ほんの表向きのものでしかない。NK教団に所属すれば、牧師たちには謝儀が保障されるかも知れないが、翌年から、教会は教団に負担金をおさめなくてはならなくなる。それは信徒らに落ちかかって来る事実上の年貢だ。
 
 筆者は、おそらくは当ブログの訴訟が決着するこの3月が、様々な意味で、筆者にとどまらない多くの兄弟姉妹にとっても、大きな分岐点となることを、前もって予想していた。これはエクソダスのために開かれた道である。そこで、この時点までに、プロテスタントの諸教会が、暗闇の勢力に毅然と立ち向かって、受けた侮辱を跳ね返し、聖書の御言葉の正当性を公然と守ることをしなければ、その後、おそらく二度と彼らにはチャンスがなくなるであろうこと、それどころか、必ず、著しい信仰的後退が起きるであろうことを筆者は予想していた。

 当ブログでは、牧師制度を無用なものと考えているため、いつまでも牧師制度を抱える教会や信者たちと、手を取り合って進むことが可能であるとは初めから考えていなかったが、それでも、筆者は筆者なりに、できる限りの努力を尽くし、そして、予想通りの結果が返って来た。差し伸べた手を握り返す力は次第に弱くなり、書面は次第に遅れがちになり、そこに断固たる要求の調子は見られず、さらに武道を習っているという話までも聞こえて来た。

 筆者は、「道」のつくものは、みな東洋思想を基盤としており、相反する概念の統合としての「和」を至高の価値とするものであるから、これは聖書の神に逆らう理念であって、大変、危険な影響であることを警告した。脳裏には、三島由紀夫を信奉していた指導者の姿がまざまざとよぎった・・・。

 さて、以上の話は、これまでにも何度も起きては立ち消えになったものであるから、実現するかどうか、筆者に問われても分からない。

 だが、もしも実現すれば、すでに書いた通り、プロテスタントの教会からは、最後のともし火が消え、地の塩としての役目がほぼ完全に消えることになる。なぜなら、長いものに巻かれず、独立性を保って、カルト被害者救済活動に毅然と立ち向かう教会が、地上から消え失せるからである。
 
 軍国主義の時代でもないにも関わらず、プロテスタントは、自らカルト被害者救済活動の前に膝をかがめ、神の福音を自分の生活の保障と取り替えたのである。
 
 そこで、もしも最後に残った教会までもが、かつて「和」の精神を唱えて同調圧力に負けて戦争に加担した教団を所属先に選ぶとすれば、それも極めて暗示的・予見的な出来事と言えるであろう。
  
 筆者は、プロテスタントの終焉という出来事が、いかに恐ろしい現象であるか分かっており、この宗教がこれから何の影響力の下に集約されて行こうとしているのかも想像がつくが、こうした有様に驚いてはいない。

 なぜなら、カルト被害者救済活動に恫喝されて諸教会が沈黙に入ったのは、すでに何年も前のことだからである。

 そして、神はプロテスタントの中から、筆者のように、すべての組織や団体を離れてエクソダスを成し遂げた信者をすでに各地に用意しておられることも信じている。

 そこで、筆者がせねばならないことも、後ろにあるものを振り向くことではなく、自分が失格者とならず、むしろ、賞を得られるように、前に向かって走ることだけである。  
 
   信仰の世界においては、本物でなければ、存続しない。だが、存続するための秘訣は、黙ってぼんやり受け身に待っていることではなく、神の御言葉を行い続けることにこそある。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24-25)

 神の御言葉を聞いて行うことをやめれば、その時点で、家の土台の強度は失われ、その家は砂地に建てた家と同じになってしまう。どんなに世と迎合して、様々な支えを得たつもりであっても、その支えが、基礎となる岩から来るものでなく、御言葉に基づくものでなければ、その家は、雨が降り、川が溢れ、風が吹いて襲いかかれれば、ひどく押し流されて、倒壊することになる。

 だから、どんなに時が良くても、悪くても、私たちは決して信仰の証しをやめてはいけない。私たちは一体、誰の目に、自分を認められることを願っているのか。何に支えを見いだすのか。頼るべきは、世なのか、それとも、ただ一人の見えないお方なのか。

 水の上を歩いたペテロが、一瞬の不安に駆られて、見るべきお方だけを真っすぐに見ず、足元を見た時のように、もしも私たちが、主イエス以外のものに自分の生活の安寧や保障を見いだそうとするなら、私たちの思いは、たちまち穢され、支えを失ってしまうことであろう。

 そこで、見るべきお方から、一瞬も目を離さず、自分を奮い立たせて、自分の関心のすべてをとりこにして、キリストに従わせ、目標に向かうために真っすぐに走るのである。
 
 神は愛する子供を懲らしめる親のように、信仰者を燃える炉の中に投げ込んで洗練するように鍛えられる。だが、忍耐して賞を勝ち取ることができれば、天に朽ちない栄冠が待っている。

 力弱くとも、最後まで忍耐して従えば、大きな栄誉が待っている。私たちは、自分の栄冠を誰にも奪われることのないよう、固く守らなければならない。
  
「わたしはあなたの行いを知っている。
 見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。
 あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
 
 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。
 実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。
 見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。
 
 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すために全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。

 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
 耳のある者は、”霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」(黙示3:8-13)

詩編には、次の通りある。ダビデの言葉としては非常に厳しいが、これは神の教会や、神が立てられた信者たちを呪う者に対する当然の裁きの宣告である。

「彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を断たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

 彼の生涯は短くされ
 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり
 妻はやもめとなるがよい。

 子らは放浪して物乞いをするがよい。
 廃墟となったその家を離れ
 助けを求め歩くがよい。

 彼のものは一切、債権者に奪われ
 働きの実りは他国人に略奪されるように。

 慈しみを示し続ける者もいなくなり
 みなしごとなった彼の子らを
 憐れむ者もなくなるように。

 子孫は断たれ
 次の代には彼らの名も消されるように。
 主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。

 母の罪も消されることがないように。
 その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
 その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。

 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は遠ざかるように。

 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。

 呪いが彼のまとう衣となり

 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
 主はこのように報いられる。」(詩編109:6-20)



* * *

M牧師の教会の信徒はほとんどが同氏に教会から出て行ってもらいたいと願っている。Mは2015年に自らのブログにて、若き40代の後継に道を譲るため主任牧師を降りると宣言したが、その後、信徒総会の決議により全会一致で選出された後継牧師を、信徒総会の決議を経ずに、密室での決定により、牧師の座から退けて、自分の妻を主任牧師に据えた。この出来事は、Mファミリーによる教会の私物化として、同教会では限りなく強い憤りを持って受け止められている。

A教団の平均的な退職年齢は80代であるから、本来、2015年に60代だったMにはこれほど早期に引退する理由がなく、いかに当時から信徒のMへの信任が著しく失われていたかがよく分かる出来事である。

Mはゆくゆくは自分の息子に教会を継がせたいために、妻を強引に主任牧師に据えたと見られるが、目下、教会の献金のほとんどは、M、Mの義父、Mの妻、Mの息子と、Mファミリーの教職者らで独占され、他の牧師は薄給で貧しい生活に追いやられている。Mファミリーによる献金の使途不明な管理も指摘されている。
 
Mファミリーはかつて教会2階の広間をほぼ独占していたが、引っ越す際、キャッシュ(現金)で家を買ったと信徒に自慢していた。どこからそんな金が手に入ったのか、信徒は非常に不審に思っている。

牧師を目指すMの息子も、教会で怪しげなミニストリーを提唱しては信徒らの反感を買っている。信徒らは、教会を私物化して我が物顔に牛耳るMファミリーが、一刻も早く教会から手を引いて立ち去ることを切に望んでいる。

A教団も、Mが元教団関係者も含め、あまりに多くの牧師らと争いを引き起こしたことに辟易し、これ以上ブログに同僚牧師の悪口を書かないようにとMに釘を刺した。Mのもとへ相談に通った信徒もブログに個人情報を書かれて迷惑している。

Mは同僚牧師を責められなくなって来たので、仕方なく他のカルト団体を相手に争いをしかけているが、戦いを挑まれた異端団体の側から、反撃として激しく呪詛されている可能性がある。
 
なぜなら、Mの家族には自殺者が出ているからだ(なるほどMが自殺者を擁護するはずである)。実の息子は家と教会から逃げるように北海道で就職したが、大けがで後遺症を負い、Mのもとへ戻った。
 
Mの娘と結婚した義理の息子は自殺、娘は嫁ぎ先から逃げるようにMのもとに出戻った。自殺の原因は色々噂されているが、有力説は事業の失敗だ。Mは義理の息子の事業を助けるために、教会からリフォームの仕事を強引に回すなどしたが、それでは足りなかったというのだ。牧師の娘にも関わらず、夫の自殺を防ぎ得なかったとの非難に耐えられず、Mの娘は家に逃げ帰ったと言われている。

牧師家庭には似つかわしくない、まるで何者かに祟られているか、呪われてでもいるかのような、幸福からはほど遠い家庭の有様であるが、見ようによっては、弱い者が真っ先に犠牲にされて行く典型的なカルト信者の家庭像でしかない。

ちなみに、教会の信徒らは、Mの娘が、かねてよりMの教会に出入りする被害者たちを「理由(わけ)ありの人間」と呼んで蔑んでいたことを知っているので、Mファミリーに降りかかった不幸に同情していない。

Mは教会や牧師を相手取って不当訴訟に及んだのみならず、多数のカルト団体にも戦いを挑んでいるため、他宗教の信者たちから真に呪われている可能性がある。そのように危険かつ無謀な活動からは手を引き、子供たちのためにも、壊れた家庭を立て直し、家庭に笑顔が取り戻される事を第一として、裁判やカルト団体との戦争に関わるなという忠告は、真っ先にこの牧師とその家族にこそ向けられるべきであろう。

ちなみに、表向きには訴訟の専門家を名乗っていたMが、信徒から挑まれた裁判をどれほど侮っていたかは、Mが毎回の口頭弁論時に、誤字脱字の訂正さえしていないわずか3ページの準備書面しか提出せず、どの準備書面を自分が提出したかも忘れ、その他は、ひたすらSとメールで悪口に明け暮れていたことを通しても判明している。

Mはその悪口メールを裁判所に書証として提出し、それゆえ侮辱罪などに問われる可能性が浮上している。まさに自滅行為と言う他ない。Mが訴訟に提出した書面を実際に読めば、今後はもはや誰一人彼を専門家とは呼ばなくなるだろう。

それにしても、牧師家庭で自殺とは。悪い木には悪い実しかならないとはこのことだ。これでどの口をもって他者の不幸を見下げ、嘲る筋合いにあるのか、笑止である。
 
キリスト者が立ち向かっている悪魔は、死を武器としており、キリストは十字架で最後の敵である死をすでに滅ぼされた。牧師であるにも関わらず、身内の自殺も防げない者が、自分が被告として訴えられたからと言って、汚名を返上できるはずもない。救いの確信のない人間には、いかなる嫌疑をも晴らす方法がなく、敗北は必至だ。

