忍者ブログ
栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:8-12)

「主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。 」(創世記18:20-21)

「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。

見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。 」(ヤコブの手紙5:1-6)

死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。」(詩編18:4-7)

「さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない」(詩編34:12-22) 


今回の記事のテーマは、「主に向かって不正を声高に叫び、諦めることなく正義を求めて訴え続けよ」というものである。

多くの日本人は、不正に抗議することは無駄であると考えている。権力者の腐敗などに対し、どんなに声をあげても、ただにらまれ、いわれのない制裁を受け、仕事を取り上げられ、人々に見捨てられ、不遇の人生を送ることになるだけであり、そんな人生はカッコ悪く、自分にとって損なだけだと。

そうして多くの人々は、強い者が嘘をついてもいることが分かっていても、自己保身の思いでこれを見て見ぬふりをして沈黙し、真実が曲げられ、不正義が横行し、弱い者が不当に虐げられ、見殺しにされても、全く声もあげない。順番が自分に回って来るまで、すべての苦しみは完全に他人事である。

戦前・戦中もそうであった。かつての戦争は、軍部だけが起こしたものではなく、大衆の無言の賛同があって初めて推し進められたものであった。人々は、竹やり訓練や火消し棒による消火活動では敵軍に勝てないことをよくよく知っていた。鍋や釜はもちろんのこと、家畜やペットに至るまでの供出に全く意味などないこと、「一億玉砕」、「欲しがりません勝つまでは」、「進め一億総火の玉だ」などといったスローガンなどが、どんなに空虚なものであるかをよく知っていた。特攻などは無駄死を奨励するだけで戦況に影響を与え得ないことを誰もが予想できたのである。

にも関わらず、それらの虚しさに人々はほとんど声をあげなかった。自分がその嘘を見抜いていることさえ必死で隠した。命が惜しかったからである。特高警察に連行されたくなかったからである。非国民と呼ばれ、断罪されることを恐れたからである。だが、そうして必死に保とうとした命を、彼らは赤紙一枚で失い、空襲で失い、原爆で失い、戦場で餓死し、大陸に置き去りにされ、集団自決し、自ら無残に捨てるようにして死んでいった。

今という時代の怖さは、まだ戦争も起きておらず、何も起こっていないのに、異変が起きる前から、戦前や戦中と同じく、大衆が権力者の横暴に見て見ぬふりをし、不正に対して憤ることをやめて、善悪の感覚や、良心の判断を故意に眠らせて、自主的な沈黙に甘んじていることにある。

そうこうしているうちに、現在の我が国の状態は、ますます戦争状態に近づき、ネットでは「中世ジャップランド」などと揶揄されるほどまでにディストピアと化してしまった。

日本人には伝統的に、声の大きい者に対しては、その者がどんなに不正なスローガンを唱えていたとしても、長いものには巻かれろ式に、沈黙して、あきらめて従ってしまうという悪い性質があるのだろうか?

東京オリンピックは、「ただボラ」によって支えられるらしい。オリンピックのための資金は有り余るほどあるのに、政府とオリンピックを率いる委員会や関連組織は、猛暑の中、金も払わず、保険もかけず、若者をただで招集し、命がけでボランティアをさせようというのだ。

おそらく死人が出ることは必至だと予想する。選手も大変であろうが、ボランティアが熱中症で亡くなっても、雇用保険にも入っていないのでは、労災にも当たらない。国威発揚のためにただ働きを肯定するどころか、人命までも平気で犠牲にする、まさに呪われたオリンピックとなることが、実施する前から誰にでも分かる有様だ。

こうした事情を見ても、今まさに、戦時中と同じく、大人たちが若者に苦役としか言えない労働や、貧しさや、死を強制する恐ろしい世の中が実現しつつある様子がよく分かる。それが国家的レベルで推進されているところが戦時中とよく似ている。

これまで筆者は当ブログにおいて、あらゆる異端思想には、年長者による年少者の搾取、親世代による子世代の搾取などの歪んだ発想が込められていることを指摘して来たが、そのような搾取は、もとをたどれば、先祖崇拝へと行きつく。

要するに、先祖の罪を子孫が永劫に背負い、罪人に過ぎない亡き先祖の霊を供養することで、先祖の罪を贖おうと努力することが、子孫の最大の義務とみなされるような、理不尽な信仰が、そのような考え方を生んでいるのである。

罪あるもの、呪われたもの、腐敗したもの、尊ばれるべきでないものを「ご本尊」のように拝み、人類に受け継がれている罪による血統を神聖視して拝んでいればこそ、先祖の罪の贖いのために子孫が未来永劫に命を犠牲にせねばならないという転倒した思想が美化され、奨励されるようなことが起きるのである。

従って、以上のオリンピックにかこつけた厚かましいただ働きの要求のような諸現象は、ただ金儲けだけが目的で行われるのではなく、先祖が自らの罪を覆い隠し、これを子孫に転嫁して子孫に償いを要求するために、子孫を犠牲にし、殺すという恐ろしい思想が背景にあってこそ、生まれて来るものなのである。

さて、冒頭の御言葉に戻りたいが、面白いことに、聖書には「未払い賃金が天に向かって叫んでいる」という個所がある。さらに、アベルのように無実にも関わらず殺された義人の血も、天に向かって叫んでいるという。

昨今のようにブラック企業が溢れ、過労死が合法化されようという世の中では、未払い賃金のことなど叫んでも無駄であり、まして不正な事件によって殺された人は、生きている人間の目から見れば、まさに「死人に口なし」の状態に置かれているので、その事件については、今更、誰が何を訴えてももはや無駄であるように見えるかも知れないが、ところが、聖書は、そのような不正事件のすべての証拠は、ずっと天に向かって叫び続けると述べているのである。

罪無くして殺された死者の血が天に向かっておのずから叫び、未払い賃金は、誰もそれを要求せず受け取り手がおらずとも、不当な搾取として、天に向かっておのずから声をあげ続けるというのだ。これは興味深いことである。

そして、それらの不正事件に関連した叫びは、すべて最終的に「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」(ヘブル12:24)へと集約されていく。

主なるキリストこそ、無実にも関わらず十字架ですべての罪人の罪を代表して負われ、苦しみを負い、殺されたがゆえに、彼はあらゆる人間の悲痛な叫び、苦悩、理不尽を代弁して、神に向かって叫び、とりなすことのできる方である。

つまり、地上におけるすべての信仰による義人たちの叫びは、キリストのあかしに集約されていくのである。

従って、信仰の世界は、この世の市場原理主義では成り立っていない。天の御国は、富める者、声の大きい者、力ある者の訴えだけがまかり通る弱肉強食の世界ではない。

むしろ、天の御国では、この世においては、限りなく、声なき弱者に分類され、見殺しにされるはずの者たちの苦悩を、神は確かに知っておられ、神ご自身が彼らをかえりみて下さり、この弱い声なき寄る辺ない人々を苦悩から引き上げて、高く安全なところへ置いて下さるのである。

さらに、ここで言う天の御国とは、断じて死後の世界を指すのではない。私たちが生きて地上にいる現在、信仰によって、その御国は、私たちの只中に到来しており、この世の有様に大きな影響を与えるのである。

これまで、筆者は、自分よりも力の強い者が、真実や正義を曲げて、弱い者を不当に踏みにじっている時、それに対して、真実や正義を守るために、時には無駄ではないかと思うような主張を幾度も投げかけて来た。
 
それは正義の運動という形を取ることもなく、ただ筆者の個人的な訴えであったので、時には、その叫びは弱く、あるいは孤立無援のように感じられた。しかし、後から見れば、そういう声なき声のような、一つ一つの訴えや、苦悩が、まさに主によって聞かれ、取り上げられていたのだと思うことしきりである。

だが、その当時は、自分では決してそうとは分からない。訴えてもむなしく響くばかりであり、誰も正義や真実に耳を傾ける者はないのだと、落胆するようなことがなかったとは言えない。

ところが、束の間の悲しみや、悩み、苦しみが過ぎ去ってみると、最も苦しい時に、人の心の奥底にある呻き、叫び、嘆きのすべてに、神が直接、耳を傾け、聞き取って下さり、ふさわしい助けの手を差し伸べて下さっていたのだと分かる。
 
神はご自分を信じる人々のすべての悩み苦しみに真摯に耳を傾けて下さる方であり、この方に対しては、私たちは何一つ飾らず、どんなことでも率直に打ち明け、心の思いのすべてを余すところなく吐露することが許されている。理不尽な事件に対する憤りも、嘘や不正に対する憤りも、真実を飽くことなく追い求める心も、神に対しては隠し立てする必要が全くないのである。

しかしながら、今回の記事のテーマの一つは、私たちが地上で、ただ黙って心の中で祈る言葉だけではなく、人に対して口にする言葉にも、神は耳を傾けて下さっているということである。

人間は、自分にとって好ましい言葉しか聞きたくないという極めて自分勝手な生き物なので、社会の和を乱す言葉、自分にとって不快な言葉はすべて「悪」と決めつけて退ける傾向がある。

つまり、人間社会においては、圧倒的多数の人間にとって好ましく感じられるかどうかが、正しいかどうかを決める判断基準とされるのである。力ある多数派の意見は尊重されるが、弱々しい少数派の意見は無視される。アピールの仕方が巧みであれば、嘘でも多くの人間に支持されるが、話し方が下手であれば、誰も耳を傾けない。

人間の物事の判断基準はどこまで行っても、身勝手で、自己中心で、不公平で、偏ったものだと言えよう。従って人間が人間の訴えに対し、真に公平な評価を下すということはまず考えられない。

しかしながら、神は、決してそういう観点から、人の口にする言葉をお聞きにならない。神が人の言葉を吟味される基準は、それが誰かにとって不快であるかどうかや、人間社会の和を乱すかどうかといった基準ではなく、それが真実であるかどうか、また、神に届く叫びとしての条件を満たしているかどうか、という点である。

神は誰のことをも偏り見ることなく、公平に物事を見られ、裁かれる方なので、弱い者の訴えだからと言って耳を塞がれることはなく、金持ちだから優遇するということもない。

それゆえ、人間社会では、全く相手にされない訴えが、神には取り上げられる。まして信仰のある者の訴えは天に直通する。
 
私たちの叫びが天に届くとき、それからほどなくして、天からの神ご自身のアクションが帰って来る。

そのタイミングは、信仰者から見ても、しばしば遅いと思われることがある。ダビデがしばしば詩編に書いているように、祈った者自身が、「主はこの祈りを聞き届けてはくださらないのだろうか」などと疑い、忍耐の限りに達しようとしているような時に、神は力強く立ち上がって、天からその者を助けるために、御腕を差し出して下さる。

たとえば、筆者自身も、語った当初は、自分の言葉が、それほど力強い影響力を持つものだとは考えず、むしろ、地上では弱い者としてその訴えが退けられたり、踏みにじられたり、無視されるのを見て悲しんだりと、人間的な感情を経験することもあった。ところが、地上の人々や、筆者の思惑や感情とはまったく別に、その訴えが、やがて地上から天へと運ばれて行き、天を動かし、天から地にその反響が届く、ということがよく起きるのである。

そういう結果を見る時に、初めて、筆者は、自分の主張を過少評価しすぎていたことが分かる。いや、主が着いておられることの意味を十分に理解していなかったことが分かる。あの時、筆者が誰かに向かって発した言葉は、この人間社会においては、蔑まれるほか、全く相手にされないように見えたが、その実、それを、神が直接、注意深く聞いていて下さったのだと分かるのである。

もちろん、人間同士の会話の中に、神が目に見える形で立ち会っておられるわけではない。人間同士の会話では、意思疎通が成立しなければ、どんな訴えも、むなしく空中に散じたように見えるだろう。

しかし、我々があれやこれやと心配する必要がないのは、誰に向かって発したどんな言葉であれ、人間がそれに対してどのような反応を返すかが肝心なのではなく、神がそれを我々の味方になって非常に注意深く耳を傾けて下さり、信じる者の求めに応じて、その者を問題の渦中から引き上げて、平安を与え、解決を与えて下さるからである。

それはちょうどアブラハムとロトが土地を分配し、ロトがソドムとゴモラを含む豊かな低地をことごとく選んで去って行った後、一人になったアブラハムのもとを神が訪れたような具合である。

人間と人間とのコミュニケーションは、常に双方の側から何かの意思疎通に達するとは限らない。我々が毎日、無数に相手にしている人間たちは、正義にも真実にも全く価値を置かず、何を訴えても、自分に都合の良い言葉だけを選び取り、あるいは話が決裂に終わり、あるいは主張が踏みにじられ、あるいは極めて不公平な結論が突きつけられるだけということが起きるかも知れない。

だが、たとえどのように不毛な会話が展開したとしても、神の人(=信仰者)が、そのコミュニケーションを終えて、ほっと一人になって天を仰いだとき、その時、それまで地上での会話の一部始終を見ておられた神が天から応答して下さるのである。

たとえば、カインのように、義人の訴えをかえりみず、それを踏みにじって、無視し、立ち去る者がいたとしても、その後、その者がどうなるかまでは、我々の責任ではない。

私たちが認識していなければならないことは、神は私たちの味方であり、私たちの訴えをことごとく取り上げて下さる方だということである。

今日、私たちは、アベルのように犠牲者となって死ぬ必要はないゆえ、理不尽な事件があれば、それを神に存分に訴え、神が正しく裁いて下さるよう、根気強く願い求めることができる。

そこで、我々はどんな事件に遭遇しても、決して諦めることなく、(聖書に約束された正しい)自分の権利を求めて、天に向かって声を発し続ける必要がある。

これは自らの手で悪人を成敗せよとか、不正な事件を自力で解決せよと言っているのではない。

神がすべての物事を公平にご覧になり、ふさわしい裁きを下して下さる方であり、なおかつ、この世において声をあげることのできない弱い者たちを、悩みの渦中から救い出し、天へと高く引き上げ、すべての解決を与えて下さることのできる方であることを、固く信ぜよと言っているのである。

それを信じて、自分の思いを、決して隠すことなく、率直に、神に向かって訴え、正しい解決を求めることをやめてはいけないと言っているのである。

この世がどれほど異常になり、どれほど人々の心が険悪となり、頑なになって行ったとしても、私たちは、人間社会の有様がどうあるかに心を奪われてはならず、あくまで正しいと思う解決を天に向かって願い求め続けなければならないのである。なぜなら、神は地上の人々のように物事を偏ってご覧になることは決してないからである。

悪事に立ち向かい、悪人に立ち向かい、正しい裁きを天に願い求める私たちの諦めない執拗な祈りは、天を動かす原動力になる。
 
ドムとゴモラには、たった5人の義人もおらず、アブラハムの親族であるロトの家族の他には、誰一人その町の滅びから救い出される者もなかったが、そのように恐るべき腐敗した社会の只中においても、神の正しさは少しも変わらず、神はすべてを公平・公正にご覧になっておられ、これらの町々の悪に対しては、正しい裁きを下されたのである。その裁きは、ソドムとゴモラの社会にとっては、災いであり悲惨なものでしかなかったが、神は彼らの罪に対して、ふさわしく報いられたのだと言える。

神が変わらないお方である以上、今日のソドムとゴモラに、かつてのソドムとゴモラとは異なる判決が下ることはあり得ない。我が国の表面的な有様が、もはや手遅れのようにしか見えないほどに腐敗したものとなっていたとしても、その中で、信仰による義人に対する神の約束は、ほんのわずかたりとも揺らがず、変わることもない。

だから、私たちはこの世の社会の有様がどうあれ、あくまで神の御心にかなった正しい裁きを地上で願い求め続けねばならず、自分が信仰によって生きる義人であることを固く信じて、常に神の助けが約束されていることを信じ、これを受け取って生き続けなければならない。

もう一度、冒頭で引用した聖句を繰り返しておきたい。
 
主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。

PR
2018/08/20 (Mon) 神の義なる裁き

「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:18-22)

最近、上記の御言葉の深淵な意味を理解する貴重な機会に恵まれている。
 
筆者は最近、世の中で発せられる言葉がことごとく嘘にまみれ、それが嘘であることさえ否定されるほどに厚かましく虚偽が大手を振って跋扈していることに対し、心底からの憂慮と憤りを覚えていた。

労働市場には求人詐欺が溢れ、公文書は改ざんされ、政治家の公約は平然と破られ、それでいて誰も責任を取らされることもなく、世の中に溢れる言葉の一つ一つが耐えられないほど無意味となり、何を信じて良いのか、もはやその目安さえ見つからないほどすべてが混沌として、信頼に足る根拠のある言葉が見つからないことに、空恐ろしい感覚を覚えずにいられなかった。

まるで全世界が深い嘘の闇の中に沈んで行こうとしているのに、それをどうすることもできないむなしさ。一体、これほど深い海のような嘘の中で、我々はどうやって身を守り、生きて行けば良いのか? 

そんなことを考えていた時、昔の友人、いや元同僚と会話する機会があった。かつて我々はある職場で出会ったのだが、そこはまるで魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿のようなところで、仕事は尋常でなくハードで、労基法の存在など誰にも認識されていなかった。研修中に半分以上の新入社員が黙って姿を消していくような職場だった。
 
当時、その職場のあまりにも極端な有様に、我々も驚き呆れた。懸命に働いたが、長くは持ちこたえられず、間もなく皆が散り散りになって行った。しかし、苦労の只中で生まれた絆は、時が経っても、消え去ることなく保たれた。

最近、ふと思い出して連絡を取った時、思いもかけない返事が返って来たのである。

「ねえ、ヴィオロンさん、私が今どこにいると思う? あの会社よ!」

驚くべきことに、同僚が口にしたのは、筆者の中では、まるで恐るべきものの代名詞だったような社名であった。

「びっくりでしょう~? でも、本当にこの会社は変わったのよ。とても働きやすくなったの」

彼女が言うには、何とその会社が、根本的に変化して、福利厚生を整え、社員の願いをくみ上げ、未来を与えることのできる風通しの良い会社になっているというのだ。

残業代は1分単位で支払われ、社員への慰労会が催され、働けばちゃんと報いが得られる仕組みになっているという。何よりも苦労の多かった元同僚が、すでにかなり長くその職場にいるという事実自体が、他のどんなことよりも、彼女の語る言葉が事実であることを物語っていた。
 
しかし、何よりも、筆者が驚いたのは、次の言葉である。

「つい最近、5年勤めた私の同僚が、終身雇用になったばかりなのよ。色々と続けられるかどうか悩んでいた時期もあったようだけれど、ついに終身雇用になって、本当に安心したって言ってたわ」

筆者は耳を疑った。シュウシンコヨウ? 何しろ、それは安定とは程遠いイメージの、最も人の出入りの激しい業界のことである。さらに、世の中では、正規雇用への転換を阻むための雇止めが横行している中、勤めて5年経ったら終身雇用とは、まさか?

だが、その話は聞けば聞くほどどうやら本当らしいのであった。

筆者は驚いてしまった。

筆者の心の中で、その会社のイメージは、筆者がいた頃の混乱した有様で、記憶が止まっていた。あまりにも多くの人々を無碍に会社の外へ放り出し、悪事をたくさん犯し過ぎたので、立ち直りは不可能だろうとさえ思っていた。

筆者がその職場を去る前、上司にその胸の内を打ち明けると、上司は、頷きながらも、その時、自分はここに残ってこの現状を改革するのが夢だと語っていたことを思い出した。

よくは分からないが、長い歳月が過ぎ、当時、胸を刺し貫かれるような光景を幾度も目撃しながら、育てて来た後輩を次々と見送り続けて来た人たちが、やがて幹部となって、会社を改革したのかも知れなかった。

筆者は、元同僚の勧めで、会社説明会に行ってみることにした。すると、確かにすべてが以前とは異なるのであった。大体、企業の登録説明会などに行くと、生気の抜けた空々しいスピーチを聞かされ、あれやこれやの禁止事項を言い渡され、おどろおどろしい内容のビデオを見させられたり、細かい字が敷き詰められた誓約書にサインを求められたり、まだ何も始まっていないのに、早くもこんなにも要求過多なのでは、この先、どうなることやらと、げんなりしながら帰宅したりしていたものだが、そうした印象はほとんどなかった。

ビルにたどり着くまでの親切な道案内、受付の快活さ、お決まりのビデオでは、禁止事項は一つも挙げられず、かえってどれだけその職場が自由で伸び伸びとしており、社員にとって働きやすい制度が整備され、企業が社員の未来に心を配っているかということが強調されていた。

上から目線の義務と要求の押しつけが全くと言って良いほどなかったのである。

感動屋の筆者は、そのビデを見ているうちに、当時、別れ別れになった上司や同僚たちの姿が脳裏をよぎり、よくぞここまで変わったものだと、涙ぐんでしまった。

かつてはまるで次々と同僚が討ち死にして行くのを横目に、自分の順番が回って来るのを待つしかない戦々恐々とした戦場のようだった場所に、いつしか涼しい木陰をもたらす大きな樹木と憩いの広場のようなものができていた。

かつてはやって来る人をみな鬼のような形相で追い払う恐ろしい聖域のようだった場所に、日照りの中を歩くことに疲れた人々が、自然に休息を求めてやって来る大きな木陰ができていた。

筆者はこんな事例を他に一つも見たことはないが、とにかく組織というものは変わりうるのだという実例を目の前で見せられた気がした。

今まであまりにも多くの血を流し過ぎたから、立ち直り不可能ということはないのだ。どんなに悲惨な光景が広がっているように見えたとしても、そこにごくわずかでも良いから、良心と未来のビジョンを持った人々が、犠牲を払って踏みとどまりさえすれば、全体が変わる日が来るのかも知れない。

それは大きな教訓であった。筆者にはその当時、ここに踏みとどまろうという決意はなく、別の目的もあり、その混乱の只中から何かが生まれて来るとは、到底、信じることができなかったが、それでも、ごくわずかな間であっても、命がけのような毎日を送りながら関わって来た人々と、長い長い年月が経って、かつては予想もできなかった形で再会できたことは、実に感慨深いことであった。

この企業の取り組みは 時代を先取りしているように感じられた。これから5~10年も経つ頃には、大規模な人手不足時代がやって来るだろう。人のやりたがらない苦労の多い仕事には、就く人もいなくなるに違いない。それに先駆けて、アルバイトであろうと派遣であろうと非正規雇用であろうと、今、その仕事に就いて苦労してくれている社員らに未来の夢を提供することで、その会社が、自分たちに仕えてくれる人たちを自社に残そうとしていることは、正しい選択であるように思われた。
 
まるで階級制度のように超えられない壁のように見えた正規・非正規の壁を、その会社が取り払おうとしていることは、正しい選択であるように感じられた。

筆者は、ここ最近、重要なのは、筆者を取り巻く人々や、組織が、外見的にどう見えるかではなく、その人たちの中に真実があるかどうか、もっと言えば、その人々が嘘偽りのない生き方を心から目指しているかどうかに、すべてがかかっているのだということに、はっきりと気づいた。

身内や、親族や、長年の知己や、信仰の仲間や、著名な指導者だからと言って、その人が我々に真実に接してくれる保証はない。老舗の会社だから、誠実に仕事をしてくれるということもない。

ただお互いに、心の中で、嘘によって汚されることのない清い命の流れ、嘘偽りのない真実を探し求めている時にだけ、我々の間には、有益な関係が成立しうるのだ。

さて、ここから先は、クリスチャン向けの話題であるが、これまで筆者は、当ブログにおいて、嘘や自己矛盾や二重性というものは、聖書には決してない特徴であり、それは悪魔に由来する偽りであって、誤った教えには、首尾一貫性がなく、必ず、嘘による自己矛盾や、論理破綻が見られることを述べて来た。

グノーシス主義思想の分析においても、筆者が幾度も強調したのは、誤った教えは「全てがダブルスピークで成り立っている」ということであった。

グノーシス主義の究極目的は、正反対の概念の統合にあるとこれまで幾度も述べた。仏教もそうであるように、グノーシス主義の教えはみな「有る」と言いながら、同時に「無い」と主張するのである。
 
従って、このような教えの究極目的は、「然り」と「否」との統合にあるのだと言えよう。

だが、私たち聖書に立脚するクリスチャンは、「然り」と「否」とを統合するなどということは、誰にも絶対にできない相談であり、それは錬金術のような詐術でしかないことを知っている。

たとえば、公文書を改ざんしている人々も、国会で偽証している人々も、求人詐欺などしている会社も、みな「然り」と「否」を混同しているのである。

「困ったときは、私たちに相談して下さいね」と言いながら、いざ相談してみると、「甘えるな。自分のことくらい、自分で何とかしろ」などと言ってくる人も、「然り」と「否」を混同している。

「私はあなたと信仰による兄弟姉妹です。神が出合わせて下さったのだから、私たちの絆は絶対に壊れません」などと言いながら、いざ様々な不都合な問題が持ち上がると、早速、兄弟姉妹であることを否定して、関係を切り捨ててにかかる人々も、「然り」と「否」を混同している。

主にある兄弟姉妹はみな対等であって、宗教指導者は要らないと言いながら、自分が指導者になって信徒に君臨している人々も、「然り」と「否」を混同している。

要するに、自分で約束した言葉を守ろうとせず、言動が一致していない人々は、みな「然り」と「否」を混同する偽りに落ちてしまっているのである。

人柄が問題なのでもなければ、性格が問題なのでもなく、関係性が問題なのでもない。その人自身が、真実に立って、二重性を排除して生きるつもりがあるかどうかが、それが、我々がその人間と信頼性のある関係を築き上げられるかどうかを決める最も重要な要素なのである。

だから、私たちは限りなく、嘘偽りのない真実を追い求めなくてはならない。どんなに虚偽が海のように深く、すべてを覆っているように見えても、それでも、その中に真実を追い求め続けることをやめてはならない。

そのようにして固く偽りを拒否し、真実(真理)に立って、これを守り続けて生きる人々を探し求め、それを見つける時に、初めて、彼らとの間で連帯や協力が成り立つ。

長年の知己であろうと、親族であろうと、クリスチャンを名乗っている人々であろうと、名だたる企業の幹部であろうと、宗教指導者であろうと、誰であろうと、 「然り」と「否」を混同している人々に、何を求めても、返って来るものは何もないのだ。

クリスチャンを名乗りながらも、聖書は神の霊感によって書かれた書物ではない、と否定する者たちがいる。その者たちは、一方では真実を語りながら、もう一方では、それを自ら否定しているのだから、そのような人々と語り合っても、得るものがないのは当然である。

それは大円鏡知、すべてがさかさまの世界、すべての存在するものが究極的には「無い」という虚無の深淵へと通じて行くだけの語り合いである。

ちょうど今は盆の季節で、多くの人々が先祖供養のために帰省している。国民のほとんどには、自分たちが先祖崇拝という宗教儀式に参加している自覚はないであろう。しかし、終戦の日が8月15日に定められ、我が国最大の国家的行事としての戦没者追悼式がこの日に行われるのも偶然ではないように筆者には思われる。

我が国は、巨大な先祖供養のための国家的共同体であり、天皇は死者の霊の鎮魂と慰謝のための象徴である。その天皇の姿に、国民は自分を重ねながら、未だ先祖供養を自らの最優先課題として今も生きているのかも知れない。

だが、地獄の釜の蓋が開いて、束の間子孫のもとへ戻って来るという亡き先祖の霊が、子孫のために何かをしてくれたことが、これまでに一度でもあったのだろうか? 彼らは、子孫に慰めを要求し、供え物を要求する一方で、自らは何一つ子孫のために奉仕することもない。

それもそのはずである。地獄に落とされたという亡者たちが、生者のために何かしてあげることなど、できるはずもない。生前に自ら犯した罪のゆえに地獄で責め苦に遭い、永代供養を求めることしかできない地獄の死者たちが、本当に、厚かましく、独りよがりな亡霊ではなくて、尊敬すべき立派な先祖であり、まして仏であり、神として讃えられるべき存在だと、本当に考えられるであろうか?

いや、彼らが本当に神ならば、自分のためだけに生贄を終わりなく子孫に要求し続けるようなことをせず、生きとし生ける者の命を維持するために、自ら奉仕し、配慮するであろう。
 
自分が生んだ子らに慰めを与え、命を与え、日々の糧を与え、見離すことなく、生涯の終わりまで、共にいて助けるであろう。

それでこそ、神の名に値する。

それなのに、子孫に向かって永遠に要求を重ね、子孫の財産を奪い去ることしかできず、子孫の配慮によって、自らに供えられたものを、食べることも、味わうこともできず、感謝の言葉を発することもできない死者の霊が、果たして、神だなどということが、あるはずがないではないか。
 
クリスチャンであれば知っている。死者の霊が神になるわけではないと。そんなことは決して起きないと。神の独り子なる救い主であるキリストへの信仰を持たない者が、死んだからと言って、神になることなど決してありはしないのだ。

神の子に連なるためには、人は水と霊によって、すなわち、新しい命によって生まれねばならず、それは、その人が人類の生まれながらのアダムの命や、それに連なる関係に対して、霊的死を帯びることを意味する。

詩編には次のような言葉がある、

「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩編27:10)

この言葉は、私たちが救われたのは、生まれながらの肉の絆によるのではないことを、はっきり示している。十字架で私たちの罪のためのいけにえとなられた神の御子キリストを信じることによって、私たちには新しい命が与えられ、このキリストの命によって、私たちは神の共同体に加えられ、神の家族とされたのである。

だからこそ、神は私たちを子として守って下さる。必要な慰めを与え、励ましを与え、困った時に支え、助け、命を与えて下さる。それはこの世の命だけでなく、来るべき世においても続く永遠の朽ちない命である。
 
この関係は、死者の霊に子孫として連なる地上の肉なる絆「生み生まれる親子の立体関係」とは全く異なる。

私たちは、死と復活を経られたキリストの霊によって新しく生まれ、天的な新しい家族関係の中に入ったのである。

私たちが連なるのは、死者の霊ではなく、命を与える霊となり、よみがえられた最後のアダムなるキリストである。

そこで、古きは過ぎ去らなければならない。死んでは地獄に陥れられ、子孫に束の間の慰めを求めてすがるばかりで、子孫を慰めることも、救うこともできないような「生み生まれる親子の立体関係」は、死に渡されるべきなのである。

「イエスは言われた、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)

これは、私たちキリスト者が、地上の「生み生まれる」肉なる関係に対して死ぬ変わりに、神の家族という、新しい関係、新しい天の財産が豊かに与えられることを示している。

地上の関係を信仰のゆえに喪失するときは、それは一時的に、悲しいことのように感じられるかも知れず、また、そのような生き方は、この世の常識とは異なるため、世間の理解を受けられないかも知れない。

だが、私たちが失ったものをはるかに補って余りある天の豊かな相続財産を、神が私たちに約束して下さっていることは確かである。

最後のアダム、命を与える方、この方の言われる言葉はすべて真実であって、偽りがない。だからこそ、我々は然り、アーメン、と言うのである。

「神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」
 
最後に、今一度、これまでに何度も引用したイザヤ書49章の後半を挙げておきたい。神はご自分が全能の主であることを知らせるために、ご自分のもとへ身を寄せるすべての者を守って下さる。神が信じる者を守って下さり、慰め、憐れみ、決して恥をこうむらせず、失望させることはないという約束は真実である。
 
「 天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。


女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。主は言われる、わたしは生きている、あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、住む人の多いために狭くなり、あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

あなたが子を失った後に生れた子らは、なおあなたの耳に言う、『この所はわたしには狭すぎる、わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。


主なる神はこう言われる、「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、旗をもろもろの民にむかって立てる。彼らはそのふところにあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る。 もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物をどうして取り返すことができようか。暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか。
しかし主はこう言われる、「勇士がかすめた捕虜も取り返され、暴君が奪った獲物も救い出される。わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救うからである。 わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。こうして、すべての人はわたしが主であって、あなたの救主、またあなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るようになる」。

さて、証言を集め、協力者も集まって来ている。ここからが大詰めで、ドラマのような展開が進んで行く。

前にも書いたことだが、弁護士は当事者ではないため、当事者以上の証言を決して行うことができない。そこで、何が真実であるか、その是非を争いたい時には、当事者の証言こそ有効である。

キリストの御身体に命の供給が必要だいう言葉の重さを痛感するのは、こういう時だ。一人だけでもすべてに立ち向かうことは十分にできるが、やはり、仲間としての兄弟姉妹の協力を仰ぐことによって得られる利益も確かに存在する。それは地上の個人的な利益だけを指すのではなく、キリストの御身体に新鮮な命の供給がもたらされるという利益だ。
 
一人だけでも、もしキリストが内におられるなら、それは一人の証言ではない、と筆者は思うが、その上、兄弟姉妹の証言が得られば、その証言の強度は倍加する。

凶暴な狼によって、バラバラに引き裂かれた信徒たちが、再び一つにつなぎ合わされる。それが一つのからだとなり、真実を持って、虚偽に対抗して立ち上がる巨大な兵士の軍団のようになる。草の根的な、名もない小さな人々の集まりが、大きな力になって行くのだ。

今はまだ小さな流れだが、いずれ大河のように流れる時が来よう。

さて、以前には関東圏は終わりを迎えているため、よその土地に引っ越した方が良いという筆者の思いを記したが、それはあるいは、エリヤがイゼベルから逃げ出した時のような弱音だったのかも知れないし、あるいは、未来へつながっていく確実な望みなのかも知れない。今のところ、まだそうした問題には答えが出ていない。

どこになら住まいを構えてもよいだろうかと考えながら、土地を巡る中で、かつて筆者が地上で楽しく交わりを行ったあるクリスチャンの夫人のことを思い出した。その人の人生最後の時期に、筆者は彼女と親しく交わりを持つようになった。

それ以前から、互いに存在を知ってはいたが、彼女も、筆者も、ともに地上の団体を離れ、人間のリーダーを離れるまで、個人としての出会いは起きなかった。年齢は親子ほど離れていたが、良い交わりが持てた。多分、それまで様々な団体の指導者に気を取られていた頃には、せっかく出会っても、互いの価値が分からないまま、通り過ぎていたのだろう。

その人は祈りに祈って家を手に入れたとよく言っていた。家を建てる前から、図面を作り、案を練っていた。彼女は、念願かなって手に入れたというその家へ筆者を招いてくれて、雄大な景色を見せ、センスの良い家具や、配置を見せて、言った、「この家へあなたをお招きしたのは、誰でも、祈りさえすれば、こういう家が手に入ることをあなたに教えたかったからなのよ」と。

色々なところで会い、信仰の交わりをし、あかしをし、共に喜び、感謝した。それからごくわずかな間に彼女は天に召され、しばらくして彼女の夫も天に召され、その素晴らしい家は、誰も住む人がいなくなった。筆者が知らないうちに、いつの間にか、彼女の夫までも地上を去っていた。

筆者からみれば、その夫婦は、まるであたかも両親の代理のように、非常に親切にしてくれた。夫人が亡くなってから、二、三回、ご主人に会って、思い出話を聞いた。筆者の心には良い思い出しか残っていなかった。

しかし、筆者が見ていたのは、ほんのうわべだけの有様に過ぎない。夫人は生前、夫には信仰がないと嘆いており、家の屋上にのぼって泣きながら祈ることがよくあると語っていた。他人には決して打ち明けることのできない様々な悩み苦しみが、胸の内には色々あったのだろうと思われる。

しかし、一体、何を涙して祈らねばならなかったのか、いつも幸福そうな外見からは全く分からなかった。こちらから事情は何も尋ねなかったし、彼女の夫も、教養ある人たちの家庭では常にそうであるように、他者に対しては親切で気前良く、何一つ愚痴も悩みもこぼすことなく、夫人が嘆いていたような問題があることは全く分からないままであった。

筆者は、彼女が召されてからも、彼女と過ごした夢のようなひと時を幾度も心の中で思い出した。

それからずっと経って、筆者は、偶然に、この夫人の家のことを思い出した。最後に残っていた彼女の親族から、ついに夫人の家も、すっかり空っぽになって、売りに出されたという話を聞いて、心から寂しい気持ちになったことを思い出した。

筆者にとっては、いつまでも記憶の中で、色あせることのない、夢のような家である。もしも地上で最も天に近い、聖なる場所があるとすれば、それはきっとあの家に違いない、と思った。

そこで、ずっと前に削除したアドレス帳に記した住所を何とか記憶を辿って思い出し、探してみると、その家は何と買い手がないまま売りに出されているではないか。

この聖なる場所が人手に渡らなかったのはきっと奇跡に違いない、などと筆者は思って、そこを訪ねてみることにした。

だが、現実は容赦なかった。その家は、誰も住まなくなって久しいため、大規模な修繕が必要で、とてもではないが、誰から見ても、経済的な買い物と言える状態ではない。修繕で済めば良いが、すべてを造り変えるしかない可能性が極めて高い。

夫人が筆者をもてなしてくれ、みなで聖書を輪読した素敵な居間も、今は朽ちかけ、床はひび割れ、壁も傷み、テラスへ続く扉は、開けようにもシャッターや扉が開かなくなっていた。

それでも、ごくわずかな思い出の片鱗でも残っていないかと期待しながら、筆者は歩き回ってみたが、その家には、もう当時の生活の名残は、ごくわずかに天上に吊るされた照明と、家の中に数か所残されたインテリアのかけらくらいしかなかった。

その代わり、筆者は、客として招かれた頃には、決して案内されることのなかった家の隅々までも見ることができた。

そうして驚くべきことが分かった。その家には、筆者が客として招かれたときには、決して存在を知ることのない隠された空間があったのである。夫人が生前に、センスの良い高価な家具をたくさん飾り、実に良い雰囲気を醸し出していた居間のある上層階とは別に、一種の廃墟と言っても良い状態の下層階が存在したのである。

その下層階は、まさに廃墟と呼ぶべき状態であり、しかも、多分、そこが廃墟になったのは、家が空き家になって後のことではなく、夫人がまだ生きていた当時から、開かずの間として放置されていたのではないかと思われた。つまり、同じ家の中に、美しく改装された二階と、放置されて朽ち果てて行く一階とがあり、この二つが、基礎構造を通じてつながっていたのである。

筆者は非常に驚き、複雑な思いになった。これはまるで人間の心の中のようだという気がした。生まれながらの人の心の中には、誰にでも、こうして人には見せられない隠された奥の間がある。そこに、様々な嫌な思い出や悪意が封印されていたりする。

筆者が客としてこの家を訪れた時、夫人は、信仰によって与えられた非の打ち所のない家のように、この家を紹介しれくれたが、その時、夫人が筆者に見せてくれたあの夢のような空間は、最も良いごく一部である上層階に過ぎず、この家には、下へ下へと降りるに連れて、それとは全く異なるもう一つの顔があったのである。

しかし、あれほどセンスの良い綺麗好きで自分の家をとても愛していた夫人が、そのような状態で、率先して下層階を放置していたとは、およそ考えられず、多分、そうならざるを得なかったのは、そこには夫人が立ち入れなかったか、管理の及ばない何かの特別な事情があったためだろう、と考えられた。

同じ一続きの家ではあったが、そこは夫人が設計したわけでなく、管理したわけでもない、別人の空間だったと思われる。

そういう事情を見ても、きっとこの家の中には、外の人には決してあけっぴろげに見せることのできない何かの秘密が隠されていたのだろう、という気がしてならなかった。

多分、その秘密こそが、夫人が生前、幾度も涙しては屋上で祈らなければならなかったり、静かに祈るための空間を求めて、郊外へ移動したりしていた理由につながっていたのではないだろうか、などと筆者は思いを巡らしてみた。
 
だが、筆者はそれ以上、その事情について、知りたいとは思わなかった。どの家族にも、それなりの秘密がある。たとえば、筆者の目から見て、夢のように素晴らしい家庭に見える家でも、その家に生まれた子供たちの目から見れば、かなりの問題があると感じられるかも知れない。

人目には愛のある素晴らしい夫婦のように見える二人がいても、もしかすると、毎日のように、どちらか一方が泣いているかも知れない。あるいは、親たちは幸福そうに見えても、子供たちは苦しみ、悩んでいるかも知れない。

遠目に見るからこそ、何もかもがきれいに見えるだけのことである。すべての地上の家は、そういうものだ。筆者が愛していた夫人の家だからと言って、すべてが例外などということは決してないのだ。

だから、その家が、最も天に近い、地上で一番、祝福された、聖なる場所のように筆者に見えていたのは、あくまでその当時の筆者の主観によるものであり、同時に、夫人の主観によるものであり、また、同時に、単なる人間の主観にはとどまらない、信仰によってつながった姉妹たちが、主の御名の中で、ともに分かち合った喜びや賛美によるのである。

確かに、その時、私たちの霊の内で、何とも言えない理想的な空間が広がっていた。だが、だからと言って、その思い出を、まるで完全で聖なるもののように、極度に美化するわけには行かない。

地上のものが、エクレシアの永遠の構成要素の一つであるかのようにみなすわけにはいかない。どんなに素敵な家も、ありふれた家の一つでしかなく、理想や、完成からは遠い、不完全なこの世の朽ち行く物質から作り出されたものに過ぎず、その家も、どこの家もそうであるように、老朽化やその他の様々な問題に悩まされ、いずれは消えて行く脆くはかないものの一つでしかない。

仮にその家が、何の秘密も持たない理想的な空間であったとしても、それでもやはり地上の朽ちて行くものが、天の朽ちないものを形成するわけではない。

結局、真理と霊によって神を礼拝する場所は、あの山や、エルサレムではない。エクレシアは、思い出の中に存在しているのでもなければ、他人の素敵な家の中にあるわけでもない。

筆者にとってのエクレシアとは、常に筆者の内に住んで下さるキリストによって、筆者と共に存在している。このことを決して忘れるわけにいかない。あの時、筆者と夫人と、また別のもう一人の夫人が、共に三人で集まり、祈ったことにより、我々の霊の交わりの中に、確かにエクレシアが存在していたのであり、他方、夫人の素敵な家は、その交わりによって照らされ、聖別されていた地上の空間に過ぎない。

不思議なことに、目の前で、思い出深い場所が、残酷に朽ちて行く光景を見せられたというのに、しかも、そこには、筆者の知らない秘密まであったと分かったにも関わらず、筆者の記憶の中では、依然として、その家も、夫人の面影も、輝いたままに残っている。

おそらく、それがエクレシアの永遠の交わりが、確かにその時に生きて存在していたことによるのだろう。そこがどんな家であったかなど、全く問題ではないのだ。

エクレシアは、主の御名の中で集まる二、三人の中にある。だから、過去を振り返ることなく、真実な心で今、生きている兄弟姉妹と手を取り合って、前に進んで行こう。
 
人間は生きている限り、絶えず変化し、前に進んでいく。人は常に新しいものを求める。人間の作った技術が年々、進歩しており、年々、物質が古くなり、朽ちて行くのと同様、かつては最善に見えたものも、時代の変化により、廃れて行く。だから、思い出を振り返り、名残惜しむことによって、何かが取り戻せるということは絶対にない。過去を振り返る時でさえ、今の基準に立って、すべてを厳しく評価しなければならない。そして、地上に存在しているものは、どんなものであろうと、満点をつけられるものはない、と言い切らねばならない。

なぜなら、私たちが求めているものは、この地上に属するものではないからだ。
 
ところで、筆者は、開かずの間のない家を理想と考えている。古いものと新しいものを一緒に残すことはできない。古い基礎構造の上に、新しい部分をかぶせて、一部だけを新しくして、すべてが新しくなったように見せようとは思わない。そういう混合は決してあってはならないものだ。

開かずの間とは人の心でもある。エレミヤ書にあるように、どんなに人の心が陰険で、罪と悪に満ち、直りようがないほど悪かったとしても、その部分は、神の光によって照らされなければならない。そうして、照らされて、新しく造り変えられる必要がある。

そのためには、その部分をまず神に対して解放して、明け渡さなければならない。廃墟であろうが、どんな状態であろうが、構わないから、そういうものが自分の心の中にあることをまず認め、扉を開けて、主をその中にお招きせねばならない。客人をお招きするにふさわしくない空間であることは百も承知だが、だからと言って、それをないもののように、鍵をかけて閉ざしてはいけない。にも関わらず、それをそのままにして、古い基礎を残したまま、その上に上層階を建れば、その弊害は必ずしばらく経って現れて来る。そのような仕方で建てた家は、長くは持たない。筆者には、そういう気がした。
 
大胆な外科手術によって、取り除くべきものがすべて取り除かれた上で、すべてが新しくされねばならないのである。基礎構造から、すべてが新しくなければならない。そういう意味において、夫人が見せてくれた家は、天の故郷である新エルサレムまで続く道の途上にある、非常に魅力的な通過点の一つであったとはいえ、それがゴールでは決してなく、そこから天の故郷までには、まだまだ遠く、はるかな距離が残っており、その通過点は、どんなにその時には満足できるもののように見えたとしても、そこで立ち止まるべきではない、甚だ不完全で中途半端な地点でしかなかったのである。

だから、私たちは生きてキリストの十字架の死と復活をさらに知るべく、主のよみがえりの命によって刷新されるべく、後ろのものを忘れ、前に向かって進んで行く。その途上で、また新たに喜びに満ちた出会いや、有益な参考材料となる学びが現れて来るだろう。

久々に裁判に関する進捗報告を一つ。

カルト被害者を名乗る人々はよくよく見ておいて欲しい。 もしもキリスト教会であなたが何かの事件に遭遇したとして、受けた被害の相談をあなたは誰かに行いたいと考える。むろん、それを禁じる法はなく、誰かに話せば胸の内がすっきりすると思うのも当然だろう。

だが、そこで誰を相手に相談すべきかは、よくよく考えて検討することをお勧めする。特に、宗教トラブル相談センターに赴くことが妥当かどうかは、よくよく熟慮することをお勧めする。

なぜなら、相談と引き換えに、あなたは個人情報を収集され、その後、もしも相談した相手に何かの不審や疑問を感じても、いざ批判の言葉を口にすれば、たちまちネット上ですさまじい制裁を加えられるだけかも知れないからだ。

あなたは相談内容をことごとく公表されて、個人情報を暴かれ、人生の道を踏み誤り、カルト宗教の洗脳を受けた信者と呼ばれ、プライバシー権を侵害された上、そうした事件の解決を目的に、相手を調停や訴訟の場に呼び出し、公に議論しようとしても、その相手は、決して裁判所からの呼び出しに応じて速やかに出頭しようともせず、色々な理屈をつけては、逃げ回るだけかも知れないからである。

あなたは教会で遭遇したごくごく些細なトラブルをきっかけに、それとは比べものにもならないほどの巨大な重荷を背負い込まされることになるかも知れないからだ。

以下は、アッセンリーズ・オブ・ゴッド教団京都七條基督教会、宗教トラブル相談センターの村上密牧師が、当ブログ執筆者を原告として提起された訴訟の第一回口頭弁論期日について、「バングラデシュへの出張」を理由に、事件の京都の裁判所への移送を申し立て、それが裁判所により却下された通知である。

かつて被告A(杉本徳久)は、自らのブログで、被告が申し立てさえすれば、事件を被告の住所の管轄裁判所に移送できるかのように主張していたが、そのような主張が虚偽でしかないことが、この決定によっても証明された。

原告が知っている限り、一般に、原告の住所地の所轄裁判所で提起された損害賠償請求事件に、被告の希望に基づいて、移送の申立が認められるための条件は、かなり厳しい。被告が、仮に次回、別な理由を持ち出して移送を希望したとしても、同じように却下となる可能性は極めて高い。

それにしても、自分が正義の味方のように、カルトをやっつける側に回る時には、意気揚々と法廷闘争を呼びかけ、他の牧師を法廷に引きずり出すことをいとわない人間が、いざ自分が被告として法廷に呼び出されると、何かと理由をつけては出頭をしぶるというのは、感心できる態度ではない。

公に名を名乗り、TVにも出演しながら、全国をカルト被害者への支援のために飛び回っていることをアピールしている牧師ならば、誰からどんな訴えがなされたとしても、正々堂々とそれを受けて立ち、持論を展開して公の場で反駁すれば良いだけであり、自分にとって不利な訴えにも、根気強く、透明性のある形で、公に反論している姿が、信頼を呼ぶのである。それをしようとしないのは、自分にとって不都合なことには向き合うつもりがなく、そもそもやましい思いがあるから出頭したくないのだろう、などと憶測されても仕方がない。
 
しかも、海外出張という一過性の出来事を理由に、移送の申立が認められる見込みがほとんどないのは、誰にでも事前に予想できることである。そこで、この移送の申立は、自分が出頭を拒むための口実であるだけでなく、事件の解決を何とかして先延ばしにし、自分に不利な判決を先送りするための苦肉の策だと思われても仕方がないだろう。

それにしても、海外宣教師でもない牧師が、この時期にわざわざ出張というのは・・・。一般信徒から提起された訴訟に向き合うことが、そんなにも怖くて、バングラデシュまで逃亡せねばならないのか、という憶測を呼ぶのも仕方がない。

断っておけば、第一回目の口頭弁論には、被告は出頭しないこともできる。しかし、出頭しなければ、自分の口から主張を説明できないので、誤解が生じ、不利な判決が下される恐れが増し加わるだけだ。そして、二回目以降の期日には、出頭しないことはできない。

審理が長引けば長引くほど、被告として呼び出される回数が増え、答弁する苦労や、交通費が増し加わるだけのことである。それくらいなら、一度ですっきりとカタをつけるために、全力で準備した方が、よほど重荷が減るだろうに。
 
さて、被告らの答弁書が提出されたので、原告も準備書面を作成したが、村上密の答弁書は2頁、杉本徳久の答弁書は6頁と、相も変わらず、真面目に答弁しようという意気込みが全く感じられない。

原告が提起した訴状は約200頁。それに対し、この分量の反駁では、訴状の冒頭部分にさえ反駁したことにならず、自分の主張の正当性を広く世に訴えて、自分の権利を守るつもりが初めから全くない、とみなされても仕方がないことであろう。

具体的な根拠も伴わない一方的な「言いっぱなし」のスタイルが認められるのは、ネット上だけのことである。それ以外の文書では、すべての主張に具体的かつ客観性のある論拠を示すことなしには、どんな主張も正当と認められることはない。
 
神に対しても、人に対しても、原則は同じだが、自分がどのような権利を持っているのか、きちんと根拠を示して、他者に訴え、公然と自らの願いを正当なものであると主張することをしないのに、その人の言い分が認められることは、決してない。

主張しないということは、最初から、自分の権利を放棄し、自分に有利な判決をあきらめているのと同じことである。

被告らの主張には、依然として、いかなる信憑性のある具体的な根拠も示されておらず、仮に二回目、三回目の期日を開いたとしても、そこで新たな証拠等が提出されて、今以上に有意義な議論が行われる見込みがほとんどない様子は誰にでも分かる。

そこで、彼らの答弁書の分量・内容の薄さが、今後の審理の進行に甚大な影響を与えることはほぼ間違いないと予想される。



 


このところ、すべての手続きが穏やかに進行中である。

何度も書いて来たことだが、訴訟などの手続きは、そのほとんどが一般市民にも弁護士なしで十分に対応できる。必要なのは、専門知識ではなく、ひとかけらの勇気と信仰である。

これらの訴えをことごとく提出した時に、筆者はこの土地で、自分のなすべき役目がほぼ終わりかけており、主は筆者をよそへ移そうと願っておられるという気がしてならなくなった。そのことは、これまで何度か書いて来た通りであるが、まるですべての状況が、ここを出なさいと筆者に語りかけているようだ。

本当はもっと早くそうすべきだったのであり、この土地はずいぶん前から不毛だったのだが、筆者が御心を掴むのに時間がかかったので、脱出の時が遅くなった。それから、最後にひと仕事、残っていた用事があった。

筆者はかつて住居を住み替えさえすれば、生活が快適になるだろうと思っていた時期があった。その頃は、この土地が不毛だなどとは考えておらず、様々な努力で未来が開けると考えていたのである。しかし、快適な住居に住み替えても、問題は去らず、この土地ではすべての努力が無駄に終わると分かった。
 
まるで首都圏の中心部から汚水がどんどん流されて来るように、年々、すべてが悪化して行くだけである。

筆者はこの土地に思い出はあるが、未練はない。そして、この土地の人々の気質が、ソドムとゴモラのように、どんどん悪くなって行っていることをひしひしと肌で感じている。

最近、街の弁護士日記というブログに「滅びるね」という記事が載った。詳細はその記事で読んでいただければ良いが、筆者はこの内容に深く頷くものである。

街はあたかも平和で、真夏の行楽日和が続き、店はバーゲンセールでにぎわっている。筆者も、連休中、偶然に立ち寄った店で、7割引きで洋服を買い、鳥を増やし、将来的な住処を探そうという考えで、土地と家を見て回った。どこかへ引っ越さねばならないという気がしているためだ。

だが、その道中、毎年、楽しんで来た夏の特製のパスタをパスタ屋さんで頼むと、それが今年には、まるで大奮発しないと買えない商品のように、値段が去年よりも随分、高くなっていた。しかし、人々の生活は潤っていない。

街はあたかも平和そうに見える。去年と似たような今年が続いているように見える。商業活動も盛んだ。だが、何かがおかしい。これは去年の続きでは決してない。商品のサイズは縮み、値段は上がり、去年できたことが、今年にはもうできなくなっている。そして、主都では、人々の頭上に刀を振り下ろすような凶悪な法案が次々と通過している。

この平和がソドムとゴモラのように映る理由を端的に言い表すのは難しい。どんなに人々の気質が悪くなり、人間が騙し合い、陥れ合い、殺し合うようになったのか、今ここで長々と説明をするつもりはない。

しかし、大量の汚泥の上に板子一枚で築き上げられたような、このうわべだけの平和が、何よりも滅びの最たる兆候である。この見せかけの平和にも、今やヒビが入り、脆いガラス細工の製品のように、人々の生活の安寧が壊れかけている。

とにかく、首都圏はもうダメなのだ。ここにはいかなる命の息吹きもなく、希望も、発展の見込みもなく、すべてが悪くなって行くだけであり、ここにいてはダメなのだ。何かがおかしいというこの予感が、具体的に何を意味するのかは知らない。巨大地震だとか、津波だとかの自然災害、もしくは戦争だとか、良からぬ出来事が迫っているという感覚なのか、それとも、理念を失った人々の生活が自滅へ向かっているために生じる感覚なのか。
 
筆者は県内にある素敵な家々を見学してみた。ところが、以前には「こんな家に住みたい」と、高嶺の花を見るように、憧れながら心躍らせて見ていた家々が、なぜか心に響いて来なかった。自分の見る目が変わったのか、それとも要求が高くなったのか、なぜそれらが魅力的に映らないのか、理由は分からなかった。しかし、どれもこれも決定打にかけるのだ。たとえただで差し上げますと言われても、筆者はそれを受け取らず、ここには住まないだろうという気がしてならなかった。
 
値段や内装がどうのといった問題ではなく、要するに、ここは筆者のための安住の地ではなく、この土地に家を構えてはならないという御霊の導きだという気がしてならない。

筆者は今、地中に深く埋蔵されたエネルギーを採掘する業者のように、収穫が深く隠されていそうな土地を探している。

あるいは、谷川の流れを慕う鹿のように、清い命の水の流れを、豊かな命の流れを備えた土地を探している。

それは間もなく見えて来るであろう。心の底から命の自由と解放を求める切なる願い求めが極限に達したときに、エクソダスが起きるのである。
 
ところで、仮の宿にいる筆者だが、生活を拡張する過程で、不思議なことがあった。

前にも書いたが、筆者は、最近、我が家の成員である小鳥たちのために、古い鳥かごをみな新調することにして、金色の鳥かごを三つ買って、そこにたくさんの色鮮やかなインコを入れてみた。
 
不思議なことに、一つ目の鳥かごは、到着してから組み立ててみると、屋根が微妙にずれて合わなかった。さらに、そこにはどういうわけかエサ入れの蓋が余計に一つ入っていた。

屋根に不具合があることを売主に書き送ると、早速、予備の屋根を二つ送ります、という返事が来た。なぜ二つも送ってくれるのだろうと不思議に思った。

その後、今度は別な鳥たちのために、同じ鳥かごをもう一つ買った。すると、到着したセットの中にあった餌入れの蓋の一つが、最初から割れていた。しかし、一つ目を注文した時に、蓋が余分に入っていたので、それを使うことが出来た。

その後、今度は別の世代の鳥たちのために、三つ目の同じ鳥かごを注文した。すると、売主から、商品は品切れ中で、取り寄せると時間がかかるが、屋根のない鳥かごなら一つある、値引きするがこれを買うかと問われた。もちろん、その屋根は、筆者に予備として送ったために欠けているのだ。

二つ返事で買いますと答えた。すると売主は本当に値引きしてくれた上、おもちゃも余分につけてくれた。商品に欠陥があるわけではないのにだ。

我が家の祝福された鳥たちである。

ここを出て行くときは、きっと民族大移動のようになることであろう。古い鳥かごを移動用キャリーに変えて、そこに鳥たちを入れ、他の動物たちもみなキャリーに入れる。まるでピクニックに行く時のように可愛らしい色の新しいキャリーだ。そして、彼らを車に乗せて、陽気な音楽をかけて、私たちは車で出発する。地上を何百キロも走って、列島を横断し、あるいは船に乗って、目的地に到達する。ちょっとしたノアの箱舟だ。その後で、車も新調することになるだろうか。むろん、その先に待っている家では、鳥たちのために一室を備えるのである。

いずれにしても、この土地にじわじわと押し寄せて来る滅びの感覚を振り払い、二つに割れた紅海を渡るようにして、筆者はここを脱出して行くだろう。だが、それはドラマの題材となるような出来事ではなく、人に知られないひそやかな歩みで、もの言わぬ我が家の成員だけが知っているひそかなピクニックだ。

どんなにこの土地に暗黒の未来が待っていようと、筆者はそれに巻き込まれて死人に数えられるつもりはなく、神にあって生きている人間として、祝福に満ちた地に達する決意と希望を失わない。

詩編には「命あるものの地で」「生ける者の地で」と訳されている言葉が登場する。私たち信者は、神にあって永遠に生きる者である。むろん、来るべき世においてだけでなく、この地上においても、生ける者なのである。

ただ生ける者であるばかりか、キリストと共に豊かな天の相続財産の共同相続人である。そこで、目には見えないが、御霊の命による我々の統治を待っている新たな地、新たな財産が存在する。私たち自身が探し求めているだけでない。その土地も、物も、財産も、人々も、私たちの現れを心から待ち焦がれて、その面影を探し求めている。だからこそ、主人の命を受けて、イサクのために使用人がリベカを探し出した時のように、求めていたものを見つけた時には、私たちは互いに必ずそれと分かるはずなのだ。

「主よ、あなたの道を示し
 平らな道に導いてください。
 わたしを陥れようとする者がいるのです。
 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
 偽りの証人、不法を言い広める者が
 わたしに逆らって立ちました。

 わたしは信じます
 命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め
 雄々しくあれ、心を強くせよ。
 主を待ち望め。」(詩編27:11-14)

このところ、筆者は、キリスト者の人生においては、何もかも、信者が信じた通りになるということを、あらゆる機会に確かめさせられている。そして、絶大な権威を持つ主の御名を託された神の子供たちの召しについて考えさせられている。

ほとんどの人たちは、あらゆる瞬間に、自覚せずとも、何かを信じ、何かを事実として受け入れる決定を心の中で下している。たとえば、天気が良ければ、今日は良い日になるだろうと予測するが、TVで沈鬱なニュースが流されたり、どんよりした空を見れば、それに影響されて、今日という日には何も期待できないなどと気落ちしたりする。

信者の場合は、そうした予測が単なる予測で終わらず、心に確信したことが、信仰を通じて働き、事実として成就する。そこで、信者が、どんな状況でも、御言葉に約束されている神の恵みに達するまでは、決してあきらめずに進み続けるのか、それとも、状況に翻弄されて簡単に御言葉に反する現実を抵抗せずに受け入れるのかにより、信者の人生、信者を取り巻く状況は大きく変わる。

神の約束を失わないために、信者が見張り、コントロールせねばならないのは、自分の心である。

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 」(箴言4:23)

この原則は、信者が自ら主と共に絶え間のない創造行為を行い、常に恵みを天から地に引き下ろす通り良き管となるために、まずは自分自身の心の思いをしっかりと制御しなければならないことを示している。

一言で言えば、神の絶大な祝福を受けるために、信者には口を大きく開けることが求められており、目的をまっすぐに見据え、何が起ころうとも、そこから目を離さず、目的を達するまで進み続ける姿勢が必要となる。恐れに駆られて、自分の口を自分で閉じてしまうことがないよう、自分の心を見張らねばならないのである。

これまで、信者は御霊の命の法則に従って支配する存在である、ということを述べて来た。最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載は、奇しくも、まさに同じテーマを扱っている。

一言で言えば、信者は主の御名により、地上のすべてのものについての決定権・支配権を握っているのであり、さらに来るべき世界においても、これを行使するために、その支配権の使い方をこの地上で学ばなければならないのである。

信者にはアダムに与えられた召しである地上のすべての被造物を管理する権限が、キリストを通して託されている。そこで、信者がキリストの身丈まで成長するとは、信者の内側での信仰の増し加わりを意味し、その増し加わりは、しばしば目に見える結果を伴う。

キリストの身丈にまで成長することは、世で考えられているように、信者がキリスト教組織を拡大するために偉大な福音伝道者となることを意味せず、信者が地上の人生を通して、地上にあるものを、いかに神の御心にかなうように管理し、それによって神の栄光を表すかという度量・力量を指す。

有名なへブル書の文章は、信仰によって、私たちが目に見えない世界から、目に見える結果を引き出すことができるとはっきりと告げている。これはまさに無から有を生み出す創造行為であり、それが信仰の力である。そして、私たちはこのような形で、無から有を果てしなく生み続け、天から相続財産を地上に引き下ろし、増やし、表していかねばならないのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、信じる者たちがそれぞれが自らの望みに従って、目に見えない世界で創造行為を行い、自ら望んだ事柄を、事実として実体化させることを保証するものである。

私たちが望んだ事柄が、目に見えない信仰の霊的な世界で働いて、目に見える事実として結実することを、それに先立って保証するものが信仰なのである。

このような信仰のサイクル(無から有の創造)を行うためには、信者は、まず、望む(願う)という行為を行う必要がある。次に、願ったことが、まだ目には見えないうちに、すでにそれが「事実」として自分に約束されており、その成就が約束として保証されていることを、心に固く信じることが必要である。

さらに、その信念に従って、実際に、望んだものを手にするために、これを要求し、獲得するための具体的なアクションに出る必要がある。

筆者から見て、この最後のアクションである「要求する」ということは、非常に重要である。なぜなら、望んだものが実際に成就するまでには、幾多の困難があり、その困難をすべて粉砕・打破して、心に確信した目的にたどり着くために、信者には絶え間なく御言葉の約束に立って、自らに保証されたものを要求し続ける態度が必要だからである。

望んだものにたどり着くまでに、様々な困難につき当たると、たちまち諦めて退却してしまうような姿勢ではダメなのである。

無から有を生み出す行為は、天地を造られた神のなさるわざであるが、それを私たちはキリストの御名を託されていることにより、主と共に自分自身で行う権限を持つ。

御名を託されている信者は、救われた神の子供たちであるだけでなく、神の代理人としての相続人でもある。地上のものの管理を任されているだけでなく、来るべき事柄、来るべき国の管理をも任されている。

だが、信者が未熟なうちは、多くの訓練を経なければならず、その意味で、偉大な相続人であるというよりも、神の僕と呼ばれるべきかも知れない。だが、神の御心は、私たちが僕で居続けることにはない。信者が成熟した暁に、キリストと共に、神の国の跡継ぎと呼ばれるにふさわしい神の息子・娘たちになることにある。

僕、子から成人した息子・娘たちへの成熟は、私たちが神ご自身、キリストご自身とほとんど変わらないまでに絶大な権威を持つ御国の相続人となることを意味している。

しかし、そのはかりしれない意味を理解する者は、この地上には少ないかも知れない。なぜなら、神が人にご自分とほとんど変わらないほどの絶大な権限を与えられたなどということは、人にとってはまことに信じがたい事実だからである。

そして、そのことは、決して人が神と同一になることを意味しない。この世で現人神を名乗り、自らの力で神を乗り越えようとする人々は、決まって悲惨な最期を遂げる。信者にどんなに信仰が増し加わったところで、信者が神ご自身になるわけではない。

とはいえ、それにも関わらず、神は、一人一人の信者に、実際にキリストと同じほど、御子と変わらないまでの高貴な性質を約束しておられ、それに一人一人をあずからせたいと願っておられ、そのためにこそ、惜しみなく御子を私たちにお与えになられたのである。

神は唯一であり、ご自分の栄光を決して他の者にお与えにならない方である。ところが、エステル記において、王がエステルに向かって、もし彼女が願うなら、王国の半分でも与えようと述べたように(王国の半分を与えるとは、王と共に共同統治者になることである)、神はご自分の子供たちに、ご自分と同じような、共同の統治権を与えたいと願っておられる。それほどに、人に大きな期待と権限を託されているのである。

神は、天地創造以来、この目に見える地上の世界を治める役目を、人間に託されたが、それだけでなく、その目に見える世界における支配を、やがて来るべき霊的な世界(新しい天と地―御国)における支配の土台とされようとしているのである。

私たちはこのことをよく理解する必要がある。それによって、どれほど大きな権限を神が人間に付与しようとしておられるか、理解できるからである。

マタイによる福音書の第25章14節から30節までに記されているイエスの語られた有名なタラントのたとえが何を意味するのかは、それによって理解できる。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

早速、五タラントンを預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントンを預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った、『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

このたとえは、一言で言えば、信仰による創造行為を指している。たとえば、目に見える容姿、身体的特徴、知能などの卑しい体の性質が一人一人異なるように、一人一人の信者に、目に見える形で与えられている資質、才覚、賜物はそれぞれに異なっている。

しかし、それとは別に、それぞれの信者に、からし種一粒のような信仰が、御霊によって与えられている。そこで、この信仰を経由して、信者には今現在、自分が手にしている目に見える賜物を元手に、それを信仰によって何倍にも増やして、天の父なる神に栄光を帰することが求められているのである。

それが「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:8)の意味である。

また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:43)という御言葉の意味である。

後者の御言葉は、死者の復活だけに当てはまるのではなく、無から有への創造行為のすべてに当てはまる原則である(死と復活の原則)。

つまり、このことは、この目に見える世界に生きている信者らが、目に見えるごくわずかな取るに足りないものを元手として、それらを目に見えない信仰の世界を経由させることによって、自ら望んでいるものを、目に見えない世界から、目に見える形で呼び出し(生み出し)、それによって、霊的な収穫を得て、天に栄光を帰することを意味する。

タラントのたとえでは、そのような創造行為を盛んに行い、神の栄光を表すに十分な収穫を得た僕だけが、主人の心にかなう者として、よくやったと褒められるのである。

このたとえを読む限り、たとえば、「私はしょせんどこにでもいる取るに足りない人間に過ぎませんから、信仰などあっても、どうせ大それたことなどできるはずがありませんし、そんなことは初めから望んでもいません」などと言い続けている信者は、まさに、与えられた賜物を全く活用せずに地中に埋めて隠した悪い僕と同じであることが分かる。

あるいは、「私は可哀想な人間です。私はこれまで絶えず運命に翻弄されて追い詰められて来た被害者です。こんな風に絶えず傷つけられ、卑しめられている弱い人間に、一体、何ができるでしょう。私を哀れんで下さい」などと言い続けている信者も、同じである。

確かに、人間一人一人には弱さがあり、この地上の体は、有限であり、様々な制約に縛られている、朽ちる卑しい体である。また、私たちが地上で与えられているものも、ちっぽけでささいなものに過ぎないかも知れない。しかし、少年が差し出した二匹の魚と五つのパンを、イエスが祝福して、何倍にも増やされた時と同様に、私たちは、自分に任されている、朽ちる卑しい、弱くちっぽけなごくわずかなものを使って、これを何倍にも増やし、はかりしれない天の祝福を表すことを求められているのである。

たとえば、あなたが今ごくわずかなお金を手にしているとする。そのお金を、あなたは信仰を経由することなく、地上の必要に費やすこともできるが、そうすれば、そのお金はただ消費されてなくなるだけである。

しかし、あなたはそのお金を、信仰を経由して、キリストの栄光のために、地上の必要に費やすことができる。ただ飲み食いし、買い物をして、自分の必要を満たすためだけに使うのであっても、それをキリストのために、天の栄光のために行うならば、そこで費やしたものは、ただ消費されてなくなるのではなく、さらに豊かな収穫を伴って帰って来るのである。

つまり、そこで消費されたお金は決してなくならない。これは本当のことである。(しかし、そうなるためには、真に信仰によって、神の栄光になるように使わなくてはならない。)

だが、あなたがごくわずかなお金しか手に持っていないときに、この原則を試すのには、まさに勇気と信仰が要るだろう。ごくわずかなお金しか持っていない人は、通常、これを使うことをひかえる。貧しい人たちは、そのようにして、外出も、飲食さえも、最小限度にとどめ、自分が持っているごくわずかなものを消費することを何とかして避けようとする。しかし、そのような姿勢は、まさに地中に一タラントを埋めた悪い僕と同じなのである。

もしあなたに信仰があるならば、自分が持っているごくわずかなもの(それはお金だけでなく、あなたの心、体、資質、才覚、あなた自身であるかも知れない)を、恐れの心から、なくならないように自分で握りしめ、使用を制限しようとすることをやめて、大胆にそれを消費するために差し出さねばならない。

(だが、繰り返すが、それは真に信仰によってなされなければならない事柄であって、たとえば宗教指導者など他人からの命令や、他人の期待に応えるためにやってはいけない。)

この原則を試してみることをお勧めする。信仰によって、消費すれば消費するほど、それはすり減ってなくなるどころか、かえって増えるという原則をあなたは見い出すだろう。

前回、私たちが信仰によって求めるものは、主に対するつけ払いのようなものだと書いたが、私たちは、今、地上にうなるほどの財産があって、はてしない土地を所有しているから、自分は豊かだと宣言するのではない。

それらの目に見えるものが、まだ目の前にない時に、来るべき豊かな相続財産が確かに約束されていることを信じて、これを宣言し、そこへ向かって、信仰によって一歩を踏み出すのである。
 
聖書は、主の御名によって求めなさい、と教えている。私たちが何を求めて良く、何を求めてはいけないか、という具体内容は、聖書にはほとんど書かれていない。主を悲しませると明らかに事前に分かっている悪でなければ、私たちは自分に必要なものを、どんなものでも、大胆に御座に進み出て神に希う自由を与えられているのである。文字通り、どんなものでも。

しかし、目に見える保証が目の前にない時に、その望みに向かって一歩を踏み出すことは、まさに信仰のわざである。ほとんどの信者は、目に見えるちっぽけな財布、さらに、自分のちっぽけな狭い心と相談の上、受けられるはずの祝福を自分で拒否する。そして、偉大な主人の僕であって、はかりしれない御国の相続人でありながら、まるで奴隷のように行動し、あらゆる恵みを自分で拒否した挙句、「なぜ神は私には恵みを与えて下さらないのか。なぜ私の人生はこんなに惨めで不幸の連続なのか。神よ、どうして私を憐れんで下さらないのですか」などと神に問うのである。

それが、一タラントを地中に埋めた男のたとえである。しかし、彼は自分で自分の恵みを制限しているのであって、神が彼を制限したわけではない。神は私たちにそれぞれの分に応じて、十分な人間的な個性や、能力をお与え下さり、さらに財産をもお与え下さった。それが今現在、あなたの目にどんなにちっぽけで些細なものに見えたとしても、私たちは、からし種一粒ほどの信仰を経由して、それらの目に見えているものを何倍にも拡大し、神に栄光を帰するためのはかりしれない富を生み出すことが可能なのであり、その成果を現実に期待されているのである。

そこで、あなたがもし真に豊かになりたいと願うならば、自分が持っているものを、なくならないように握りしめて、誰にも触れさせないように金庫に保管するのではなく、豊かに蒔き、散らさなければならない。それは絶え間ない消費活動であって、そのサイクルの中で、初めてあなたは獲得物を増やしていくことができる。

そのようにして信者一人一人が自分に地上で任された目に見えるものを、目に見えない信仰を経由して、どのように管理するか、どのように収穫を得るのか、得られた成果に応じて、来るべき御国における信者一人一人の権限や分が決められて行くのである。
 
このような地上での訓練を通して、最終的に、御国の相続人(神の代理人)にふさわしい権威、尊厳、支配権を持つことが、父なる神が、信者一人一人に期待されている事柄なのである。

2018/07/10 (Tue) 神の国の働き人

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:13-15)

さて、今回も、前回に続いて御霊の導きに従って生きることについて書きたい。

最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載が興味深い内容のため、冒頭で引用しておきたい。聖書箇所は、イエスがまだ幼子だった頃、両親がイエスを主にささげるために宮に連れてやって来たとき、救い主の誕生を待ち望んでいた祭司シメオンが、御霊の導きの中で、ちょうど神殿の境内に入って来たところである。

これはとても美しい調和のとれた絵図である。このように、何の前触れも約束もなかったにもかかわらず、まるで示し合わせたように、シメオンは出会ったその子が救い主であることを証し、祝福すると同時に、イエスに課せられた十字架の使命について語り、それゆえに母マリアが受けねばならない苦難のことも予告するのである。

この記事に該当する聖書箇所をそのまま引用しておこう。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:22-35)


以上の箇所について、T.オースチンスパークスの解説している「御霊による生活」 第六章 聖霊の職務と御業 (5)(6)の記事を引用したい。

霊の人の定義

 少しの間、霊の人についてさらに考えることにします。霊の人とは何でしょう?霊の人は聖霊を受けて、聖霊の器官・機能・能力と一致するものに構成された人です。「主に結合される人は一つ霊です」。これは姿・性質の一致です。それはある種の性質や、性質の質だけでなく、能力でもあります。これは、これから生じる諸々の特徴、実際的性質を帯びた諸々の特性の存在を意味します。ですから、霊的識別力、霊的知覚、霊的知識の類があります。使徒は、御言葉があらゆる霊的理解力によって私たちの中に宿りますように、と祈っています。

 さて、これは物体に及ぼす力の働きとは異なります。物体は、その中にその力と一致するもの、その力に協力するものが何もなくても、衝撃を受けただけで動きます。その動きは純粋に力学的です。違いは、私たちの新しくされた霊の中には、御霊の諸々の器官と一致するこれらの器官が導入されており、そこには知的合一が存在するということです。

 これについて説明しましょう。ルカによる福音書の冒頭に、エルサレムにシメオンという名の人がいた、とあります。彼は正しくて敬虔な人であり、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。そして、聖霊が彼の上におられました。さて、「両親が子供のイエスを、律法の慣わしにしたがって彼に行うために連れて来た時、この人が御霊によって宮の中にやって来た」と御言葉は告げます。

「前もって手配されていたに違いない。シメオンは祭司だったのだから」と考える人々もいるようです。記録はそのようにはまったく述べていません。ここの語り口はとても自然です。両親は子供のイエスを主に捧げるために連れてきました。この人がそこにいたのは、子供を受け取る用意の整った司式の奉仕者としてではありませんでした。彼はちょうどその時、宮の中にやって来たのです。

「彼は偶然ちょうどその時やって来たのです」と言うべきでしょうか。否!彼は御霊の中でやって来たのです。両親が子供のイエスを連れて来た時、シメオンがその子が誰かを知っていたことを示唆するものは何もありません。だれも、「この子がイエスです」と言いませんでした。彼は外見的には他の子供と同じように見えました。宮の中にやって来た数百、数千の子供たちと、おそらく何の違いもなかったでしょう。普通の両親に普通の赤ん坊でした。

エルサレムで生活していた人であるシメオンは、ちょうどその時、御霊の中でやって来ました。そして、両親が子供を連れて来た時、彼はその子を両腕で抱いて、極めて驚くべきことを述べ始めました。「主よ、今こそあなたは、あなたの御言葉にしたがって、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます。私の目があなたの救いを見たからです」。両親は過去を思い出しました。この人は何について話しているのでしょう?どうしてこの人はこのことをすべて知っているのでしょう?これはどこから来たのでしょう?