神は生きておられ、自分は女王の座についているから孤独を知らないと、貧しいやもめを見下し、勝ち誇ったバビロンは、一日で夫と子供を失って凋落する。その御言葉が真実であることが、今も証明されつつある。神に逆らう一家の行く末は、詩篇にも赤裸々に記されている通り、彼らが生きていた痕跡も、その名も地上から消し去られる。

Mの凋落を願っている人たちに、以上の不幸なニュースは福音のように受け止められることであろう。Mが今のままでは、子供たちも全宗教界の笑いものとなり、自立も結婚もできず、二度と幸福にはなれまい。

そう言われて当然であるほど、Mは教団内外の信者から恨みを買っている。一人の過ちの多い人間が、神を差し置いて、全宗教界の監督者になろうとしたことの罪は大きい。さらに、Mは、神がMに世話を託された羊たちを公然と呪うことで、自らの身に呪いを招いた。主が愛される民を嘲り、踏みにじり、呪うことの報いは絶大である。

神は、Mの一家が、悩み苦しんでいる主の民を、「理由あり」と呼んで蔑んでいたことを知っておられた。だが、神はMを討つ代わりに、Mの宝である子を討たれた。そうなってもまだ、Mが主の御手の下にへりくだることができないならば、Mの子供たちは今後、父の罪のゆえに、さらに苦しまなければならなくなるであろう。Mと支持者が主の民に投げつけた悪罵は、倍以上になって、Mの子らに跳ね返る。そうなってから、主の民を呪った恐ろしい罪を思い出してももう遅い。

KもSと内通し、不都合な信徒の情報を漏示して陥れたことが、S自身の証言により発覚しており、Kへの民事及び刑事での責任追及は逃れられない。Kの詭弁に満ちた陳述書や、KがSと交わした卑劣な内容のメールも、間もなく公開されるが、その暁には、Kの不誠実な人柄も、公然と世に知れることとなり、Kがかつて得意満面に元信徒に提起した刑事告訴も、虚偽告訴としてK自身に跳ね返る可能性も否定できない。

Kの出鱈目な陳述書には、かつての学者の知性は見る影もなく、Kが自らアカデミズムを去ったのも、ニューエイジとオカルトに影響を受けた結果だ。
 
会堂のないKの集会は、今やインターネットが頼りであるが、それを奪われれば、一切の発言ができなくなる。そうなるのも、時間の問題である。Kもかつて息子が透析を受けることになるかも知れないと発言していたことが思い出される。

かくて神に従うことをやめた指導者の末路は厳しい。K,S、Mはいずれも聖書に根本的に問題があるとみなし、聖書の二元論を退けて、聖書に立脚せずに、教会を非難し、信徒らを呪ったことにより、以上の結末が降りかかった。

プロテスタントはすでに信仰改革運動としては終焉しているとはいえ、読者は、聖書の御言葉を否定し、これに立脚せずに教会を敵に回す者が、神と人の前に立ちおおせない事実を知るべきであろう。

筆者は今まで父の罪を子に負わせないために、指導者以外の人間については故意に言及を控えて来たが、ネトウヨのような諸氏が、無差別に無名の信徒とその家族までも中傷合戦に引きずり込んでいるのを見て、情けは彼らのためにならないと判断した。

彼らが教祖としている人間が、裁判所に正式に提出した愚かしい準備書面や、書証、陳述書、メールの全文の公開に伴うインパクトは絶大であり、彼らのクライアントは、その文面を見ただけで、あまりの知性の欠如、倫理の欠如、底知れぬ悪意に驚愕・失望し、大慌てで逃げて行くことであろう。

これらの指導者・信徒が、あたかも正義の担い手であるかのような神話は、根底から崩壊する。そのあまりに幼稚過ぎる文面を読めば、彼らが気に入らない信徒を貶める目的で、夜な夜な掲示板にたむろしては自ら書き込んでいるという噂も、あながち嘘とは言えないと、誰しも思うようになろう。

(*ちなみに、筆者には離縁された過去などないため、作り話には注意を )

* * *

以上は、筆者がコラム欄に掲載した文章であり、著作権侵害の新たな告訴事実を追加するため、投稿しておく。
 
信者に偽装したネトウヨ諸氏は本当に愚かであるため、当ブログの文面を盗んでは、罰金を科される口実を自ら作っている。彼らはどうしても法違反を犯さずには発言できないという特徴があるようだ。ちょうど新たな書面の作成を行っている最中であるから、まことに都合が良く、ありがたく最後の毛糸一本まではぎとらせていただくのみである。
 
なお、冒頭に掲げた御言葉を初めて当ブログに掲載したのは、何年も前のことである。それから数年のうちに、当ブログに敵対する人々に、まさに以上の御言葉が預言のごとく降りかかったことに留意されたい。

神の子供たちに対して「馬鹿」と言う者が最高法院に引き渡され、ゲヘナに投げ込まれることは、聖書には記されているが、M,Sが本当に信者を「馬鹿」と罵るメールを書証として裁判所に提出したことを知れば、人々は唖然として返す言葉が見つからないことであろう。
 
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)
 
また、ハビロンの崩壊については、黙示録第18章に次の通りある。

「「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。

  その罪に加わったり、
  その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
  彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
  神はその不義を覚えておられるからである。
 
  彼女がしたとおりに、
  彼女に仕返しせよ、
  彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
  彼女が注いだ杯に、
  その倍も注いでやれ。

  彼女がおごり高ぶって、
  ぜいたくに暮らしていたのと、
  同じだけの苦しみと悲しみを、
  彼女に与えよ。

  彼女は心の中でこう言っているからである。
  『わたしは、女王の座に着いており、
  やもめなどではない。
  決して悲しい目に遭いはしない。』

  それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、
  死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。

  また、彼女は火で焼かれる。
  彼女を裁く神は、
  力ある主だからである。」
  
 彼女とみだらなことをし、ぜいたくに暮らした地上の王たちは、
 彼女が焼かれる煙を見て、そのために泣き悲しみ、彼女の苦しみを見て恐れ、
 遠くに立ってこう言う。

 「不幸だ、不幸だ、大いなる都、
  強大な都バビロン、
  お前は、ひとときの間に裁かれた。」

 地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。
 もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである。」(黙示18:4-11)


さらにイザヤ書の以下の記述も、同様にバビロンの崩壊についてである。

バビロンが数々の愛人とその子らを誇り、自分を夫ある女と呼んで、貧しいやもめを見下げた罪のゆえに、一日で夫と子供を失い、寡婦となるという預言を思い出す頃合いであろう。

バビロンとは、神の御言葉を捨て、この世の栄耀栄華との結婚を選んだ腐敗堕落した教会を指し、やもめとは、御言葉に忠実に従い、花婿なるキリストだけを待つ、つつましい花嫁なる教会エクレシアを指すことは、改めて説明するまでもない。

バビロンには、恥辱と、破滅と、孤独とが、思いがけない時に、盗人のように襲いかかる。バビロンが、彼女が蔑んだエクレシアの二倍の苦しみを受けることは、誰も取り消すことはできない神の決定であり、当然の裁きである。御言葉の成就を待つ。

   
身を低くして塵の中に座れ おとめである、娘バビロンよ。
 王座を離れ、地に座れ、娘カルデアよ。
 柔らかでぜいたくな娘と呼ばれることは二度とない。

 石臼を取って粉をひけ。ベールを脱ぎ、衣の裾をたくし上げ
 すねをあらわにして川を渡れ。

 お前は裸にされ、恥はあらわになる。
 わたしは報復し、ひとりも容赦しない。

 わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主 イスラエルの聖なる神。

 沈黙して座り、闇の中に入れ、娘カルデアよ。
 諸国の女王と呼ばれることは二度とない。

 わたしは自分の民に対して怒り
 わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。
 
 お前は彼らに憐れみをかけず
 老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。

 わたしは永遠に女王だ、とお前は言い
 何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった。

 今、これを聞くがよい
 快楽に浸り、安んじて座る女よ。
 わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と言い
 わたしはやもめになることなく
 子を失うこともない、と心に言う者よ。

 その二つのことが 一日のうちに、瞬く間にお前に起こり
 子を失いやもめとなる苦しみが
 すべてお前に臨む。

 どれほど呪文を唱え
 どれほど強いまじないをしても無駄だ。

 お前は平然と悪事をし 「見ている者はない」と言っていた。
 お前の知恵と知識がお前を誤らせ
 お前は心に言っていた
 わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と。

 だが、災いがお前を襲うと
 それに対するまじないを知らず
 災難がふりかかっても、払いのけられない。

 思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う。

 まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。
 若い時から労して身につけたものが
 あるいは役に立ち
 それを追い払うことができるかもしれない。

 助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。
 天にしるしを見る者、星によって占う者
 新月によってお前の運命を告げる者などを
 立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。

 見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。

 呪文を若い時から労して身につけ
 売り物としてきた者すら、この様だ。
 彼らはおのおの勝手に迷って行き
 お前を救う者はひとりもいない。 」(イザヤ書第47章)

2019/03/05 (Tue) 神の義なる裁き

「どころで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。
 造られた者が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子と呼ばれる。」

また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。

それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラのようにされたであろう。」」(ローマ9:19-29)

* * *

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:14-17)

* * *

 
本当は別の記事を書く予定だったのだが、非常に重要な話だと思われるものを先にまとめておきたい。

聖書の神は、愛されなかった者を愛される者と呼び、見捨てられた民を選ばれた民とされ、人の目から見て、最も無価値で、使い物にならないと判断されたものを大胆に用いられる。

モアブ人だったルツは、ユダヤ人からは祝福とは無縁の呪われた民とみなされていたが、キリストの系譜に加えられており、ダビデに夫を殺された上で、ダビデの妻とされたバテシェバもそこに加えられている。

キリストご自身が、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」(詩編118:22)と言われる通り、人に捨てられた石であった。御子の誕生は、誰もが知る通り、ベツレヘムの馬小屋、つまり、生まれた時から、主イエスはこの地上に居場所がなく、人間として数えられていなかったのである。そして、地上での生涯においては、神の独り子であったにも関わらず、十字架の死に至るまで、己をむなしくして、父なる神に従順に従われた。

このように、私たちの神は、人の目から見て、蔑まれ、全く価値のないように見える器を用いられる。むしろ、人の目から見て、有用性があると思われ、自分により頼んでいるうちは、神の目には全く使い物にならないのだと言えよう。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。


それは、だれ一人、神の前で誇ることが無いようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

さて、筆者がキリストのみに身を捧げて生きたいと書く時、そこには、人間的な一切の力により頼みたくないという意味が込められている。

筆者にも、人間的に誇ろうと思えば、何がしかのものがあったであろうし、今もあるであろうが、キリストがそうであられたように、筆者は、世の前に一切栄誉を受けない生き方を願うのである。

ところが、このように書くと、ことさらに嘲り、怒り出す人々がいる。このような考えは、人類を拒むものだとか、男性の価値を認めないものだと言って、まるで自分が否定されているかのように、怒り出すのである。(一体なぜ彼らは自分とキリストを同列に比べようなどと考えるのであろうか?)

こうした人々は、おそらく、女性の価値は、男性に仕え、男性を満足させることにのみあると思いたいのであろう。特に、宗教指導者はそうである。彼らは信徒から仕えられることによってしか、自己価値を確認できない哀れな人々である。

自分が誰かからかしずかれ、敬われ、仕えられていないと、片時も、自分の価値を感じられない心貧しい人々は、自分の周りにいる信者がただキリストだけに従うなどと言い始めた日には、まるで妻に離縁されようとしている夫のように、半狂乱となり、何とかして、人間の指導者から去って行かないようにと、あの手この手で引き留めようとする。

この世の男性の中には、自分は女性よりも優れていると思い込み、ただそれだけを、自己のステータスと考える者たちが存在する。だが、それはちょうど、江戸時代の人々が、えた・非人を見下すことで、自分がつらく貧しい生活の中で、誰からも十分にかえりみられることもなく、抑圧されている不満を忘れようと、自分の思うがままに痛めつけられる下の階級を求めたのと同じことである。

だが、女性は、男性に属することで初めて価値が生まれるものではない。男であれ、女であれ、誰かよりも強く、優れているから、その人間に価値が生まれるわけではない。

キリストに属していなければ、みな人類は罪深い堕落した人間でしかなく、無価値なのである。

従って、私たちが、堕落した被造物としての限界から贖われる道は、自分よりも強い者に帰属することで、自分の弱く蔑まれたルーツを否定することにはない。

むしろ、主は、この世で無力で見下されている人々を常に積極的に選んで、憐れみの器として、ご自分の栄光を表そうとなさったのであるから、私たちは、そうして神の強さが現れる契機となった自らの弱さを蔑むどころか、むしろ、これを誇るべきなのである。

話が突然、変わるように思われるかも知れないが、かつてある女子フィギュアスケーターがオリンピックで困難なジャンプに挑んで派手に失敗し、それがトラウマになって、オリンピック恐怖症になった。

そのスケーターは、世界的な実力の持ち主であったが、多感な少女時代に自分の失敗を週刊誌で書き立てられて、無責任なオジサンたちに笑いものにされたことで、深い心の傷を負った。結局、それがトラウマとなって、二度とオリンピックに真正面から挑戦できず、その挑戦から逃げるように、未婚の母となった。

こうした事例は、心弱い女性が、自分よりも強そうなオジサンたちの無責任な冷やかしに負けてしまった典型例と言えよう。彼女が未婚の母になることを決断したのは、自分を笑いものにしたオジサンたちの眼差しを逆に征服することで、自分が受けた心のトラウマを否定的に乗り越えようとしたものと見られる。

しかし、このような方法では、トラウマを乗り越えるどころか、かえってオジサンたちの好奇な眼差しに負けて、自分の貴重な可能性をみすみす手放したことにしかならない。

確かに、十代の多感な少女を週刊誌でバッシングした連中は、極めて罪深い所業に手を染めたと言えるとはいえ、それでも、オジサンたちの眼差しには、本当に彼女を打ち負かすほどの力があったのだろうか? 答えは否である。

彼女にはその当時、ジャンプが決まりさえすれば、世界一になれる可能性があった。それはオジサンたちには逆立ちしてもできないわざであり、彼女は、それによってしがない連中の噂話など完全にものともせずに、足の下に踏みつけることができたのであって、オジサンたちの無責任な思惑などに振り回されず、自分の道を行くべきだったのである。

そして、目に見える遺産ではなく、目に見えない遺産を打ち立てることに心を集中すべきであった。それができていれば、一人の女性としての限界を超えるほどに大きな栄光を手にすることが出来ていたであろうし、ふさわしい人々との出会いもその先に待ち受けていたものと思われる。

さて、以上の話はもちろん比喩である。筆者がここで語ろうとしていることは、人類は、霊的に女性であるということである。その意味で、女性のみならず、男性も、女性と同じような弱さ、脆さ、不完全さを背負っているのである。

ここで言う、人類が霊的に女性であるとは、人類が神の宮であることを意味する。人類は神を迎えるための神殿であり、神の助け手として造られたという意味で、霊的に女性である。

こうした文脈で、人類は、男であれ、女であれ、みな自分一人だけでは決して完全にはなれない「女性性」を抱えている。すなわち、自己の不安定さ、不完全さ、弱さ、脆さ、有限性などの哀しみを抱え、絶えず自己の不完全性に脅かされて生きている。

そういう意味で、女性的な弱さは、何も女性だけの専売特許ではない。それは言い換えれば、人類全体の弱さ、有限性、不完全さそのものに通じるのである。

そこで、このような自己の不安定さ、孤独、弱さのゆえに、人類は絶えず何かにすがろうとする。特に、自分に弱さや不完全さや恥を感じさせた相手を憎みながらも、何とかして、自らの弱さを否定し、そこから目を背けるために、何とかしてこれ以上批判を受けまいと、その相手にすがりつく。だが、ほとんどの場合、そうして人類が抱き着く相手は、人類を辱めた悪魔なのである・・・。

この地上においては、弱い者が、強い者にすがりつき、その者の庇護を受けたからと言って、決してそれによって、自己の弱い本質を克服することはできない。

女性が一人でいるのは心細いと考えて、自分よりも強い男性の庇護を受けたとしても、その女性はそのことによって、いささかも強い者に変化するわけではない。

この地上における、男女の支え合いは、ほんの束の間でしかなく、必ず別離が来て、誰かが一人で取り残される。その時が来るまで、もしも弱い者が、強い者に全面的によりかかって生きていたならば、支えがなくなった時点で、倒れるだけである。そのようなものは強さではない。

人類も同じで、自分が霊的に女性であり、一人では立てない不完全な存在であるという弱さを、何とかして打ち消そうと、自分に弱さや惨めさを思い知らせた強い者にすり寄り、その者の強さに威を借りようとしたとしても、そんな手段によって、自己の弱さを克服することも、完全な存在になることもできない。

要するに、人類が、自ら宮であることを捨てて、単独で神のようになろうとしたところで、それは何ら人類が自己の弱い本質を克服する手立てとはならず、人類が霊的な「女性性」を克服して、自ら男性のように強くなる手段とはならない。

むしろ、神が願っておられるのは、人類がそのような方法で、自分で自分を何とか補強して別人のように強くなろうとすることではなく、弱いままで、信仰によって、その弱さの中に神の強さが注ぎ込まれ、本当の意味で、神と人との同労が行われることなのである。

ここに、なぜ今の「恵みの時代」に、人類は、神との完全な合一なしに地上に取り残されており、エクレシアは、花婿キリストを待つつつましい花嫁なのかという秘密がある。

人類は花婿を待つ花嫁のごとく、地上をつつましく生きており、花婿を待っている花嫁だからこそ、そこに孤独があり、弱さと、不安と、不完全さがある。

しかし、それは決して、悲劇的で絶望的な要素でない。なぜなら、「彼女」には、すでに花婿との婚礼という輝かしい栄誉が約束されており、信仰によれば、すでに花婿と結ばれており、彼女の孤独と不安は、いつまでも続くものではないからである。

それはちょうど愛くるしい若いスケーターが、自分の娘らしい楽しみを全て捨てて、ただひたすら試合で勝つために、わざを磨き練習に励むのと同じで、霊的な女性である人類には、まずは達成しなければならない困難なミッションがある。彼女の栄光と安息は、その達成の後にやって来るものなのである。

すなわち、自分の心の恐怖に打ち勝って、幾多の試練を乗り越えて、賞を勝ち取れば、その先に、ふさわしい栄光が待ち受けている。

そういう意味で、今日、エクレシアの美は、未完成の状態にあり、彼女はまだ大きな成果を勝ち取る試練の最中にある。それにも関わらず、彼女が自分が未完成であることを、まるで恥ずべきことのように思い、自分を完全であるかのように見せかけるために、他者から賞賛を受け、愛でられ、慰めを受けて、自己の人生に満足して立ち止まってしまってはいけないのである。

この聖なる花嫁なる娘が、栄誉を受けて満たされるのは、次の時代のことであって、そうなるまでに、通過しなければならない試練が幾多も残っている。

その栄誉を勝ち取る前に、聖なる花嫁が、不安に駆られて、一人ではいられないと、花婿たる資格を持たない、無数の無責任なオジサンたち(暗闇の勢力に率いられる堕落した被造物)に身を委ね、その賞賛を受けて満足してしまえば、「彼女」は、もはや前進して、定められた褒賞を勝ち取ることができなくなる。

しかも、そのようにして己が恐怖心に負ければ、彼女は勝負にも失敗した上、おそらくは、未婚の母になるしか選択肢はないであろう。なぜなら、その無責任なオジサンたちは、彼女の不安につけこんで、ますます彼女を辱めることしかできず、彼女のために、真にふさわしい庇護者となって、しかるべき家庭を与え、母子を庇護するだけの力が初めから全くないからである。

聖書に登場するバビロンは未婚の母である。なぜなら、バビロンには愛人はたくさんいるが、夫は一人もいないからである。

かくて、妻子を養う力もない無責任な愛人たちの甘言に耳を貸さず、彼らの庇護という名の辱めを拒んで、しかるべき花婿からの賞賛だけを待ち望むためには、花嫁なる女性の側にも、それなりの勇気と覚悟が必要となる。

その覚悟とは、自分が待ち望んでいる崇高な目標以下のどんなものでも、決して満足しないという強い決意である。そして、その目標へたどり着くまでの間に、どれほどの弱さや、恐怖や、心細さや、不安を感じなければならないとしても、自分は崇高な目的に値する人間であるから、必ずすべての試練をくぐりぬけて、目標に達することができると信じ、片時も、そこから目を逸らさないで、真っすぐに進むことである。

このように、望みうる最高の目標を心に抱き、それに達して賞を勝ち取るまであきらめない決意と、ただ一人なる聖なる花婿を待ち望むことの間には、密接な関係がある。

聖書を読み解くならば、花婿なるキリストが再び来られるまでに、教会(エクレシア)は非常に激しい試練を潜り抜け、これに打ち勝っていなければならないことが分かるだろう。

つまり、キリストは、信者がただぼんやり受け身に待ってさえいれば、再臨するということはなく、キリストの再臨は、教会の激しい努力と忍耐と苦難の末に、教会による暗闇の勢力に対する目覚ましい勝利の結果として初めて訪れるものなのである。