 その意味合いがわかるでしょうか?シメオンは御霊によって入ってきました。彼の動きは御霊によりました。彼の動きは御霊によって時が計られていました。そして、彼がその赤ん坊を両腕の中に受け取った時、御霊は彼の霊に「この子がキリストです」と証しされました。その赤ん坊が誰なのかを示唆するものは他に何もありませんでした。御霊はキリストについて証しされました。これはつまり、シメオンには、彼の上に御霊がおられたがゆえに、霊的知覚があったということです。自分がキリストの御前にいた時、彼は自分の霊の中で彼を認識しました。

 今、霊の人とは何かわかります。シメオンは一つの例です。とは言っても、後の、ペンテコステ後の霊の人の完全な代表ではありません。霊の人は御霊の促しによって動く人であり、その動く時は聖霊によって計られています。霊の人はいつ動くべきかを御霊によって知ります。御霊の中で動くことにより、キリストに関する御霊の諸々の秘密を発見します。したがって、霊的知覚の器官を持っており、主が何事かをなさっている時、それを知ります。この器官は、神の大いなる御旨に関する機能へと導きます。

 これはあなたには難しく聞こえるかもしれません。しかし、ローマ八章によると、これが信者の正常な生活です。確かに、私たちはその中に直ちに完全に入るわけではありません。「あらゆることで成長して彼へと至りなさい」というパウロの御言葉が私たちに想起させるように、私たちは成長してそれへと至るのです。



この記事では、上記の記事については詳しく触れないが、信者が御霊の導きの中で行動する時、そこには偶然と呼ぶにはあまりにも不思議な調和の取れた神の最善の巡り合いが起きていることが分かるだろう。むろん、それは御霊の命の支配によって起きることであって偶然ではない。

この記事では、信者の実生活に生きて働く御霊の働きについて述べたい。冒頭に挙げた聖書の御言葉を通して、私たちは、聖霊が、来るべき事柄を信者に教えてくれることを知っている。つまり、聖霊は未来についてのビジョンを私たちに見せられるのである。
 
別な言葉で言えば、そのビジョンは私たち自身が心に抱くものでもある。

信者は、御霊の導きに従うことも、その外に出ることもできるが、いつどういう時に、自分が御霊の導きに従って行動しているのか、必ずしも自分ではっきりと知らない場合がある。

多くの信者は「一体、どうやったら、私は何が御霊の導きであるかを知ることができるのでしょうか。どうやったら御霊を悲しませないように行動できるのでしょうか。私のしていることが、御霊の導きに反するものではないかどうか、私には分からないのです。そうである以上、私は主を悲しませたくないので、私のしていることが、御霊の導きに反しないという確証がない限り、信仰によって何も行いたくないのです」などと言うかも知れない。

そんな風に、御霊の導きから逸れること怖さに、自分が行うすべての決断が、御霊から来るものだと確信できないことには、一歩たりとも動かない、などと言う信者もあるかもしれないが、御霊の導きとはそういう風に、まるで占いでもするように、これから自分は右へ進むべきか、左へ進むべきか、はっきりしたお告げを受けなければ、何もしないという生活のことではない。

確かに、御霊は、時には、何かの具体的な行動を明白に信者に対して禁じられたり、何をなすべきかを明白に教えられたり、待つよう求められることがあるが、しかし、多くの場合、信者にはただ普通に行動しているだけの膨大な時間がある。

そのとき、信者には特に自分が御霊の導きを受けて行動しているという自覚はないかも知れないが、それでも、そういう時にも、信者が御霊の調和の中を、信仰によって歩み、何かを待ち望んでいるならば、信者が特に何かを確信して行動しているわけでなくとも、常に御霊は信者と共に働いて、御霊の命の統治の原則がその人と周囲に及んでいるのである。

一体、御霊の導きとは何なのか。それを形容することは少し難しいが、御霊はすべてを支配する超越的な命であって、信者の信仰を通して初めて働きをなすと同時に、ナビゲーターのような働きをも持っており、常に未来へ向かって信者を進ませる。

御霊が、信者に進むべき具体的な方向を指し示すことは少なくないが、ナビに目的地を設定するのはあくまで信者自身である。

信者は信仰によって、自分が何を望み、何を成し遂げようとしているのか、その目的を自分で設定しなければならない。たとえば、シメオンの望みは、「生きているうちに救い主をこの目で見たい」というものであった。あるいは、ジョージ・ミュラーは、寄る辺ない大勢の孤児を信仰によって養いたいと願った。

こうして、信仰によって抱く目的は、信者個人によって異なるものである。必ずしも福音伝道のために是とされているものだけではない。信者自身の生活の必要、あるいは、信者の極めて個人的な願いもそこには含まれる。明らかに主を悲しませる悪であると分かっている事柄でない限り、どんな目的でも願っていけないということはない。あるいは、筆者のように、大型鳥を飼いたいといった願いでも構わないのである。

その目的を、信者は信仰によって今待ち望んでいる目的の一つに設定する。すると、信者がそこへたどり着こうと歩みを進めたその瞬間から、御霊が共に働き始める。(もちろん、筆者はここで御霊が信者の願い事を叶えるためのサーバントだと言っているわけではない。信者の願い事の目的は、ただ自分が満足することに終わらず、あくまで神に栄光を帰することにあるからだ。)

しかし、多くの場合、ただ目的地を設定しただけで、御霊が自動的に信者をそこへ平穏無事に送り届けてくれるというわけでは決してない。まず、信仰によって望んだ目的が実現するためには、信者は必ずと言って良いほど、何かの困難(試練)の中を通らなければならない。あたかも約束によって待ち望んだものが、失われたかのように思われたり、はるかに遠く、手の届かないところにあるように思われたり、長い時間がかかり、信者が自分にはそれを目にすることができないのではないかという不安を持つような状況の中を通らされなければならないことがよくある。

その試練を、信者が信仰によって乗り越えて、周りの状況がどうあれ、待ち望んだものから目を離さずに、確固として目的を目指し続け、達成が可能であると信じ続けて行動したとき、信者が望んだ事柄が実際にこの地上に目に見える形で実現するのである。

とはいえ、ほとんど困難が伴わずに自然に望んだものが実現する時もある。

話は変わるようだが、筆者は昨年頃から、小型~中型鳥の色変わりの鳥を探して来たのだが、なかなか美しい色合いの鳥は見つからず、遠い店まで出かけて行かねばならないなどのこともあって、しばらく鳥探しを中断して、そのような目的があったことさえ自分で忘れかけていた。

ところが、今年、初めて訪れた店で、昨年からずっと探し続けて来た色々な種類の鳥たちを偶然のように一挙に見つけたのである。筆者は以前にもそのようにして鳥を一挙に増やしたことがあったのだが、その時の比ではない珍しい種類の鳥たちに出会った。筆者の鳥ライフになぜかはよくは分からない自然なグレードアップが起きたような具合だった。

そこで、鳥たちの取り揃えを変えたのに合わせて、鳥かごも変えることにして、金色の大きな鳥かごに、珍しい南国の明るいオレンジやブルーの珍しい鳥を何羽も入れてみた。すると、ほんのわずかな価格で買える文鳥たちまで含めて、我が家の鳥たちがみんな、大邸宅の大理石の床に飾ってある豪華な鳥かごの中にいる鳥たちのように見えるようになったのである。

一言でいえば、何もかもが見違えたのであった。その時、初めて、筆者は、鳥というものは、インテリアの一部のように、目の保養として楽しむべき生きものなのであって、それができなければ、鳥の魅力の半分も味わったことにはならないということが分かった。

そして、そこからさらに進んで、このように素敵な装飾としての鳥たちがいるならば、それに見合った家や部屋があるべきで、むろん、今の環境もそれなりに筆者が自分で工夫したものとはいえ、すべてを今以上にグレードアップすることが可能なのだということを思わされたのである。

筆者は長年、鳥の愛好家のつもりだったが、小鳥の楽しみ方においては、ずいぶんと質素すぎるほどに味気ないつまらない人生を歩んで来たことを感じた。ほんのわずかな魅力すらも、まだまだ味わっておらず、この先、もっともっとはるかに豊かな生活が待ち受けていることに、今更のように気づかされたのである。

もちろん、筆者の家には文鳥などのありふれた鳥たちもたくさんいるので、これは決して珍しくない鳥には価値がないなどと言っているのではない。だが、たとえば、市場に出回っている鳥かごは、筆者も色々と試してはみたが、どれもこれも、決して見栄えが良くなく、まるで鉄格子の檻のように殺風景にしか見えない上、サイズも十分でなく、餌入れも小さいので、補充を忘れたときのリスクが高く、フードフィーダーをつけるようなスペースの余裕もなく、構造的にも、目の届かない死角が実に多く危険であった。

何よりも、市場に出回っている鳥かごは、小鳥を鑑賞する目的のために作られたというよりは、一般家庭の部屋の大きさに合わせて、最低限度の設備を用意しただけのものであって、美観の点でよろしくないだけでなく、世話するにも決して最適と言えないことが分かった。

小鳥というものは、その愛らしい性格もさることながら、まずはその姿形の美しさを鑑賞して楽しむことこそ、飼い主に与えられた最大の特権である。だが、その特権を存分に味わうためには、やはり、小鳥を美しく見せられる環境がどうしても必要となるのであって、広々とした場所で、伸び伸び暮らさせて、世話をすることが決して苦痛にならず、億劫にも感じられない環境を作ることができて初めて、飼っている側も楽しい気分になれる。

そう考えると、第一に、必要なのはスペースということになろう。鳥も人間もやっとのことで生きているような環境ではまるでダメなのである。最終的には、広々とした家が必要になるのは言うまでもない。大型鳥の愛好家たちは必ず口を揃えて言う、籠の中に閉じ込めておいてはいけない、鳥のために一部屋は確保するのが最善であると。

そのようにして、小鳥たちの飼育環境について考えながら、筆者は自分の生活にも、決定的に欠けていたかも知れない要素について考えさせられた。たとえば、鳥かごを変えただけで、同じ鳥が、見違えるようにきれいに見える。だが、市販の鳥かごではなかなかその願いを実現できない。この原則を人間に当てはめたらどうだろうか?

人々は、洋服やら髪型やらにはこだわり、自分を美しく見せるために、あれやこれやの工夫をするかも知れないが、そのような小手先のごまかしのような工夫はさて置き、そもそも自分を入れる鳥かご(自分の生きる環境条件そのもの)について、神に大胆な願い事をしたことはあるだろうか? これは家のことだけを指すのではない。すべての環境条件を指している。

人は自分のためにどんな環境を願うだろうか。

かつて筆者の小学生時代の友人の家では、文鳥一羽を入れられるのが関の山という程度の広さの竹籠に、五羽の文鳥が入れられていたのを思い出すが、そういう環境をあなたは望むだろうか。それとも、大きな翼を持って、遠い距離をゆうゆうと渡ることのできる鳥が求めるような環境条件を願うだろうか。

私たちを最も魅力的に見せることができるのは、主人である神の愛情に満ちたとりはからいであるが、私たち自身が主に何も願わないなら、主も私たちに何もお与えにはならない。私たちは鳥ではないが、私たちが自分を何者だと思い、自分のために何を願うのか、どんな条件を求めるのかによって、私たちを入れる「鳥かご」のサイズも変わって来る。

冒頭の記事の趣旨とは異なると感じられるかも知れないが、御霊によって生きるとは、御霊の命の統治の中を生きることであり、その命の支配は、必ず私たちの信仰と連動して働く。そこで、私たちが何を信じ、何を願い、何が自分にふさわしいものであると考え、どんな条件を実現しようとするのか、その願いに連動して、命の統治の力が働く。従って、私たちの願いがあまりにも小さく凡庸なものであるなら、御霊の働きもそれに見合ったものにしかならないのである。

筆者は、美しい鳥たちの姿を見ながら、空の鳥も、野の花も、海の魚たちも、何もかも、すべての生き物は神が人間のために造られたものであることを今更のように思う。それにも関わらず、人間は何とこれを楽しむどころか、重荷や苦痛に変え、この小さな命を通して与えられた祝福を全く味わわずに通り過ぎているのだろう。そのようになっている原因は、人間側の思いの狭さにあるに違いないのではないだろうか?
  
信じる者たちは、一体、何を願うのかによって、その人の人生に信仰を通じて実現する内容、スケールも全く違ってしまう。

 シメオンが願ったように、救い主を生きて見たいという願いを抱くのか、それとも、ジョージ・ミュラーが願ったように、数えきれない孤児を養いたいと願うのか、あるいは、筆者が書いたように、数えきれない鳥を養うことのできる巨木のような、尽きない豊かな資源が備えられている環境を願うのか。あるいは、ただ自分一人かろうじて死なずに生きられる程度の環境が与えられればそれで満足するのか。

神がどんなに素晴らしい方で、御霊にどんな力があろうと、信者が何も願わず、何も信じなければ、何一つ起こることはない。

最後に、こうした文脈でしょっちゅうよく引用される詩編の句を引用しておきたい。ここには、信者が信仰によって大きな願いを心に抱くべきことと、それと同時に、それが実現するために守らなければならない掟が記されている。冗長な解説は省くが、その掟さえ守って生きるなら、信者の生活からは、無用な重荷が取り除かれ、信者に敵対する者には、神が報復をなさり、信者の生活は、最良の小麦、飽くほどの蜜で、存分に潤される。

流れのほとりに植わった木のように、暑さや日照りに関係なく、欠乏とは無縁の、溢れるほどの命の豊かさを味わう生活を送れるのである。
 
「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
わたしが、彼の肩の重荷を除き
 籠を手から取り去る。
 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い
 雷鳴に隠れてあなたに答え
 メリバの水のほとりであなたを試した。
 
 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。
 イスラエルよ、わたしに聞き従え。
 あなたの中に異国の神があってはならない。
 あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
 わたしが、あなたの神、主。
 あなたをエジプトの地から導き上った神。
 口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず
 イスラエルはわたしを求めなかった。
 わたしは頑なな心の彼らを突き放し
 思いのままに歩かせた。
 わたしの民がわたしに聞き従い
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。
 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたを飽かせるであろう。」」(詩編81:6-17)

御霊によって統治する、というテーマについて語る際、これまでキリストの復活の命は、あらゆる環境条件や物流をも支配する力を持っている、ということを繰り返し書いて来た。

その文脈で、先日、我が家の小鳥たちも、御霊の導きによって与えられたと書いたが、その矢先、筆者自身が、改めて主に問われるような出来事が起きた。もちろん、愛らしい小鳥たちに何の不満があるわけではない。だが、こんなスケールの出来事よりも、はるかにもっと大きなものを、信仰によって望むべきであることを思わされたのである。

ちょうど主にこう問われたような具合だった、「あなたの満足は、こんな小さなスケールで終わるようなものなのでしょうか。あなたはこれらの小鳥たちにすっかり満足しきっているようですが、あなたの望みは、そして信仰の名に、御霊の名にふさわしい恵みは、この程度だとあなたは考えているのでしょうか。これよりも大きな望みはないのでしょうか」と。

その時、筆者は以前に大きな鳥を飼い、今やその鳥にまさる鳥を手に入れたいと願いつつ、それを素通りして来たことをはっと思い起こされたのだった。
 
それというのも、希少な鳥には、庶民が聞いて呆れるような値がつけられている。一言で言ってしまえば、良いクラスの新車を買うのと同じくらいの値がつく。その値段を見た瞬間、「あ、これは私には関係ないことだな」と思って、願うよりも前に諦めて通り過ぎて来たといったことが何度も起きてきたことを思い出したのだ。

だが、愛らしい小鳥を何羽も与えて下さる主が、大きな鳥だけは無理だとおっしゃるはずがない。
 
むろん、これは比喩である。そんな風に、心の底では、何か望むところがあるのに、あれやこれやの現実のリスクを回避したいがために、本能的に自分には過ぎた贅沢であるかのように考えて素通りして来た恵みがどれほどあっただろうか、と考えさせられたのである。
 
後から考えてみれば、そのような稀有な出会いは、まさに信仰によるプレゼントだったとしか思えず、その時、恐れを捨てて一歩踏み出しさえしていれば、そこから開けていたものがあったに違いないと思われることが多い。

そうやって、真に信仰を要する選択を素通りし、信仰がほぼ必要のないささやかなスケールの恵みだけを手に取り、それがあたかも偉大な信仰によって得られた戦利品ででもあるかのように誇っている場合ではない。

むろん、そこにもちゃんと信仰は働いてはいるのだが、それが可能であるならば、もっと大きな事柄も当然ながら可能であったことを常に思うべきなのである。

私たちが信仰によって何かを得るとき、そこには常にある種の困難、リスクが伴う。目に見える世界にはその選択が正しいと保証してくれるものが何もなく、ただ内なる確信だけに基づいて進んで行かねばならないからだ。

信仰による創造は、たとえるなら、常に目に見えないデポジット(預り金)を担保にした引き出し行為のようなものである。言い換えれば、主に対するつけ払いのような形になる。
 
あなたの預金口座に今現在、うなるほどに自由になる資金があるなら、あなたはどんな壮大な娯楽も、自分には贅沢すぎると思うことなく、あるいは、今あなたが広大な土地の所有者であれば、あなたはその土地を担保に、何の不自由もなく、新しい壮大な事業を開始することができよう。

しかし、 信仰による歩みはそういう目に見える保証によらない。それは常に目に見える担保が存在しない時に、ただ信仰だけによって、無から有を生み出し、創造する行為である。だが、クリスチャンの間でもあまりよく知られていないことは、信仰の世界でも、「信用創造」は存在しており、目に見えない新しい「資金」を天から調達するには、元手となるものが要ることだ。それが、からし種一粒の信仰なのである。

聖書には、もしも人の内にからし種一粒の信仰でもあるならば、山をも動かす原動力になるだろうとの句がある。

「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。
もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:5)

「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:19-20)

「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31)

こうしたイエスの言葉は、すべて信仰による無からの創造を指している。ほんのわずかでも人の内に信仰があれば、それを担保に、人は目に見える世界に大きなものを呼び出して来ることができるのである。

最初からいきなり巨大なスケールのものが生まれることも稀にあるとはいえ、ちょうど「わらしべ長者」の物語みたいに(むろん、この話は聖書とは本質的に関係ないが)、信仰によって一つ一つの創造行為を積み重ねているうちに、最後にそれが巨大なスケールにまで達する場合も多い。

いずれにしても、筆者が何羽かの美しい小鳥が手に入ったと喜んでいるようなスケールはごく些細な話であって、むしろ、そうした小鳥たちが無数に宿ることのできる木を育てるのが、信仰の力なのであり、 その木は、今、私たちの目には見えないかも知れないが、すでに信仰によって存在しており、筆者は今、その木に宿る小鳥たちのほんのごく一部を目にしているに過ぎないことを思わされたのである。

その木には、まだまだ筆者が一度も見たことのない魅力的な鳥、まだ知らない美しい稀有な鳥が、たくさん宿っている。そして、その木は、それらの鳥たちを全て養うのに必要かつ十分な条件を備えている。その木を、私たちは信仰によって心の内に持っているのである。

見るべきは小さな枝葉ではなく、その木それ自体であり、その木は当然ながら、キリストご自身であり、彼の命の力なのである。

・・・

霊的に前進して行くためには、ある意味で、非常に貪欲でなければならない。これは決して物欲のことを指して言うのではなく、人が神の御前で、真に自分のために備えられた恵みを理解するためには、自分自身のちっぽけな思考と経験の枠組みを常に打破しながら、飽くことなく先へ進んで行く態度が必要となることを意味する。

神が人間のために備えられた崇高で偉大な使命、恵みの大きさ、完全さを生きて知りたいと願うならば、信者にはある意味、わき目もふらずにその目標だけに向かって突き進む覚悟がいる。そうした中で、自分自身の思いの限界が障壁となるだけでなく、人々の思惑や、人々の理解といったものも、障壁となり、そうしたものに気を取られるならば、先へ進むことができなくなってしまうことが往々にしてある。
 
最近、筆者は、オリンピックを間近に控えた頃に、TV番組である記者が外国のアスリートたちの稽古場を訪ねた風景を目にした。その時、当時、金メダルの最有力候補の一人と見られていた若いアスリートが、TVの記者に気前よく自分たちの稽古場を案内していた。
 
それを見たとき、筆者は、その有名なアスリートの親切でオープンな態度は、きっとカメラ映えし、誰にでも好感を持たれ、取材班は大喜びだろうが、金メダル候補が試合前にそのようなことに時間を費やしていたのでは、その人は勝てないかも知れないと思った。

そして、案の上、その人は自分よりも年若い選手に敗れて二番手におさまり、その上、自分が気前よく記者たちを案内してやった稽古場を去ることになったのである。むろん、それには様々な要因があり、一概に、稽古場を案内したことが原因だなどと決めつけられる問題ではないが、筆者は、この選手が、受付係よろしくTV番組の取材記者を自分たちの稽古場に導き入れた姿を見たとき、そこに、この選手の油断(もしくは慢心)を見た気がした。

稽古場は、表舞台には見せられない、人の目からは隠れた勝負の場所であって、そこでは常に過酷な競争や死闘が繰り広げられている。そもそもアスリートは俳優ではなく、案内係でも、受付係でもない。稽古場でアスリートが果たすべき役割は、観光案内よろしく、記者を親切に案内して取材に協力してやることではなく、稽古場で目に見えない苦労を人知れず負い、積み重ねながら、自分が真に満足できる高い目標だけをわき目もふらずに目指し続けることである。

その役割を忘れた途端、その選手は、後学に追い落とされて、選手としての価値を失ってしまう。そして、その稽古場は、その選手にとって、自分が記者を案内してやった通りの観光地のようなものにはなっても、もはや自分の稽古場ではなくなってしまう。

その原則はすべてのことに共通するのであり、真に一位を取ろうと思ったとき、つまり、他者の追随の及ばないような高みに到達したいと願ったとき、人はその目的以外のすべての目的をみな捨て去り、誰からどう思われようとも、わき目もふらずに、自分を満足させるたった一つの目的のためだけに、自分のすべてを捧げ、先へ進まなくてはならなくなる。

信仰の世界でも、その原則は同じなのである。もし信者が、キリストのみに仕え、神を満足させるという目的を目指すならば、誰にどう思われようと、たった一人で、人の目には全く評価されない、気の遠くなるような地道な試行錯誤の積み重ねの中で、信仰の模索を絶え間なく続けて、他のすべての目的を犠牲にして、ただ一つの目的(神を知ること)だけに仕えねばならなくなる。

往々にして、多くの人々に対して気前よく親切で、社交的であろうと考える人間には、それができない。彼らは、他者の心の満足を基準に得られる自分の満足を捨てきれないために、人の思惑とは一切関係なく、ただ自分だけの満足だけを目指して、貪欲に一つの目的に向かって進むことができないのである。言い換えれば、一つの目的、一人の人(キリスト)だけに仕えるには、あまりにも気が多すぎるのである。
 
だが、他者と自分はそもそも同じ人間ではない以上、人が他者と同じ満足を共有できることはほぼない。ある人が、他者の満足を自分の満足と考え、他者の利益のために仕え始めれば、その途端に、その人は、自分の目的を他者に奪われ、見失ってしまう。
  
キリスト教界というところには、人が自分個人の目的を目指すことを最初からあきらめさせ、捨てさせてでも、無数の鏡のような(抽象的かつ曖昧な)他者の満足のために、自分の人生を初めから差し出して生きるように促す魔力的な悪しき力が働いていると筆者は感じている。

そして、筆者はそれが正しい生き方であるとは全く考えていない。
 
そのようにして「他者の満足のために生きる」という実現不可能な虚構の生き方を手本として目指す筆頭格が、牧師である(牧師という名で呼ばれていないすべての宗教指導者をも含む)。

牧師などの宗教指導者は、絶えず信徒らを養うためと称して講壇からメッセージを語り続けるが、それは、筆者から見れば、自分自身が選手であるにも関わらず、そのことを忘れて、自分の訓練を後回しにして、自分の稽古場を訪れる無数の記者らを絶えず得意げに気前よく稽古場に案内してやっているアスリートとほとんど同じなのである。

牧師とは、自分個人の満足のために生きることができなくなった人々である。彼らは絶えず信徒の満足を自分の満足に置き換えて、他者のために生きようとして努力している。彼らはそれが福音伝道に仕えることだと考えており、そして、多くの信徒らがその牧師の姿にならって、自分自身も同じように他者の利益と満足のために生きようとする。

だが、本当は、そんな生き方は誰にとってももとより不可能な相談なのであり、人は本質的に自分のためにしか生きられないのである。それは献身者の場合も全く同じで、神に身を捧げ、神の満足のために生きることと、自分以外の人間の満足のために生きることは全く話が別である。

神は人にそれぞれ他者とは異なる使命を与えておられる以上、自分の個人的な人生目的を捨ててまで、他者を助け、他者を満足させることに人生を費やすことは、最初から間違っており、自分自身を犠牲にすることであるから、してはならないことである。

人が自由になるのは、外からの物質的・精神的な助けによるのではなく、ただその人の内なる命の力から来る自立による。従って、たとえ人が直接他人を助けようとして、自分のすべてをかけて物質的・精神的支援を与えたとしても、それによって他者を自立へ導くことはできず、かえって相手の自立の力を著しく奪い取ってしまい、その人の尊厳を根こそぎ奪い、傷つけるだけである。そんな方法で人助けを行うことは無理である。

筆者はこのことを以前にホームレス伝道になぞらえて語り、またハンセン病者への絶対隔離政策になぞらえて語った。要するに、他者を助けてあげているという自己満足の中に潜む悪というものがれっきとして存在するのである。

たとえば、ホームレスであるという人々の弱みを利用して、彼らがまるで公園に群がる鳩のように、パンを求めてキリスト教の伝道者たちの集会に毎回依存して生き、そこから抜け出られないように囲い込んで行くことが、支援なのでは決してない。

カルト被害者救済活動も同じであり、人の弱みや挫折体験につけこんで、それを解決することを助けてやるように見せかけて、その人の自立をより一層、損ない、人の弱さを食い物にして自分が脚光を浴びようとすることが、人助けなのでは断じてない。

だが、牧師は、そもそも神に代わって、自分が信徒のために自己を犠牲にすることで、信徒を助けるという不可能事を目指している人々であるから、彼らがそういう「伝道」を次々と考え出しては、弱みを抱えた人々を食い物にしてさらに自立を損なう事業を考え出すのは不思議なことではない。

しかし、信徒たちがこれにならって「福音伝道」という、実体のよく分からない抽象目的のために、自分個人の人生を捨て去ろうとすれば、自分の人生を完全に失って行くことになる。その行き着く先は、エホバの証人とほとんど変わらない生き方である。
 
筆者は、神はそのようなことを決して人間に期待されてはおられないと確信している。また、そのような方法で、人の信仰が成長することも決してないと確信している。

人にはそれぞれ決して他者には理解できない、他者とは異なる生き方が存在するのであり、まず自分自身のオリジナルな生き方を発見しないことには、自分の人生もない。漠然とした抽象的な基準に従い、誰か別人を手本として生きることも人には無理である。

従って、自分を捨てて他者の満足のためだけに生きられる人間はどこにもおらず、そもそも他者の満足とは一体、何なのか、誰一人として、それを明白に定義できる人間もいない以上、それは実体のない漠然とした抽象的な基準でしかなく、そのようなあるかなきかの基準に身を捧げて、人が自分の利益を捨て去ったような風を装い、他者の満足だけを目的に生きるようになれば、その人の人生は破綻・崩壊することになる。

だから、人は、神が人間(自分)に願っておられる真に高い水準の生き方が何であるかを本当に心の底から理解しようと願うならば、わき目もふらずに、ただ自分だけのために、神が天に備えて下さったはかりしれない恵みを見つめ続け、それを引き出して生きることにすべての心血を注ぐというある種の熱心さとそれゆえの犠牲が必要になるのである。

キリストご自身以外の方には目もくれず、地上を生きる他者の思惑などには決して左右されずに、自分が定めた目的を一心に見据えて進み続けるだけの決意が必要になるのである。

そのようにして、真に満足できる高い水準に達しないことには決してあきらめず、一歩も後に退かない覚悟で、自分のために備えられた恵みを一心に目指すことは、決して悪として非難されるべき貪欲さではない。

むしろ、私たちが生きて味わうために主が備えて下さった恵みを知ることなのであるから、まずはそれを十分に開発すべきであって、自分がその道を知りもしないうちに、今現在、自分が持っている乏しい知識だけで他者を助けられると思うべきではない。
 
人を真に助けたいならば、まずは自分自身が尽きることのない泉を発見し、そこから十分に水を汲み出した上で、その泉へたどり着く方法を他者に教えるべきである。しかし、箴言には、以下に示す通り、自分のための泉を他人に与えるなという警告がある。

アスリートは、自分が苦しい思いをしながら猛特訓をして、自己を犠牲にして獲得した技術を、他の人に簡単に伝授するだろうか。引退して教師にでもなれば、そういうこともあるかも知れないが、現役の選手がそれをすることは決してない。そんなことをしていて、どうやって一位を獲得できるだろうか。
 
代価を払って得た教訓が貴重であればあるほど、人はそれをただ自分だけのものとして大切に扱うことであろう。現に、代価を払わない人間に、どんなに方法論だけを教えても、それを他人が獲得することはできない。

だから、他者を助けようなどと思う前に、人はその同じ時間を使って、もっと自分自身の目的と満足のために生きるべきなのである。その満足とは、神が人間に対して願っておられることは何なのか、神が人間を創造された当初の高い目的、完成、尊厳とは何なのか、自分はどうやってそこへ達するのかというテーマを存分に追求することである。

要するに、人は神の恵みと約束の確かさを、生きて十分に味わい知ることを第一に追い求め、どんな満足を得ても、それで満足したなどと考えるべきでなく、それは目的に向かうほんのごくわずかな一歩でしかないということを思うべきであり、それなのに、ほんのごくわずかな恵みを得たからと言って、それを偉大な達成であるかのように満足げに吹聴して回っているようでは、その人にその先はないということなのである。

(むろん、信仰によって神がなされた御業を他の人に伝え聞かせ、証することが決して悪いというわけではないのだが、人には往々にして、ほんのわずかな恵みを得ただけで、それを十分な恵みを勘違いし、しかも、それを自分が獲得した偉大な方法論の獲得であるかのように吹聴して人に教えようとする傾向があり、もしそのような地点で立ち止まるならば、あなたの信仰はそこで終わりになることを思うべきなのである。)
   
以下の箴言第5章における「遊女」が何を意味しているかについては、諸説あるだろうが、筆者は、これはバビロンを指しており、遊女の道とは、自分がキリストになり代わり、教師となって講壇に立って信徒らを教え、信徒らから注目を浴び、感謝され、栄光を受けようとするすべての目に見える宗教指導者に就き従う道に当てはまると考えている。

このような指導者たちは、他人に向かって教訓を語るが、自分自身はそれを実践しない。他人に向かって泉のありかを指し示すが、自分自身はその泉から汲んで飲もうとはしない。

彼らは親切心を装って、絶えず困っている他者のために気前よく奔走し、「神はあなたを愛しておられます。その愛を十分に受け取って下さい」などと説教はするが、自分の心の内では「神が分からない。神はどこにおられるのだ」と叫んでいる。そして、キリストを自分の心の内に確信できず、そこから恵みを引き出す方法も分からないまま、自分が持てるほんのわずかな物質的・精神的なアイテムだけを頼りに、人助けにもならない人助けを行おうとし、他者の眼差しの中に「神」を探し、他者から肯定・承認されることで自己存在を獲得しようと、常に困った人々のもとを駆け回っている。
 
私たちは、どんなに彼らが卓越した指導者のように名を馳せていたとしても、そのような空虚な人間には決してなってはいけないし、彼らにつき従って行ってもいけないのである。

以下の御言葉の中で「会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」という表現から、私たちは、以下の警告が、不信者に向けられたものでないことが分かる。

「遊女」というのは、要するに、地的なもの、悪魔的なもの、すなわち、地上を生きる生まれながらの人間全般の欲望の総体を指すのであり、人間の宗教指導者の栄光を建て上げ、人類の利益に仕えて生きることも、遊女の道に従うことである。

人間の利益に仕えて生きることと、神の利益に仕えて生きることは、決して両立せず、それにも関わらず、人類全般の利益を優先して、人間社会の思惑に従い、人間の満足を目的に生きれば、その信者は、ただ自分自身のためだけに備えられた命の泉を、他者の欲望の犠牲として失ってしまうことになるという教訓なのである。
  
「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。
遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。

子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。

あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。

あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。

あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。

彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。

わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。

人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。
悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。
彼は、教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。 」(箴言第5章)

このところ、オリーブ園で連載されているオースチン-スパークスの論説は非常に興味深い内容なので、転載しておきたい。

まずは、T. オースチン・スパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (9)  から。
 

交わりのために成長する重要性

 そしてさらに、霊的交わりのために霊的成長がなければなりませんさらに優った積極的交わり抜きで、関係を持つおそれがあります。この関係は続きますが、今やあなたは交わりの中を進んでおり、真の霊的交わりのために霊的に成長しなければなりません。

交わりは私たちの関係性の所産であるべきであり、交わりに導かない関係性にはその麗しさと豊かさが欠けており、その真の目的に達していません。ある共通の基礎、共通の立場という点を超えて、私たちは互いにやって行くことはできません。

常に
あなたの自己が優勢なら、ただ主と共に進んで行きたいというあなたの望みのみに基づいてあなたと共に進んで行くことは私にはできません。また、あなたもその立場に基づいて私と共に進んで行くことはできません。私たちが一緒に進んで行けるのは、キリストという共通の立場がある時だけです

「合意なしに二人は一緒に歩めるだろうか?」。これは「合意なしに二人は関係を持てるだろうか?」という問題ではありません。確かに二人は関係を持つことができます。
同じ両親、同じ家族の子供たちは、一つの血によって関係していますが、一緒には歩んでいないかもしれません

一緒に歩む問題は進み続けて前進する問題です。共に歩めるのは、合意している時だけであり、共通の立場がある時だけです。もし一方が手前で立ち止まり、他方が進み続けるなら、この二人の間の交わりは進んだ地点までに限られます。もし一方が肉の中で進み、他方が御霊の中で進み続けるなら、彼ら二人が御霊の中で進み続けるのをやめる地点で彼らの交わりは終わりますが、彼らの関係は終わりません。