いわば、教会が信仰によってすべての苦難と試練を耐え抜き、信仰を立派に守り通したことへの褒賞のごとく、聖なる花婿はやって来るのである。

こういうわけで、人類史にはシンデレラ・ストーリーなるものはなく、霊的女性である人類は、自分が一体、誰を待っているのか、自分で決めなければならない。

「彼女」が獲得したいのは、誰の眼差しなのか。自分に真の栄光をもたらすことのできる神なのか、それとも、弱さと恥と貧しさしか与えられない悪魔なのか。

それは人類が自分自身で選び取る決断である。もしも人類が、一刻も早く安楽な生活が送りたいだけならば、これ以上、無責任で堕落した無数の連中に、好奇の目で見られることのないように、目指している高い目標をあきらめ、本気の勝負を捨てて、オジサンたち(世)に愛想を振りまいて、彼らを黙らせればよい。

しかし、それでは満足できず、本物の栄光にたどり着きたいと願うならば、世人の思惑は一切、気にせず、ただ自分が真に待ち望み、心から価値あると確信でき、自分に栄光をもたらすと信じられる目標だけを、ひたすら追い求め、まことの主人と呼ぶに値するただ一人の花婿が現れるまで、それ以外の誰にも心を傾けずに生きるべきなのである。

途中で目標をあきらめてバビロンとして堕落しないためには、エクレシアは、自分に栄誉を与えることのできない悪魔と暗闇の勢力の好奇な眼差しの前に、いささかもたじろがず、揺るがされることなく、ただ真実なる花婿なるキリストが、必ず、ふさわしい時にやって来て、彼女に賞賛と栄光をもたらしてくれることを心から信じて、ただ一人からの賞賛の言葉だけを求めて、信仰によって力の限り、戦い抜いて、勝利をおさめるべきなのである。

その戦いを乗り越えたとき、真に花婿が姿を現すのであって、教会はその時が来るまでに、すべての恐怖に打ち勝って、死の力を打ち破り、花婿に栄光を帰し、かつ共に栄光を受ける準備が整っていなければならない。花婿はそれまで遠く離れているわけではなく、信仰によって、すでに花嫁と一つとされており、神は人と同労して、十字架で打ち立てられた解放の御業を地上で実際として下さるのである。

従って、キリストの再臨は、人が受け身に待っていればやって来るようなものではなく、教会が自らの信仰によって勝ち取り、引き寄せるものであると言えよう。

神はエデンの園に人類を置かれたその時から、地上で起こる事柄を人類の意志に任せておられ、人の地上での生活は、人自身が自ら選び取って行くものとして与えられている。すなわち、教会史は、人類(教会)が自分を何者と考え、自分がどれほど高い目的に値すると考え、それに向かって必要な犠牲を具体的に払うかによって、結果が変わり得るものなのである。

そして、教会史においては、弱く、蔑まれ、見捨てられて、希望がないと思われた者たちが、かえって信仰によって大胆に強められて立ち上がり、自分よりもはるかに強いと思われる者たちを打ち負かし、悪魔のわざを打ち壊し、すべての恐怖に打ち勝って、主と共に、目覚ましい勝利を打ち立てる。そのように、この世で寄る辺なく貧しく弱い者たちが、信仰によって、主と共に、力ある富む者となり、大胆な勝利をおさめ、父なる神に栄光を帰することは、神の御心にかなうことなのである。
 
とはいえ、神は私たち人間が、非常に脆く弱い土の器に過ぎないことも知っておられ、私たちが耐えられないほどの試練に遭わせることはなく、ご自分を待ち望んでいる者たちを助けるために、速やかにやって来られ、遅れることはない。

そこで、当ブログに対して行われている陰険な嫌がらせに対しても、神は速やかに助けの手を伸べられるであろう。そして、聖なる花嫁エクレシアの使命をせせら笑ったバビロンとその愛人たるオジサンたちは、みな恥辱のどん底に突き落とされて終わる。

神の聖なる花嫁なるエクレシアをあざ笑い、神の教会に払拭しがたい汚点があるかのようにささやく者は、聖なる花婿ではなく、間違いなく悪魔である。従って、そのような者のささやきには、断じて耳を貸してはならず、彼らから好意を受けようなどとは、断じて考えてはいけない。

私たちは、数回転のジャンプで世界一を勝ち取ることはなく、むしろ、主と共に天に携え挙げられることを望んでいる。その日、聖なる花嫁は、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来る」(黙示21:2)。そして、花婿花嫁が共に再び地を踏みしめるとき、そこは新しい天と地となっているであろう。

それ以後は、神と人とが引き離されることはない。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に隅、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)
 
だが、今の時代はまだそのような安息の時ではない。私たちは、信仰によって、心の内では安息を得ているかも知れないが、実際に教会が花婿を得て安息すべき時にはまだ至っていない。エクレシアのためには、未来に言い尽くせない栄光が用意されているが、その日が来るまで、教会にはまだ労苦して果たさねばならない仕事が数多く残っている。そして、その労苦の実も、私たちが現に見ている成果ではなく、見えない天的な成果なのである。

現在、被造物が産みの苦しみを味わっているのは、目に見える成果を生むためではなく、死と滅びから完全に贖われ、朽ちない人であるキリストを上から着るためである。私たちの地上での労苦はすべて、手にすればすぐに消えてしまう目に見える束の間の地上的利益のためではなく、いつまでも永遠に残る天的な利益のためであり、要するに、すべては見えないキリストを生むための苦労なのである。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食いつくそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。

あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(Ⅰペテロ5:8-9\10)
 
* * *

主が時間をお与え下さるときは、大抵、何か正しい仕事を果たす必要が迫っている時である。今年に入ってから、当ブログでは、新たな権利侵害による告訴状を作成し、これが受理されたところであるが、事件に関する情報を調べていたところ、改めて某掲示板に、大量の著作権侵害の書き込みがあることを発見し、これも告訴対象に含めることとした。

神は隠れた事柄を明らかにされる方であるから、筆者は、昨年に民事訴訟を提起した時から、当ブログに対して長年に渡り組織的に行われているインターネット犯罪ネットワークの全貌を明らかにしたいと願って来た。

そこで、今回、見つけた投稿も、まさに飛んで火に入る夏の虫とで言うべき、絶好のタイミングであった。これでようやく有名指導者や有名信徒のみならず、無名の信徒に至るまでの犯罪ネットワーク全体を捜査対象に含めることができる段階に入った。
 
著作権侵害は、筆者から見ると、一番、告訴状の作成に手間がかからず、悩む必要のない手続きである。

不正な引用などによる著作財産権の侵害に対する罰則としては、著作権法第119条1項により、十年以下の懲役または一千万円の罰金もしくは両方が科される。法人には、3億円以下の罰金刑が科される(著作権法第124条)。
 
公表されていない著作者の氏名を無断で公表するなどの行為は、著作者人格権の侵害に該当するが、著作者人格権の侵害に対しては、「五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」との罰則が定められている(著作権法第119条2項2号)
 
ちなみに、名誉棄損罪に対する罰則は、次の通りである。
「公然と事実を摘示し、人の名誉を損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。」(刑法第230条)

従って、単純に比較するならば、名誉毀損よりも著作権侵害の方が、かなり罰則が重いのであって、掲示板に匿名で「××はバカ」とか「××は〇年〇月に××の犯罪行為をした」などとありもしないコメントを書いて他人を誹謗する罪よりも、誰かが作成した文章をまるごとコピペして出典を示さずに無断で掲載した罪の方が重い処罰を受けるのである。

名誉毀損の場合は、公然と事実を摘示して他者の名誉を毀損したと言える言い回しが必要となり、何が名誉毀損に該当し、何が侮辱罪に該当するかなどで議論が分かれる可能性があるが、著作権侵害は、オリジナルと偽物が対比できれば、犯罪事実の立証ができ、問責される余地が少なく、煩わしさが少ないのである

当ブログで、初めて刑事告訴が受理されたことを読者に告げたのは、昨年のことであるが、それから今まで、被告訴人らしき人間が逮捕されるなどの明白な現象が起きていないことを理由に、このニュースは嘘だと考えたい人々があるようであるが、刑事告訴が受理されてから、捜査が完了し、検察に送致されるまでの間、どのくらいの時間がかかるかという疑問については、やや少し前のデータにはなるが、とある弁護士のオフィシャルサイトに掲載されている平成29年4月25日の法務委員会の民法改正の審議の模様などを参考にされたい。

この審議においては、知能犯罪の刑事告訴が受理されてから、捜査が終了して検察に送致されるまでの間に、どのくらいの期間がかかっているかが質問された。

「配付資料二のとおり、知能犯罪の刑事告訴の件数はおおむね横ばいとなっていることなんですが、御答弁のとおり、検察官への送付までに要した期間としては、一年未満の件数と捉えても全体の約六割にとどまっているということで、やはり通達の趣旨、方針から離れて長期化している印象を受けます。」

この指摘を通しても分かることであるが、知能犯罪の刑事事件を受理すれば、司法警察員は、これを迅速に検察官に送付しなければならないことが義務づけられているとはいえ、実際には、刑事事件の一般的な処理スピードは、方針通りではなく、事件の内容によっても、かかる速度はまちまちなのである。

2017年に提示されたデータによると、知能犯罪の刑事告訴のうち、一年未満に捜査が終了して検察官へ送付されたものは、全体の6割程度でしかなかったことは、以上の審議において、政府参考人が、「これらの合計すなわち約六〇%が一年未満で処理されておりますけれども、一方、受理後一年以上二年未満で処理したものが約一九%、二年以上処理に要したものが約二二%となっている状況でございます。」と答弁している通りである。中には二年以上の月日を要したものも存在することが分かる。

このように、結局のところ、刑事事件が処理されるスピードについては、迅速な処理が期待されているとはいえ、一般的な目安を告げることは誰にもできず、事件の内容によって異なるとしか言いようのない部分があり、それにも関わらず、もしも当ブログの告訴において被告訴人とされた者たちが、捜査状況が明らかになっていないことを理由に、恐れることはないと高をくくっているとすれば、 「その日」は、突然、盗人のようにやって来るという以下の御言葉をそろそろ思い出す頃合いであろう。
 
終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」<略>

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を送らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで作り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」(Ⅱペテロ3:3-12)
  
捜査上の秘密は、当事者にさえも、つまびらかにされない。従って、まことに残念であるが、当ブログは、この先も、被告訴人らに対して、いかなる心の準備のための予告もすることはできない。
 
当ブログの内容を無断で転載するなどして、被告訴人となった者たちには、これからも警察と裁判所が有益な働きができるよう、国庫に十分なお金を納めていただくことになろう。昨今、著作権侵害は厳罰化されつつある傾向にあるため、去年に比べ、罰金額が増える可能性も考えられないことではない。
 