私たちは人々によって支配されてはなりません。たとえ彼らがクリスチャンであってもです。私たちはキリスト教の組織によって支配されてはなりません。たとえクリスチャンの組織であったとしてもです。私たちはあらゆる点で霊なる主によって支配されなければなりません。

 ここに豊かな実りがあります。御霊の度量の中で共に進むこの立場を得る時、私たちは絶対的有用性の立場に達します。とても多くのことがこれにかかっています。往々にして人は知的に何かを理解・把握し、それを誰かから得て、その中で進み続けようとするのですが、その事柄は彼らの存在中に決して造り込まれておらず、彼らはそれを人づてに得たにすぎません。それは彼らの存在中に、聖霊の懲らしめ・鍛錬・訓練によって、決して造り込まれていません。そして、それが彼らの内側から現れることは決してありません。聖霊によってその事柄を内側に造り込まれるというような問題では、私たちは確かでありたいと願っています。



この記事は、なぜ私たちはクリスチャンのうちのある人々と、信仰の歩みを途中までしか一緒にできないのかという問題に対する良い解説となっている。

これはある意味では困難で痛ましい問題でもある。なぜなら、神は決してクリスチャンの成長の度合いを最初から限定されたりはしておられないからである。一人一人の人間の生まれつきの才能や性質には様々な違いがあるとはいえ、それは霊的な度量の違いとは異なる。

神が初めからあるクリスチャンだけを偉大な霊の器として定め、ある人々を小さな器として定められたという考えは正しいものではない。たとえば、旧約聖書に登場する霊的先人たちは、ある種の型を示しているのであって、これを今日のクリスチャンにそのまま当てはめたりしないようにしたい。

ある人々にはダビデのように霊的に偉大な召しが与えられているが、ある人々はサウルのように失敗者となって終わることが決まっているなどと考えたりすべきではない。

(むろん、これは信者が人生における選択を誤った場合に当然、負わなければならない報いを意味するのではないし、信者が故意に御霊に逆らい続けた場合にも、信仰の失敗者とならないという意味でもない。)

ただ私たちは、クリスチャン同士の間に、あたかも人間の生まれつきの能力や才能のように、霊的命の等級のようなものが初めから定められていて、成長の度合いが初めから限られているなどという考えを持たないようにしたい。

新生されたクリスチャンの歩みは、同じ種類の植物の種を地面に蒔くようなもので、その種に初めからあまりにも大きな違いがあって最初から違った成長の度合いが定められているということは決してないのである。
 

主の民に関する大いなるすべてを含む言明は、彼らは神のための祭司の王国となるために選ばれたということです。これはつまり、主の民の僅かな人々ではなく全員が神のための祭司の王国となるよう召されているということです。

神は最初からイスラエルを祭司の王国と見なしておられました。民全体が祭司の地位にあると見なしておられました。これは次にレビの部族が引き継ぎました。レビの部族は全イスラエルの初子を代表するものであり、主の御前にもたらされて、聖所での務めのために分離されました。主の御思いでは、これは全イスラエルをその地位にもたらすことを表していました。

しかし同時に、そこには相違があったことを理解しそこなうことはありえません。そこにはレビ人たちがおり、祭司たちがいました。レビ人たちがおり、アロンの息子たちがいました。彼らは同じではなく、異なっていました。しかしこの相違は、相違が生じることを主が意図されたからではありません。

 私たちはこれをすぐに単純化してしまいますが、まず第一に、次のことをはっきりさせなければなりません。すなわち、
神が持っておられる最高の最も完全なものは彼のすべての民のためであり、一部の人のためではないのです。あるものは自分には過ぎたものである、自分がそれに到達することは決して主の意図ではない、と感じる時は常に、これを思い出して下さい。彼の豊かさは一部の人のためだけであるという考えを、あなたの思いの中から完全に追い出さなければなりません。

「御霊による生活」 第五章 祭司団 (1)

 
しかし、現実には、クリスチャンの霊的な成長には大きな違いが発生する。ある人々は霊的に前進し続けるが、ある人々は途中で停滞してしまうか、もっと悪い場合には後退し、脱落する。

私たちは、そのようなことは、神が新生されたクリスチャンに初めから定めた違いを意味するのではなく、おのおののクリスチャンの望みに応じて生じる違いなのだと気づくべきである。

すべてのクリスチャンには、それぞれが同じ種類の種のように、大きな霊的成長を遂げる可能性が備わっているものの、成長が起きるかどうかは、あくまで各自のクリスチャンの望み、また歩みによる。

今日、多くのクリスチャンを名乗っている人々の成長を妨げているのは、人間の作り出した宗教組織や、宗教指導者の教えという、人間が作り出した思惑や制度の枠組みである。あまりにも多くの信者が、これらが人自身が作り出した規則や考えに過ぎず、神の霊的な命の統治とは何の関係もないのものであるということを認めず、その枠組みから出る可能性を考えてみることもない。そのため、彼らがとどまっている枠組みが、そのまま彼らの霊的成長の限界となってしまうのである。

それはちょうど何メートルも生長する可能性を秘めた巨木の種を小さな温室に閉じ込めて育てようとするようなものである。

人間の作った宗教組織や、宗教指導者の教え以外にも、信者の霊的成長を縛り、邪魔し、制限しているものは多くある。たとえば、それはこの世の常識であったり、不信仰から来る信者の誤った思い込みであったり、信者自身が自分の心の中でもうけた制約などである。

一つ前の記事に、一羽の雀を天にはばたかせるのか、それとも地に落とすのかは、信者自身の心の選択にかかっているのだということを書いた。このことは、信者が自分で管理するよう地上で任されたものを、生かすのか殺すのか、増やすのか減らすのか、繁栄させるのかそれとも衰退させるのか、といった選択は、信者自身の信仰にかかっていることを意味する。

同じように、信者自身が霊的にどれだけ成長を遂げるのかも、信者自身の望みにかかっているのである。

言い換えれば、真に霊的に成長を遂げたければ、信者は自分自身のちっぽけな思いの限界をとりはらい、神の御思いにふさわしいだけの高さ、広さ、深さ、長さをもった思いを抱く必要がある。神が人に望んでおられるのと同じほど、気高く、高潔で、壮大な願いを抱き、それが自分に実現可能であることを固く信じ続け、どんな困難に遭遇する時も、あきらめることなく前進し続けなければならない。

信者が抱く望みの高さ、大きさに応じて、信者を取り巻く環境が押し広げられる(もしくは狭められる)。環境が信者の信仰を規定するのではなく、信者の信仰が、信者を取り巻く環境を規定するのであり、もしもその逆が起きているならば、その信者はもはや信仰に従って生きているとは言えない。

ところが、多くの信者が、自分で自分の信仰の成長を縛り、停止させていることに気づいていない。そのようにして信者が自分でもうけている限界や制限の中には、「私とはこのような人間である」とか「私はこのような人間でなければならない」といった信者の思い込みもある。

多くの信者が、「私は大した人間ではありませんから、大それたことはできません」などと告白することを、あたかも謙虚さであるかのように勘違いしている。しかし、そのように告白してしまえば、それが現実となるのは避けられない。

つまり、「私は大した人間ではありませんから…」と自ら述べている信者が、キリストの身丈にまで成長することはまず絶対にあり得ない。

そのようなわけで、信者は、神が願っておられる御心を真に掴み、本当にそれにふさわしいまでに成長し、遠くまで歩いて行こうと願うならば、まずは自分で自分を縛っている思いの狭さや限界自体を取り払い、変えなければならないのである。そして、「自分とはかくかくしかじかの人間である」という、自分でもうけた制約そのものを取り払って、神が自分に願っておられることは一体、何なのかという視点で自分を見るようにしなければならない。

ほとんどの人は、その必要性に気づかず、生まれ育った環境で身に着けた常識に従ってしか自分を見ようとしないため、信者となっても、キリストに似た者とされることの意味が全く分からず、自分が何を目指しているのかも分からないまま、完全にこの世の常識的な考えと枠組みの中だけで生涯を終えることになってしまう。

冒頭に挙げた記事に話を戻すと、クリスチャンは、自分の霊的な成長に応じてしか兄弟姉妹と交われない。そこで、交わりの中にいた信者の誰かの霊的成長が止まってしまうと、それまで一緒に歩いて行くことができた兄弟姉妹が、もはや共に進んで行けなくなるということがしばしば起きる。

宗教界にいる多くの信者たちは、信徒の交わりという問題について完全に誤解しており、彼らは、自分が所属している宗教組織にいる人々が兄弟姉妹だと考えているため、その組織に所属している限り、信徒の交わりから除外されることはないと考えている。

しかし、そのような考えは誤りである。そもそも地上の宗教団体に所属して得られる人間関係は、地上的な人間関係と何ら変わらず、御霊による霊的交わりではない。

当初は無知のゆえに、そうした地上組織がキリストの体を表すものであるかのように誤解している信者がいたとしても、その信者が真に霊的交わりを探求するならば、やがてその組織が誤りであることを見いだし、真理に従うために、そこを出て行かねばならない時がやって来る。

こうして、ある真理に気づいた信者が、それに気づかない人々の集合体を後にせねばならないということが起きるのである。

そのような現象は、信者が地上的な宗教組織を離れ、クリスチャンの兄弟姉妹と自由に交わっていても、やはり起きて来る。

そこでも、その交わりにいる誰かの霊的成長が止まり、あるいは、その人が霊的に後退し始めたり、もしくは、人間的な思惑に惑わされて、真理から逸らされたり、あるいは、自ら指導者となって他の信者たちを管理・統制し始めたりすれば、その交わりはもはや自由な交わりではなくなり、御霊の働きが損なわれる。

すると、そのことに気づいた信者は、その交わりを中止して、自分一人であっても、そこを出て先へ進まなければならなくなる。

このように、御霊による交わりは、キリストを土台としてか成り立たず、御霊の自由が損なわれれば、交わりが成立しなくなってしまう。人間的な思惑や力によって牽引される交わりは、信徒の交わりではなく、もはや別な何かである。

悪魔は心から信徒の交わりを憎んでいるので、これを壊すために、全力を尽くす。そこで、かつては自由であった信徒の交わりに連なる成員の心が、キリストの御霊とは異なる影響力から来る別の教えに誘惑され、逸らされて行く危険は十分にあり得る。

あるいは、キリスト教界をエクソダスしたと言っていた人々が、再び、キリスト教界に戻って、宗教組織や指導者の束縛の下に入ることもあれば、自ら指導者になろうとすることもある。

そのようなわけで、一旦、御霊の自由の上に打ち立てられた交わりの中にいたはずの信者たちが、再び、人間的な思惑の支配下に入り、そのために、御霊による交わりが損なわれると、信者は、最終的に、御霊自身がその交わりを去って、その交わりが完全に堕落・変質して破壊されるよりも前に、そこを去らねばならなくなる。

サタンの誘惑に屈して、聖書とは別な教えに逸れていった人々が、自ら交わりを壊したという自覚を持つことはほとんどない。霊的に後退した人々がその自覚を持つこともまずなく、まして自ら指導者となって、キリストに代わって交わりを支配しようとするような人間が、その行為が悪であることを自覚することはまずない。彼らを説得しようとしても、それはほとんど不可能な相談である。

そこで、信者はそのようにして御霊とは完全に異なる別の影響力が入り込んできて交わりが汚染されたことを悟れば、そして、それが助言や忠告によって修正できる範囲を明らかに超えていることが分かったならば、そこにいる人々を、共に前進できる兄弟姉妹であると考えることをやめて、静かにその交わりを出て行かねばならない。交わりが異なる福音によって汚染された事実を知りながら、人間的な情愛にとらわれて、そこに長い間、残っていれば、いずれ深刻な害を受けることになろう。

このように、一旦、光を受けて前進していた信者が、後退するか、脱落するかした場合、その人との交わりは、まるで異教徒との交わりと同じような具合になってしまい、同じクリスチャンを名乗っていながらも、交わりが全く成立しなくなるという状況が起きうるのである。

そこで、たとえクリスチャン同士であっても、共に手を携えて霊的に前進して行けるかどうかは、その人自身の霊的成長にかかっていると言える。

途中までは共に前進出来ても、途中から脱落してしまう人々は非常に多い。そして、たとえ物理的には互いに顔を合わせることのない兄弟姉妹同士であっても、キリストの身体全体は一つであるため、他の信徒らに先駆けて、霊的に目覚ましい成長を遂げ、キリストの体の中で、先駆的な役割を果たしていた信者が、別な教えに逸らされて脱落すると、それは後方にいる人々にも大きな悪影響を与えることになる。

エクレシアは全体としては軍隊のような力を持つものであり、物理的な制約にとらわれず、互いに連動して機能しているため、一人一人のクリスチャンが霊的に成長を遂げるとき、それはエクレシア全体の増強となり、サタンと暗闇の軍勢に対する大いなる衝撃力となる。一人一人の信者の霊的成長が、エクレシア全体にとっての力となり、暗闇の勢力にとって重大な脅威となる。だからこそ、サタンは何とかしてエクレシアの交わりを破壊し、一人一人の信者の霊的成長を阻止し、できるなら彼らを誤った道へ逸らし、交わりを分断・破壊しようとするのである。

とはいえ、他の信者の状態がどうあれ、あなたは決して前進をあきらめず、キリストだけを土台として、進み続けなければならない。たとえ一人きりで出発せねばならないと感じられる時でも、あなたが前進し続けるかどうかが、エクレシア全体の前進にも大きく関わって来るのであるから、進み続けることをあきらめてはいけない。

 しばらく離れなければならなかった兄弟姉妹とも、また交わりの中で再開できる時が来ないとは限らない。しかし、キリスト者の歩みの目的は、かつてあったような交わりを維持・再現することにはなく、ただキリストに従うことだけが目的でなければならない。

さて、以上は、信者が、自分の思いを、神が信者に願っておられるスケールにふさわしいまでに押し広げ、高い目標を持ち、自分で自分の成長に限界をもうけず、自分に与えられた高貴で責任の重い使命にふさわしい自覚を持つべきことについて書いて来た。

そのように高い目的意識と、それに見合った広い心を持ち、神の約束の御言葉に従って、自分自身がそこに到達できることを固く心に信じないことには、信者の霊的成長など起こり得ないのである。

次に、信者が自分の「さまよう思い」をコントロールすることについて書きたい。

現在、筆者の作業場は小鳥たちの楽園のようになっている。筆者のパソコンの画面にはたくさんの小鳥が止まっており、キーボードも、小鳥たちが走り回る遊び場となっている。南国の美しいブルー、ピンクなどの、小鳥たちの珍しい色が、目を楽しませてくれる。

これらの小鳥を見ながら、筆者は、標題の御言葉の意味を思いめぐらしている。

キリストの復活の命は、環境を創造する命であり、この世のすべてを超えた支配力を持つことを、これまでの記事で幾度か述べて来た。御霊によるキリストの新しい命は、信者の地上におけるすべての必要性を整えることができる。

そこで、信者の生活に、損失のように思える出来事が起きた時でも、信者がもしそれを損失であると認めず、素早くそこから立ち上がって前進を続けるならば、驚くほど素早くダメージが回復されるばかりか、以前よりももっと豊かな恵みが与えられる。

筆者が出会った小鳥たちも、御霊の統治の中で与えられたものであると言える。偶然ではない様々な波乱に満ちた出来事が多々起きる中、筆者は様々な条件を指定して鳥を探して来た。これまで何度も小鳥を探して来たが、珍しい種類の良い雛を見つけるのは簡単なことではない。筆者の周りにいる鳥たちとの出会いも、一つ一つが偶然ではなかった。

だが、小鳥の話は単なる比喩に過ぎず、ここで筆者が言いたいのは、信者には自分を取り巻く環境条件を自ら創造し、自分の支配下に集まって来るものを、どんな風に治めるかを、自分自身で決める権限があることだ。

信者は信仰によって、すべての願うものを無から呼び出して獲得し、得たものを主人として管理・統治する権限を持つ。その影響力は、小さな生き物だけでなく、信者の支配圏内にあるすべての人、物事、条件に及んでいる。

そこで、信者は、信仰によって何かを得ようと願うだけでなく、得たものを適切に管理・統治する方法を学ばなければならない。その過程で、信者の統治には、信者自身の思いがかなりの影響を与えることが分かってくるだろう。

生き物を育てると必ず分かることは、動物たちには、間違いなく、言葉を超えた伝達能力が備わっており、主人の思いを言葉によらずに、瞬時に的確に察知する能力があるということだ。

飼育されている生き物たちは、主人である人間が今、平安を感じているのか、それとも恐怖を感じているのか、何の伝達手段にもよらず、瞬時に察知できる。彼らは、主人が安らいでいることによってのみ、平安を得る。

また、これらの生き物は、主人が同じ部屋を立ち去って、少し離れた見えない場所にいても、主人の心がどういう状態にあるのかを的確に察知することができる。

筆者はこのような能力を、当初は動物に備わる本能的な直感や、人間である主人の生活に合わせる適応力なのだと思っていたが、実は、そこには単なる言外のコミュニケーションを超えたもっと重大な影響力の行使があることに気づいた。

その影響力は、やはり、すべての生き物を治める主人と、その支配下にある生き物の主従関係から発生して来るものなのである。それは王国における王と臣下の関係にも似ていて、飼い主の考えは、これらの生き物たちに瞬時に伝わるだけでなく、生き物の運命を決めてしまうほどに重大な決定権・影響力を持つ。

たとえば、飼い主が怒りっぽく、絶えず不安にさいなまれている人間であるのに、ペットだけが平安で幸福であるということはまずない。そればかりか、飼い主がペットを愛さなければ、ペットの方が、自分は必要とされていないと思い、世をはかなんで去って行くということさえ起きかねない。

どんな飼い主であっても、飼い主の意志と思いは、圧倒的な影響力となって生き物に行使される。それが主人であることの意味である。人自身が思っているよりも、はるかに強く、また、些細な思いに至るまで、人間の思いや感情は、生き物に伝達され、決定事項のように作用する。

そこで、飼い主は、自分自身の思いが、自分の配下にいるすべての生き物にとって、善き決定となり、良好な影響を与えるように、自分自身をコントロールしなければならない。

もちろん、飼い主は、自分たちの生活に脅威を与えるすべての悪しき力に立ち向かって、これを撃退し、いと小さき命を養う主人としての役目と責任を果たすべきことに加え、彼らを幸福に生かすために必要な条件を整えねばらならない。

その過程で、人間は、自分の思いがどれほどすべての環境条件に重大な影響を与えているかに気づかざるを得なくなるだろう。

筆者がなぜ今、生き物を例に話をしているのかと言えば、人間を相手にする場合は、受ける影響力が強すぎるため、どこまでが自分の責任範囲であるのかが、分かりにくいからである。

仮に軽自動車とダンプカーとの接触を考えてみた場合、あなたが運転していたのが軽自動車であって、相手が運転していたのがダンプカーであれば、あなた自身の影響力がどこまでのものであるかは極めて分かりにくいだろう。ダンプカーの力が強すぎるからである。このように、人間を相手に関わる場合は、相手から受ける影響が大きいがゆえに、自分自身の思いや行動がどれほど相手に影響を及ぼしているかは見分けにくい。

しかし、人間よりもはるかに弱く小さな生き物が相手であれば、人は自分がその生き物にどれほど絶大な影響を及ぼしているかを、人間を相手にする場合よりももっとはるかによく知ることができる。

多くの人々は、飼い主として果たすべき責任と言うと、まずは餌や水を与えること、適切な温度管理をすること、清潔な環境を整えること、などの物理的な飼育条件を思い浮かべるであろう。もちろん、これらの世話は必要なことである。だが、それよりももっと根源的なところに、飼い主の思いというものが存在する。

人が自分自身の思いを守ることの重要性は、あまり強調されないが、これは非常に重要な問題マである。飼い主の思いが平安であり、安定していなければ、物理的世話が行き届いていたとしても、その支配下にある生き物は幸福になれない。そもそも、飼い主の思いが安定していなければ、ペットの幸福はあり得ず、それは、しばしば、物理的な世話が行き届かない最たる原因となる。ただ愛情があるだけではダメで、変わらない愛情、常に安定した愛情を注ぐにふさわしい準備ができていなければならない。

だが、このことはペットの飼育に限らず、すべてのことに共通しており、人自身が平安に生きられるかどうかの鍵は、その人自身が自らの思いを守れるかどうかにかかっている。

多くのクリスチャンは、常に安定した愛情を、ペットのみならず、自分自身にも、他者にも、注ぐ用意ができていない。彼らの心はあまりにも不安定で、変わりやすく、その上、彼ら自身が、自分は怒りっぽい性格に生まれたとか、苛立ちやすいとか、不安に影響されやすいとか、体が弱いなどと考えて、自分で自分の性格を規定し、自分の弱さが自分の生まれ持った傾向であり、変えられない習慣であるかのようにみなして、自分の心を圧迫するあらゆるものに毅然と抵抗して、自分の心を守ることをほとんど完全にやめてしまっている。

それゆえに、彼らは自分の心の平安をかき乱すあらゆるものに勇敢に立ち向かうこともなく、受け身に翻弄されるだけとなり、自分の心を防衛の砦のように守ることができず、まるで風にきりきり舞いさせられる木の葉のように、起きる出来事に翻弄されては心の平安を失い、自分ばかりか、自分の支配下にあるすべてのものを危険にさらしているのである。実のところ、それは全く正しい行動とは言えない。

そういうことは、その信者が自分の思いをコントロールする術を学んでいないために起きることであり、また、同時に、信者が自分で自分の性格を規定してしまっているために起きている誤解なのである。

そのことを知らない人々の中には、以上のような天然の弱さからもっと進んで、たとえば、自分は運が悪いとか、決して人から愛されないとか、肝心なところでいつも失敗するとかいった、極めて否定的な根拠のない思い込みを頑なに真実であるかのように信じ込んで生きている者もある。それは彼らが心の思いの深いところで、すでに自分の人生を規定してしまっていることを意味する。

そのような否定的な「信仰告白」を繰り返していながら、一体、どうしてその人がキリストの身丈まで霊的成長を遂げることなどあり得ようか。

たとえば、自分の人生があたかも不幸の連続であるかのように自ら思い込み、決して自分は人から十分な愛情を注がれることなく、十分にかえりみられることもなく、何かの痛ましい事件の犠牲者となって生き続けるしかない被害者であるなどと、心の深いところで根拠もなく思い込んでいる人間が、自分の周りにいるいと小さき命を真に幸福にできることは決してないと言えよう。

そういう意味で、前回も書いた通り、「一羽の雀」をはばたかせるか、地に落とすかという選択は、生き物の飼育という問題をはるかに超えて、その飼い主である人間自身が、果たして自分を治めることができているのか、自分を生かすつもりなのか、殺すつもりなのか、生と死のどちらを選ぶのかという選択と深く関わっているのである。

本来、多くのものを適切に管理し、多くの命を生かさなければならない立場にあるはずの人間が、自分は不幸だと思い込み、環境の主人となるどころか、環境条件に振り回され、それゆえ、常に自分を失って、周りの命に大きな悪影響を及ぼしながら生きているといった現象は、決して一部の弱い人々にのみ起きていることではなく、霊的成長を遂げたいと願っている多くの信者にもしばしば当てはまるものなのである。

今日、クリスチャンを名乗っているほとんどの信者は、自分で自分をどれほど制約し、規定してしまっているかを知らない。彼らは口では、「キリストに似た者とされたい」と告白するが、それが一体、どういうことを意味するのか、内容を分かっていない。聖化だとか、栄化だとかいった専門用語のような概念を論じることはあっても、その内実が何であるのかほとんど理解してはいない。

彼らは自分というものを、あたかも救われる前まで、もしくは昨日まで、積み重ね、作り上げて来た狭い自己イメージであるとみなしており、そこに変化が起きうる可能性を全く想定していない。過去の蓄積として自分自身で作り上げた自分のイメージが、明日も、明後日も、続くのだと思い込んでおり、それに無意識のうちに束縛されてしまっているため、そこに信仰の働く余地が全くと言って良いほど存在しないのである。

その思い込みは、完全に事実無根というわけではなく、その中には、幾分か、信者自身の生来の性格や傾向も含まれており、事実、そのような過去が繰り返されて来たのかもしれない。

しかし、信者の信仰による歩みは、過去によって規定されるものでなく、信者の天然の命によって規定されるものでもない。そこで、まことしやかな「過去の蓄積」を自分自身だと思い込んで生きている限り、その信者の中から、天然の命の限界を打ち破るような信仰の働きは決して起きて来ることはない。

サタンは、信者の天然の傾向を入念に研究済みであって、信者の天然の命から来る限界や欠点を、あたかも信者の変えられない「運命」であるかのように思い込ませる天才である。それは、悪魔は、信者がいつまでも過去に縛られ、自分の天然の命の弱さから抜け出せず、決してその制約から立ち上がって、キリストの復活の命の豊かさにあずかれないことを願っているためである。

楽器の練習をする際に、昨日と同じように弾こうと考える者はいないだろう。必ず、昨日よりは上手く、昨日よりももっと自由に、より美しく、より高い完成度で演奏しようと考えるはずである。どんなに目標が遠く感じられても、根気強く、そこに近づいていきたいと願い続けているからこそ練習するのである。

ところが、信仰による歩みについて、あまりにも多くの信者たちが、いかなる目的も持っていない。彼らは何の目的意識もないまま、漠然と昨日と同じような今日を生き、その延長として明日が来るだろうと考えているだけで、全く目的意識も持っていないのに、まるで偶然のように自分に進歩が起きるのを受け身に期待しているだけである。

彼らはキリストに似た者とされることが、自分自身の内面の作り変えを意味し、自分の中で人として損なわれた尊厳を完全に回復することを意味しているなどとは全く考えてもみない。むろん、自分自身の内側で、天然の堕落した命の衝動に従って生きている限り、人としての尊厳がどれほど深刻に損なわれているかに気づいてもおらず、そのままでは、人生において完全な主権を打ち立てることもできないと分からない。

サタンは、信者に天然の弱さが克服不可能であるかのように思い込ませようとするか、もしくは、それを克服することは、人間の力では到底、不可能であるから、あきらめるしかない、と思い込ませようとする。そのようなサタンの策略が功を奏すれば、信者は自分のあれやこれやの弱さにひしがれ、それを否むことは、神のまことの命によってのみ可能であると考えてみようともせず、自分で自分の弱点を克服しようともがいた挙句、一向に克服できない自分の欠点や弱点に対する罪や恥の意識に常に苛まれて生きるしかなくなる。

そうしてサタンの策略が功を奏すれば、サタンは信者をただ天然の命の弱さによって思うがままに翻弄するだけでなく、その次に、信者の天然の傾向とは何の関係もない余計な重荷までも次々と信者に押しつけて来た上、それらを背負って生きることが、信者の「運命」であるから、あきらめるしかないと思い込ませようとするであろう。

サタンが願っているのは、信者の思いをひっきりなしに重荷によって圧迫し、かき乱し、平安を失わせ、信者があらゆる物事を判断する際に、ただ受け身に出来事に翻弄されるだけとなって、決して正常な決断が下せないように仕向け、主体性を失わせることである。

サタンは信者が神の国の霊的統治を持ち運ぶ王のような威厳と権威を備えた存在だということを何としても気づかせまいとしており、信者の見えない王国を統治する主人としての威厳と権威を損ない、信者が与えられた召しにふさわしい生き方ができなくなるように仕向けようとする。王の威厳にふさわしい者と言うより、奴隷と呼んだ方が良い生き方を強いようとする。

そのためにこそ、サタンは、信者は弱く、欠点ばかりを抱えた、一人では何事もできず、失敗を繰り返すだけの無力な人間であるから、常に誰かの助けと支えがなければ生きられないかのように思い込ませ、信者がまかり間違っても、大それた高貴な目的意識など持つことなく、自分がキリストの持っておられるすべての性質にあずかるにふさわしい人間であるなどという自覚を持たないように仕向けようとするのである。

サタンが願っているのは、信者が一生、自分の天然の命の限界から一歩も出ることなく、罪と死の法則だけに支配されて翻弄される客体として生きることである。

だが、信者はそのような悪しき惑わしの策略を打ち破り、これを振り切って、前に進んで行かなければならない。このことは、信者が重荷を避けて通ることを意味せず、むしろ、どれほどサタンが信者に不当な重荷を押しつけようとして来たとしても、信者がこれに勇敢に立ち向かって、それを撃退する方法を学び、その重荷を自分自身のものとして背負うことを断固、拒否する姿勢を保持することを意味する。

聖書には、「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。」(詩編68:20)という句があり、これは新改訳では、「ほむべきかな。日々、 私たちのために、重荷をになわれる主。」となっている。神は私たち自身を背負われる方であるから、私たちはいわれのない重荷によって心を絶え間なく圧迫されて正常な判断力を奪われることを固く拒否すべきなのである。確かに、主に従う上で、日々、負わねばならない十字架があるとはいえ、主イエスはその荷は軽いと言われた。

サタンが押しつけて来る重荷は、人間には負いきれない重荷であって、信者はそれを引き受けてはならない。しかし、その重荷の中には、信者の天然の命から来る限界だけでなく、信者が常識であるかのように考えて自分でもうけた制約なども含まれている。

信者の霊的成長にとってしばしば最も有害な障害物となるものが、信者自身が過去の記憶の蓄積や、人の言葉や評価を通して得た自分自身のイメージ、または、聖書に反する自分の常識を通して作り上げた自分自身のあるべきイメージである。

ガラテヤ人への手紙の中で述べられている「御霊の実」は、今日、多くのクリスチャンにとってほとんど絵空事に等しい。この聖句は今日、多くの信者の間で、「クリスチャンになった以上、人々に対して親切で善良な人間になりましょう」といった道徳訓くらいの意味合いにしか理解されていないが、ここで述べられていることは、そういう意味をはるかに大きく超えた、信者の内なる人格の作り変えのことである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:19-26)

信者の内なる天然の人が、主と共なる十字架ではりつけにされて死に、その代わりに、キリストの高貴な人格の性質が、その信者自身の人格として付与され、信者がそれに一体化して行くということが起きねばならないのである。キリストの人格が、信者の人格と一致して働き、キリストの命に備わった性質が、信者自身のものとされ、信者の内側から発揮されなければならないのである。

だが、その作り変えは、決して信者の自覚や同意と関係なく自動的に起こることはない。その作り変えの過程で、信者の思いや、魂にも、十字架が適用されなければならず、信者は自分がそれまで自分だと思っていた天然の人を否み、これを手放し、それとは異なる人格(命の性質)に従って生きることを自分自身で選択せねばならない。

そのためには、何が天然の命に属するものであり、拒まなければならない性質であるかを、信者自身が理解せねばならない。

そんなにも多くの時間をかけて学ばなくとも、多くの人々は、自分の人生の調和を狂わせるようなあらゆる変調が、自分自身の心の中に存在することに、すでに気づいているだろう。

人の心の中には、さまよう思いがあり、それはきちんとコントロールしなければ、信者の心の中を荒れ果てた庭のようにしてしまう。それは、たとえるならば、演奏家が楽器を奏でる際に、様々な外的な要因によって注意を乱されたために呼び起こされた調子の外れた音のようなもので、信者の人生という美しい演奏を不意にかき乱し、場合によっては、壊してしまう。

しかし、信者は、信仰によって、主と共に自ら望むものを創造する者として、ちょうどどんなに劣悪な環境条件の下で演奏を強いられるときにも、最高かつ最善のパフォーマンスができるように自己鍛錬する演奏家のように、自分をコントロールする術を学ばなければならないのである。常に自分にとって完全な舞台が用意されてから、完全な演奏をしますと言っているのではだめなのである。

信者は、自分を取り巻く環境条件に関係なく、自分の内面をコントロールし、そこから信仰によって、自ら環境条件を治める術を学び、それによって、自分の人生の真の主人としての自立と尊厳を回復しなければならない。その回復作業に当たって、信者は、心の変調となりうるすべての要素を、自分の内から追い出さなければならない。

信者が自分自身の心を治める術を学ぶ過程は、非常に根気強いプロセスを必要とするもので、ただ主と共なる十字架における、主の死と信者との一体化、信者が天然の命の衝動を拒んで、神によって与えられた新しい命に従って生きることによってのみ可能である。

神の栄光にあずかるとは、信者自身の内面の作り変えと決して無関係に語れるテーマではないと筆者は考えている。それは決して、地上で信者が大々的な伝道を繰り広げてクリスチャンの数を増やすとか、大規模な事業を行って世間に注目されるといったことを意味しない。

地上で完全にただの人のように肉に従って生き、御霊の働きを知らず、御霊の導きに従って生きる方法も学ばないまま、信者が地上での生涯を終えても、復活の時が来さえすれば、栄光に満ちた姿に自動的に変えられると考えるのは、かなり甘いであろうと筆者は思う。

信者はこの地上において、すでにキリストと共なる死と復活にあずかっているのであり、復活による作り変えは、すでに今の時点からその人の内側で進行中なのである。やがてキリストが来られる時に、私たちがどの程度、主と共に栄光にあずかることができるのかは、私たちが今、この地上で、天然の命をどれほど否み、キリストの復活の命に従って生きたかという度合いによる。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

さて、標題につけた「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉は、従来の文脈では、神がご自分の創造された最も小さな取るに足りない命までも、最新の注意を払って心に留めて、養っておられるという、神の愛や憐れみの深さを示す文脈でよく引き合いに出される。

しかし、今回は、そういった従来の文脈とは、少し違う文脈で、この御言葉を引用したい。

なぜなら、今回の記事のテーマは、一羽の雀が地に落ちるかどうかは、私たちの采配にかかっているのだという点にあるからである。

神は人類を創造された際、地上のすべての生き物に対する支配権を人間に任された。それゆえに、むろん、神はそれらの生き物の生殺与奪の権を握っておられるとはいえ、現在、それらの生命を直接的に管理する権限を与えられているのは、私たち自身なのである。

創世記の人類創造の場面にはこうある、

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 」(創世記1:26)

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 」(創世記2:19-20)

以上の御言葉に示されている「名をつける」という行為は、人間が地球上のすべての生き物の名を支配することで、その生き物の命に対する支配権を握ったことを表す。地球を、神が造られた大きな庭にたとえるならば、人間はその庭を管理する園丁のような存在である。

神はこの目に見える世界をご自分で直接、統治することもできたが、あえてその支配権を人間に委ねられ、人が神の代理としてこの目に見える世界のすべてを適切に支配・管理するよう任されたのである。

しかし、その後、アダムの堕落が起こり、アダムが任された地上における支配権は、堕落したアダム自身と共に、悪魔に渡ってしまった。しかし、それにも関わらず、神が人間を創造された目的はその後も全く変わっていないのである。

堕落して不適格者となったアダムの代わりに、神は人類に与えられた正当な使命を取り戻させるべく、独り子なるキリストを地上に遣わされた。クリスチャンは、キリストの十字架の贖いが、ただ単に、人間の罪の赦しのためだけにあるのではなく、また、贖われたキリスト者が個人的に聖霊に満たされて幸福な生活を送る目的のためだけでもなく、また、福音宣教によって地上にキリスト者が増え広がるといったキリスト教の拡大などという目的のためでもなく、そもそもアダムの失敗によって失われた統治権を人類に取り戻させるためにこそ、キリストが贖いを成就されたことを認識する必要がある。

そこで、今日、神はキリストにあって新生されたクリスチャンに、再びこの地の適切な統治権を任せようとしておられるのである。それによって、人自身が神の御思いの体現者として、山上の垂訓に見るような神の憐れみに満ちた霊的統治を、この世に実現することを願っておられるのである。
 
とはいえ、その統治権とは、目に見えない霊的な統治を指しており、この世に目に見える地上の権力を打ち立てることではない。御霊による統治は、新生されたクリスチャンが、この世に自分たちの名を冠した偉大な宗教組織を作り上げ、その威信を全地にとどろかせ、地球の覇者たろうとするといった方法でなされるのではない。

御霊による統治は、常に取るに足りない一人一人のクリスチャンの心の内側で、目に見えないひそやかな形で、個人的に進行する。それは人の目からは隠された歩みであるが、どんなに取るに足りないように見えるクリスチャンであっても、その内側で、もし御霊による統治が実際に行われているならば、そのプロセスは、天地にとって絶大な価値を持つ。

今日、宗教組織に所属しているほとんどのクリスチャンは、自分に与えられた絶大な御名の権威を知らず、キリストの復活の命に働く偉大な法則性をも知らず、その新しい命の力を行使した経験もほとんどないばかりか、自分に任されている支配権のことなど全くと言って良いほど知らない。

彼らは、まるで次々とチャンネルを変えながらTV画面にくぎ付けになる視聴者のように、数多くの宗教指導者のパフォーマンスに心を奪われ、魅力的な指導者らが、自分たちの代わりに物事を決定してくれ、自分たちの代わりに命令を下してくれるのを受け身に待っているだけである。

このような信者たちは、指導者が与えてくれる哺乳瓶を介さなければ、自分では何一つ聖書の御言葉の意味をわきまえることもできず、何事も決められず、いつまでも天を仰いで、神のお告げや宣託が自分にそれと分かる形でひらめき降りてくるまで、そこを動かないと決めてただぼんやりと待っているような具合である。

彼らは、祈りと称して無数の願い事を告白することはしても、誰かがゴーサインを与えてくれるまで、決して求めている解決が与えられたと心に信じることなく、大胆に立ち上がって自分の人生を自分で決めるために歩いて行こうともしない。彼らの祈りは、言いっぱなしの告白のようなもので、彼ら自身にとってさえ、神がそれに応えられたかどうかは、しばしば全く重要ではないのである。

こうした人々は、クリスチャンを名乗っていても、人間の古い言い伝えに従って生きており、宗教的なしきたりを守ることには熱心であっても、その生き方は、完全にこの世の不信者と変わらず、この世の常識から一歩も外に出ようとはしないため、彼らには、キリストが信者にお与え下さった内なる命の法則性に従って主体的・能動的に生きた経験もなければ、御子の贖いを通して自分に与えられた命の中にどれほど測り知れない神の力が隠されているかといった知識も全くと言って良いほどない。

一言で言えば、今日のあまりにも多くの信者は、自立の力が欠けすぎており、神が与えて下さった新しい命の力だけによって生きた経験自体がないため、その命の性質を知らず、その命の中にどんなに偉大な力が隠されているかも知らないのである。

キリストの復活の命に働く法則性は、それを行使しなければ、発揮されることはない。車を運転するためには、車のメカニズムを知らねばならず、楽器を弾くためにも、楽器の性能を理解しなければならないのと同じように、御霊による新しい命の法則性に従って生きるためには、信者はまずはその命がどういう性質のものであるのかをよく探ってこれを知り、その命を活用する方法を自分で学ばなければならない。

それなのに、ただ天を仰いでいつまでも願い事を祈っているばかりで、自分で物事を考えようともせず、自主的に決断も行動もせず、宗教指導者が決めた古い人間的なしきたりや常識に従って歩み、自分に与えられた新しい命の法則性に従って生きる秘訣を全く探ろうとも知ろうともしない人々のうちには、新しい命の法則性が働くことは決してない。

その命は、あくまで信じる者に個人的に一人一人に与えられているものであり、誰も本人に代わってこれを行使することのできる者はいないのである。従って、信者がいつまで経っても、自分以外の誰かがやって来ては、自分を適切に指導・操縦してくれることを願っているだけの受け身の赤ん坊のような状態では、キリストのよみがえりの命の法則も、御霊に導かれて生きることも、その人には最後まで分からずじまいで終わるであろう。

話を戻せば、宗教界には、常に時代を超えて、キリストの復活の命の統治といったものがあることなど考えもしない赤子的クリスチャンが大勢いるとはいえ、そのような現状とは一切関係なく、神が人間を創造された当初の目的は、今日も、全く変わらず、それはあくまで人間が、地上の目に見える世界およびそこに住むすべての生き物たちを適切に管理・支配する者となることなのである。その管理を通して、神の栄光を生きて地上に表すことなのである。

そういう意味で、「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉の意味は、本来の意味から転じて、天の父は、一羽の雀も含め、地上にいる生き物たちを管理する責任と役割を人間に委ねられたので、今やその雀が地に落ちないかどうかは、人間自身の選択と確信にかかっているという意味として受け取れる。
  
それは言い換えれば、キリスト者には、自分の許しなく、自分の支配圏内にあるいかなる命も失われることがないように支えることができるという絶大な権限が与えられていることをも意味する。むろん、地上の命はいつか終わりを迎えるとはいえ、信者は少なくとも御霊によって生きている限り、信者自身の同意なくして、信者の支配する領域にある命に突然の災いがふりかかることなどを防ぐことができるのである。

もしもそれにも関わらず、信者が自分の支配圏内で思いもかけない異変や災いが起きていることを察知したなら、信者の生活のどこかに御霊による支配の破れ目がないかどうかをもう一度、点検することを勧めたい。信者が生活の中で何を最優先しているのか、優先順位が狂い、命の御霊の法則から信者自身が逸れていないかどうかを点検することを勧めたい。

信者の生活には試練や苦難ももたらされるが、ほとんどの場合、それは信者自身が準備が出来た時にやって来る。神は信者に何かの犠牲を求められるときには、事前に信者が心の準備をする猶予を設けてくださる。しかし、悪魔が信者を攻撃するために不意にもたらす災いには、信者が心の準備をする余裕はない。そのような出来事が起きる時には、今一度、信者は、御霊の警告を軽視したりしたことがなかったどうか、十分に目を覚まして警戒を怠らないでいたかどうかを振り返ることを勧めたい。
 
王国という言葉は、王の支配権が及んでいる領域を指し、神の国とは、神の命の統治が及んでいる領域を指す。御霊が信者の内に住んで下さることによって、神の国が信者の只中に来ていることは、信者自身が、御霊を通して働く命の法則を一定の領域に及ぼし、その領域を管理・支配していることを意味する。

キリスト者は、神に対しては子供であり、僕であるが、地上のすべてのものに対しては、一人の王のような存在なのであり、信者には自分の支配領域を治める権限があり、それを適切に治めることを神に期待されているのである。

繰り返すが、キリストの復活の命を内に持っている信者は、神の命の統治を持ち運ぶ存在であるから、圧倒的かつ絶大な支配権を実際に持っているのである。

しかし、この地上に生きている限り、信者の内には二つの命が存在している。堕落した有限なアダムの被造物の命と、神の永遠の命である。

堕落した朽ちゆくアダムの命に従って生きるなら、信者を通して周囲に及ぼされるのは、罪と死の法則だけである。しかし、命の御霊の法則に従って生きるならば、そこには命と平安が生まれよう。信者がこの二つのうちどちらの命に従って生きるかによって、信者を取り巻く領域に、どのような性質の影響が及ぶかが決定する。

信者はこの選択について非常に注意深くなければならない。信者は自分の支配圏内にあるすべての生き物、自分が関わるすべての他者にとてつもない決定的な影響を及ぼす存在だからである。

聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)という有名な御言葉があるが、これが意味するところも、以上と同じように、実は信者の命の支配権の行使という問題なのである。

多くの信者らは、「主よ、家族を救って下さい」と受け身に祈り、天を仰いで、神が自分の代わりに働いて自分の家族を救って下さることを願い、家族に自分自身の霊的支配が及んでいるなどということは考えてもみようともしない。

だが、信者はそのように天を仰いで受け身の祈りを捧げる代わりに、まずは自分自身が、一定の霊的な支配を持ち運んでいること、自分こそが、自らの支配圏内にある全てのものに対して絶大な影響力を行使している主人であって、家族にも当然ながらその影響力が目に見えない形で及んでいることを自覚すべきなのである。

信者は、キリスト者の中にある神の新しい命の法則が、自分自身のみならず、家族にも影響力として及ぶことをまずは心から確信せずに、家族の救いといった問題に答えが与えられることを期待できない。

多くの信者の場合、足りないのは、祈りではなく、その信者の心の確信である。なぜなら、キリスト者が大胆に心に信じたことが、その信者の支配圏内にあるすべての物事に決定的な影響を及ぼすからである。家族とは、信者の霊的統治が及んでいる身近な人々のことであるが、信者自身が自らの統治権をろくに行使する方法も知らないうちに、家族の救いという問題について折るのは、間違いとまで言えずとも、ある意味では、順番が逆だと言えるかも知れない。

ヨセフは、幼い頃からすでに自分が家族の中で極めて重要な役割を果たすことを知っていた。彼の兄たちは、幼いヨセフの大胆な言葉を聞いて、ヨセフは兄たちを差し置いて自分を偉大な人間であると思い違いをして己惚れに陥っているだけだと考えて、ヨセフを憎み、妬んだが、ヨセフは、心の内側で、自分の霊的役割の重要さを初めから知っていたために、それを語っただけであり、彼の言葉は、自惚れから来るものではなかったのである。

それが証拠に、ヨセフは兄弟たちに裏切られてエジプトに奴隷として売られたが、結果的に、ヨセフのおかげで、ヨセフの家族全員が救われる結果となった。その事実は、ヨセフが幼い頃に見た夢は、彼自身が、一家の中で果たす霊的役割の重要さを予見したものであり、それは彼の変わらない召しだったからこそ、彼が奴隷として売られ、家族と離れていた間にさえも、見えない領域で、家族に対して及ぼし続けた霊的支配力があったのである。

しかし、与えられた召しが偉大だったからこそ、それが目に見える形で実現するまでの間、彼は多くの訓練を経なければならなかったのだと言える。本当の意味で、彼が家族に対する霊的支配権を行使できるようになるまでには、それほどの歳月が必要となったのである。
 
このように、キリスト者は、すべての物事が自分の意志に逆らって進んでいるように感じられる時にも、霊の内側では、御言葉に基づき絶え間ない創造と支配を行うことができると信じて進んで行かなければならない。

つまり、この世の有様がどうあれ、信者は、それとは関係なく、朽ちゆく不完全で限界あるものの只中から、命の御霊の法則によって、神の満ち足りた命の力を働かせて生きることが可能なのであると信じねばならず、その気高い目的が自分に与えられていることを確信し続けなければならないのである。

その信者が心の中で何を思いを巡らし、何を現実だと信じるかによって、その確信が信者を通して、信者の霊的支配が及ぶすべての領域に決定的な影響を及ぼす。

もしも信者が、目に見える有様に気を取られ、その限界を現実として受け入れ、罪と死の法則に従って生きるなら、信者の支配圏内にあるすべての生き物、人々、物事の運命にも、同様の影響がもたらされ、その信者の誤った選択に、信者の支配圏内に存在するすべてのものが巻き込まれるであろう。

そういう意味で、「一羽の雀」を天にはばたかせるのか、それとも、地に落とすのかは、常にキリスト者自身の選択によるのだと言える。なぜなら、神がその権限を人間に委託されたためである。

むろん、すでに述べた通り、地上に存在する命あるものはすべていつかはその生涯を終えることになるとはいえ、それでも、信者は、自分の管理している領域においては、決して自分の許しなしに、どんなに小さな命でさえ地に落ちることはないように支える力を持っていることを、まずは信じなければならない。

そして、もちろん、ここで言う「一羽の雀」とは、文字通りの雀だけを指しているのではなく、信者の支配圏外にいるすべての生き物、人々、物事、環境を象徴的に表している。これは信者が自分で世話をしたり、心にかけて管理している自分に属するすべての命と環境のことを指しているとも言える。もしくは、主イエスが「一羽の雀」よりはるかにまさる存在であると言われた信者自身をも指していると言えるだろう。

多くの信者は、そのようにして自分自身で環境を創造するというよりも、むしろ、自分が環境に創造されて、不意の出来事に常に翻弄されて生きているような按配であるが、本当はすべてが逆なのである。信者が環境を統治しなければならず、それが正しい順序なのである。

一言で言えば、神は人間に対して非常に高貴で高い目的意識を持っておられ、私たち自身には思いもかけないほどの人格的完成を願っておられ、それゆえ、非常に高度な責任と絶大な影響力の伴う重大な管理を私たちに任せようとされたのである。

私たちは、神が人間に望んでおられる御霊による命の統治の完全な行使が、どれほど高い成熟度を必要とするものであり、重い責任が伴うものであるかを、おぼろげながらに想像することはできよう。

だが、生きている間に、その支配権の行使に相応しいまでに、キリストの身丈まで成長して到達することは、すべてのクリスチャンのミッションなのである。

キリストの復活の命は、統治する命であるから、その統治の力を働かせて、自分の関わる圏内すべてに及ぼすことができることを、クリスチャンはまず知らねばならない。そして、アダムの朽ちゆく魂の命と、キリストを通して与えられた神の永遠の命と、どちらに従って生きるのか、自分自身で決めねばならない。

そして、もし命の御霊の法則性に従って生きると決めたなら、これまでのように、恐る恐る自分の願い事を神に申し上げたり、不安の表明でしかないような祈りを言い表すといった生き方から、大胆に、望みを確信して、自ら命の支配権を行使するという生き方に転換する必要がある。

しかしながら、それは単純な道のりではない。その方法を学ぶために、信者はしばしばヨセフが辿ったような苦難の道のりを辿らねばならない。

順境の時に、大胆な願いを告白し、それを信じるのは、誰にとってもたやすいことで、そのためには信仰など要らない。しかし、すべての物事が閉ざされて、絶望的で、困難に見える状況の中で、神の恵みの約束に堅く立って、目に見えない命の御霊の統治を大胆に働かせて生きることには、信仰が必要である。

信者に期待されているのは、そのようにして、ただ信仰によって、任されたものを管理し、この世の卑しい朽ちゆく有限なものを通して、見えない高貴な永遠の収穫を得ることを通して、神のはかりしれない恵みの大きさ、完全さ、命の豊かさを、目に見える形で世に実現・証明して行くことで、神に栄光を帰することなのであり、それが、地上でクリスチャンに任された、神の喜ばれる奉仕なのである。
2018/06/13 (Wed) 神の国の働き人
彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)

神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
 心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙四章一二節、改訂訳)

ヘブル人への手紙四章一二節のこの注目すべき節は、魂と霊の区別、両者を互いに「切り離す」必要性、それがなされる手段をはっきりと示しています。これは、信者が真に「霊の中で神にしたがって」生きる「霊の」人となるためです(ペテロ第一の手紙四章六節)

ペンバーはこの節に関して、次のように指摘しています、「使徒がここで言っているのは、神の御言葉の切り離す力である。祭司が全焼のいけにえの皮をはいで、四肢をばらばらに切り離したように、神の御言葉は人の存在全体を霊、魂、体に切り離す」

フォウセットは次のように記しています、「神の言葉は『生きていて』、『力があり』(活動的・効果的で、ギリシャ語)、『人のより高度な部分である霊から、動物的魂を分けるにまで至る』」「神の言葉は、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し、肉的・動物的なものから霊的なものを分離し、魂から霊を分離する」「神の言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在、魂と霊を分ける」「この描写は、祭司の剣によって、文字通り関節を切り離し、骨髄を刺し通してさらけだす所から取られている」。

神の霊が信者の霊の宮から自由に活動するかわりに、信者は魂の命によって支配されるおそれがあります。この危険性に対して目を開かれている信者にとって、ヘブル人への手紙四章一二節はとても示唆的であり、教訓的です。フォウセットの言葉はこれを示しています。

霊の人になることを願う信者のうちに、ただち次のような疑問が生じるでしょう、「私はどうすればいいのでしょう?どうすれば、私の歩みや奉仕の中にある魂的なものを識別できるのでしょう?」。

いま考察しているテキストによると、私たちは私たちの大祭司に自分を明け渡さなければなりません。この方は「もろもろの天を通って行った」方であり、この方の目に「すべてのものは裸であり、あらわにされています」(ヘブル人への手紙四章一三節)この方が祭司の務めを果たされます。彼は、鋭い両刃の剣である御言葉を用いて、私たちの内にある魂と霊を切り離すまでに刺し通し、「心の思いと意図」さえも識別されます。フォウセットは注解の中で、「『思い』と訳されているギリシャ語は心や感情に言及しており、『意図』または『知的観念』と訳されている言葉は知性に言及している」と記しています。

主は、私たちの肉体的・道徳的弱さに同情することのできる、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブル人への手紙二章一七節、改訂訳)となるために、人となられました。この方だけが、祭儀用の剣*を用いて、思い、感情、知性、知的観念さえも刺し通し、魂の命を忍耐強く「切り離す」ことができます。なんという働きがなされなければならないのでしょう!

聖霊が内住している霊が支配し、あらゆる思いを虜としてキリストに従わせるには、動物的な魂の命が取り除かれなければなりません。ではどうやって、動物的な魂の命は、その「関節と骨髄」さえも貫いて探知され、取り除かれることができるのでしょう?私たちの大祭司は、決してしくじったり、諦めたりされません。主は裁きの中から勝利をもたらされます。ただしそれは、人が自分を主の御手に委ね、主に信頼する場合です。主は神の霊により、生ける御言葉の剣を振るって下さいます。

魂と霊(Soul and Spirit)ジェシー・ペン-ルイス著  第4章 いかにして「魂」と「霊」は切り離されるのか



裁判官に会う日程も決まり、着々と物事が進行している。
 
さて、このところ、悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去るだろうという御言葉の意味を知らされている。今回は、御霊によって歩む生活を考える上で、邪悪な思念を退けるというテーマについて語りたい。

かつて当ブログでは、主と共なる十字架における自己の死について、幾度か語ったことがある。信者の生まれながらの体の邪悪な働きに対しては、主と共なる十字架における霊的な死が信者に適用されることが実際に可能であると。

多くのクリスチャンが、信仰生活の最初に、罪との格闘において、この段階を通る。そして、罪に対する勝利は、人自身の力によるのではなく、御言葉を通して、人間の堕落した肉体に働く主と共なる十字架の死が適用されることによって初めて可能になるのだと知る。

だが、十字架の働きはそこで終わらない。体に対する十字架の霊的死が適用されれば、次なる段階として、魂の命全体に対する十字架の死が適用されるという段階がある。それは、人の天然の肉体と魂に働くアダム来の命の邪悪な働きに対する死である。
 
罪との格闘が、最初は失敗からしか始まらないように、信者が魂の命の邪悪な力に気づいて、これを御言葉によって克服する方法を知るにも、それぞれの段階がある。まずは気づき、抵抗、格闘、勝利といった段階がある。

悪魔は、クリスチャンに対して、あたかもクリスチャン自身が思い描いていることであるかのように見せかけながら、邪悪な思念を外から吹き込むことができる。悪魔は、信者に恐れや、不安や、神に対する疑いや、罪悪感や、その他、信仰を曇らせるあらゆる邪悪で不潔な思念を心の中に混ぜ込もうとする。

それだけではない。悪魔は光の天使に偽装して、信心に見せかけた誤った思想や、常識に偽装した御言葉にさからう悪しき思念を、もっともらしい理屈のように見せかけて、信者に信じ込ませることもできる。

とにかく悪魔は神の栄光を曇らせる様々な虚偽の思いをクリスチャンの思念の中に絶えず注入しようとしており、それによってクリスチャンの自由を奪い、信者が自分で自分を縛り、信仰が働く余地がなくなるように仕向けているのである。

このことを知らないうちは、クリスチャンはそうした悪しき思念が自分自身の思いなのだと勘違いし、それにとらわれたまま生き続けてしまうだろう。

だが、もしもクリスチャンが、悪魔から来た思いを自分の思いであると信じ込み、また、それが抵抗することも、変えることもできない運命的な結論であるかのように信じて受け入れれば、その思念が実際にクリスチャンの霊の内に働いて現実になってしまう。

悪魔が狙っているのはまさにこのことであり、本来は、神の恵みに満ちた御言葉を地上で生きて実践し、御国の秩序を地に引き下ろすために存在しているはずのクリスチャンを、悪魔の思念を実現させるための道具に変えてしまうことなのである。

そこで、信者の心が戦場となる。信者の心には様々な敵矢が撃ち込まれ、神から来たのではない様々な種がまかれるのである。信者がそれに気づいてこれを取り除かない限り、その種は発芽し、雑草のようにはびこり、信者の心全体がやがて神から来たのではない思想に専有されて行くことさえ起きかねない。
 
だが、信者は誰しも天然の魂の命の邪悪な働きについ初めからて熟知しているわけではないので、この戦いは、完全な勝利から始まるというわけにはいかない。まずは信者が様々なきっかけを通して、霊的な敵が、自分の思いの中に、悪魔から来る要素を注入しようとしているということに気づくところから始めねばならない。

幾度かの失敗と、悪しき思念との格闘の末、ようやくクリスチャンは、自分の天然の魂に働く邪悪な衝動を見分けてこれを撃退する必要に気づき、やがて御言葉による実力行使によって、毅然と自分の思いの中に混ぜ込まれようとする様々な誤った考えに抵抗して打ち勝つことができるようになる。
 
信者は、御言葉に合致しない、神に栄光を帰さない、御言葉に敵対する、悪魔に由来する邪悪な考えや、さらに、自分自身に害を及ぼすような考えを、即座にきっぱり拒否する必要があると分かる。

もしもそれが分からないままでは、その信者は自分が一体、何に攻撃されているのかも分からないまま、ただやられっぱなしの状態が続くであろう。こうした無知な状態をすべてのクリスチャンが脱しなければならないのである。
 
たとえば、クリスチャンが稀に誰かからあからさまに呪いの言葉を浴びせられるということも、現実には全く起きないわけではない。しかし、クリスチャンは、そうした悪意ある言葉を聞いたときには、即座にこれを心の中で断ち切らなければならない。なぜなら、御言葉を参照すれば、私たちのためには、すでに木にかかられて呪いとなられた方がおられるので、そうした邪悪な言葉を私たちが身に背負う必要もなければ、そんな責任も全くない。そのことにちゃんと気づかねばならない。

それができなければ、信仰あるクリスチャンでも、呪いの言葉を受け入れてそれを身に引き受けるなどという馬鹿げた事態に至りかねないのである。

だが、悪意を持って第三者から発せられた言葉であれば、それが悪であることは、比較的誰にでも分かりやすい。誰もそれが神から来たものであるとは思わないであろうし、そんな言葉を真に受ける人も少数であろう。

だが、ふと人の心に何気なく思い浮かぶ様々な思念の中にも、そうした邪悪な起源を持つものが含まれていることがあると、気づいているクリスチャンたちはどれくらいいるであろうか。文字通り、自分の心に去来するすべての思いを、御言葉に照らし合わせて吟味し、まことの大祭司なる神の御手に委ねなければならないことを真に知っている人々はどのくらいいるであろうか?
  
邪悪な起源を持つ思いが、まるでその人自身の思いつきであるかのように装って、人の心に外から注入されるということが実際に起きうるのである。いや、四六時中起きていると言って過言でないかも知れない。そこで、信者は自分の魂に対しても、十字架の霊的死の働きが不可欠であることを知らねばならないのである。

たとえば、どんなに敬虔なクリスチャンであっても、何かよく分からない倦怠感、諦念、恐れや不安に駆られたりすることが全くないわけではないだろう。それは一時的な体調不良や、疲れに伴ってやって来るもののように思われるかも知れないが、それだけではない。
 
大概、暗闇の勢力は、信者の体の弱体化に伴って、邪悪な思いを注入するということに注意が必要である。以前にも書いたように記憶しているが、主イエスは十字架上で、痛みを和らげる効果のある酸い葡萄酒を拒まれた。(ただし息を引き取る直前には、それとは違った文脈でこれを受けられたが)。

このことは、イエスが罪なくして罪人の代表として、十字架刑の苦しみを、人工的な緩和なしに余すところなくその身に背負われたことを意味するが、同時に、主イエスが、体の働きを少しでも麻痺させるような薬の服用によって、霊的な命の支配力が弱まることを拒否されたことをも意味する。

つまり、痛みを和らげるためのアルコールを含めた様々な薬の服用は、ただ人間の苦痛を緩和するだけでなく、人間の判断力を鈍らせ、人が自分自身を治める力自体をも鈍らせ、失わせてしまう効果を持つのである。

霊は信者のうちで支配力を持つ司令塔であるが、体の働きと一切無関係にその支配力を実行に移せるわけではない。従って、体の力が弱まり、バランスが崩れれば、それに伴い、人間の思考力、判断力といったもののすべても低下する。霊的な識別力、判断力も、当然ながら、弱まって来る。
 
そこで、サタンは大概、信者の体のバランスが崩れた時に、信者の魂や霊に対する攻撃をしかける。体の弱体化には、過労や、病気やあからさまな災害によって引き起こされる変調もあれば、投薬による感覚の鈍麻もある。そこで、クリスチャンはそうした体の変調・弱体化を可能な限り、避けるべきである。不必要な薬の服用によって、霊的な命の統治の力までが弱まることに無知でいてはならない。
  
サタンが、こうして信者の体の弱体化に乗じて、正体不明の恐れや不安や疑いを注入して来るとき、信者はこれに毅然と立ち向かって、その思念を撃退することが必要となる。どんなに疲れていても、その思念がどこから来るものであるのかをきちんと見分け、受け入れてはならないものを拒否する姿勢を失わないようにせねばならない。

特に、自分や、家族や、自分に属するすべての大切な人々の命に危害を加えようとするような思念、人生で目指していた目標を諦めさせようとしたり、理由もなく失望落胆させる思念といったものには、徹底的に立ち向かって、これを受け入れることを拒否し、気力を奮い起こして立ち上がって抵抗・撃退しなければならない。

こうした格闘により、信者には、生まれながらの魂の命に働く邪悪な思いを否むことの秘訣がだんだん分かって来る。

だが、このことは決して信者が、主に従う上での苦難を一切、背負わなくなることを意味しない。悪しき思いを退けることと、試練と一切無縁の人生を送ることは別である。依然として、信者の人生には、様々な試練は起きて来るのだが、それでも、信者はこれに極めて積極的に立ち向かって、御言葉により大胆に武装して、これを克服し、勝利する秘訣を学ぶようになる。御名のゆえの苦しみを負いつつも、それに対する勝利があることを確信し、その試練の一つ一つを信仰によって乗り越えて行く秘訣を知るのである。
 
理由もなく苦しみにもてあそばれ、サタンのなすがままになることが、日々十字架を取って主に従うことではない、ということを、信者は心して理解しておかねばならない。霊的な戦いは、まさに信者の心の内側で始まるのであって、信者の魂が戦場となり、神の御言葉と悪魔の虚偽との間で、争奪戦の対象となるのだということを覚えておかねばならない。

私たちはすべてのことについて、神の限りなく豊かな命を選ぶのか、それとも、悪魔の押しつけて来る束縛や限界や死を選ぶのか、問われている。文字通り、すべての選択において問われている。私たち自身が、どちらを真実だとみなして受け入れるかによって、その後の人生が変わる。御言葉に根差して、自らの思いをコントロールすること、御言葉に合致しない思いを退けることは、私たちが神の恵みと祝福に満ちた人生を失わないでいるために、必要不可欠な日々の戦いである。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」
(ヤコブ1:19)


「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」
(ヤコブ1:22-25)


キリスト者の交わりは正直かつ誠実でなければならない。そこで、時には、どんなに相手にとって耳の痛いことであっても、言うべきことは、言うべきときに、はっきりと相手に伝えねばならない。

それができなければ、交わりは人間のエゴによって甘やかされ、腐敗し、ダメになって行ってしまう。だが、もしも一言苦言を呈しただけでも、たちまちダメになるような交わりがあるとすれば、それは最初から多分、交わりと呼べるものではなく、長続きする人間関係でもないと言えよう。

その意味で、筆者は今まで自分に、いや人間に対して、あまりにも優しすぎ、優柔不断であった側面があることを否めない。筆者は誰かに、二、三言、苦言を呈した際、その相手が、のらりくらりとその忠告を交わすようなことがあっても、かなりの猶予をもうけてその相手と向き合って来た。

だが、そのようなことをすると、最後には、その人間のわがままによって害を受けることになる。わがままを通したい人間が、忠告を聞くふりだけをして時間を稼ぎ、結果的には、その忠告をないがしろにして踏みにじった挙句、自分に耳の痛い助言をして来た人間を悪者扱いして排除するということが、度々起きて来たのである。

そうした教訓に立って、最近は、二、三回、よくよく話し合って注意しても、全くそれを聞き入れず、態度が変わらない人には、それ以上、関わらないようにしている。どこで線を引くかということに関して、慎重な判別がなされなければならないのだ。

だが、同時に、正直な態度を保持していると、助言を素直に聞き入れながら、互いに変化して行くことのできる関係が存在することも、次第に分かって来る。もしも常に歯に着せて、良いことづくめの甘い言葉だけを言わねばならない人間関係があるとすれば、それはこの世的な人間関係であって、キリスト者の交わりとは関係がない。

だから、時には、兄弟姉妹は、互いに言うべきことをはっきりとお互いに言い合い、正直であり、誠実であることが必要となる。しかし、それは、それぞれが人間としての情愛で結ばれるのではなく、キリストを介した信仰の絆で結ばれていればこそ、できることだ。

もしも人間の情愛による関係しかそこになければ、それは打算に基づくものであるから、利益がないと分かれば、たちまち崩壊するであろう。しかし、主がつなげて下さった絆は、そんなにも簡単なことでは壊れない。長い時がかかるかも知れないが、互いに辛抱強く進歩して行くこともできるのだ。

兄弟姉妹は互いに光をもたらす存在である。誰かが教師となって教えることはなくとも、それぞれが互いを照らし出す光を持っている。その時、自一人一人が、自分を照らし出してくれた光に正直に誠実に向き合うことができるか、できないかによって、そのクリスチャンのその後の歩みは分かれる。
 
そして、兄弟姉妹から光を受けなくとも、我々は御言葉によって絶えず光を受ける。生まれつきの自分の顔を鏡に映して見るように、生来の自分の衝動や欲望だけに従って生きるのではなく、御言葉を受け入れ、これを実践して行くことによって、いつか正真正銘の自由にたどり着くことができる。むろん、キリストを信じて私たちは自由とされているのだが、段階的に実現する自由というものもある。それはアダム来の自分自身からの自由でもある。
 
さて、オリーブ園の記事「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (2)」にも書いてあるように、時にキリストに根差した生活の最も大きな障害となるものが、形骸化した枠組みとなった宗教である。

当ブログは2009年以来、ずっとキリスト教界をエクソダスすべきことを唱えて来たが、その頃には、キリスト教界と牧師制度の欺瞞に気づき、そこからエクソダスすべきと唱える信者たちは、かなりの数、存在しており、活発な議論が行われていた。

その当時、既存の教団教派に失望して、教会難民のようになって、教会を離れた信徒の数は非常に多く、そうした人々が、既存の教団教派にとらわれることのない、聖書に忠実なエクレシアを模索していた。その当時、多くのクリスチャンたちが牧師制度を離れ去るべきと公然と唱えており、そうした論は珍しくもなかった。

ところが、エクレシアを模索していたそれらの人々が、その後、欺かれ、まっすぐな道を進めなくなり、散らされたのには、大きくわけて二つの原因があると考えられる。

一方には、「キリスト教界からエクソダスせよ」と言いながら、キリスト教界をエクソダスしていない群れがあった。その群れは、牧師制度を否定していたが、実際には、牧師制度と同じように、リーダーを立ててそれに従っていたのである。

他方には、カルト被害者救済活動のような偽りの運動があり、それが牧師制度の悪を糾弾する信者たちを傘下に集めては、巧妙に彼らを再び牧師制度のもとへ帰属させようとして行った。

これら二つともが、表向きには牧師制度を批判していたものの、両者ともに、実際には牧師制度に深く根差しており、従って、牧師という存在と訣別することができない自己欺瞞の運動だったのである。

このような欺瞞の運動に関わっている限り、信者は決してキリスト教界をエクソダスできず、キリストだけに従って生きるのも無理な相談である。

そのため、「キリスト教界をエクソダスせよ」と言いながら、それをしなかった群れは、その後、どんどんキリスト教界寄りになって行き、ついには一人の指導者を立てて、日曜礼拝を厳守するまでになった。有料のセミナー、売れ筋の出版物などをキリスト教界を通じて販売し、もはや何の区別も存在しない。
  
筆者が、これらの双方の群れから離れ、完全に牧師制度と無縁の真に独立した群れを模索し始めたとき、どれほど激しい妨害や攻撃が起きてきたかを見れば、キリスト教界という宗教組織が、いかに組織内に取り込んだ信者をいつまでも奴隷として拘束し、自由になることを許さず、かつ、牧師が信者の上に立つというヒエラルキーを何としても死守しようとするかを、誰しも十分に見て取れるだろう。

これが宗教というものの本質だとも言える。

カルト被害者救済活動は、信徒が牧師を訴えるという動きを、あくまで牧師の承認のもとにコントロールしようとしていたところに、根本的な腐敗と欺瞞があった。このように、背後に牧師がついている反対運動は、ある意味で、牧師と牧師のプロレスごっこと同じような出来レースなのであり、決して信徒の自主的な運動とはならず、本当の意味で、牧師制度の腐敗を根本的に正す原動力ともならない。

それが証拠に、かつてカルト被害者救済活動に関わる牧師が、カルト被害者のメールなどの個人情報を、加害者の牧師に無断でそっくり転送したことが発覚したために、カルト被害者から絶縁を言い渡されたりもしている。

その後も、この牧師は絶え間なく被害者の個人情報の漏洩を続けてきたが、それは彼がカルト被害者を傘下に集めているのは、被害者を自由にするためではなく、決して牧師制度から逃がさないように束縛することが目的だからである。
 
このような運動に身を寄せてしまえば、被害者は自由になるどころか、より一層、束縛されて行くことになるだけである。

それだけではない。この牧師は、自教団とは何の関係もない信徒を利用して、被害者が自分の囲いのもとから逃げられないように脅し、圧迫し続けている。

このような現象から見ても十分に分かるのは、牧師制度を敷くキリスト教界が、もしも地獄のようなところであるとすれば、カルト被害者救済活動というのは、その地獄から信徒を逃さないための、地獄の門番のようなものでしかないということである。

そんな運動が、根本的に牧師制度そのものを撤廃したり、キリスト教界を浄化する原動力には絶対にならないことは明白である。
 
キリスト教界の誤りに気づきかけ、牧師制度の誤りに気づきかけ、牧師に反旗を翻そうとした信徒たちを、再び牧師のもとへ集め、聖職者階級という階層制が、決してキリスト教界からなくならないように、それに疑いを抱いたり、反対する信徒たちを骨抜きにし、潰してしまうために、カルト被害者救済活動という偽りの運動が存在するのである。

だが、牧師制度や、教職者階級制度が、聖書に照らし合わせて、れっきとした誤りである以上、そうした運動や制度の中には、今後も、御霊の生きた息吹きは決して誰も見いだせまいと思う。

そこで、私たちは静かにそうした制度を離れ去る。神ご自身が、その制度が誤りであることを証明されるだろう。私たちがそこを離れ去った後、この教界は前よりも一層悪くなるだろうことを筆者は確信している。今、抜け出さなければ、抜け出ることさえできない時が来るであろう。

私たちは宗教組織に根差すのではなく、指導者に根差すのでもなく、見えないキリストにのみ従う民である。宗教組織に根差す信者は、その宗教の枠組みから出られない。特定の指導者に根差す信者は、別の指導者のもとにいる信徒と交われない。彼らの関係は、ちょうど医者と患者のようなもので、かかりつけの医者ができてしまえば、その医者から紹介状を書いてもらわない限り、別の医者にはかかれず、別の病院にも行けない。医療の世界では、セカンドオピニオンも尊重されるが、封建的なキリスト教界ではそれも無理である。信者は一人の牧師のもとへ行けば、その牧師に拘束されてしまう。ある教団は、信者が教団から離脱することさえ許さない。

そのような牧師制度のもとで繰り広げられる「教会のカルト化対策」などは完全に嘘っぱちである。それが証拠に、彼らは、カルト化教会の牧師が、この世の法に従わないと言って非難しているが、そういう彼ら自身が、法に従わず、自分に不都合な場合は、裁判の結果さえ軽んじるという自己矛盾を呈している。

村上密という牧師は、かつて鳴尾教会がアッセンブリー教団から単立化した際、これに反対して、教団を通して教会に裁判をしかけて裁判に敗れたが、その際、「私は裁判の結果など意に介さない」という趣旨のことを豪語している。

そこから見ても分かるように、彼らは、ある時には、「教会は聖なる法だけが支配しているために無法地帯になっているから、その聖域にこの世の法を適用し、聖域を撤廃せねばならない」などと言って、「この世の法に従え」と言いながら、教会に裁判をしかける。

ところが、その後、彼らにとって不利な判決が出ると、彼らは「この世の法だから限界があるのだ。この世の法を超えた聖なる法に従え」と言う。裁判結果などはどこ吹く風、自分たちにとって得になる結果だけは認めるが、損になる結果は、この世の司法がもたらす結論であろうと、たちまち「意に介さない」と言って、自分たちはこの世の法を超える規範に従う超法的な民であるかのように言い始めるのである。

こうした主張は完全に詭弁であり、彼らが振りかざしているのは、この世の法でもなければ、聖なる法でもなく、ただ自己の義それだけである。

聖書には、冒頭に挙げた通り、「人の怒りは、神の義を全う(実現)するものではない」という聖句があるが、そのように人間の義憤と、神の義は一致しない。私たちにはやはり最終的な裁きを神に任せるという慎重さが必要である。