さらに、当ブログがペンネームで運営されていることを何の法的根拠もなく許せないと考えるこれらの御仁には、自らの信念に忠実に従い、犯罪事実と共に実名をさらされ、賠償の義務を負いつつ、残る余生を送ることを覚悟していただくのみである。
 
かくて、悪事は国家および市民の重要な資金源となるものであるから、これを見逃す手はない。悪魔からは最後の靴下一枚、最後の毛糸一本まではぎとることが実際に可能なのであり、それくらいの覚悟を固めて、我々は暗闇の勢力と向き合うべきである。

そのようなことが実際に可能なのだと知れば、虐げられた者たちはさぞかし勇気と希望を取り戻すことであろう。

* * *

さらに、筆者が前の記事で、今日の時代、神がキリストの十字架により罪を贖われたクリスチャンが、法廷で訴えられて被告とされるなど、あり得ないことであり、それ自体が、信仰的な敗北を意味すると書いたところ、これに対し、霊的に盲目な反逆の子らが、殉教者の名を持ち出して、愚かしい反駁をしているようなので、そのことについても一言述べておきたい。

使徒パウロや、イエスの十二弟子などが生きていた初代教会の時代は、ギリシア神話を取り込んで建国の理念としたローマ帝国の支配下の時代であった。

従って、初代教会に起きたキリスト教徒の迫害と殉教は、非キリスト教的・異教的な国家権力の存在を背景にのみ、成り立つものであった。秀吉の時代に殉教したキリシタンなどについても、同じことが当てはまる。

しかし、現在の日本国は、いかなる宗教神話をも、建国の理念としておらず、我々は憲法によって、信教の自由を保障されている。

従って、現代のクリスチャンとこの世の国家権力が、信仰的観点から見て、真っ向から対立しているという事実は存在しない(ただし、現代社会においても、一部の全体主義国、共産主義国などでは、これとは異なる状況がある)。

そこで、今日の我々日本のクリスチャンは、憲法を最高法規とする法体系によって、十分に身を守ことが可能なのであり、司法はその点で、我々の味方であり、我々自身も、法に服する存在である。

聖書には、クリスチャンが迫害を受けることについて、次のような記述がある。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない 。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」 (マタイによる福音書 10:16-23)

 
ここで「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」と書かれているのは、使徒たちの生きていた時代、ローマ帝国下の地方法院で、実際に彼らに対する鞭打ちが行われたことを指しているが、こうして彼らが罰せられたのも、ローマ帝国の公認宗教の側から見て、初期のキリスト教が異端視されていたという事情があるためである。
 
他方、今日の日本国憲法下では、キリスト教が異端視される根拠自体が存在しない。従って、それにも関わらず、誰かが、以上のような御言葉を口実に、異教的国家権力の統治時代と、我々の時代を同列に引き比べ、パウロやペテロのような使徒たちが処罰され、殉教しているから、現代のクリスチャンも、法廷に引きずり出されて、被告として訴えられ、(まして)処罰されて当然だと唱えるならば、そのような主張は、まさにあり得ないナンセンスな議論だと言えよう。

むしろ、事実はそれとは逆であり、現存する憲法下において、キリスト者が被告として訴えられることは、その者が憲法に保障された信教の自由を否定し、基本的人権を否定するなどして、法の精神を踏みにじり、敵に回したという嫌疑を受けることに他ならず、そうした嫌疑をかけられること自体が、クリスチャンの名折れである。現代の法の精神は、決して我々の信じるところの聖書と真っ向から対立するものではないからである。

さらに、霊的に盲目な人々は、よく目を開いて聖書を読めば良いが、聖書の中に、使徒たちの殉教した様子を表す記述は、全く書かれていない。ステパノは使徒ではなく、さらにステパノの殉教を扇動したのも、ユダヤ人たちであって、国家権力ではなかった。

このように、使徒たちは実際に殉教したにも関わらず、聖書にその記述がなく、ローマ帝国の支配下で、国家権力がキリスト教を公的に弾圧したがために、大規模な迫害が起きたという事実が聖書に記述されていないことには、極めて重要な意義があると考えられる。

筆者の目から見れば、それは、クリスチャンの殉教は、極めて個人的な十字架の道であり、各時代によっても、殉教に至るまでの背景や、その理由、形態が、すべて異なり、定式というものが存在しないためである。

さらに、もっと重要な事実として、聖書においては、国家権力が根本的に悪であって、キリスト教の理念と真っ向から対立するものであるという考えは、どこにも述べられていない。

むしろ、聖書では、人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ13:1-2)と記されている通り、およそすべての権威が、根本的に、神に由来するものであるから、権威に対する反逆は、神の定めに背くことに通じるという重要な事実が述べられている。

(このことについては、愚かしい混同を招く浅はかな議論は禁物であるため、あえて書いておきたい。私たちが、あれやこれやの政治家の腐敗を糾弾することは、何ら権威を否定することを意味しない。政治家の汚職や腐敗を監視し、これを指摘し、非難することは、国民の義務と言えるのであり、それをしたからと言って、権威に逆らったことには全くならない。私たちは時の首相を含め、いくらでも政治家を批判することができるし、大いにそうすべきである。個人の政治家と、国家は同一のものではないからである。

しかしながら、世界の思想の中には、マルクス主義のように、国家権力そのものを根本的に悪とみなしてこれを打倒することを目指す思想が存在する。このように、革命やクーデターを唱道する思想は、権威そのものを否定し、権威に逆らう思想であると言えよう。

主イエスも、十字架にかかられる前には、その人気のゆえに、ローマ帝国の圧政からユダヤ人を解放する政治指導者になることを、弟子たちから期待されるほどだったのであるが、イエスは決してそのような道を選ばれなかった。)
 
使徒たちも、ローマ帝国の建国神話が嘘であることを知っていたが、世俗の権力によってあらぬ嫌疑をかけられたからと言って、権威に逆らって、世俗の権力の打倒を狙うことはなく、むしろ、当時の法の決定に従って、自ら十字架へ赴いたのであって、そのことによって、彼らが全く権威に反逆しなかったことが証明されている。
 
それでも、もしも今日、聖書の中に、使徒たちが殉教した場面の記述がなされていたとすれば、それを読む者は、殉教とは、国家権力がキリスト教徒を迫害して起きるものなのだと考え、その考えに基づき、使徒たちを弾圧した政治権力そのものに対して憎しみや反感を持ち、これを自分たちの生きている時代に重ねて、自国に対しても反感を持ったことであろう。

しかし、実際には、国家による大規模なクリスチャンの迫害は、いつの時代にも起きうる普遍的現象ではなく、あくまでローマ帝国や、軍国主義下の日本や、社会主義国などの、非キリスト教的、異教的理念を持った国家や、特殊な理念と政治形態の下でのみ起きうる現象であり、使徒たちの殉教も、そうした文脈でのみ成り立ったものなのである。

従って、ローマ帝国下で起きた特殊な時代現象を、あたかも普遍的現象であるかのように拡大して、現代社会においても、あらゆる国家のもとで、クリスチャンが迫害され、殉教するのが当然であるかのように主張している人々は、あまりにも愚かしい誤謬に落ち込んでいるのであって、さらにもっと言えば、そのような思想の根本には、マルクス主義と同じく、国家権力を、根本的に人民(自分自身)に敵対する悪とみなし、これを憎み、その権威を否定する思想が隠されていることを、我々は見抜かなければならないのである。

聖書には、そのようなことは書かれていない。聖書に書かれているのは、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とか、「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをする」といったことだけであり、ここでは、迫害する主体が、国家ではなく、むしろ、ごく普通の市井の人々になっていることに注意が必要である。
 
ちょうど今、掲示板で愚かしい騒ぎを繰り広げている匿名コメント者も、権力もなければ、名もない無数の市民たちである。

ユダヤ人たちに扇動されて、キリストを十字架にかけるよう、声高に叫び、ピラトに向かって、強盗を放免する代わりに、キリストを引き渡すよう要求したのも、名もない群衆であったが、このような名もない市民たちが、より集まっては、無実のキリスト教徒を憎み、談義を重ねては、迫害するというのが、いつの時代も、クリスチャンに対する迫害運動の根本的な引き金なのである。

このように、キリスト教徒の殉教というものが、あたかも時代を問わず、いつでも国家権力の側からの弾圧によるものだと考えて、愚かしいステレオタイプに落ち込んでいる人々は、ただ聖書を全く理解していないことを自ら証しているだけでなく、さらにもっと言えば、自分自身が処罰に値する人間であると自ら告白しているだけである。

殉教者の名前を持ち出して、自分があらぬ嫌疑をかけられて法廷に引きずり出されて被告とされることを容認するような思想は、次のステップへ進むと、自分自身への処罰を容認する思想へと発展し、ついには自分が死刑に処されることをも容認する思想へと至り着くことが予想される。
 
しかしながら、近年、我が国で、誤った宗教的信念とそれに基づく行動が原因となって、死刑に処されたのは、キリスト教徒ではなく、カルトの教祖であったことを見ても分かる通り、現代の日本国憲法下において、キリスト教徒を処罰したり、処刑する口実となる法など、どこにも存在しないのである。

むしろ、キリストは、律法の要求をすべて完全に満たして、神の目にいかなる落度もないと認められた聖なる神の独り子であるから、この方の御霊を内にいただいている者が、律法に及ばない現代の法体系によって裁かれる理由などあるはずがない。
 
それにも関わらず、パウロなどの殉教者を引き合いに出すことで、現代日本社会において、自分が法廷で被告とされるだけでなく、法の裁きを受けて処罰されることまでも、当然視かつ容認するような思想を唱える者は、まさに自分で自分を異端者(違反者)として告白し、カルトの教祖と同列に、自分が処罰されて当然の存在であることを告白しているだけなのである。
 
このような発想は、断じてキリスト教に基づくものではない。掲示板で、火あぶりにされたり、磔刑にされた人々の名を引き合いに出しながら、現代キリスト教徒もそのような末路を辿るのが当然であると、世迷言を日々書き連ねている人々は、その違反行為によって、自分自身が処罰されて当然の存在であることを言い表し、その日が来るのを夢見ているだけのことであって、自分の口で告白した通りの結果を身に招くことになろう。

ただし、今日も、キリスト教徒が世から迫害を受けることと、その結果、世俗の権力者および司法の人々の前で証することは、聖書に記されている通り、変わらない事実である。

現に当ブログに関しても、まさにその通りの現象が起きており、筆者が反訴や提訴や刑事告訴の脅しを受けたことは、それ自体が、聖書の預言の成就であり、そうした迫害が起きた結果、筆者がかえって司法および警察の前で、立派に信仰の証しをし、御子の十字架の贖いの確かさや、それを通して得られた完全な身の潔白を公然と証明して、神を誉め讃える結果となっていることも、まさに聖書の御言葉の忠実な再現なのである。