だが、そんな彼らの言うことにも半分は理があると言えるのは、彼らが指摘している「教会のカルト化」問題とは、要するに、牧師制度につきものの問題だということである。牧師制度ある限り、その教会では、腐敗が絶えず、牧師が「法」となって信徒の心を支配し、結果として、無法地帯が出来上がることは避けられない。だからこそ、教会のカルト化から身を避けたいならば、牧師制度そのものをきっぱり離れ去るべきなのである。牧師が牧師をやっつけるという構図の中では、決してこの問題から抜け出ることは誰にもできない。そうなると、キリスト教界から出る以外に選択肢がないのは当然であろう。
 
そもそも教会のカルト化は1980年代になって始まったのでなく、特定のあれやこれやの教会だけが腐敗したわけでもない。教会のカルト化は、牧師制度が根本的な原因となって引き起こされているのであり、見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に信者を従わせようとする反聖書的な思想から来ているのである。

現にカトリックの聖職者制度においても、プロテスタントで起きていることと相当な類似性のある大規模な腐敗が起きているが、そうしたことも、決して近年になって始まった現象ではない。神の福音が、聖職者という特権階級を養うためのビジネスとなり、それゆえ、信徒が、聖職者階級を支えるための道具として食い物にされるとき、そうした腐敗堕落が起きて来るのは当然である。教会成長論などといったものは、この聖職者ビジネスの途上に現れて来たに過ぎない。
 
だから、聖職者階級という階級制度ある限り、カルト化問題はなくならず、それゆえにこそ、カルト化を取り締まる側に立って救済活動を率いているはずのアッセンブリー教団とこの活動を率いる牧師こそが、他のどの教団や牧師よりも深刻にカルト化しているという現実が存在するのである。
 
繰り返すが、カルト被害者救済活動に正義など微塵もなく、私たちは悪しき牧師制度全体と訣別せねばならない。私たちは見えないキリストのみに従い、根差す民であり、どんな教団、教派であれ、特定の指導者の思惑が、あたかも神の聖なる法であるかのように押しつけられる囲いの呪縛に束縛されるべきではない。

私たちはどんな教団教派にもとらわれることなく、信仰によって同じようにキリストに根差すすべての民と、一つのエクレシアを形成している。

私たちはそうした真のエクレシアの姿を模索するその一員であり、その時々で、同じようにキリストだけに頼り、聖書に忠実なエクレシアを追い求めている信者に出会っては、主の御名のもとに集まる二、三人の群れを形成して来た。

日曜礼拝だとか、家庭集会だとか、聖会だとかいった目に見える囲いが、信徒の敬虔さの証になるのではない。ごく普通の日常生活の中で、互いに会って交わりをし、食事をし、主を誉めたたえ、恵みを分かち合う。讃美歌も歌わないかも知れないし、必要がなければ、祈りさえしないかも知れない。聖書の朗読なども行なわないかも知れない。

だが、たとえそうであっても、そこには、あくまで主を中心とした交わりがれっきとして存在しており、そのためにこそ集まり、話し合っていることを、一人一人が知っているのである。

なぜ、主の御名の中に集まる二、三人なのか? それは、おそらく、規模が二、三人を超えてしまうと、なかなか親密な交わりは難しくなってしまうからだろう。

もしもそこでリーダーとなって教えと垂れようとする人が現れれば、そこでその交わりはおしまいになる。兄弟姉妹は互いに助言し合い、光によって照らし合う存在ではあるが、それは誰かが教師となって誰かを教える関係を意味しない。階層制が出来てしまえば、その交わりはそこで死んでしまう。

さて、この記事の後半に書いておきたいが、ある人々が、当ブログに逆SEOがしかけられているというのは嘘だと言っているのだが、以下のような記録がたくさんあるため、皆さん、嘘に騙されないよう気をつけられたい。
 
当ブログへの集中アクセス履歴(6月6日~6月7日) 
当ブログへの集中アクセス履歴(6月30日~7月1日)
  
もちろん、サーバーに負荷をかけるような集中アクセスを繰り返すことは、ブログに対する明白な攻撃であるから、当然、被害を主張されても仕方がないということは、おそらくご存じの上でやっておられるのであろう。

筆者はIPアドレスの開示請求のための訴訟に及ぶ予定にしているが、こうした嫌がらせ行為は当然ながら、その範疇に含まれて来る可能性が高い。
 
筆者は、上記のアドレスの持ち主が、カルト被害者救済活動のコアな支持者だと言うつもりはないし、キリスト教関係者だとも考えていない。だが、カルト被害者救済活動が暴走した結果として、本来はキリスト教と何の関係もない人々の間にまで、無実のクリスチャンに対するいわれのない憎悪や迫害を駆り立ていることは事実である。

そうしたネット上の嫌がらせに取り組んでいる「宗教的ネトウヨ」のような人々を、筆者は総称して「サイバーカルト監視機構」という言葉で呼んでいるだけである。だが、むろん、彼らは実際には、何一つ信仰心など持ち合わせていない人々であるから、宗教的な要素はなく、またネトウヨでもない。
 
筆者は、カルト被害者救済活動というものが登場して来たその最初の頃から、この運動は、カルト化した教会を是正・改革することが真の目的ではなく、むしろ、必ずや既存の教団教派に属さない信徒らをカルト扱いして排除することが主要な目的となるだろうと警告して来た。

筆者はそのことを10年前から警告している。要するに、カルト被害者救済活動というものは、カルトを撲滅することが目的なのではなく、初めから、真実、主に従う神の民を迫害し、殲滅することを真の目的とする悪魔的運動なのだと。

彼ら自身が書いていることなのだが、人を欺くためには、真実の中に多少のデマを混ぜ込めば良いのだそうだ。危険なのはこの点である。彼らの言うことの80%が本当だったとしても、残りの20%が嘘であれば、その20%の嘘によって、神の聖なる民が無実にも関わらず断罪され、迫害され、排除される危険が出て来るのである。

そういうわけで、私たちは一つの情報、一つの記事を読むときに、その背景に至るまで事実を詳細に分析し、文脈を疑いながら読む癖を身につける必要がある。そうでなければ、簡単に欺かれるだろう。

繰り返すが、生きた人間に決して異端審問の権限などを与えてはならない。そのようなことをすれば、必ず、本物の異端だけでなく、偽物の異端(つまり全く異端ではない真実な信仰まで)も、共に異端として駆逐されることになり、それは必ず現代の異端審問所となって暴走して行くだけである。

私たちクリスチャンは、誰と交わり、誰と交わらないかを、自己決定する権限は持っているが、地上から異端を根絶したり、力づくで排除するとなれば、それは全く別の話である。

そもそも異端というのは、思想であるから、構造面からの緻密な分析なくしては、見分けることもできず、排除もできない。異端に対する取り組みは、平和的で根気強い議論の積み重ねの上にしか成り立たないのであり、平和な議論ではなく、力の行使によって異端の排除に及ぶ人々は、根本的に方法論をはき違えているのであり、これは大変危険な暴力的運動である。

だが、今、カルト被害者救済活動にとどまらず、既存の教団教派に属さない人々の信仰心そのものを敵視し、侮蔑し、排除しようとして、憎しみを駆り立てている勢力が存在していることを感じざるを得ない。そうした世相が形成されつつあることを感じる。
 
たとえば、以下の記事も、そうした世相に照らし合わせて読むと、ある種の非常な危なっかしさと怖さをはらんでいることが分かる。これはある意味で、大変に誤った方向へ人々を導く記事だと言えるであろうから、ちょっと取り上げて注意を促しておきたい。

ネトウヨの中心層は40代~50代、バブル崩壊などを経験!「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 」(情報速報ドットコム 2018.06.05 22:10)

たとえば、この記事の標題のつけ方に、すでに相当な注意が必要である。

まず「ネトウヨの中心層は40代~50代」という決めつけに、本当に信憑性のある具体的な根拠があるのかどうかを、記事を読んで確認してみよう。

その前に、まず、ここで「ネトウヨ」と呼ばれている人々が、誰を指すのかという問題について考えねばならないが、ここで言われている「ネトウヨ」とは、ただ単に最近、弁護士に大量に懲戒請求を送りつけたという事件に関わる人々だけを指すのであって、本来の「ネトウヨ」の概念は、この事件にとどまらず、もっと広いものであることに注意しなければならない。

つまり、この記事では、ネトウヨの概念が極めて矮小化されているのである。

次に、この記事の元記事となった日刊ゲンダイの記事「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」の文面を読んでも、そこに書かれているのは、

「この会見でもうひとつ驚いたのは、懲戒請求した人たちの年齢構成だ。あくまで和解に応じた人での範囲だが、最も若い人で43歳、中心層は40代後半から50代で、60代、70代も含まれていたという。」

ということだけで、ここには年齢層を示す正確なデータもなければ、60代、70代の割合が全体のどの程度を占めていたのかも示されていない。つまり、どこにも40~50代が中心層だと言えるだけの明白な根拠が示されておらず、不確かな伝聞だけしかそう決めつける頼りになるものがないのだ。さらに、それさえも、和解に応じた人々だけの年齢層であるから、和解に応じなかった人々も含めなければ、全体の年齢構成を判断する正確な根拠とはならないことは言うまでもない。

こうした不確かなデータしか存在しないのに、ゲンダイの記事が「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などと決めつけて標題としているのは、ある意味、あまりにもあからさまな誘導的なタイトルの付け方であり、特定の年齢層の人々に対する侮蔑や憎悪を煽るタイトルだとさえ言える。

また、筆者に言わせれば、この年齢は必ずしも「失われた20~30年世代」と重なるわけではないので、必ずしも就職氷河期などを経験して、社会で冷遇された人々と一概に結びつけることもできないのだが(多少のズレが存在する、どちらかと言えばネトウヨと名指しされているその層は、煽りは受けたかも知れないが、一番過酷な時代の直撃を免れた人々である)、ほとんど根拠のない連想ゲームのような具合で話が進み、「就職で不利となり、社会で居場所を失って、自尊心を傷つけられた世代がネトウヨ化した。そうした世代が、大体40~50代の世代に集中しており、この年齢層は、不安定な雇用情勢などが引き金となり、危険思想の持主となりかねない社会の不穏分子だ」といったような、ある種のイメージ操作のようなことまでが行われていることを感じずにいられない。

そして、仮にそのようなこと(この世代のネトウヨ化)が現実にあるのだと仮定しても、それに対する対策は、そもそも就職氷河期世代に政府が緊急かつ明白な雇用の手を差し伸べることでなければならず、中でも高学歴の人々に安定的なポストを供給することにあったのであり、無謀な大学院の拡張や、デフレ脱却に対する無策といった政府の施策の数々の失敗が、彼らのネトウヨ化を招いた根本原因であることは明白にも関わらず、そうした政府の責任という問題には蓋をしまま、いきなり、「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などという標題をつけ、あたかもこの年代層が社会を不安定化させている不穏分子であるかのように決めつけているところに、まさにこの記事の「空恐ろしさ」があると言えよう。

さらに、この記事の「空恐ろしさ」はこれだけでは終わらない。以上のような曖昧なデータしか存在していない元記事を根拠に、記事の書き手も、ネトウヨについて、「ネット上では工作員だの雇われているだの言われていることもありますが、彼らの9割は本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる一般人でした。」などと断言する。

だが、ここで言われている「9割」というのが、何の内訳であるのかもはっきりせず、彼らが本当に雇われていなかったのかどうかや、一般人なのかどうかなども、現時点ではすべて未確定の事実であるにも関わらず、推測だけで、ネトウヨは「工作員ではない」という決めつけがなされる。むろん、ここで言う「ネトウヨ」とは、弁護士に懲戒請求を送りつけた人々だけに限定されているのだが、そのことも十分には触れられていない。
 
仮に、彼らが実際に工作員でなく、いかなる雇用関係もない一般人であったとしても、それはあくまで弁護士に懲戒請求を送り、和解に応じた「ネトウヨ」だけを対象とするのであって、それ以外のネトウヨ全体が、工作員でないのか、雇われていないのか、といった問題は、この事件だけを通しては全く見えて来ない事実であるにも関わらず、そのことも触れられていない。

こうして、記事では、まるで弁護士に懲戒請求を送り和解に応じた人々だけを「ネトウヨ」とみなすかのように、物事を極度に矮小化した果、「ネトウヨは俗にいう雇われ工作員ではありませんでした」と受け取れるような結論が提示されているところに、ある種の世論誘導的な空恐ろしさを感じざるを得ない。

さらに、そうしたネトウヨが「本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる」ことは、ただ単に彼らの愚直さ、愚劣さを示しているだけであるにも関わらず、それをあえて「純粋」と呼び変えるところにも、この記事のある種の「空恐ろしさ」がある。
 
「純粋」という言葉は、本来、こういう文脈で使うべき言葉ではない。これはカッコつきの純粋さであり、むしろ、以上のようなネトウヨは、決して純粋ではなく、不純であり、愚直、愚劣であったからこそ、このような悪事に手を染めたのである。

さらに進んで言えば、本来、宗教とは何の関係もないネトウヨに対して「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 があるなどと決めつけ、宗教に対する敵視まで呼び込もうとしていることに、筆者などは、一体、この記事の目的は何なのだろうかと、背筋がぞっとして来るのである。
 
宗教と無縁の運動を「宗教的」と呼ぶからには、相当な根拠がなければならない。もしもネトウヨを宗教扱いしたいのであれば、そこには、戦前・戦中の国家神道などのイデオロギーの分析が土台にあり、安倍政権との思想的な親和性が前提として語られなければならない。

しかし、この記事には何らそうした前提となる考察の裏づけや分析がないまま(むろん、現政権への思想的な批判もきちんと向けられないまま)、いきなりネトウヨに「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 などというレッテルが貼られ、ネトウヨをいきなり無差別的にひとくくりに「宗教」という名と結びつけて、特定の年代層に対する蔑視に加えて、宗教全般に対してまでも侮蔑の眼差しを向けさせようとしているところに、この記事の本当の「空恐ろしさ」がある。

一体、この記事の真の目的はどこにあるのかという疑惑が生じるのは当然である。本来、ネトウヨに対しては「安倍真理教」などと言った名称が向けられており、そうした文脈で批判がなされるならまだ分かるのだが、ここで言われている「宗教」なるものが何であるのかは、全く明らかにされていないため、論点のすり替えを感じるだけである。
 
むろん、筆者は「宗教」を擁護するつもりはないのだが、今、ここで述べていることは、聖書に基づくキリスト教の信仰の本質は、宗教にはないということとはまた別の問題である。

そこで、筆者は、以上のような、正当な文脈を外れた「純粋」だとか「宗教的」だとか、根拠のない年代層の決めつけなどの曖昧な言葉の使い方が、結局は、宗教全般に対する敵視、特定の世代に対する敵視、社会から打ち捨てられた不遇の人々に対する差別感情や憎悪、はたまた既存の教団教派に属さない人々の純粋で素朴な信仰心そのものに対するいわれのない憎悪や敵意を生んでいきかねないと考えるがゆえに、この記事の「空恐ろしさ」を感じずにいられないのである。

結果として、こういう類の決めつけの記事は、40代から50代の人々に対するいわれのない差別感や、社会的に不遇の立場にある人々に対する蔑視や、真面目な信心を持つ信者に対するいわれのない侮蔑の念、蔑視を呼ぶだけで、根本的なネトウヨの分析には全くなっていないと言えよう。
 
かつては以下のような記事も出され、一般的には、政府与党によるネット上の書き込みの大規模な規制・監視が、ネトウヨと呼ばれる人々を生んだのだということは、今や世間の共通見解のようになっているのに、以上の記事はその前提まで否定しかねない勢いである。

「自民党の凄まじいネット工作!!自民党はツイッターやブログの書き込みを常時監視し、問題があればすみやかに反論&削除を要請!

  
自民党が組織的に人員を雇用して大規模なネット規制や監視を行い、世論誘導を行って来たことは、今や周知の事実であり、ネトウヨはそうした中から生まれて来た雇われ工作員であることも、ほとんど共通見解になっているというのに、以上のような記事は、そうした政府のネット上の工作からは人々の目を背け、ネトウヨの問題を極度に矮小化することで、それをあたかも個人の問題、特定の年代層の問題であるかのように置き換え、問題をすり替えて、自民党による組織的で大規模なネット上の工作などは、まるで行われていなかったかのように、あるいは、それとネトウヨの発生は全く無関係であるかのように話をごまかす効果を持っている。

つまり、以上のような飛躍した内容の記事は、「ネトウヨとは、社会で行き場がなくなり、ネットで気晴らしするしかなかった特定の年代層の個人が、愚直で信じやすいがために、ネットの嘘に騙されて煽られただけで、自民党の工作などとは一切、関係ないんだよ」と世間に信じ込ませる手段となり得るのである。(ついでに政府の施策の失敗がもたらしたネット難民のような人々の存在という問題をも、侮蔑によってかき消してしまう効果もある。)
 
こうしたあまりにも飛躍した論理が高じると、最後にはまるで皇帝ネロがしたように、ネトウヨが引き起こしたすべての災いまでもが、ネトウヨとは何の関係もないクリスチャンに転嫁されて、「純粋過ぎて宗教カルト化した人々がすべての原因だったのだ」などというとんでもない虚偽の風説の流布にさえつながりかねない怖さを感じる。

関東大震災の後で、朝鮮人に暴動の罪が着せられ、多くの人々が何のいわれもない害を受けたのと同じで、宗教とは何の関係もない出来事が、宗教や、信仰心に根拠もなく結び付けられ、特定の集団がバッシングを受けたりすることにつながって行くことは、歴史上、度々、起きて来た事実なのである。

そこで、ネトウヨの罪をいわれなく宗教や信仰心にかこつけようとするこうした根拠も不明な曖昧な内容の記事は、特定の集団をターゲットとして憎悪を煽る流言飛語をまき散らす人々にとって格好の材料になりかねない危うさを持つ、ということを何度でも断っておきたい。今はまだそういう人々はそう多くはないかも知れないが、そのような風潮がじわじわと強まって来ていることを筆者は感じるのである。
 
そこで、筆者はこの種の記事には何とも言えない嫌悪感を覚えている。繰り返すが、ネトウヨを生んだのは、間違いなく、政府与党であり、安倍政権のイデオロギーである。もちろん、ネットにたむろして鬱憤晴らしをするしかないような行き場のない個人を生んだ原因も、政府の施策の失敗にある。そうした問題をすべて個人の問題に置き換えて、個人だけを叩き、さらに、思想的・宗教的なところに原因をすり替えることで、人々の目を問題の本質から逸らし、本当の問題の原因を胡散霧消させようとするこうした記事による巧みな世論誘導の中に、筆者は歴史を都合よく簡単に書き換える者たちの「空恐ろしさ」を感じずにいられない。

このようなわけで、我々は何かを信じる前に、その根拠となるソースについて、まず十分な分析を行わなければならず、その際には、枝葉末節のように細かい情報だけを頼りとするのではなく、広い視野を持って大局的に物事を見なくてはならない。特に、勧善懲悪の物語がもたらす単純な正義感に踊らされるのは命取りであって、そのことは弁護士に懲戒請求を送りつけたネトウヨの行動にも十分に当てはまるが、これを批判している側にも同じように当てはまる。

ネトウヨを批判していたつもりが、いつの間にか、自分たちの批判している対象が、本来のものとは全く別の何かにすり替わり、罪のない者たちにいわれなく石を投げる行為に加担していた・・・ということが起こらないように、特定の年代層、特定の宗教、あるいは信心があるかないか、といった人々の属性に応じて、特定の集団に対する差別、侮蔑、敵愾心、憎悪、偏見などを煽る傾向のある記事にはよくよく注意しなければならない。

現代はフェイクに満ちた時代なのであるから、すべての情報に注意が必要である。宗教に向けられるヘイトというものも存在するということを我々は覚えておかなければならない。

筆者はそういう意味で、カルトに対する憎しみを極端なまでに煽り続けるカルト被害者救済活動は、一種の「宗教ヘイト」と言って差し支えない極めて危険な運動になっているとみなしている。聖書は独麦を抜くなと教えている。誤った思想にふさわしい時に裁きを下されるのは、神の仕事であって、人間の仕事ではない。必要なのは、クリスチャン一人一人が真実な信仰に立って歩むことであって、他者の歩みに干渉して力づくでこれを変えようとすることではない。侮蔑や憎しみや対立や猜疑心を煽る内容の記事は、いかなるものであれ、よくよく注意しなければならない。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)

今、一つの絆を永遠に解き、一つの絆をつなごうとしている。これは厳粛な瞬間である。主の御前で永遠に断ち切れる絆と、再び結び合わされる絆がある。

断ち切るべきものを断ち切って、初めて回復される交わりがある。今、筆者は命ではなく、死に通じる扉を永久に塞いでしまうとしている。神の祝福が失われた枯れ枝のような交わりを幹から丁寧に取り除き、木を剪定して、死んだ枝を焼却炉に投げ込もうとしているのだ。

しばらく会うことのなかった信徒と久々に交わりを持ったが、困難の最中に回復された絆は、さまざまな嵐を耐え抜いて残ったものなので、頑丈だ。

筆者は日曜礼拝などに全くこだわるつもりはないが、これから素朴な日常生活を送りながら、二、三人の集まりが、徐々に拡大して行くだろうという気がしている。

筆者が専門と関係のない様々な仕事をしていた頃、地獄の一丁目のような職場でさまざまな人と出会った。学歴も高くはなく、社会層としても、そう高くない出身の人々に数多く出会い、彼らと一緒に働いた。

そういうとき、何気ないことで、助言ともつかぬ助言を、筆者がその人たちに向かって発したことがある。

何年も経ってから、その人たちが、筆者から受けた忠告を、別れた後も大切に守り続けていることを教えてくれた。彼らは、「あの時、ヴィオロンさんがこう言ってくれたから…」と言って、ずっと筆者の教えた法則を大切にし続けて生きたというのである。

ただ法則を知らないがゆえに、迷い続けている人が、法則を掴みさえすれば、生き方が安定することがある。筆者が発した何気ない言葉は、彼らにとっては、まさに必要な光だったのだと思う。

その頃、筆者には助言をしているというつもりはなく、ただ自分自身が生きて掴んで来た法則性をよかれと思って彼らに伝えただけである。だが、その後、伝授された法則を守って生きるのか、それを無用な忠告と退け、侮って生きるのかで、人の道は分かれた。

こちらの言い分を重んじて耳を傾けてくれる人たちには、関わる価値がある。華やかな学歴や教養に乏しくも、どんなに貧しく社会の底辺に位置している不安定な人々のように見えたとしても、忠告に耳を傾け、重要な法則に逆らわないで、これを掴んで取り入れる人たちは、時間と共に着実に生き方が進歩して行く。

それに比べ、自分は賢い、誰からも何も教えてもらう必要はないと考えている高慢な人たちは、何年、関わっても、全く進歩がない。彼らは恵まれた境遇にあるため、いい加減な生き方をしていても、それが何となく成り立ってしまい、試練を通して人間性が練られることも、変化することもなく、ただ同じところを堂々巡りし続ける。地位や肩書や財産などがあるので、かしづいてくれる人たちはたくさんいるが、それによりかかって生きているため、人格がいつまでも成長が止まったまま、幼稚で、未熟である。はっきり言って、そういう人との関わりは退屈でしかない。

彼らは貴重な助言も、侮り、罵倒し、逆らい、踏みつけて来るだけなので、助言する価値も、関わる価値も無い。どんなにクリスチャンを名乗っていても、そのような怠惰な人々との関わりは、交わりと呼べるものではないので、枯れた枝のように、木から剪定して行き、みずみずしい葉のついた生きた枝だけを残すべきである。

もちろん、枯れ枝を切り取って焼却することは神のなさるわざなのだが、それでも、時には、私たちが自分で剪定しなければならないこともある。私たち自身の意志表示も、やはり重要になって来るのだ。枯れ枝なのに、自分は生きていると主張して、他の枝の成長を妨げるような枝は、やはり木から取り除かねばならない。

さて、第一の訴えに付随して、何と段ボールひと箱分以上の資料が出来上がった。これも複合的な訴えなので、必要部数をすべてそろえると、当然、それくらいの分量にはなるのだ。ひと箱では運ぶのに分量が多すぎるため、3箱くらいに分けた。

訴えの中のあるものは約180頁、証拠だけで70以上もの番号がふられている。一セットゆうに400頁くらいになるだろうか? 

しかも、これは第一弾に過ぎず、続編が待っている。家庭用印刷機のレベルを超えた仕事だ。我が家の床も、ちょっとした私立探偵の事務所風になっている。

さて、この書類の山をどうやって裁判所へ持ち込むか思案し、台車があればちょうど良いのだが・・・と思いめぐらしていると、夜間、交わりから車で戻って来た際、ちょうど駐車場に車を止めると、すぐ真横のコンクリートの塀に、どうぞ使って下さいと言わんばかりに、使い古したキャリーが立てかけてあった。

まさかそんな都合の良いことが現実にあるだろうかと目を凝らすと、本当だった。駐車場は個別のスペースで区切られているため、間違ってそこにこんなものを置いて行く人がいるとは思えない。しかも、そのキャリーはほどよい古び具合で、持ち主が大急ぎで取りに戻って来るような代物ではない。そこに捨てられた可能性も十分に考えられた。

これはまさに筆者のために特別に用意されたものであるとしか思えなかったが、一体、誰がそんな親切を? 筆者に今これが必要だと知っている人はいるはずないのだが。

その時、「主がお要りようなのです」

という言葉が脳裏をよぎった。

まさにエルサレム入場の際の子ろばのことが思い出された。

これは主だ、としか思えないありがたいタイミング。ありがたく数時間、お借りして、またもとの場所に戻しておくことにした。必要なら、持ち主が取りに来るだろうし、捨てて行ったのなら、取りに来る人はいまい。

似たような具合で、必要のすべてがそろった。細かな道具の一つ一つに至るまで、目指した日にまでの間にすべてが供えられた。

このようにして、このところ、この地上は、まるで筆者のための共産主義社会になったような具合だ。決して他人の所有物の概念を否定する考えを述べるつもりはないが、キリスト者にとっては、誰かが地上に引いた境界線や、誰かが独占的に蓄えた私有財産などといった区分は、事実上、ないようなもので、すべてのものは天地を造られた神の所有なのである。そこで、神の子供たちに必要なものは、すべて天から適宜、供給される。

復活の命を生きて体験した人は、筆者の言わんとしていることを理解してくれるだろう。キリストの復活の命は、神の非受造の命であって、どんなものにも依存しない、死を打ち破った命である。そこで、この命が、持ち主のために、必要のすべてをおのずから供給する。

天の経済は、キリスト者の必要に応じて伸縮し、拡大・縮小する。

筆者は、これは神の喜ばれる正しい仕事なのだということを、あらゆる機会に痛感している。筆者はこの仕事をただ自分の必要、自分の権利を守るためだけにやっているのではない。聖書の神が生きておられ、今日も神の子供たちを十分に守って下さり、すべてのことについて、必要な解決となって下さり、ご自分の栄光を信じる者に存分に表して下さることを、公然と生きて世に証明することが、私たちの責務であり、証なのだと考えているからこそ、それに取り組むのである。

この方を信じて生きることが、人間にとっての喜びであり、最高の満足であり、どんな場合にも、その信仰は決して失望には終わらないことを、生きて証明し続けることが、私たちの責務なのである。そして、神はその期待に十分に応えて下さることがおできになる方である。

敵の要塞はエリコの城壁のように崩壊する。多くのことは書かないが、結果が目に見える形で現れるとき、何が起きているのかを人々は理解するだろう。

筆者が今手がけているのはすべて弁護士が書くような書類ばかりであるが、そういうことも、一般人でも工夫すれば十分に対応できる。バッハの『シャコンヌ』をヴァイオリンで満足の行くように弾くことに比べれば、書類作成などはるかに易しい。

筆者はある会社に勤めていた時、100頁近くもある就業規則を外国語に訳したことがあった。そこにはネイティブスピーカーもいたが、誰一人その仕事に着手する者も、完遂できる者もいなかった。業者に依頼すれば20万円以上に相当する翻訳だと言われた。それを他の仕事と共にやった。まるで頭髪の長さまで規定した校則のように、社員をがんじがらめにする意味のない規則ばかりではあったが、その時、そのように苦労して書類を作るのならば、会社を去った後も、自分の人生に残るもっと価値のある書類を作るべきだと心から思った。

今、やっていることが、それに似ている。誰のためでもない、自分のための権利の主張文である。だが、その書類では、筆者一人だけの権利ではなく、そもそもキリスト者の権利とは何か、天と地において、人とは何者なのか、という問題が提起されている。

たとえば、信教の自由、思想信条の自由という言葉が、私たちが様々な紆余曲折を経ながら、まことの神を探求し、神と共に生きる道を模索し続ける求道者としての魂の遍歴を十分に優しく認めてくれている。人は神と出会うために、また神に従って生きるために、必ずしも平坦ではない様々な試練の道を通らねばならない。だが、その道が平坦でないからと、これを罵倒できる人などどこにもいはしないのだ。

神は、私たちに「求めなさい」と言われる。あなたたちは何も求めないから、手に入らないのだと。多くの人々は、それを聞いても、自分は富んでいて、豊かで、何も乏しいことはなく、神の御前で打ち明けるべき弱さや、問題などない、と考えているため、何も神に求めようとはしない。求めるものは現世利益だけで、それさえも、つつましく分相応に見えるように、自分の規定したスケールの範囲内でしか求めない。常に周りを気にし、人並みの生き方をしてそこから逸脱しないことにしか目標がないのである。

彼らはあまりにも神と人との前で虚勢を張りすぎているため、自分の弱さを認めず、自分の人生の尺度を自分で規定してしまい、神の御前に素直に問題を打ち明けることもできず、自分の人生を打ち破るようなスケールの恵みを求めることもない。自分のために何も要求しないし、自分はその恵みに価しないと考えている。だから、何も与えられないのである。信じないから、何も与えられないのである。

それに引き換え、主張文を書くことは、自分の正当な権利の行使であり、要求である。自分はそれに価すると信じなければ、要求することはできない。地上でさえ、人の訴えを裁判官が取り上げ読み、審議するのだから、天に出すべき訴えというものも、当然ながらある。神は正しい方であり、真実が曲げられるようなことをなさらない。寄る辺ない人々の訴えに喜んで耳を傾けて下さる。

だから、地上で書類の山を作るのも必要だが、まして重要なのは、天に向かって訴えを出し続け、父なる神に向かって子としての権利を要求し続けることだ。

時に、信者が本気で神にぶつかり、扉が開けるまで懇願し続けなければならないことがある。答えが遅いように見える時もあるかも知れない。だが、信じてよい、神は我が子の訴えに喜んで耳を傾け、これを取り上げて下さると。神は信じる者たちの願いを喜んで受けられ、彼らの信仰に応えることを、ご自分の栄光とみなして下さる方である。

「主よ、朝毎に、わたしの声を聞いてください。
 朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
 あなたを仰ぎ望みます。
 
 あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。
 悪人は御もとに宿ることを許されず
 誇り高い者は御目に向かって立つことができず
 悪を行う者はすべて憎まれます。
 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし
 流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。

 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて
 あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し
 あなたを畏れ敬います。
 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き
 まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」(詩編5:4-9)

まだまだしばらくの間、重要な訴えのための膨大な書類作成が続く。だが、捨てる神あれば拾う神・・・ではないが、紛争が起きれば、それをきっかけに、回復される絆もある。協力者が現れ、助けられる。

まことに聖書の御言葉は正しく、神が許されて起きる地上の軽い艱難には、常に大いなる天の栄光が伴う。苦難には慰めを、悲しみには喜びを、欠乏には満たしを与えて下さる我らの神の御名は誉むべきかな。

暗闇の勢力は、兄弟姉妹に何とかして猜疑心を植えつけ、ネガキャンを展開し、互いに裏切らせ、信仰の絆を分断し、引き裂こうとするのかも知れないが、必ず、それに影響を受けない草の根的な交わりを神は取っておいて下さる。

これこそかつてずっと夢見ていた草の根的なクリスチャンの集まりだ・・・。

しばらくの間、誤解や対立があって分断されていても、時と共に回復される絆もある。困難があるからこそ、忍耐によって乗り越えたのだと言える絆がある。

そういう意味で、罵りや中傷の言葉は、人の心を試す実に良い試金石だ。誰が本当に最後まで、主にあって兄弟姉妹でいられるのか。誰が人間のうわべだけの有様に惑わされることなく、物事を見極め、人間的な絆によってではなく、信仰によって繋がり合えるのか。

おそらく、私たちは死ぬまで他者との間で、すべての物ごとに対する見方が完全に一致することは決してないだろう。そういう意味では、クリスチャンに思想的な同志を求めても無駄である。必ず、どこかでズレが起きて来る。そのズレにこだわれば、分裂や対立しか待つものはなかろう。だが、たとえ多くの点で見解が互いに異なっていたとしても、基本的なところで、一致を保つことはできる。

その基本とは、キリスト以外によりどころを持たないことだ。人間の造った組織や団体を離れ、立派な教師や指導者の肩書に背を向け、いかなるビジネスや集金活動、組織や指導者の栄光とも関係ないところで、素朴で対等な兄弟姉妹として、ただ聖書への信仰によってのみ、繋がり合うことができるかどうか?
 
そんな草の根的な信徒の交わりを、筆者はずっと前から探索し続けている。そんなものを求めても無駄だ、そういうものはないんだよと、悪魔は言うかも知れない。

だが、そんなにも簡単に諦めるのは忍耐力のなさの表れでしかない。かつてある姉妹にも、早く諦めてはいけないと叱咤されたことがある。だから、はっきり言っておきたい、今日、社会の状況がこれほど悪化し、人々の心が険悪になり、人々が裏切り合い、貶め合う中でも、そうしたみずみずしい新鮮な青草のような信徒たちは、確かに温存されているのだと。

ただし、私たちが、それに気づく目を持っているのかどうかはすべてを分けるだろう。いと小さき貴重な兄弟姉妹の存在に気づくためには、私たちの目が、曇らされた状態でなくなることが必要である。立派な肩書をぶらさげた人気の指導者、荘厳な教会、うやうやしい礼拝儀式、大人数の集会、弁舌の巧みさ、知識の豊富さ、外見のきらびやかさなど、見かけ倒しの虚栄に振り回され、踊らされ、惑わされ、絶えず欺かれてばかりの軽薄な浮草のような心では、どんなに価値ある貴重なものに出会っても、それに気づくことは永遠にできまい。

そのように惑わされやすい軽薄な心そのものと訣別し、自己の栄光にも死んでいない限り、我々の目に、みすぼらしく取るに足りない「草」たちの価値が分かる日は決してないであろう。だが、その青草の発見は、十字架で死なれたキリストご自身の発見でもあり、ある意味では、自分自身の発見でもある。

ところで、宗教的なリーダーというものは、やはり、決して人前で信徒を罵ったり、悪しざまに言ったり、信徒の個人情報を無断で公開したりしてはいけないと筆者は思う。筆者は牧師制度そのものに反対であるが、それをさておいても、あらゆる組織のリーダーには、自分のもとに集まって来るさまざまな信徒に対する包容力がどうしても必要だ。

特に、教会にはあらゆる問題を抱えた人々がやって来る。巨額の借金を抱えた人々、家庭内問題を抱えた人々、心理的な病を抱え、人生に行きづまっている人々、こうした人々の中には、福音などには全く耳を傾けず、ただ自分の愚痴を聞いてもらう事だけを求め、手っ取り早い現世利益を求め、それが得られないために、早々に指導者を罵って教会を去って行く人もあろうし、またあるときには、牧師を脅すことを目的にヤクザがやって来ることもあろう。
 
こうしたすべての人々にリーダーは対処せねばならないのであって、自分を批判されればすぐにかっとなって言い返し、信徒の中傷を言いふらすような人々は、もともと指導者の器ではない。

ところが、プロテスタントの牧師には、そういうリーダーの力量を持った人がほとんど見られないのが現状だ。昔からそうだが、本当に信仰のある志の高い人々は、決して牧師になどならない。それもそのはず、信徒の献金で生計を立てるのが当然になっているような、特権階級としか言いようのない職業的地位に就こうと自ら願うような人々は、それ相応の心を持った人々しかいないからだ。

そうした人間的な力量に欠け、信仰的な力量にも欠けている牧師のいる教会に所属してみたところで、信徒に心の安らぎが得られるはずもない。

ただでさえ、日本の教会の永遠のテーマは、ずっと「なぜ日本にはキリスト教が普及しないのか」というものだ。多分、これから先も、20年経とうと、30年経とうと、このテーマは依然として、教会の中心的課題であり続けるに違いない。

多くの教会は高齢化の影響もあり、閑古鳥が鳴いており、社会的事業に乗り出さないとやって行けない有様だというのに、そんな中で、まるで教会の衰退に拍車をかけるがごとくに、所属教会を自ら明かしながら、インターネットで他の信徒を悪しざまに罵り、聖書を否定するような「信徒」が現れる。

ただでさえ信徒数が少ない教会にとって、そのような不良信徒の出現は、とてつもない打撃になるだろう。そうした事態からも見えて来るのは、もしもその信徒の教会生活が、本当に満たされて正しく幸福なものであったなら、その信徒が、面識もない他の信徒たちに言いがかりをつけては聖書を捨てろなどと言いふらしたりするようなことは、決してなかっただろうということだ。

得意げに所属教会を名乗っていても、実際には、まるで身の置き所のない孤独感がひしひしと伝わって来る。所属教会に対する配慮もないのだろう。空疎な祝福の言葉が、かつてよく聞いた「栄光在主」とか「頌主」とかいったむなしい言葉を思い起こさせる。

悪いことは言わないから、早くそんなにも身の置き所なく味気ない教会生活をきっぱり離れ去った方が良いのだ。いつまでも形骸化した組織にすがりついているからこそ、心のむなしさが募る。その空虚さを、所属教会以外のところで埋め合わせようと、聖書に忠実な信仰生活を送る信徒を引きずり降ろすしかないなど、何と惨めな生き方であろうか。

だが、もっと恐ろしいのは、そういうことをしているうちに、いつの間にか、その信徒にとっては、あれやこれやの気に入らないクリスチャンだけでなく、「聖書」そのものが敵になっていくことだ。

これが一番、恐ろしいことなのである。

その人にとっては、所属している組織が「神」となり、聖書の御言葉が、人を狂わせる「悪」と見えて来る。すべての物事を人間を中心として見るあまり、自分にそんなにも心の空虚さとむなしさを味わわせたのは、人間に過ぎない牧師や、人間の造った組織ではなく、神ご自身だという風に、考え方が転倒するのである。

まるで聖書とはさかさまの世界観であり、どこをどうすればクリスチャンを名乗っている人間が、このような考え方になるのか、首をひねるばかりである。だが、何度も言って来たように、これがペンテコステ運動が人にもたらす倒錯した世界観なのである。

実体のない組織にすがり続けていると、最後にはそういう事態にまでなってしまうのだ。私たちはそのような悪しき運動を離れ去ることを宣言する。

これまで幾度となく繰り返して来た通り、ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動の失敗が、プロテスタントの終焉を何よりよく物語っている。被害者救済を唱えている人々自身が、まさに被害者を率先して売り渡し、被害者を中傷し、破滅させる所業に手を染めたという事実は、キリスト教史の恥ずべき汚点として、歴史を超えて永久に語り継がれるだろう。そうした恥ずべき事態が、これらの人々が被害者救済を唱えて来た真の目的が、全く被害者の救済になどなかったことをよく物語っている。

プロテスタントはもう終わっているのだと、気づかなければならない時に来ている。むろん、だからと言って、他の宗派に去れば良いという簡単な問題ではない。宗教改革は続行しているが、それは今やプロテスタントを離れて、人の目に見えないところで続行している。聖書は万人に解放された。今は聖職者階級というものから、信徒が解放されねばならない時代である。万民祭司という新約聖書の当然かつ根本的な大原則が回復されるために。

いくつか前の記事で、筆者がある職場からエクソダスしたエピソードを書いたのは、これをキリスト教界になぞらえて、今、ここからエクソダスしないと、この業界はこの先、本当にひどいことになって行くと警告したかったからだ。御霊の息吹が失われ、神が目を背けられ、人の関心も失い、誰からも打ち捨てられて形骸化した組織の中に残っていると、とんでもない事態が起きて来るだけである。

今、多少、手傷を負ってでも良いから、建物全体が倒壊する前に、そこから出た方が良いのだ。そのまま残っていれば、傷を負うくらいでは済まされず、やがて命を失うことになるだろう。

しかし、そうした警告に耳を傾ける人はほとんどいまい。今、この国の経済界で起きていることも、キリスト教界で起きていることは、合わせ鏡だ。自分は選ばれた民だ、他の人々と違って、安定した居場所がある、れっきとした教会員だ、仲間がいて、孤独ではない生活がある、と豪語することと、私は正社員だ、難解な試験をパスして、上位で合格したエリート公務員だ、教職員だ、妻子もいれば、家もあり、家業もあり、土地も財産もあり、誇るべきものがこれほどたくさんある・・・などと豪語することの間には、さしたる違いはない。

そういう見せかけのアイテムの数々を誇っていると、やがてすべてが取り去られ、とんでもない事態に巻き込まれるだけである。

人間の本当の救いは、そんな風に目に見えるものの中には決してないからだ。本物の救いを偽物のバッジと取り替えた人々には、つらく苦しい未来が待っているだけである。そのことは、教会籍制度に何よりもよく当てはまる。神の救いは、教会籍のように目に見える証明に決して置き換えることなどできない。それが証拠に、その証明書は、これほど多くの教会難民のような人々を生み出した。そうでありながら、まだ教会籍にすがり続ける人々は、自分をエリートだと自称している。

これは世の有様と同じである。組織それ自体の中に、命はないのに、組織をまことの命と取り違え、神と取り違えると、そういう忌むべき事態が起きるのである。宮は、神がやって来られて、その中に入られて、初めて価値を持つというのに、神が忌み嫌われ、見捨てられ、神ご自身が不在となった宮が、己を神のようにみなして誇っている。何と忌まわしい光景であろうか。

高プロ制度を批判している場合ではない。偽りの階層制の上に成り立つ一つの虚構の世界がまるごと倒壊しかかっているのが今なのだ。この危ない建物全体から離れねば、誰も身を守ることはできない時代にさしかかっている。
 
さて、いきなり話は変わるようだが、我が家のペットが昨日の朝、ちょっと様子が変に見えたので、動物病院に連れて行った。かつて動物病院では、誤診がもとになって狂奔させられた嫌な思い出があるが、今回は違った。全く異なる病院である。無駄な治療は一切しないし、余計な手当ても勧めない。待合室にいると、看護士さんがやって来て、採れたての新鮮な野菜をサンプルとしてくれた。家に帰ると、ペットは何事もなかったようにけろっと元気になっていた。何でもなかったのだが、連れて行ったついでに色々身ぎれいにしてもらった。

もらった玉ねぎに包丁を入れると、みずみずしい真っ白な断片が見える。しばらく水にさらせば、生のままでもサラダにできそうだ。試しに炒め物に半分使ってみると、あまりに美味だったので、もう半分も早速調理した。

とにかく、一つ一つのことについて祈る。主の助けを乞う。すると、一見、人の目にはハプニングに見えるような、思わぬ出来事からも、思わぬ出会いが生まれ、新たなチャンスが生まれて来る。大規模な組織など必要ない。立派な指導者の助言も要らない。ただ草の根的な知恵と知識だけで、私たちは十分に生きていける。その確信は、日常生活だけでなく、信仰生活にも十分に当てはまる。

人に知られないひそやかなところで、御霊の導きにすべてを委ねて、一歩一歩、主と共に進んで行こう。それは人に踏み固められた道でないため、不安が全くないと言えば嘘になるが、それでも、霊の内側には、確信があり、平安がある。

筆者はたとえこの先、どれだけ多くの兄弟姉妹からの賛同や理解を得たとしても、心はただ主にのみ向けておきたいと真に思う。ただお一人のまことの神である方とのみ、二人三脚し、すべてのことを相談しながら、地上にいる最後の瞬間まで、共に歩いて行きたいのだ。これが新エルサレムまで続いている狭く細い道である。それは人に知られず、誰にも踏み固められていない細い道だからこそ、スリルもあれば、冒険もあり、涙もあれば、笑いも、喜びもあり、毎日、わくわくする体験には事欠かない。決してそうした体験を人前で語ることはないであろうが、主に訴え、主に感謝する出来事に溢れている。

組織になど所属せずとも、いや、組織に所属しないからこそ、真に神が働いて下さったと言える出会いがあり、真に自分の人生だと言える地点に立脚して、味わい深い日々を送ることができる。
 
まことに主は我らの重荷を日々担われる。それゆえ我らの荷は軽い。新しい朝ごとに主を讃え、すべてのことを主に訴えよ。主が我らの正義、解決となって下さる。御名に栄光あれ。

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。
 
さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。
 
ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。
 
その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。
 
嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。
 
ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。
 
私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。
 
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。
 
この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。
 
だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。
 
最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

 「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
 ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。


 この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。


まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋
 
 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。

 
しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。
 

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)


 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」
 


 だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)
 
以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。
 
ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)
 
そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。
 
それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

とても気持ちの良い穏やかな日が続いている。書類の作成の真っただ中であるが、冒頭では少し違った話題を提供しておきたい。

筆者がヴァイオリンを再開してから約1年が経とうとしているが、今取り組んでいる曲の中には、バッハの『シャコンヌ』もある。

ブゾーニがこの曲をピアノ用に編曲していることを知ったのは比較的最近だ。両方をやってみると、改めてバッハのこの曲の奥深さ、ブゾーニの編曲の見事さが分かる。ピアノとヴァイオリンの両方の楽器の特性を活かして、それぞれの長所を曲に取り入れることもできる。

むろん、シャコンヌはもとは舞曲の様式であるから、葬儀とは何の関係もない。だが、筆者が昨年、ブゾーニの編曲版を練習し始めたのは、親族が亡くなる直前にあることを知らされたことがきっかけだった。
 
親族を見送るために演奏しようと考えていたのである。しかし、その親族の家にはピアノがなく、筆者は葬儀には立ち会うこともなかったので、幸いなことに、この美しくダイナミックな曲を葬儀で演奏することはせずに済んだ。

それでも、不思議なことに、その人が亡くなったのは、ちょうど筆者がこの曲に取り組み、曲がそれなりに出来上がった時のことであった。「そろそろ、完成したな」とつぶやいたその次の日に、その人は亡くなったという知らせが来たのであった。

バッハは敬虔なキリスト教信者であったが、筆者はこの曲の中に、それほど信仰的な要素を感じない。これはバッハの信仰を否定しているわけではなく、バッハの曲が、非常に人間的に感じられるということを言いたいのである。

信仰の歩みは、ある意味で、とても軽快な部分がある。人間の魂のあの切ないまでのもつれ、悲しみ、叫びといったものは、信仰生活にはそれほど関わって来ない。キリストの復活の命を知ると、特にそうだが、以前には抜け出られなかったそうした魂の重荷ともつれから、かなり解放される部分がある。

キリストにあっての信仰の歩みは、重い足取りではなく、相当に軽快な足取りなのである(筆者の記述からはあまりそれが感じられないと言われそうだが…)。
 
しかし、バッハの曲には、永遠にたどり着こうと願いながらも、自力ではそれができない、生まれながらの人間の限界、魂のもがき、紆余曲折、脆さ、儚さなど、人間のあるがままの弱さと、魂の遍歴、呻きが非常によく表れているように感じられる。

この曲を聴くと、生まれながらの人間の有限性を痛切に感じさせられ、人間とは一体、何なのだろうかという厳粛な思いにさせられる。聖書の中で呈される「人とは何者なのでしょう」という疑問は、神の人間に対する深い愛に基づくものであるため、感謝と喜びに満ちているのだが、バッハの曲から感じられる疑問は、まだ永遠にたどり着く前の人間の切ない叫びのように感じられてならない。

さて、ピアノがない代わりに、親族の家にはヴァイオリンを持って行ったが、その時、筆者の手元にあったのは、安物の楽器商から買った音の良くないヴァイオリンだけで、顎当てもなく、覚えている曲も、子供時代に弾いた一曲くらいであった。

当然ながら、演奏と呼べるような曲は弾けず、親族からのコメントもなかったが、その人と筆者とは全く異なる価値観に生きており、その人はクラシック音楽にも一切、関心がなく、最後まで「音楽など聴く高級な耳は私にはない」などと皮肉を言っていたほどなので、うまく演奏ができていたとしても、やはりコメントはなかっただろうと思う。

筆者がその人をバッハの曲で送ってあげたいと考えたのは、どちらかと言えば、筆者の自己満足であり、その人はバッハの音楽を理解する耳を持っていなかったので、そんなことを全く必要としていなかったのである。

だが、そういういきさつもあって、筆者は、この人と生きているうちに喜びを共有するためだけに会い、この曲を葬儀で演奏しなかったことは、まことに幸いだったと考えている。そして、この曲を弾いているうちに、いかにこの曲が荘厳で、有限なる人間の切ない魂の叫びを感じさせると言っても、それでもやはり、生きることの喜びを感じずにいられないのである。

音楽を演奏するのは、人を死出の旅路に送り出すためではなく、生きていることの喜びを共有するためである。
 
さて、それにしても、初心者が『シャコンヌ』をヴァイオリンで弾くというのは、どう考えても、背伸びのしすぎという考えもあるだろうし、実際、その通りだと言えよう。もし十分に時間があるならば、この曲にたどり着くまでの間に、あまたの曲に取り組み、そのような無謀な挑戦は避けるべきだと思う。

それでも、筆者はもともとこの楽器を思うように弾けるようになるまで、何年越しかのチャレンジだと覚悟を決めていたので、時間がかかることは最初から承知で、焦りもなく、気楽なものであった。

筆者は、ヴァイオリンについては、まずは楽器に友達になってもらうことが大切と考え、決して強引で無理な接近はしないことに決めている。一日に長時間弾くこともせず、難解な箇所を延々と繰り返すようなうんざりする練習の仕方を決してしない。弾けても弾けなくとも、無理をせず、曲が難しく、嫌になりそうになれば、2、3日、「寝かせておく」。

すると、しばらく経って、再び取り上げてみると、思いのほか、前には弾けなかったところが、弾けるようになり、出せなかった音が出て、不思議と上達しているのだ。一体、眠っている間に、なぜ上達があるのか、本当に不思議としか言いようがない。

ヴァイオリンは音作りのためだけに相当な時間がかかる。曲を覚えるのに時間は要らず、運指やポジションを覚えるのも全く大変ではない。とはいえ、重音の連続を美しく聞こえるように弾けるようになるまでには、大変な月日がかかる。低い弦の高音域は、押さえても音にならない。一曲を弾き通すだけでも、最初はエベレスト登頂のようにはるかに遠く感じられた。

それでも、取り組むこと3~4ヶ月くらいの頃だろうか、ある時、動画を見ていると、演奏者がまるで自分に乗り移ったように、力加減、バランスのとり方などについて、ふっと疑問が氷解したのであった。ああ、これで峠を越えたな、あとは時間をかけてゆっくり細部を完成させて行くだけだ…と分かったのである。この曲をある程度、満足するよう弾けるようになるまで、3年も5年もの月日はかからないであろうと分かった。

さて、この記事と話題が異なるが、今準備している書類について、少しだけ書いておこう。損害賠償請求訴訟は、原告の住所地(の管轄裁判所)で提起できる。被告が移送を申し立てても、よほどの理由がない限り、認められないことは、IWJの岩上氏が橋下氏から受けたスラップ訴訟の件でも証明されている。

裁判の管轄を決めるのはあくまで裁判官であって、管轄を争った場合の結果をある程度、予想することは可能でも、事前に断定することは不可能である。特に、岩上氏はジャーナリストで全国各地を飛び回っていることから、移送の申立てが認められなかったと見られる。それでは、被害者のために全国各地を飛び回っている牧師はどうだろう? 少し予想すれば、軽はずみに断定的な発言を記すことは控えようと思うはずである。

また、ブログの記述が名誉毀損に該当しないことを証明するためには、その記述内容が真実であることを裏づけるために被告の論証が必要になるのは言うまでもないが、これは被告にとって大変に骨の折れる作業になるというか、ほとんど不可能であると言って良い。もともと真実でない記述を真実だと論証するなど、誰にとっても無理な相談だ。

また、他人のブログの題名や文章を大量に剽窃して記事やコメントに含めたり、他人のブログに不必要なリンクを大量に貼るような記事を数多く投稿したりすることは、むろん、逆SEOの手法に含まれる。

工作員や親衛隊という言葉も、学生運動の専売特許ではない。コメント投稿者と共同して不正に検索順位を操作した記録があまた残っているのだから、工作員との共同作業と言われるのは仕方がないだろう。

もちろん、裁判手続きを取ったり、警察を利用することは、市民としての正当な権利を行使することであって、「公務員に助けを求める」ことを意味しない。裁判所の書記官はただ事務手続きを行うだけであり、警察は捜査を行うだけで、物事に白黒つけて決着を下すのは彼らではない。これらの人々は市民の救済者ではない。公務員は国民の公僕であるから、行政の職員はサービスを提供し、司法の職員は司法手続きを前に進めるだけである。

筆者がブログで述べているのは、憲法の言う公務員とは、選挙で選ばれた政治家を指すのであって、国家公務員制度や公務員試験の由来は、戦前の明治憲法時代の官吏にあるということだ。つまり、現在の公務員と呼ばれている人々は、旧時代の遺物なのである。

だが、こうした主張も、筆者の専売特許ではないし、何ら筆者が公務員を「罵倒」していることにも当たらない。ましてそれは筆者が市民として裁判を利用したり、警察を利用したりすることを不当であるかのように非難し、押しとどめる根拠とはならない。

こうしたごくわずかな事項を取り上げただけでも、向こうの記述がいかにデタラメで、およそ司法手続きを理解しない人間の言い分であり、勝ち目が薄いかは誰にでもすぐに分かるだろう。反論する価値もないので、これ以上詳しく書く必要もないものと思う。しかも、大半の記事は内容の是非を問う以前に単なる著作権法違反として削除の対象となる。

このような事態だからこそ、ずっと以前から、筆者はラスコーリニコフに学ぶよう伝えているのだ。

筆者は大地にひざまずき、神に感謝を捧げる。だが、それはラスコーリニコフのように罪の赦しを乞うためでなく、罪赦されて、義とされ、復活の命が与えられ、勝利していることを神に感謝するためだ。

クリスチャンは、自分が神に選ばれた者であることを大胆に宣言できなくて一体、どうするのだろうか。万民祭司の今の時代、クリスチャンは一人一人がみな神の預言者であり、祭司なのではないと否定するつもりなのだろうか。一体、そうした揺るぎない聖書的事実を自ら否定してどうするつもりなのだろうか。それは自分がクリスチャンではなく、神に選ばれておらず、神の祭司でも預言者でもなく、「神に疎外されし者」であることを、まさに自分自身の口から告白しているのと同じではないのか? そのようなことは考えるだに恐ろしい告白である。
 
筆者は、冒頭に挙げた御言葉は、まさに筆者のためにあることを信じて疑わない。筆者だけでなく、むろん、すべてのクリスチャンに同じように当てはまる。悪魔はディアボロスすなわち中傷者であり、訴える者である。しかし、キリストにあって、私たちにはすべての訴え、すべての罪定めからの救いと勝利が与えられているのだから、絶大な血潮の価値を確信して、大胆に前進して行くべきなのである。

この土地に、キリストの主権が打ち立てられることを確信して、高い山に登頂した人がするように、筆者は目に見えない勝利の旗を立てる。そして心で言う、主よ、感謝します。あなたの御言葉は正しく、あなたの知恵は十分で、あなたの栄光は揺るぎません。

私たちは永遠に至るまで、キリストの復活の証人であり、自らの証しを公然と高所に掲げるのです。私たちは世の光であって、山の下にある町は、この光から隠れることはできません。

白毫が世界を照らすのではない。私たちの持っているこの小さな光こそ、神の御言葉の真実を証するものとして世を照らすのです、私たちはこの光を隠しません・・・。


<参考までに…>


アルトゥール・ルービンシュテイン


ヤッシャ・ハイフェッツ


ナタン・ミルスタイン


イツァーク・パールマン


アンドレス・セゴビア

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。
 
溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。
 
だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。
 
だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)
 
最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)


どのようなことでも、自分自身でやってみることに価値がある。最初は抵抗感を覚えるような難しいことでも、少しずつ、取り組んでいるとコツが分かって来る。訴状もいわば作品の一つのようなものだ。
  
ものを書くのは、ひたすら考察と推敲の繰り返しである。当ブログの記事も、かなりの回数、書き直している。一度書いたものは二度と書き直さないという人々もいるが、筆者はとにかくひたすら文章を推敲するタイプだ。まして公に出す文書は、それにかける手間暇はすごいものがある。

その作業をこれまでずっと着実に果たして来たからこそ、自信を持って、どんなことでも自分でできると断言できるのだ。これは主イエスがついておられるがゆえの自信でもある。自分自身により頼まず、神により頼んでいるからこそ、言えることなのだ。

筆者は、当ブログを迫害して来た暗闇の勢力の手口を、何年間もかけて研究した結果、その手口には、ほとんど定型化された複合的なパターンがあることを学んだ。恫喝による口封じ、誹謗中傷による圧迫、個人情報の暴露の脅し、猜疑心を植えつけることによる仲間との分断工作、訴訟で反撃しようとすれば、スラップ訴訟だとわめき、権利を主張することを何とかして諦めさせようとすることなど・・・。

こうしたことは、ブラック企業が労働者に権利をあきらめさせようとする時に使う手口と非常によく似ている。だが、筆者はこうしたやり方にも、毅然と立ち向かう術を学んで来た。それ通して、卑劣な訴えにどう立ち向かうかという具体的な方法論を学んで来たのである。学生時代のディベートで鍛えた能力に加え、悪徳社労士、悪徳弁護士のような人たちにも根気強く向き合い、代価を払って、どのようにして自分の権利を守るかという具体的な方法を学んだ。

今やネトウヨが弁護士に大量に懲戒請求を出したりしている時代であり、人権そのものを敵視し、これを葬り去りたいと願っている勢力が蠢いている。しかし、そのような考えにチャンスを与えてはいけないのだ。弁護士を攻撃することの背景には、人権への敵視が潜んでいる。だが、卑劣な訴えには、弁護士の方も黙ってはいない。何百人ものネトウヨに毅然と反撃を開始しているし、DHCのような巨大企業からスラップ訴訟を起こされた弁護士もこれに立ち向かい、今やDHCを被告席に座らせていると聞く。 

パウロは空を撃つような拳闘はしないと言ったが、筆者も負けるような戦いはしない。だが、努力なしに勝利できる戦いなど何一つない。実践の積み重ねでしか、手応えを掴むことはできないのだ。従って、脅されたからと言って、すごすごと引っ込んで取引に応じて妥協などしていれば、そんな臆病な態度では、初めから何一つ学習できない。まして殉教などを語る資格は全くないと言えよう。
  
さて、今回の訴えの中には数々の不法行為に加えて、著作権侵害も重要なポイントとして含まれるので、記事にまとめるために推敲しようと一旦、非開示にしていたコラム欄も公開しておきたい。

当ブログに長年敵対しているブログだけでなく、匿名掲示板でも多数の剽窃が行われている。掲示板のコメント投稿者らの中には、ネタ探しのためだけに、様々なブログを訪問し、出典も示すことなく、文章を無断で剽窃して行く者たちがいる。

剽窃者らは、ブロガーが最も手間を割いて書いた肝心な記事には見向きもせずに、ただゴシップ探しのためだけに様々なブログを訪問している。そして、わずか1~2秒ほどで、前後もわきまえずに、短い文章をコピペして盗み取り、別な場所へ貼りつけるために去って行く。そういう読み方を、ブログの作者は全く望んでおらず、それがブロガーへの敬意でもない。

法律上、出典を示せば、ある程度の引用は認められているが、本文のほとんどがコピペのような文章は、引用の範疇には含まれない。他者の画像や文章の出典を示さずに引用することは、剽窃に当たり、それだけで違法行為として、後日、責任追及がなされる可能性がある。

そこで、当ブログの文章を許可を取らずに引用することは控えていただくようにされたい。匿名掲示板だから、他人の争いだけを高みの見物できると高をくくっていると、思わぬところから足をすくわれることもありうる。

権利侵害を受けている当事者には、被害を語る権利があり、訴えられている人間にも、合法的な範囲で自己弁明する権利がある。もし合法的な範囲を超えて、反論をすれば、当然ながら、その訴えは認められず、かえって罪として追及されるだろう。

だが、当事者でなく、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人を裁き続ける「無数の匿名氏」らの罪も非常に重いと言えよう。もし真に「匿名氏」として非難されるべき存在があるとすれば、それは、当ブログではなく、むしろ、自分は何の苦労も責任も負うことなく、最低限度の自己紹介もなしに、ただ他人の文章を無断でコピペして、評論家然と、知ったかぶりで物事を論じ、部外者にも関わらず、当事者をよそにして、他人の人生を見物材料として高みの見物し、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人々を裁き、争いに火に油を投じようとしている人々であろう。

誰からも被害を受けていないにも関わらず、自分が審判者となって他人の争いに首を突っ込み、事態をよりこじらせるような投稿を行い続ける人々は相当に悪質であると言える。

また、人が自分で公開していない個人情報を無断で収集し暴露することも、プライバシーの侵害であり、不法行為に当たる。どんな理由があっても、本人が公開していない個人情報を第三者が無断で暴き、公表することは許されない。

ところが、牧師の中にさえ、当ブログを「匿名氏」と呼んで、実名暴露せよといきり立つ暴徒のような人々に暗黙の賛同票を送り、彼らの怨念を煽り立て、犯罪行為に焚きつけようとする者がいる。それはカルト被害者救済活動の筆頭に立ち、実際にこれらの暴徒たちに筆者の個人情報を提供したと見られる村上密のような牧師だけではない。

たとえば、以下の記事を読んでいただければ分かるように、筆者と面識のない牧師でさえ、そのような考え方に暗黙の賛同表を送っているのである。

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

異なる意見を持つ人々がネット上で議論することは大いに奨励されて良い。だが、平和な議論と、他人が公開していない個人情報を暴露したり、暴露を助長するような呼びかけを行うことにより、恫喝や権利侵害によって反対意見を力づくで封じ込めようとする行為は、厳に区別されなければならない。

実名でブログを書くかどうかは、あくまで本人の判断であり、ペンネームでブログを記すことは何らの不法行為にも当たらない。個人情報をどこまで公開するかは、あくまで本人の自主的な判断によるのであって、それは他人がとやかく言える問題ではない。実名を出さないから無責任だとか、逃げているなどといった主張も成立しない。

特に、現代社会ではセキュリティ上の観点から、一人一人が慎重な決断を求められており、世間でも、様々な犯罪事件の被害者が二次被害の発生などを抑えるために、個人情報の公開を自ら制限することは当然視されている。

にも関わらず、キリスト教界の牧師たちには、以上のような認識がまるで欠けているのである。
この教界には、表向きには、弱者を助ける優しい正義の味方のような顔をしつつも、実際には、自分よりも目下と考えている信徒らから、ほんの少しでも自分の論を批判されただけでも、相手を赦すことができない思いになり、生涯をかけてその相手を恨み続け、相手が一般信徒であっても、個人情報を暴露するなどして、何年間かけてでも徹底的に報復せずにいられないという、ヤクザ顔負けのような牧師たちが跋扈している。

自分が信徒に批判されて、少しでも面子を傷つけられたと感じると、一人を寄ってたかって大勢で痛めつけ、個人情報を暴き、徹底的に辱めようとする。むろん、相手が女性であろうと、一般信徒であろうと、一切の容赦もデリカシーもない。さらに、自分の手を汚さないために、一見、自分の教会とは無関係に見える信徒を焚き付け、手先のように利用して、復讐を加える。

しかも、その執念深さたるや、まさに異常のレベルである。些細なことで10年間も誰かを恨み続ける。法律には時効があるのに、彼らはその時効さえ無視し、法も無視して、私刑を加える。たった一件のコメントでさえ、頼まれても削除に応じない。一旦人を憎むと、恥知らずな嘘のプロパガンダを終わりなく流布して、徹底的にその人の人生を滅ぼそうとする…。

世間は、これがキリスト教の宗教組織の醜い現実の有様であることをよく見れば良いだろう。筆者の知り合いには、他宗教の信者も数多くいるが、自らの知人に対して、このような陰惨な復讐劇のような光景が繰り広げられているキリスト教界を見て、これに人々は少しでも近寄りたいと考えるだろうか。このような悪しき、忌むべき牧師たちを抱える宗教組織に自ら関わりたいと、人々は考えるだろうか。

むしろ、筆者に対して彼らが行っている仕打ちを見れば、筆者でなくとも、このような業界からは、誰しも「エクソダス」を唱えるのが当たり前であろう。当ブログで批判されて向きになって言い返している牧師や信徒たち、信徒の個人情報を言いふらす信徒、嘘八百を垂れ流して信徒を傷つける信徒、掲示板で騒ぎを拡大している信徒らを見て、こういう人たちに関わりたいと思う人は、誰もいないだろう。要するに、カルトを批判している人たちが、一番カルト化しているわけで、この光景を見ただけで、この宗教は何かがおかしいと世間は考え、近寄りたくないと思い、逃げ去って行くのは当然であろう。

こんなものが真実なキリスト教徒の姿と言えるはずもない。一般人以上に異常である。このような人々の出現は、キリスト教の名折れでしかないと、筆者ははっきり言っておきたい。そして、このような人々が、他の宗教団体を敵視して、正義漢ぶって争いをしかけるなど、百年早いと断言する。

だが、こういうことが起きたのも、牧師制度が既得権益となり、政治家と同じように世襲制となり、利権そのものと化していればこその事態である。牧師制度などというものが導入されたこと自体がとてつもない誤りであり、牧師制度が徹底的に腐敗すると同時に、キリスト教界全体が腐敗し、完全にセルフで塗り固められた搾取と虚栄の世界と化したのである。

筆者は生涯の終わりまでキリスト教徒であり、聖書への信仰は失わないつもりだが、こんなにも醜い宗教組織は、聖書とは何の関係もない、堕落した世界でしかなく、関わりたいとも思わない。世間はよくよくこうした事件を通して、この宗教の何たるかを学ぶことだろう。筆者は幼い頃からキリスト教界を知っており、通りすがりの人間としてコメントしているわけではないことも重く見られると良い。

牧師たちは自教団・自教会内での地位さえ守れれば良く、そのためならば、どんな手段を使ってでも、信徒の口を封じれば良いと考えているのかも知れないが、そのようにプライドと自己保身がすべてとなった姿が、客観的に見て、あまりにも幼稚で醜く忌まわしいものと映り、キリスト教の評判をさんざんなものにしていることに、自分で気づいていないのである。

安倍政権と同じだ。内実のない者が職務的に高い地位に就き、自分よりも賢明な者たちに横暴な権力を振るっている。だが、偉そうに君臨していられるのは国内だけで、世界からは呆れられている。要するに、自分を客観的に見る能力が欠けているのである。

かつて筆者の前で、プロテスタントの牧師の未熟さ、幼稚さ、傲慢さについて思いの丈をぶちまけ、非難の言葉を残して、カトリックへ去ると述べた信者がいた。筆者は、プロテスタントに絶望してカトリックに去ることが正しい選択だとは思っておらず、キリスト教を改革して母性原理を補うべきと唱えるペンテコステ運動をも支持しないし、禅や、ニューエイジ思想を取り込むことにも賛成できず、統一教会やその他の異端を支持するわけでもない。

筆者はカルト団体を支持しないが、他のカルトの犯した罪がどうあれ、今日、これほどまでに徹底して腐敗堕落したキリスト教界は、そもそも他宗教を非難できる筋合いにはないと思う。まずは牧師制度という階級制度を撤廃すればよろしい。牧師制度こそ、諸悪の根源であり、どの異端よりもさらに悪質で、完全に間違った制度であると、声を大に言わざるを得ない。
 
カルト被害者救済活動の暴徒のような信徒を生んだのも、牧師制度であり、キリスト教界を声高に非難し、憎しみの言葉を発し続けているKFCを生んだのも、牧師制度である。この制度こそ、まさに信徒同士を戦わせるすべての悪の根源になっていることが、なぜ多くの人々には分からないのだろうか。

牧師制度には聖書的な根拠がない。使徒パウロは信徒らから献金を受けとることができる立場にあったにも関わらず、何が何でもその権利を使うまいと考えて、身を粉にして働いた。初代教会には、信徒からの献金で生計を立てたような宗教指導者は、誰一人として存在しなかった。

今日の牧師たちは、羊を食い物にする強盗であり、霊的な中間搾取者階級でしかない。彼らには自分たちの利権だけが大切なのであり、信徒は野望を実現する手段でしかない。だからこそ、彼らは思い通りにならない信徒に徹底的に復讐を果たし、信徒を闇に葬ろうとするのであり、このような醜い精神は、悪魔から来るものであって、どこをどうやっても聖書に基づいて生まれて来るものではない。

だからこそ、当ブログでは、彼らはグノーシス主義者だと、再三、言っているのである。筆者がこの論稿を書いているのは、今日のキリスト教界が、全く聖書に基づかない別な教えによって陥落されていることをはっきりさせるためである。

誰が本当のキリスト教徒であるのかは、神ご自身が証明される。悪党を支援した牧師は恥を見ることになる。

さて、当ブログについて虚偽の非難を繰り広げている人々に公に反駁することは、訴訟が始まってからで良いと思っているので、ここに書いていることは、あくまで予告であって、公の反論は後日、きちんと手順を踏んで行うつもりであるが、それに先立って、いくつかかいつまんでトピックを挙げておこう。
 
労働紛争を闘うためには、会社の登記簿謄本を取り寄せるのは必須条件なので、会社と闘ったことのある人が、会社情報の調べ方を知らないことはあり得ない。だが、料金を払ってまで、会社の登記簿謄本を取り寄せたいと願う人がいるかどうかは別問題だ。仮に登記簿謄本を取り寄せなかったとしても、それだけで「会社情報の調べ方も知らない」と決めつけることはできず、そういう決めつけを発表すれば、誹謗中傷となるだろう。

さらに、「…という説もある」とあえて疑問の余地を残している記述を基に、「ガセネタを流布した」と言い切ることはできず、そのような主張こそ、かえって「ガセネタ」とみなされる恐れがある。むろん、掲示板からの情報だと記されていないものについて、勝手に掲示板の情報だと決めつけ、それを基に非難を繰り広げることも、誹謗中傷である。

さらに、「キリストの香り」「キリストを着る」といった言葉は、クリスチャンとしては最低限度、知っておかねばならない聖書表現である。この表現を知らないのであれば、せめてネット検索だけでもしていれば、すぐに分かったはずである。むろん、どちらも筆者の「お得意の造語」などではない。むしろ、「一人修道院」といった訳の分からない言葉の方が、間違いなく造語に該当するだろう。

「殉教」を「言論テロ」と決めつけたい者たちがいるようだが、もはやこうした稚拙な論には呆れて反論する気にもならない。テロを主張するためには、まずは具体的な犠牲が出てなくてはならないが、殉教の精神を説くことによって出る犠牲とは何を意味するのだろうか?

日本でも、長崎を含め、殉教したクリスチャンは、すべての信者らから尊敬を受ける存在である。殉教者を尊敬する気風は、世界のすべてのキリスト教に共通する。にも関わらず、今日、殉教の精神を説くことだけで、これを「カルト」とみなしたり、「言論テロ」と決めつける者がいるとすれば、その人は果たして本当のクリスチャンなのかという疑問が生じるのは当然である。

むしろ、彼らが自分たちの論を批判する言動をすべて「言論テロ」や「犯罪」と決めつけていることこそ、最も激しい言論テロではないのか。

筆者が、当ブログに対して長年、行われている嫌がらせ行為を刑事告訴の対象としたことを嘘だとわめきちらしている人々がいる。

だが、実際には、刑事告訴が成立しているのは事実であり、ちょうど警察が追加された中傷記事についても、長い報告書を書いているところである。筆者は、ゴールデンウィーク明けに、当ブログに対して加えられたさらなる誹謗中傷の記事を警察に提出し、これからも、改めて追加資料を提出する予定である。

警察が作成している報告書は、量刑に関わって来るものであり、むろん、筆者もさらに調書を提出する。このような話が、全て筆者による作り話だと、読者は本当に思うのだろうか? 