神は正しい方であり、神が御子の十字架を通して私たちにお与え下さった贖いは、永遠に変わらない判決であるから、暗闇の勢力には、これを奪い取ったり、覆したりするいかなる権限もない。彼らにできることは、脅すことだけであって、神の子供たちを手にかける権限はない。こうして、神はご自分の救いの確かさを万人の前に明らかにして下さり、それによって私たちの主に栄光が帰される。
 
* * *

さて、このように、キリスト教の信者を名乗りながらも、掲示板にたむろして、そこで自らの情欲の赴くままに世迷い言を並べては、神の聖なる子らを罵り、嘲ることをよすがとしている連中については、以下の御言葉を思い出さずにいられない。
  
「彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。<略>この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(Ⅱペテロ2:10-12)

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。」(Ⅱペテロ2:17-19)

こうした信者の名にも値しない不良信者の中には、かつてキリスト教会に失望・幻滅して以来、ずっと心の漂流を続け、キリスト教を憎んでいる者たちが多くいるものと見られる。筆者は、こうした信者たちに向かって、二度と教団などの組織や団体に戻らず、ただキリストだけに頼って生きるよう幾度も呼びかけたが、多くの人々がその忠告を無視して、自分だけは何としても一人になりたくないとばかりに、宗教団体に舞い戻って行った。

しかし、彼らは団体に所属していることによっては、全く心満たされず、依然として、神に出会うことも、神を知ることも、神を愛することもできず、救いの確信も得られず、罪の赦しの確信もなく、形式的な礼拝だけは守るものの、いつまで経っても、罪から自由になることもできず、自分たちの指導者にも敬意を払えず、兄弟姉妹との交わりで心満たされることもなく、罪悪感と劣等感でいっぱいになった空っぽの心を抱えて、結局、夜昼となく、掲示板に漂流し、そこで教会や信者たちの悪口を書き連ねて鬱憤を晴らすしかない状態に陥っている。

このような連中に対しては、次の御言葉を提示するだけである。

 
「人は、自分自身を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、その者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(Ⅱペテロ2:17-21)
  
彼らが福音を全く知らない者たちであったならば、まだ罪は軽かったであろう。しかし、キリスト者を名乗りながら、以上のような行為に手を染めることにより、彼らはキリストを知らない世人よりも、なお一層、悪の道を転げ落ちていると言えよう。

しかし、腐敗した宗教団体を一旦、エクソダスしながらも、再び、宗教団体に所属することで、団体からの承認を救いと取り替えた人々に対しては、誰に対してであれ、以上の御言葉は、当てはまるものなのである。

たとえば、アッセンブリー教団に失望してこれを離脱して、日本基督教団へ行き、次に日本基督教団にも失望したから、プロテスタントをやめてカトリックへ行く・・・などという形で、団体から団体へと漂流している人々は、筆者の目から見れば、移籍する度毎に、ますます前よりも状態が悪くなって行くだけである。

筆者はアッセンブリー教団の理念に全く賛同しておらず、ペンテコステ運動も支持していないが、少なくとも、聖霊を重視するこの教団が、プロテスタントの中で、御霊の働きを回復するという、最新の信仰回復運動の中にあったというただ一点においては、どうにかこうにかそれなりの役割を担っていたと言えるであろう(だが、今となっては偽物の霊的運動が取って代わったため、その役目も果たせていない)。

そこで、聖霊派の団体につまずいた人々が、より御霊の働きを重視しない、さらに形骸化したプロテスタントの別の教団に移籍したとからと言って、そこには、信仰の後退以外に、起きるものはない。そのようなことをすれば、その者は、いずれ時が来れば、その団体からも去って、より一層、古く、より一層、命の息吹が感じられない、さらに形骸化した団体へと後退して行くことになるだけである。そして、そうなる頃には、すでに信仰の片鱗も見られず、ゲヘナの子と成り果てていることも保証できる。

しかし、もちろんのこと、誤りだと分かった教団に属したままでいることは、さらに致命的な危険であるため、ある宗教団体の理念の虚偽性が分かった時点で、信徒はこれと訣別しなければならない。その後は、聖書の御言葉が告げる通り、人間の指導者によらず、御霊に直接、教わって生きて行くべきである。

「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではなりません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27-27)
  
我々は、何が真実な御霊の働きであり、何がそうでないかを、見わけねばならない(Ⅰヨハネ4:1)が、聖書の御言葉を守り、信仰によってこれを実際として生きるに当たり、聖霊の働きを無視することは、致命的な危険と誤りであることを知るべきである。

御霊は、キリストの死と復活を経たまことの命である以上、その働きをないがしろにして、クリスチャン生活は成り立たない。

従って、今日の信者のせねばならないことは、どこかの教団教派につまずいたからと言って、時代を遡って、より古く形骸化した団体に逆戻ることではなく、聖書の御言葉に基づいて、真実な聖霊の働きを飽くことなく求め続けることにあり、私たちは常に、より前衛的でより革新的な真実な命の現れのある信仰回復運動を追い求めて行く必要がある。

とはいえ、前から書いている通り、今日における「より前衛的で革新的な信仰回復運動」は、決してこれまでのような大規模な大衆運動の形を取らないことであろう。

当ブログで、再三再四、引用して来たオースチンスパークスの論説「私たちのいのちなるキリスト」にも、次のようにある通りである。

「聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、キリストの復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望や幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、主だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

「教え、伝統、制度、運動、人などの何かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱や幻滅が生じ、おそらくさらに悪いことになるでしょう。」

時代が終末に向かって進むに連れて、目に見えるもの、「物、人、運動、制度、組織」などは、反キリストの統治手段として利用されて行く。それらのものに付随している「教え、伝統、制度、運動、指導者」なども同じであって、そこに自分を当てはめようとすることが、今や反キリストの原則に身を委ねることを意味する時代が到来しつつあるのだと言える。

組織や事物や指導者に束縛されることが、まことの命なるキリストの御霊の働きを制限するか、もしくはこれに悪質に敵対するものとなることが、今日、明白に証明されつつあるのだと言えよう。

従って、今から約10年ほど前に、宗教団体をエクソダスせよという主張が登場して来たのは偶然ではなく、これらの目に見えるものを離れなければ、純粋かつ正しい信仰を守れない時代が到来しているのである。

ただし、宗教団体をエクソダスせよと唱えながら、自らが宗教団体となり、宗教指導者となっている偽物の団体にも所属してはならない。

今日の信者に必要なことは、目に見えるいかなる指導者にも頼らず、目に見える組織や団体からの保証にすがらず、見えないキリストご自身にのみ立脚して、この方の命によって、信仰の道を歩むことである。そして、それは何ら特殊なことでもなければ、著しく困難なことでもなく、ただ代価を払って主に従う決意があれば、誰にでも十分に可能である。

<続く>

2019/03/03 (Sun) 神の義なる裁き

先の記事で、筆者は、キリストのみに捧げられた聖なる花嫁としてのエクレシアの一員として、人間を頼りとしないで、改めて主にのみ頼って生きる覚悟を固めたと書いた。

これは神が筆者の心を、予め様々な別離に準備させたものであったようにも感じられる。

昨年には、困難な戦いを戦い抜くに当たり、筆者は多くの力添えを得た。しかし、筆者の事件のために、助力してくれた人々は、そのほとんどが、今年の春までには、様々な理由により、筆者のそばを離れて行こうとしている。職務上の異動が複数、他に、信念の違いが浮き彫りとなったケースもある。信仰の違いによる別離が起きる場合には、もしかすると、この地上だけでなく、天においても、別離となる可能性が考えられないことではない。

こうして、人々が散らされて行くのを見ることには、寂しさがないとは言えないが、それでも、このような現象に対して、筆者は予め心の準備がかなり出来ていたものと思う。

昨年の一年間は、それほど大きな心の生長を筆者にもたらしてくれた。この一年間の戦いは、筆者が、一人で立つために十分かつ激しい訓練の期間となったのである。

前々から述べて来たことであるが、筆者は、支持者や、理解者の人数を誇り、肉なる腕を頼りに生きたくないと願っている。預言者エリヤがしたように、ただ神だけを頼りとして、神のみに栄光を帰するために、450人のバアルの預言者を前にしても、一人で向き合うことのできる信仰が常に必要であるものと思う。

そのようにして、神以外の何者にも頼らない自由を保つために、筆者は自分の心が、周囲にいる人々に結び付けられて離れられなくなったり、あるいは、周囲にいる人々の心が、筆者に結び付けられて離れられなくなるよりも前に、彼らが様々な理由により、筆者自身の意思とは関係なく、神の采配により、去って行かざるを得なくなることを、肯定的に受け止めている。

我々の弁護者はキリスト、御霊が私たちのための約束の保証、裁き主は、天におられる父なる神であって、私たちには世の終わりまで共におられる方が一緒であるから、肉なる腕に頼る理由がない。

そういうわけで、「あえて事を難しくする」ために、筆者はますます念入りに、祭壇に水をかけているところである。

さて、代価を払って戦いを最後まで耐え忍んだ人と、それをしなかった人との間では、この先、大きな差が生まれるのではないかと筆者は思う。その差は、最初は小さなもののように見えても、十年も経つ頃には、巨大な差になっているものと見られる。

たとえば、あなたが仮に学校を卒業したばかりの若い世代であり、友人と共に、同じ企業に就職して、入社数ヶ月で、そこがブラック企業であることが判明したとしよう。賃金の支払いは滞りがちで、残業代は支給されず、果ては雇用契約書さえ交付されず、強欲な社長は、すでに多くの社員を不当に解雇している。

あなたと同僚にも、ついに順番が回って来て、共に落ち度もないのに解雇が言い渡された。あなたたちはこの措置を、何も言わずに受け入れるであろうか。働きづめに働いた期間の給与もあきらめて、路頭に迷わされる選択肢を受け入れるだろうか。それとも、何らかの方法でこの悪しき企業に打撃をもたらし、彼らが不当にため込んだ富を吐き出させて、取り返すべきものを取り返すであろうか。

それをするかしないかによって、その後の道は分かれることであろう。だが、受けた打撃を取り返すためには、声を上げて、自分の権利を主張して、戦わなくてはならない。だが、あなたの元同僚は、狭い業界で、そのようなことをすれば、次の就職先は見つからなくなると危ぶんでいる。多分、どの企業も似たり寄ったりの状態だから、このような理不尽をも、甘んじて受け入れる心がなくては、この先、どの企業でも、やっていけないだろう、などと言っている。さて、あなたはどのような選択肢を選ぶだろうか。

筆者の考えはこうである。もし抵抗しなければ、その人は、黙って就職した次なる会社でも、前よりもさらに悪い搾取の犠牲となるだけであり、おそらく、その連鎖は、本人が抵抗して断ち切ろうとしない限り、ずっと続くことであろう。これを断ち切るためには、業界からの根本的なエクソダスが必要になるかも知れない。

奪われたものを取り返す手段は存在する。また、不当な濡れ衣も返上する方法も存在する。多くの人々を傷つけ、獲物ののようにかみ砕き、食い物にして来た要塞のような企業に、恥辱と打撃をもたらし、しかるべき償いをさせてから、これと手を切る方法は、確かに存在する。
 
だが、声を上げる際にも、注意しなければならないことがある。一方には、弱い人々を食い物にする強欲な企業があるかと思えば、その反対には、食い物にされた人々の苦しみをさらに食い物として、強欲な救済ビジネスを展開している人々がいる。ブラック企業との戦いを売り物とし、成功報酬を分捕ろうと待ち構えている長蛇の列がある。このような人々に助けを求めている限り、あなたには、戦ったとしても残るものがない。だから、自分の権利や栄光を安易に他者にかすめ取られないよう、きちんと考えてから行動することが肝心である。

さて、以上の話は、ブラック企業の話をしたいがために持ち出したのではなく、信仰の世界で起きている事柄の比喩として持ち出したものである。筆者がここで言いたいのは、神の国の権益を守るために、代価を払って勇敢に戦った人と、それをしなかった人が、同じ報いを受けることは決してないということである。

キリスト者は、ただ自分のためだけに生きているわけではない。私たちは、自分が不当な濡れ衣を着せられたから、それを晴らそうとしているのではなく、神の御言葉が曲げられ、神ご自身の栄光が傷つけられているから、これに立ち上がって応戦するのであり、私たちの信仰の証しが妨げられることにより、神の国の権益が傷つけられているから、これに断固、立ち向かい、御国の前進に貢献しようとしているのである。従って、ここには、個人の失われた利益をや名誉を取り戻すというだけには決して終わらない、もっと大きな利益というものが存在する。
 
だが、いずれにしても、御言葉に従って、神がキリストを通して私たちにお与え下さった自由の絶大な価値を知って、これを守り通し、行使することができた者と、それをしないで、自由が取り上げられることに甘んじた者との間では、地上の生涯においても、やがて大きな差が現れるだろう。
 
筆者はかつて、神の御言葉の正しさを証明し、不当な言いがかりを跳ね返すために、ある人々に訴訟を勧めたことがあった。弁護士など雇わずとも、勇気と根気があれば、訴訟はできるのだから、諦めてはならないと筆者が言ったところ、彼らは言った。

「ヴィオロンさん、それはきっとあなただからこそ、出来たことだと思いますよ。」
筆者は、眉をひそめて聞き返した。
「どういう意味ですか、それは。私が文章を書くことを得意としていたから、出来たという意味ですか。」
「いや、あなたがとても強い人だからです。」
筆者はますます眉をひそめて問い返した。
「何を言っているんですか。私は一人の弱い人間に過ぎません。それでもこうしていられるのは、私の力ではなく、神様が助けてくれているからです。でも、この私にできるならば、あなたには、私よりも、助けてくれる人たちが、もっとたくさんいて、はるかに有利な立場にあるじゃありませんか。それなのに、私にできて、あなたができないはずがありません。
でも、状況はどうあれ、もしも私たちが真に正しく、御名の栄光のためになる仕事を果たそうとするならば、神様はそのために、必要なすべての手段を与えて下さることは確かです。あなたがたが、勇気を持って、御名のために立ち上がるなら、そのために必要な時間も、費用も、何もかも天が用意して下さいます。それは主のための戦いですから、必要なものは、すべて神ご自身が用意して下さらなければなりません。」
「いやはや・・・、私たちは、あなたを雇いたいくらいですね」
「何ですって?」
筆者は耳を疑い、聞き返した。
「私に何をしたいですって?」
「いや、私たちはあなたを雇いたいくらいだと言ったんですよ」

筆者はその言葉を聞いて心の中で絶句してしまった。だが、うわべはまるで聞かなかったようにして、御国のための権益を守る戦いに参加することを、真剣に検討しておいてもらいたいとのみ提案し、話を終えた。

筆者は、神の国の権益を守るための戦いのためならば、無報酬で働くつもりであったし、せいぜい要求できるとしても、紙代とインク代程度であろうと思っていた。そもそも裕福でない信者らが、弁護士に払うような報酬を筆者に払えるはずがないし、筆者も、金さえ払われれば、誰の味方にでもなる弁護士ではない。筆者はこの世の富に仕えるために、御言葉の証しを書き続けているわけではないし、この世の富の支配下に置かれるつもりもない。

それにも関わらず、もしも誰かが、このように貴重な仕事のために、筆者に金を払うというならば、それは、筆者をはした金で雇うという意味でしかない。つまり、彼らは、はした金でもいいから、筆者に金を払って、自分たちは雇い主であるという顔をすることなしに、弱く無名な存在である筆者に、無報酬で助けられるなど、プライドが許さないと、内心では思っていたものと見られた。

まるでそれは、一人で歩行がおぼつかない病人が、自分よりももっとはるかに重症に見える患者から差し伸べられた助けの手を、こんなにも哀れな人間から同情を受けたくないと、心の中で蔑み、冷たく振り払ったような具合であった。
  
以上のような返事を聞いた時点で、筆者は、彼らには決してこの戦いに参加することは無理であろうことを悟った。多分、彼らには筆者を助けてあげているという思いはあっても、自分たちも、命がけで立ち上がらなければ、救いを保てない恐れがあるとは、考えてもいなかったのに違いない。

だが、すべては神のなさることであるから、神がこの人々を導かれるのに任せようと、筆者は彼らを説得することも、異議を唱えることもなく、少し時間を置いて待った。

数ヶ月後、もう一度、彼らに心中を問い尋ねてみると、彼らは、面倒な争い事を自分から起こすのは嫌だとはっきり返答したので、筆者はそれを聞いて、この人たちのために助力することは必要ないと、主が答えを出されたのだと、ほっと胸をなでおろした。

それはちょうどギデオンが、ミデヤン人の13万5000人の軍隊に立ち向かうために、300人の勇士たちを集めた時のことを思い出させる。

主のための戦いに勝利するためには、数さえ集まれば良いということはない。むしろ、数などなくとも、心から、その戦いのために自分を捧げることに、準備が出来ているほんのわずかな人々がいれば、いなごのような大群にも、十分に立ち向かうことができる。

暗闇の勢力との戦いを貫徹するためには、代価が必要であり、世との間で軋轢が生まれることを望まない人は、これに参加することはできない。ただ人間の利益が侵害されたというだけの理由では、主の権益を守る戦いを共に戦うことはできず、兄弟姉妹との連帯さえも成り立たないのである。

かくて、エクソダスできる人々と、そうでない人々が分かれる。紅海を渡るところまでは、共に進んで行けた多くの信者たちが、その後、荒野に入ると、そこで倒れてしまう。いや、今は、荒野で倒れるというよりも、むしろ、神が奇跡によって開いて下さった紅海を、船頭を雇ってまで逆に渡り、再びファラオの奴隷となって生きるために、エジプトへ舞い戻ってしまうと言った方が良いかもしれない。
 
そのような光景を見る度に、筆者は、愚かな花嫁のたとえを思い出さずにいられない。筆者がどんなに誰かに自由になって欲しいと願ってみたところで、自分自身で代価を払おうとしない人々に、筆者は自分の油を分けてやることはできないし、それは許されない相談なのだと痛感する。

だから、そうした人々は、自分の足りなくなった油を増し加えるために、筆者の助けなど全く借りない代わりに、安価かつ偽物の油を買うために市場に走って行き、その遅れのために、結局、花婿を出迎えることができなくなり、宴会の扉が閉められて終わってしまうのである。

このようにして、今やプロテスタント全体が、御霊の油の欠如により、御言葉の証しを公然と保つことができなくなって、敵の圧迫に屈し、沈黙に入ったのではないかと思われる。この宗派に属するほとんどすべての教会と信者が、教会が迫害されても抵抗せず、御言葉が曲げられても、抗議せず、主の御名が傷つけられているのに、ほえたける獅子の咆哮に怯え、全く立ち上がることなく、腰砕けになって、一切、戦わずして、敗北する道を選んだことは、筆者には唖然とするような出来事である。

このように、神の教会が冒涜されても、立ち上がることができないという極度に情けなく臆病な有様を見ても、筆者は、プロテスタントはもはや霊的に終焉を迎えており、今、新たな信仰回復運動が起こることが必要なのだという確信を強めないわけにいかない。
 
だが、このような状況でも、絶望など一切する必要がないと言えるのは、神はどんな状況からでも、最も先駆的で前衛的な、新鮮な御霊の息吹を持つ新たな霊的運動を起こすことがおできになるからである。今日、信者に求められているのは、プロテスタントの中でも、どの教団教派ならば、多少、マシであるかなどと考えて、教団教派の間を走り回ることではなく、あるいは、プロテスタントが駄目ならば、カトリックに戻れば良いなどと議論することでもない。

新たな革新的で先駆的な信仰回復運動の登場が待たれるのだが、これから起きる信仰回復運動は、かつてのような大規模な大衆運動とはならないであろうと筆者は予想する。それはただ万民祭司という新約の原則を忠実に実行に移すだけで良く、筆者のような、無名の信者が、一人一人、知られざる場所で、ただ御言葉なるキリストご自身だけに忠実に従い、静かに自分の十字架を負って歩みを進めさえすれば良いのだと思わずにいられない。

それは牧師のいない、宗教指導者のいない、宗教団体や組織の枠組みにとらわれることのない、神と信者との直接的で個人的な知られざる信仰の歩みである。

そこで、筆者の周りに団体が築き上げられることは、今もこの先も決してないであろうと言える。筆者が何かを成し遂げる際に、周りに集まって来た人々がいるとしても、彼らも、必ず、やがて散らされることになる。なぜなら、そこにバベルの塔のような、人間の肉なる力が結集することは、神の御心に全く反するからである。
  
改めて、金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通過するよりも難しい、という御言葉を思う。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)

筆者は、招かれただけで終わりたくはない。神の褒賞を受けるために、試練に勝利する者でありたい。そのために、自分の心が、地上の何者にもとらわれることなく、自由であって、ただ主だけに捧げられ、御心の実現だけにいつでも傾けられる状態であって欲しいと強く願う。そこで、筆者と神との間に立ちはだかって、主の栄光の妨げとなりうるようなものは、この先も、何であれ、取り去られる必要があることを認める。

人や物や目に見えるものに心を傾注しすぎることは極めて大きな危険である。そこで、 御国の権益にとって、損失とならないのであれば、筆者は、地上的なすべての別離に対し、「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな。」(ヨブ1:21)と同意したいと考えている。

* * *

さて、話が少し変わるが、裁判手続きを通して、司法の世界を垣間見るようになって、筆者はそこではかりしれないほど大きな学びを得た。

誰もが知っている通り、訴状には、まず最初に、以下のような命令文で、被告に対する請求が記される。
「被告は、××××万円を支払え。」
「被告は、××××をしてはならない。」

このように書き記すことによって、原告はその通りの判決が下されることを裁判官に求める。

しかし、この世においては、ただ訴えが出されただけで、それが認められることはまずなく、通常は、幾度もの弁論手続きが重ねられ、証拠が積み上げられ、議論が尽くされてから、判決が出される。

しかし、筆者はただ原告として以上のような文面を書いてるわけではなく、キリスト者として、キリストの御名の権威を帯びた者として、このような命令文を書いている点で、そこには世人の訴えに込められた以上の重みがあると言えよう。
 
もちろん、筆者は地上においては何者でもないただの無名の市民であって、筆者の訴えが、他の人々の訴えと異なる理由などないかに見えるだろう。しかし、筆者は、信仰によって、キリストの代理として、御名の権威を持って、自らの言葉を発している。そこで、筆者の書いている命令文は、単なる文字である以上に、霊的に、はかりしれないほどに重い意味を持つものであると言えよう。

昨年が来るまで、筆者は主としてブログにおいて、信仰の証を続けて来たが、裁判手続きの場に信仰の証が持ち出されてからは、御名の権威を行使して証する作業が、より厳粛で重い意義を持つようになったと感じている。
 
こうした手続きの中で、極めて重要なことがいくつも分かった。そのうちの一つが、主に依り頼んで生きるキリスト者が、被告として訴えられるようなことは、絶対にあってはならず、また、あり得ない事態だということである。

この世には冤罪事件もあれば、スラップ訴訟もあり、誰かが被告として訴えられたからと言って、決してそのことは、その人々が何かの罪を犯した証拠を意味しない。事実無根の訴えや、不当訴訟といったものも、存在しないわけではないからだ。推定無罪の原則があり、何が事実であるのかは、審理を進めてみなければ分からない。

ところが、信仰の観点から見るならば、キリスト者が被告として訴えられることは、それだけで、深い霊的な敗北の意味を持つのである。そこには、何かしら非常に暗い運命的な意義があることを、筆者は思わないわけにはいかない。

筆者はこれまで、このささやかな信仰の証のブログのために、提訴、反訴、控訴、刑事告訴の脅しを幾度にも渡り受けたが、そうした脅し文句を聞く度に、ただちに以下の御言葉を使って、その脅しの効力を無効化し、敵の放った火矢が、筆者に届く前に、それを空中でへし折って来た。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
 一日中、死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

そういう経緯があったおかげで、聖書の御言葉には、現実に、私たち信じる者を、完全に潔白な者として神の御前に立たせ、敵のすべての言いがかりに満ちた訴えを無効化することのできる絶大な意義があることを、筆者は幾度も実地で学ばされて来たと言える。

キリストの命は、私たち信じる者を、本当に一点の罪の曇りもない、しみもしわもない、完全かつ潔白な存在として立たせることができるのである。

そこで、私たちも、自分を見るとき、主がご覧になるように自分を見なければならない。神が選ばれた民であるにも関わらず、私たちに、被告として訴えられる根拠などがどうしてあって良かろうか。

キリスト者を訴えるという行為は、その者を贖われたキリストの贖いを無効にすることを目的とする行為であって、悪魔と暗闇の勢力のみが抱く願望であると言えるが、そのようなことをする力を、暗闇の勢力はそもそも持っていない。

暗闇の勢力にできることは、せいぜい嘘を振りまいて信者を脅すことだけであり、神の下された永遠の判決を覆すような力は、彼らには付与されていない。そういうわけで、それにも関わらず、キリスト者を名乗る人間が、訴えられて法廷で被告とされることには、何かしら非常に深い、暗い霊的な意味が込められており、筆者の目から見れば、それ自体が、すでに信仰的に敗北を意味することが分かったのである。

一体、自分が有罪者として訴えられている者が、どうして100%の潔白に立って、悪魔と暗闇の勢力を全身全霊で糾弾することができようか? 

そのようなわけで、私たちは、暗闇の勢力の不当な言いがかりには、決して屈してはならないのであり、敵のあらゆる訴えを断固、はねのけて、冒頭に挙げた通り、声を限りに、容赦のない宣告を突きつけ、
  
おまえたちは、××してはならない!!
××することを禁じる!!
××せよ!!

という強い命令を、実行力のある方法で発して、彼らの口を封じなければならいのであって、それ以外の「コミュニケーション」はあり得ないのである。

ところが、ある人々は、それは暗闇の勢力に対して失礼かつ残酷すぎる措置であると考える。彼らは、暗闇の勢力と毅然と向き合って、断固、命令するどころか、かえって、おずおずと

私たちは、あなたたちに××して欲しいと願っています。
××して下さいませんか?

と、もみ手ですり寄るような、弱腰な訴えを口にして、直接交渉に及ぼうとする。

彼らはそのような”礼儀”が、暗闇の勢力に対しても必要だと信じているのである。だが、それは訴えではなく、懇願であるから、そんな言葉は、悪魔と暗闇の勢力にとって、自信を増し加える根拠にはなっても、何の脅威にもならず、痛くもかゆくもない。

彼らはそういう風に、自分たちの意思を問う人間が現れれば、喜んでいついつまでも彼らが頭を下げて自分のもとに懇願しにやって来ざるを得ない状況を作り上げるだけである。

アダムとエバの敗北は、そもそも神ご自身を抜きにして、蛇と直接、口をきいた時点から始まっていた。

そこで、今日、我々キリスト者に必要なのは、聖書の御言葉の権威に固く立って、それに基づいて、闇の勢力に対して、有無を言わさぬ命令を発することだけであって、彼らの意思など問うてはいけないし、中途半端な和解も、懇願も、してはならないのである。

ところで、裁判においては、弁論が重ねられるうちに、必ずある種のクライマックスがやって来る。つまり、どこかの時点で、論敵の嘘と詭弁に満ちた脅しが最大に達する瞬間が来る。そのときが、弁論の激しさが最高潮に達する時であり、裁判のクライマックスだと言えるが、信者は、その時、敵のもたらす恐怖に打ち勝って、敵の最大の武器をへし折ることによって、彼らの武装を解除して、彼らを無力化せねばならない。

それができるかどうかが、勝敗を分ける。つまり、裁判の決着は、判決が述べられる瞬間に初めて訪れるものではなく、むしろ、判決読み上げの瞬間が訪れるよりも前に、私たちキリスト者の中で、霊的な勝利がおさめられていなければならないのである。

そういう意味で、訴訟は一か八かの賭けであってはならず、裁判官の善良な人柄や、証拠の分量や、支援者の人数や、精緻なロジックの組み立てや、運の良さにすべてを委ねるような受け身の態度では、勝利をおさめることはできない。
 
これは裁判のみならず、日常のすべての場面に当てはまることである。キリスト者は、日常生活においても、暗闇の勢力と対峙することが必要となるが、その際、敵が持っている最も強力な武器が何であるかをよく理解し、時が来たときに、これを粉砕して無効化することで、敵の武装を解除することなくして、戦いに勝利して、次のステージへ進むことができない。
 
一つの戦いをクリアできないと、いつまでもずっと同じ問題に悩まされ、脅しつけられ、圧迫されたまま、不自由の中を生きて行くこととなる。
 
私たちキリスト者には、聖書の御言葉を武器として用いて、敵の嘘と詭弁の要塞を破壊して、彼らの武装を解除し、すべてのものをキリストの御名に従わせ、不従順を罰することが可能とされていることを忘れてはならない。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なもののになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅰコリント10:3-6)

さて、「最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。」(Ⅰコリント15:26-27)とある通り、敵(悪魔)の最大の武器とは、死である。従って、悪魔と暗闇の勢力の最大の武器とは、死の恐怖によって、人々を脅かすことであると言えよう。

そこで、当然ながら、キリスト者が暗闇の勢力の武器を粉砕して、彼らの圧迫を打ち破り、勝利を収めるために必要なことも、死の恐怖に打ち勝つことである、と分かる。

このことは、王妃エステルが、ハマンの策略により、ユダヤ人の民が皆殺しにされるかも知れない危機にあった際、この脅しによる圧迫に立ち向かうために、自分自身も死を覚悟した上で、王の前に進み出たエピソードの中にも見て取れる。

私たちも、暗闇の勢力との戦いに勝利するためには、死をも厭わない覚悟で、自分をとことん主の御前に投げ出して、敵の脅しに徹底的に立ち向かうことが必要となるのである。

「今や、我々の神の救い力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉で、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12]10-11)
 
神に従い、御言葉を地に実際として引き下ろし、御心を成就するためには、死をも厭わない決意で、主と共なる十字架において、絶えず霊的な死を帯びて、敵の脅しを打ち破ることがどうしても必要なのであり、そうした決意を抜きにして、主に従い抜いて、敵の武装を解除して勝利をおさめることはできないのである。

そこで、私たちは、敵が最大限の脅しを用いて向かって来るときには、自分自身を完全に主と共なる十字架に同形化して、これに応戦することが必要となる。この世の訴訟においても、そのような瞬間があり、言葉や証拠の争いよりも、もっと深いところで、霊的な激しい戦いが繰り広げられる。この世に現れて来る勝敗は、この領域における霊的な勝敗に沿ったものにしかならないのである。

そこで、キリスト者は、いかなる瞬間においても、まずは御言葉によって、霊的に敵の武器を無効化し、彼らの武装を解除することなくして、自由と栄光を掴むことはできないことを知るべきである。
 
とはいえ、私たちの勝利の根拠は、私たち自身にあるのではなく、カルバリの十字架で、キリストの死と復活を通して、悪魔と暗闇の勢力に下された裁きと滅びの宣告にこそある。それが、私たちが悪魔と暗闇の勢力がもたらそうとする死の恐怖に対して、すでに完全な勝利をおさめていることのすべての根拠である。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)

だから、私たちがなすべきことは、いかなる嘘、詭弁、脅しを受ける瞬間にも、徹底的に十字架の原則に踏みとどまって、キリストの死を、自分自身の死として受け止め、適用し続けることによって、そこにキリストの復活の命が働いて、勝利を得るまで、御言葉を武器に戦い抜くことであると言えよう。
 
私たちを死から命へと移し出す根拠は、ただカルバリにのみ存在するのであって、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの命の源であり、私たちの勝利、栄光、自由の源なのである。

従って、私たちの平和と自由の根拠は、決してこの世との和合にあるのではない。この世との間に軋轢を生まず、強い者たちの意向に逆らわず、世に波風立てず、ご機嫌伺いをすることによって、命を保てる者は、誰一人としていない。それどころか、そのような方法では、かえって命を失うということを、聖書は一貫して教えているのだと言えよう。

従って、私たちが世に接触する時には、深入りしないための警戒が必要である。私たちを生かしているまことの命の源がどこにあるのか、片時も忘れない用心が必要となる。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」(ヨハネ12:24-26)

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