しかも、刑事告訴された事件について、警察は捜査義務を負う。捜査しなければ、職務放棄に当たるわけで、事件が解決してもいないうちに、警察が告訴人を「見離す」という事態は起き得ない。

警察は一般に警告を文書で出さない。もしそういうことをするとしたら、裁判所の仮処分等であろう。また、民事調停委員は中立的立場で話し合いに臨んでいるため、申立書の内容について個人的な意見を言う立場になく、まして職務として臨んでいる調停の申立内容を「分からない」と発言すること自体があり得ない。

むろん、筆者が提出した申立書の趣旨は、具体的な損害賠償請求であるため、「神学的議論」には当たらない。もしも神学的議論で埋め尽くされた申立書が出されるようなことがあれば、裁判所がそれを受け付けない。裁判所は、訴訟であれ、調停であれ、申立書に不備があれば、訂正を求め、訂正が完了するまで、決して審理を進めない。
 
申立人が、自ら費用を払って調停を申し立てたこと自体が、話し合いによる解決を目指す姿勢を意味する。そこで、相手方が、申立人の訴えを「棄却する」という答弁書を出したにも関わらず、「自分は話し合いを強硬に拒否された」と主張しても、それが認められることはまずない。

期日当日、開始時刻間際に出した答弁書の内容は、その日の議題に取り上げてもらえず、従って、その日中に回答が出ないのは当然である。それを「回答できないからしないのだ」と決めつけるのは無理筋の話である。調停では、申立人と相手方は対面しないため、必要な説明はすべて調停委員から行われる。もし説明不足があるならば、それは委員に言わなくてはならない。

第二回目の期日が決められれば、「今後の見通し」が立ったことになるので、「今後の見通しが立たず」という主張は成立しない。民事調停への出廷は任意なので、調停に呼び出されたことで損害を受けたという主張は成り立たない。
 
さらに、筆者はネット上を含め、どこにも「随想」を発表した事実がなく猫を飼っていたこともない。KFCに夜行バスを使って訪ねたのも、人生に一度きりの出来事であり、夜行バスを使って月に何度もKFCに通った事実などない。むろん、会ったことのない人間に「ラブレターのようなメール」を送った事実もなく、当ブログのグノーシス主義研究は、大田俊寛氏以外にも、荒井献氏、ハンス=ヨナス氏など、グノーシス主義研究で著名な研究者の論を度々引用しており、一人だけの研究に依拠して書かれていないことは明白である。当ブログのグノーシス主義批判が研究者の「受け売り」であると主張できるだけの具体的な論拠は何もない。

また、「Sさんへの手紙」の中には、どこにも「実名」は出されていない。この手紙が書かれたのは、2010年10月であり、当ブログに対する1千件のコメントを伴うバッシング記事がネットに掲載されたのは、2009年11月である。従って、この手紙が紛争のきっかけになったという主張は時系列的に成立しない。むろん、この手紙が和解のために書かれたものであることは、一読すればすぐに分かる。当ブログがカルト被害者の裁判を狂言呼ばわりした事実もない…。

この他にも、終わりなく事実は列挙できるのだが、わずかにたったこれだけの事実を挙げただけでも、当ブログに向けられている非難が、いかに嘘八百のデタラメであるかは、誰にでも十分に分かるだろう。そうした主張には、いかなる具体的な証拠も示されていない。真実性を証明するためには根拠がなくてはならないが、そこにあるのは嘘、ごまかし、すり替え、トリックだけなのである。

これでクリスチャンを名乗ろうというのだから、まさに呆れるような詐欺としか言いようがない。さらに、筆者から見て、最も気になる点は、どうにも彼らには「御霊に導かれるクリスチャン」という言葉に、拒否反応を起こさずにいられない傾向が見受けられる点だ。

筆者は当ブログにおいて、自分が聖霊に導かれるクリスチャンだと決して誇示したり、それを自己顕示の材料としたりはしていない。さらに、筆者は「自分たちだけが正しい信仰を持っている」と一度も述べたことがない。そもそも当ブログは、筆者個人の信仰告白を述べたものでしかなく、団体による告白ではないのだ。

さらに、既存の教会組織からのエクソダスを唱えたのも、当ブログが初めてでは全くない。内村鑑三、古くはハドソン・テイラー、ジョージ・ミュラー、それから、オースチンスパークスや、ウォッチマン・ニーなども、みな同じことを主張して、既存の教団教派から離れて行った人々である。それにも関わらず、筆者が「エクソダス」を主張していることが、まるで筆者特異の極めて新奇な概念であるかのように考えている人々があるとすれば、その人々は、キリスト教史を知らなさすぎると言えよう。
 
それはさておき、いずれにしても、「御霊に導かれるクリスチャン」に対する拒否反応こそ、彼らが、一体、なぜ当ブログに対して、これほど執拗に絡み続けて来たのか、その答えを解く最も核心となるだろうと思う。この問題を突いて行けば、隠れていた最後の動機が明らかになるという気がしてならない。

どうして彼らはこれまで聖霊派をあれほどまでに敵視し、徹底的に叩き続けて来たのか? そのような行動を取る動機として何が具体的に隠されているのか? ただ単に過去にペンテコステ派の異様な集会を見てつまずいたといったような表面的な動機ではないだろう。そこには「聖霊」そのものに対する憎しみが隠れているのだと筆者には感じられてならない。まさにステパノに向かって歯ぎしりした群衆や、イエスをベルゼブルと呼んだ人々のように・・・。 

2018/05/14 (Mon) 神の国の働き人
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
  
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。
 
このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

・Eden Mediaの語る偽りの「悟り」としての「人類超人化計画」(アセンション)について(終)

さて、Eden Mediaの偽りを語る総仕上げとして「悟り」という動画に触れておきたい。この動画は、東洋思想の「悟り」とニューエイジの言う「アセンション」が本質的に同じ概念であることを示している。これまでの東洋思想の偽りを語るシリーズの総まとめとして、その内容の虚偽性について触れておきたい。

今日、ペンテコステ運動もそうであるが、こうした偽りの覚醒体験をキリスト教界に持ち込もうとしている勢力がある。だが、このような覚醒に関わってしまえば、信者はキリスト教徒として生きることはできなくなるであろう。これは堕落した人類の生まれながらの力を開発して、人が自力で神に至ろうとする試みだからである。

今日のバベルの塔は、目に見える形で、天にまで届くれんがの塔を建設する代わりに、「意識の上昇=覚醒」によって、人が自己の力で天にまで至ろうとするものである。神秘主義の言う「アセンション=悟り」とは、人類が自力で死を打ち破って永遠にたどり着こうとする悪魔的な試みなのである。

グノーシス主義は、すべての対極にあるものの融合を目指しており、そこには「男女の統合」も含まれている。割礼を受けることのない男性的なパワーと女性的なパワーの「融合」によって、世界を生み出す源とされる原初的エネルギーを回復して、人間が自力で創造の過程を逆行して世界の根源にまで至り着き、永遠と一体化しようとする試みがそこにある。

以下の動画の解説を通して、私たちは彼らが「光」と「闇」との融合という錬金術を目指していることが分かる。これはグノーシス主義が「神と人」、「男と女」、「精神と肉体」などのあらゆる対立するものの融合を目指していることを表している。
 

あなたは現代社会の欺瞞に立ち向かい、奥底に眠る意識を開花できるか?闇から光へ、今新たな時代が始まる。

光り輝くものをイメージする事では悟れない。
暗闇にあるものを意識に持ってくる事のみで悟れる。
【カール・ユング】

 
しかし、聖書は言う、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは無い一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)

別な訳では、最後の部分は「やみは光に打ち勝たなかった」となっている。聖書においては、光と闇との間には何の接点もなく、この二つは決して交わることがない、異質なものである。男女の融合、光と闇との融合、神と人との融合など、対極にあるものの融合は、人類が自力で成し遂げられることでは決してない。

しかも、聖書は、世界を形作ったのは、神のことば(ロゴス)であると述べるが、東洋神秘主義は、世界の万物は「気」というエネルギーによって出来たとする。エネルギーは、それが形作るものに、名をつけることもなければ、名を呼ぶこともなく、意味内容も一切伴わない。だが、ロゴスは、名をつけ、意味を表す。ロゴスなるキリストによってこそ、万物は造られたのであり、彼は名と体(本体と影)とを完全に一致させることのできる真のリアリティなのである。

聖書はこのように、世界は意味を持たない混沌・漠然としたエネルギーから作られたのではなく、神の精緻なご計画に従い、極めて論理的な意味内容を伴うものとして創造されたと告げている。

しかし、世界が混沌としたエネルギーから生まれ出たとする東洋神秘主義は、造られたものにも混沌以外の意味を持たせない。東洋神秘主義者は、万物はただ混沌としたエネルギーから生まれたのであり、人類はそのエネルギーへ回帰することで、永遠との一体化が成し遂げられると言うが、原初的エネルギーに溶け合うことを目指すだけで、決して自己存在の中に単独で意味を探そうとせず、一人一人に個人としての価値や意味を認めない。

彼らは、被造物の堕落を認めず、人類が生来のエネルギーを引き出すことで、そのまま神の永遠に至ることができるかのように偽りを教える。そして、その堕落した悪しき力によって、人類が自分たちの力で目覚めて「一つ」になれると主張するのである。
 
そのようなことは、聖書が述べていることとは真逆である。東洋神秘主義者の言うう"ONENESS"(一致)は、まさにバベルの塔の精神の再現であり、同時に、聖書におけるエクレシアの悪質な模倣でしかない。

聖書は、創世記において、人類が堕落した時点で、正しい男女のあり方も失われてしまったと告げている。神はエバはこう言われた。

「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)

さらに、アダムには神はこう言われた。

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」」(創世記3:17-19)

地上における男女の関わり(というよりも、アダムとエバが築いた人類最初の家庭)は、人類の堕落によって、幸福と調和に満ちた一致の場ではなくなり、大いなる不幸の源になったのである。夫は妻に君臨し、支配しようとし、妻はそれによって大いなる苦しみを受けるが、それでも夫から離れることができない。夫は妻子を養うために身を粉にして働くが、大地は実りをもたらさず、苦労が積み重なり、ついには老いて死が人を飲み込む。家庭を維持し、ただ生きるために、夫婦は並々ならぬ苦労を負わねばならなくなり、その後、人類初の兄弟であるカインとアベルが生まれても、たちまちカインによる兄弟殺しが起きた。

人類の堕落によって、人間関係は徹底的に罪に汚染されて壊され、戦争、暴力、殺人を生んで行き、文字通り、家庭も含め、すべての人間関係が汚染され、堕落し、破壊されたのである。

そのような呪われた人間関係とは異なるあり方を人が得るためには、人は生まれながらの堕落した本能的なパワーによって、他人に関わろうとすることをやめて、キリストにあって、古き自己に死に、信仰を経由して、夫や妻を愛し、家族を愛し、他者と関わるという方法しかない。

キリストを経由しなければ、夫と妻の間にも、兄弟姉妹の間にも、他者との間にも、真実な信頼関係や愛情が育まれることは決してないのである。信仰を経由しない肉の絆が生み出せるのは、せいぜい敵意と憎しみでしかなく、そこからはどんな一致も生まれて来ない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25)

生まれながらの人間の本能的なパワーが、神の永遠とは何の関係もないことは、ロトの時代も、ノアの時代も、人々は
「娶ったり、嫁いだり、飲んだり、食べたり」していたが、そうした行為が、神から見て全く評価の対象とならず、堕落したこの世の有様として、根こそぎ滅ぼされてしまった事実からも分かる。

彼らは地上になにがしかのものを持ち、人間関係を誇り、自分の所有物のように、家庭や地位や財産を誇っていたのであろうが、神の目から見て、それらは全く評価の対象とはならなかったのである。

この世の人々が誇っているものは、神の目には一切、永遠と接点を持たないことごとくむなしいのである。うわべには価値があるように見えるかも知れないし、なにがしかの幸福があるように見えるかも知れないが、それは動物的生存以上の意味を全く持たない堕落した人間の営みでしかなく、神が人に望んでおられたこととは関係がないものである。

しかし、キリストは、十字架において死なれ、復活されたことにより、信じる者にとって新しい永遠の命となられた。キリストは、ご自分の死によって敵意の隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにして神と和解させた。
ただこの方によって、信仰を通して互いに一つに結ばれることによってのみ、信者はエクレシアとして一つに結び合わされることができる。

本来は、信者の家族関係も、このようなエクレシアの一致に入らない限り、つまり、キリストへの信仰に立脚した、キリストを経由した愛情の上に築かれない限り、それはただの堕落した地上の肉なる関係として、分裂、混乱、憎しみ、争いなどの悲劇を決して免れられないのである。

「あなたがたは、皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)


しかし、東洋神秘主義思想は、決してキリストへの信仰に立たず、十字架の死を経由していないのに、人類が神の教会であるエクレシアを模倣して、アダムの命によって一つになり、団結して神の永遠に到達できると考える。しかし、十字架の死を経由していないからこそ、彼らは自分たちの偽りの十字架を造り出し、自死によって死を乗り越えようとするしかないという忌むべきカラクリが生まれるのである。

東洋思想は、時間軸を逆にして、人類が自ら生まれ出た創造の過程を逆行し、根源的なエネルギーに回帰することで、永遠と一体化できるとする。それが以下の動画にも表れているように、「嬰児的回帰」という概念で現れる。

聖書では、イエスが「誰でも幼子のようにならなければ、天の国に入れない」と述べた箇所があるが、このことは、決して東洋神秘主義が言うような「根源的なエネルギー」にへ回帰するための「嬰児的回帰」を指すわけではない。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:1-5)

ここで語られているのは、エネルギーの話ではなく、神の国における序列の話である。イエスは、この世においては、年長者が敬われ、子供は軽んじられるが、天で重んじられたいならば、信者は自らを低くして仕える人にならなければならない、と言われたのである。

これは東洋神秘主義者の主張する「嬰児的回帰」(原初回帰)とは全く異なるものである。

むしろ、聖書が教えていることは、信者一人一人が信仰において成長して「キリストにある成人」に達することであり、東洋思想の「嬰児回帰」とは逆である。

だが、肉にあって歩んでいる限り、決して人はキリストの身丈まで成長することはできず、赤ん坊のままだと聖書は言う。

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。

お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
」(Ⅰコリント3:1-3)


霊的乳飲み子状態からキリストにある成人へと成長するために避けて通ることができないのが、肉に対する十字架の死の働きである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。<略>キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:19-21,24)

クリスチャンが霊的にどれだけ成長するかは、その人の内側で生まれながらの自己(=肉)に対してどれほど十字架の霊的死が適用されたかに比例する。肉に対していつまでも十字架を経ず、生まれながらの肉のパワーによって生きている者は、いつまで経っても嬰児のままなのであり、それは決して聖書があるべき信者の姿として教えている状態ではない。

生まれながらの自己、生まれながらのアダムの命、そこから来る力や衝動を否み、どれだけ日々の十字架を取ってイエスに従ったか、その過程に従い、初めて霊的に正しい識別力が得られ、成長が起きるのである。

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの道あふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:12-15)

従って、東洋思想が目指している目的は、何から何まで、聖書とは「さかさま」である。
 

さて、この動画は、まず作成したファンドの名前が"IN SHADOW"(影の中で)と、極めて悪趣味な名前となっていることに注目したい。この名前を見ただけで、この動画がキリスト教とは何の関係もない、「光と闇」との統合を目指すオカルト的な世界観に基づくものであることは明白であろう。

影とは暗闇のことであり、同時に、本体の影でしかない被造物を指す。それは本体なるキリストのいない、被造物だけからなる闇の世界、虚無の世界である。
  


冒頭では「皆既月食」と思われるシーンが登場する。
これはニューエイジの概念では「太陽と月の融合」を意味する。
 


その「輪」は、すべての神秘主義者が、宇宙の根源だと見なしている「対極にあるものの融合」としての「永遠の循環」、すなわち、「和」=「輪」=「道」=「虚無の深淵」=「空」を指している。

この「和=輪」が、おそらくチャクラと思われる三つの輪に分割される。チャクラとは神秘主義で用いられる概念であり、これも「輪」を意味することは前回までに説明した。
 


また、この「三つの輪」は、グノーシス主義の「父・母・子」という偽りの三位一体を意味すると思われる。
つまり、男性的なエネルギー、女性的なエネルギーと、その交わりの結果として生まれる「子」が、グノーシス主義の偽りの三位一体である。

また、ヒンドゥー教では、「ブラフマー」、「ヴィシュヌ」、「シヴァ」の「3神」が、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能を持つ、三人で一組の「神」とされる。この「三神一体(トリムールティ)」とも関係があるかも知れない。
 


ここで、「四角い地球」(=キューブ)という、おかしなシンボルが登場する。
 

(注:Eden Mediaの嘘。人類を支配しているのは「キューブ」ではない!)
 
そして、早速、「キューブは”悪魔のシステム”を表す」などと字幕がつき、人類はまるで家畜がくつわにつながれるように「キューブ」のとりこになって、悪魔崇拝者の奴隷として支配されているとされる。

この世を仕切る秘密結社の悪魔崇拝者たち…
キューブは”悪魔のシステム”を表す。
人は毎日好きでもない仕事に追われる。
しかし、住宅・車ローンのために働く。
来る日も、来る日も…
(右上の時計)
気付けば、魂は吸い取られ…
仮面が…
仮面をかぶって日頃のうっぷんを晴らす。

ここで「キューブ」とは、一体、何なのか?という疑問が生じよう。

早々に種明かしをすれば、「キューブ」とは、キリスト教を指す。

この動画の製作者は、神秘主義者であり、オカルト信仰者であるから、キリスト教を悪者にして非難するために、この動画を作ったのである。

ただし、この動画では、「キューブ」とは、本来のキリスト教という意味から転じて、「西欧キリスト教文明・文化を土台として生まれた現代社会システム」といった意味をも持つ。

この動画は、現代のバビロン化された社会は、西欧キリスト教文化を基に生まれて来たものだとして、根本的にキリスト教を悪者として責任を問いたいのである。そして、東洋思想の方にこそ人類救済の秘訣があるという偽りを広めるために、この動画が作成されたのである。

さて、「キューブ」とは、聖書においては、神の完全を表す形である。神殿の中でも最も聖なる場所であり、神の霊の訪れる至聖所は立方体である。
 

エゼキエル書に従って図案化された神殿の図。

「1.立方体の形。この理由により、昔の幕屋と宮では、全き栄光の完全性は至聖所の立方体の形によって象徴されていた(出三六・一五~三〇)。立方体は完成を表す図形だからである。新しいエルサレムも立方体として示されている(黙二一・一六。なおエゼ四八・一六を参照)。これが教えているのは、新しいエルサレムは完全な天の至聖所だということである。

エーリッヒ・ザウアー(Erich Sauer)「十字架のキリストの勝利」"The Triumph of the Crucified" 第四部 世界の完成と天のエルサレム 第三章 完成された神の宮 から
 

新エルサレムは、神殿の完成であるから、「キューブ」は新エルサレムにおいて完全になる。クリスチャンは今ここへ向かっている途上にあるのだと言えよう。

「しかしキリストにあって、すべては完成されて新しくされた。キリストは道を備える偉大な御方であり、扉を開く御方である。キリストにあって、パラダイスと至聖所は開かれたのである。今や、すべてが成就されている。天は開かれている。しかし、天はエルサレムであり、エルサレムは至聖所であり、至聖所は天の栄化されたパラダイスである。」(同上)

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブル12:24)

(*ちなみに、前回引用したDr.Lukeの「エロヒムの祝宴」というポスターは、以上の御言葉から取られた言葉である。ここでの「エロヒム」とは「天使たち」のことである。だが、KFCの信者らはすでに「神々」になってしまっているので、彼らの言う「エロヒムの祝宴」とは、スピリチュアリズムにおける「エロヒム」(=下級神)と同じ概念で、要するに、彼らは自分たちがエロヒムだと言っているのである。)
 
聖書では、立方体は神の完全を表す形であるにも関わらず、Eden Mediaは「キューブは悪魔のシステムだ」として、悪質な概念のすり替えを行い、暗にキリスト教を敵視し、聖書のまことの神を非難する。そして、そこからの「脱出」として「アセンション」を唱えるのである。

だが、真実を言えば、人間を閉じ込めて奴隷化しているのは、「キューブ」ではなく、「和の精神」である。グノーシス主義的な「輪(和)」こそ、人間を奴隷にして逃がそうとしない悪魔のシステムなのである。



その後、突然、動画では「赤ちゃんには”7つのチャクラ”が備わる。」と話が飛躍する。もちろん、このような話は、ニューエイジやヨガでしか使われない概念であるが、要するに、この動画は、人は誕生した時が、一番、何者にも妨げられず、汚染されない、力強い生命エネルギーを持っていると言いたいのである。
 



その後、この動画は、いかにこの世がサタンの奴隷的なシステムによって動かされ、人々がそのシステムに閉じ込められ、苦しめられ、騙されながら、悲惨な生活を送っているか、世の中の不条理を延々と語り出す。

そこで描写されるこの世の人々は、グロテスクで、侮蔑的にディスカウントされた醜い姿をしている。この動画が、厭世的で悲観的な世界観に立って、この世をサタンの牢獄として侮蔑し、見下している様子がよく伝わって来る。要約すれば、その内容は大体、次のようになるだろう。

この世の人々は、悪魔の支配下に置かれ、知らないうちに操られ、奴隷的なシステムの中に閉じ込められて、本来の生命エネルギーを吸い取られて疲弊している。

たとえば、学校教育の弊害、ワクチンの害、戦争、軍需産業、企業による搾取、役人の腐敗、TV業界のマインドコントロール、利権を守るための情報操作、大衆を家畜化しておくためのセレブ、映画、スマホ、ゲーム・・・

人々を支配するツールには終わりがなく、市民たちは無分別に宣伝広告に煽られて、ひたすら化粧品や筋肉増強剤で自分を飾り立て、「オレオレ、ワタシワタシ」と、自分の欲望に突進して、我を失っている。そうこうしているうちに、食べ物はひどく汚染され、人々の健康が害されることで製薬会社が儲かり、科学者、政治家、エリートたちが、大衆を使って動物実験を繰り広げている…

もしも人々が自分たちが操られ、奴隷化されていることに気づいて声を上げようものなら、早速、彼らは狂人として牢獄へ送られる。人々は「もの言えば唇寒し」の状況で暮らし、国を支配するエリートたちは、とても人間の良心を持ち合わせているとは思えないサディストばかりである…

これが、あなたがたの生きるこの世のシステムであり、この世には、真実も正義も希望もなく、ひたすら絶望的で悲観的な世界観があるのみなのだ…。




動画は、このような地上の悲惨はみな「キューブのせい」ということにしてしまう。だが、もちろん、それは嘘である。

そして、動画は、このような悲観的な世界から脱出しなければならないと語り始める。

それが「覚醒=アセンション=悟り」である。いわば、グノーシス主義者の考案した、この世からの偽りの「エクソダス」の方法なのである。
 
どこにでもありそうな幸福な一家の主人が登場する。が、彼は不幸に見舞われ、自死するしかない状況に追い込まれる。この父親だけでなく、大勢の人々が仮面の生活も成り立たなくなり、自死へと追い込まれている。

死なない限り、この不幸な地上世界からは逃れる手立てはない。

と、動画は訴えているのである。

こうして、Eden Mediaの動画は、ひたすら絶望的な地上世界の有様を描き、そこに生きる人々を徹底的な侮蔑の眼差しで見下ろした後で、その生き地獄のような状態から逃れるためには、自死しかないという方向へ人々を誘導して行く。死によって初めて、人類には自分自身から真に解放されて、死を乗り越えて「覚醒」する道が開ける、と暗示されているのである。

「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」

と同じ価値観である。
三島由紀夫の最期と同じ、死による自己完成という偽りの思想が奨励されているのである。
 
 
自死が遂げられた瞬間にこそ、人類は「覚醒」する、と彼らは言う。
 
 
 
「エジプト死者の書」にも記されているという「アセンション」
 

 
「死」との一体化による「超人化」への道!

 
松果体が開かれて邪悪なエネルギーが活性化し、

 
存在しない「霊の波動」を受け、

 
超人的なパワーが生まれる!

 
「覚醒」した超人の意識は、高次元へと上昇していき、

 
死によって自己の殻が取り払われたので、宇宙と一つに融け合い、

 
宇宙に漂う人類全体の集合意識"ONENESS"と一つに融合する。

 
その後も、人類の集合意識はさらに上昇して行き、

 
ついに自らの力で天に昇り、目指していた「道」(=日輪=永遠=混沌)との一体化が成し遂げられる!

 
陰と陽、男と女、太陽と月、神と人、対極にあるものが融合し、

 
人類は自ら宇宙の原初的なパワーへ回帰することによって、
「精→気→神→虚」の回帰が成し遂げられる。
人類は自分を生み出した宇宙の根源へとたどり着き、
嬰児的回帰を成し遂げ、
永遠の混沌(道)と一体化して安らぐ。

 
これぞ涅槃の境地である。

 
こうして覚醒を遂げた者は、邪悪な目が開け、人は神のように善悪を知る者となる。
 
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)



これが彼らの目指す「アセンション」の内容である。しかしながら、これは、グノーシス主義的な「さかさまの世界観」であり、Eden Mediaは、聖書の神の完全を表す「キューブ」を諸悪の根源であるかのように非難しているが、実際には、彼らが理想としている「和(輪=道=太陽神=永遠の循環=虚無の深淵)」こそ、最も人間を奴隷的に貶めて支配し、自由を与えない諸悪の根源である。

「和の精神」なるものが、うわべは美しい一致や団結に見えても、どれほどはかりしれない人々を死に巻き込んできたのかは、改めて説明する必要もないであろう。この動画は、まだはっきりと明言していないだけで、聖書の神を敵視し、キリスト教への敵視の上に作り上げられており、悪魔の行った悪しきわざを全て聖書の神に責任転嫁しようとしているのである。

おそらく、終わりの時代、人々の心が荒廃し、社会の有様が荒廃・悪化して行くのは、以上のような偽りのアセンションを経て、人類の悪しき集合意識につながる人々が多くなることと無関係ではないと筆者は考える。人の心も体も、異常な方法で変容させられるため、常識では考えられないほどに堕落した人々が出現するのである。

しかし、聖書は、悪くなる者は悪くなるにまかせよと告げている。時代の状況が悪化し、あざける霊が人々の心を支配したとしても、それと同時に、聖なる者は、より一層、聖なる者とされることを、聖書ははっきりと告げている。

そこで、我々のなすべきことは、こうした時代だからこそ、より一層、キリストと共なる十字架において自己を否み、天の父なる神の御心を求め、それを行って生きることである。

世間で何が流行り、人々が何を考え、時代の潮流がどうあるかに一切関係なく、どれほど多くの人々が偽りの覚醒体験に飛びつくかにも関係なく、神は個人個人のわざを見ておられ、それに応じて、人々を裁かれ、報いをなされる。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)

私たちクリスチャンが求めているのは、神秘主義者の目指すような「善悪を知る木の実」ではない。私たちは肉なる自己を肥大化させ、自分を高めるだけの「二度目の林檎」を食べることを固く拒否し、自分の衣を改めて血潮によって洗い清め、イエスの十字架の死と一つとなって、イエスという羊の門を通って都に入り、命の木に対する権利を与えられることを心から願う。

クリスチャンは、完成した神殿であり、至聖所である都を目指して歩いている。そして、私たちのためには、すでに死んで下さった方がおられるため、神秘主義者らのように、自分で自分のための十字架を改めて作り出す必要もなければ、自力で死を乗り越えようとする必要もない。

黙示録は言う、「渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」と。ここに「価なしに」と書いてある。自分で得るのではない。集団で得ようとするのでもない。しかも、そこには、誰もが神の国に入れるわけではないこともはっきりと書かれている。神の国に入るための条件が列挙されている。神の御言葉を守らず、それに従って生きてもいない人々が、人類の集合意識にアクセスしたからと言って、どこにもたどり着くことはない。

聖書は、「それぞれの行いに応じて報いる」と、はっきり書いている。集団でどんなに連帯して悪質なわざを成し遂げ、どんなに責任の所在を曖昧化したつもりでも、各自は、はっきりと自分のしたことに対して、一つ一つ、神と人との前で責任を問われることになると告げられているのである。

それが真実である。聖書の世界観は、個人を起点として始まり、個人で終わる。そこで問われるのは、どこまでも神と人との個人的な責任関係である。地上では、人間同士が互いに関わり、繋がり合うが、人間関係についても、人は神を介して責任を問われることになる。他者を騙し、陥れ、口を封じ、もはや誰も悪事に声を上げる人がいなくなったとしても、その悪行については、神がその人に責任を問われる。

しかし、東洋思想は、個人を見失わせ、個人を集団の中に埋没させることによって、個人の価値を無化するだけでなく、人は必ず、自分のした行いに対して報いを受けなければならないという基本的な事実をも見失わせる。

そして、東洋思想は、人々を神の御言葉をわきまえるという知性によらず、堕落した本能的なエネルギーに従って、衝動的に生きさせることによって、自分を高めてくれそうなものに見境なく飛びつかせ、訳の分からない集団的な暴走のような現象を引き起こし、人々に取り返しのつかない罪を犯させるのである。その罪が、最後に大きく膨らんで至り着くのが、自死という自己破壊である。これは、我が国が戦中そうであったように、個人的なレベルだけでなく、集団的なレベルで、集団死となって現れることもよくある。アセンションが目指しているのは、人類が自らの死によって死を克服することであるから、必ず、それは必ず人を自ら死に至らしめるという結果を伴うのである。

「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファでありオメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」

”霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」(黙示22:10-17)

人にはたった二つの選択肢しかない。セルフを十字架において否んで、キリストに従い、永遠の命を得るのか、セルフを保って、キリストを拒んで、アダムの命に生き、死に至るのか。クリスチャンは全世界の前で、そのどちらを選ぶのか、自分の生き方を証明させられ、試されているのである。

もう一度、以下の御言葉を引用しておきたい。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

以上の御言葉は、人が心で愛着し、手の中で握りしめているものがすべて――それが自己の命であれ、自分自身であれ、家族であれ――、キリストの十字架の死を経ていないものであれば、どんなにそれを誇りとし、よすがとしていても、必ず、その関係は敵対関係に変わり、無価値なものとなって失われることを示している。

キリストの十字架の死に渡されることなくして、永遠の価値を持つものは何もないのである。殉教とは、キリストの十字架の死の地点において、人が絶えず自己の天然の命を否み続けることの集大成である。十字架における霊的死を経ていればこそ、信者には朽ちることのない神の永遠の命が与えられているのである。

もしも人が十字架において絶えず自己を否むことを拒み、自分の天然の命、生まれながらのエネルギー、それに基づいて築き上げられた関係や、名声、欲望、地位などの獲得物を保存しようとするならば、アセンションへの道しか残されているものはない。その道を行けば、自己を楽しませ、偉大にできるように錯覚できるのも、ほんの束の間で、最終的に待ち受けるものは、死以外には何もなく、得ようと思っていた命さえ、失わて終わることになる。

KFCのDr.Lukeの近年のメッセージは、ニューエイジの神秘主義思想から強い影響を受けたものであり、完全に聖書に基づく正しいキリスト教の信仰からは外れているが、Dr.Luke自身、自らのメッセージが、ニューエイジの着想に大いにヒントを得たものであることを否定していない。

以下の記事に見るように、彼は今日のキリスト教界においては霊的息吹を失った形骸化した教えがあるだけであり、その代わりに、ニューエイジには「人が神になる」という変容(覚醒)という「肉汁たっぷりのステーキ」が保存されており、キリスト教界では失われているその「肉汁」の部分を、自分たちは「取り返さねばならない」と主張する。

Dr.Lukeは常にそうであったように、徹底的なキリスト教界への侮蔑と敵視に立って、形骸化したキリスト教界を凌駕するためならば、どんなものでも取り入れると言わんばかりに、ニューエイジという神秘主義思想の「神髄」となるべき核心部分を、自分たちは教えの中に取り込んだと告白するのである。

そこで、Dr.Lukeが、堕落した「肉」と深く関係する「肉汁」という言葉を使っていることは興味深い。その「肉汁」こそが、実のところ、「割礼を受けない人間の生来の本能的なパワー」を指すのであって、「蛇」の力にによって、人が肉的なパワーを肥大化させて、超能力を得ようとするニューエイジの「アセンション」に通じるのである。

これまで、「気」とは、人間の堕落した肉に働く悪魔的なパワーだと述べて来たが、Dr.LukeやEden Mediaの語る「マインド」は、ちょうど「気」の言い換えである。

彼らの言う「マインド」は、「思念」などと呼びかえることもできようが、それは要するに、理知的な思考のことではなく、より本能的で情意的な「思い」を意味し、人間の堕落した魂の働きである。神秘主義やニューエイジにおいては、この「思念」は、肉体の限界を超える、超能力を発揮するエネルギーとなるものである。もちろん「マインド」は「霊(Sprit)」とは別物であり、神の聖霊とは何の関係もない、霊に由来しない、魂的・肉的な力である。

Dr.Lukeは、以下に挙げる記事において、「私たちのマインドには創造する力がある」と述べて、真の霊的創造は「霊(Sprit)」から始まるという事実を無視・否定しているだけでなく、その根拠として、何と驚くべきことに、聖書のバベルの塔の記述を引き合いに出す。それを通しても、彼の主張する「マインドの創造力」なるものが、神の聖霊に由来するものでなく、反キリスト的なパワーであることは明らかである。

また、Dr.Lukeが、人類のエスタブリッシュメントは爬虫類人種だと述べているデイヴィッド・アイクの名を上げて、その説を荒唐無稽として全否定するどころか、興味深いものとして引き合いに出し、半ば肯定する文脈で、「人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)」などとして、人はバラバラの個人個人では意味をなさず、個々人が「人類の集合意識」にアクセスし、これを通じて「さらに高次元の霊的な存在」と接続して初めて高次の存在になれるかのように述べていることも、彼がどれほどニューエイジ思想から深い影響を受けているかを伺わせる。この「ONENESS]なるものこそ、実質的な「和の精神」のことである。

Dr.Lukeがしきりに主張する「波動」も、ニューエイジの思想では至る所に見られる概念である。ニューエイジの神秘主義者らは、「松果体」の活性化や「覚醒」のために特定の周波数を聴いたり、以下に示す「エロヒム」から「波動」を受けることが有益だと説いたりしている。

しかし、前にも説明したが、「波動」というのは、この世の物理的時空間の中でしか起き得ない物理現象であって、聖書における霊的な世界には、そもそも時空間がないため、波動など起きようがないのである。従って「波動」という言葉が出て来た時点で、それは霊に属する事柄を、この世の物理現象の話にすり換えているとすぐに判断できるのである。

従って、こうした事実から、Dr.Lukeの唱えている以上のような説は、すべて「肉的(物質的)な領域に造り出された霊の偽物」だということが明らかとなる。

Dr.Lukeの唱える「マインドのトランスフォーメーション」は事実上、ニューエイジの「覚醒」(アセンション)と同じものであり、彼はすべてのペンテコステ運動の指導者と同様に、人間の堕落した本能的な力を、キリストの十字架において否む必要を主張するどころか、それをあたかも神の神聖な霊の働きであるかのように装いながら、その堕落したパワーを増幅し、肥大化させることで、人類の超人化(アセンション)を促しているのである。
 

クリスチャニティとニューエイジ 
投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02 

投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02「(このふたつ表向きは実によく似ている。が、本質的にはニューエイジはキリストの否定。しかし、神学オツムで空回りするキリスト教徒よりは霊的世界との触れ方は深い。キリスト教徒は肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされているが、ジューシーな部分はニューエイジに取られている。われわれはそれをゲットバックする必要がある1) コチコチなオツムの人はただ「ニューエイジは危険だ、危険だ」とヒステリックに叫ぶだけだが、きちんとした見極めが必要。そう言ってるあなたのオツムはどうなのよ、と言いたいわけ。

さて、David Ickeなる人物を知っている人は、最近ではけっこう多いと思う。英国人、サッカー選手に憧れるもリューマチで挫折。その後BBCキャスターとして活躍するが、原稿を読まされるだけの仕事に飽き飽き。緑の党の広告塔となり、BBCを解雇され、90年代の初期に霊的覚醒を経験。

その後、世界を巡る間に爬虫類伝説が各地にあることに気づき、世界のエシュタブリッシュメントはスメールの子孫である爬虫類人類(レプタリアン)であると指摘。彼らがいわゆるシェイプシフトする動画などもYouTubeにはころがっている。日本では大田龍氏と親交が深かった。一時は故小石泉牧師とも交流があった模様。

彼の論はきわめて興味深い。いわく、人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)。この大海の意識はさらに高次元の霊的なエンティティとつながっている。

ところがこの肉体の中に閉じ込められている間に五感によって作られた偽りのリアリティーのカプセルの中に束縛されている。人は恐れによって自分の中に閉じ篭っているのだ。それが場を作り、そこにはある種のエネルギーが存在する。

それを生み出すのが爬虫類脳、つまり私の言うところの大脳辺縁系だ。ここを刺激されると人間は弱くされる。自己保存するための闘争が世では繰り広げられているが、それはこの爬虫類脳を刺激されて、マニュピレートされた結果だ。彼はここでマニュピレートする存在をイルミナティとかメーソンと言うわけ。

レプテリアンが存在するかどうかはわからないが、これはきわめて面白い。ある意味私が指摘しているとおりなのだ。人は欺かれている2) 誰に?Ickeの言うようなエスタブリッシュメントというよりは、霊的な存在による(Eph 2:2)。そのヘッドであるサタンは全人類を欺く存在である(Rev 12:9)。人は爬虫類脳である大脳辺縁系を刺激され、恐れや情欲によって振り回されているのだ。

内的な世界モデルは自分の内面を投影したものであり(☞鏡像原理)、よって人により世界をどう把握するかはテンデンバラバラ。一応その最大公約数的な部分が常識とされるわけだが、この常識というやつが危ない。特にニッポンのものはやばい。さらに危ないのがニッポンキリスト教のそれだ。<略>

われわれがある種の霊的なオーラを発していることは明らか。真に御霊に満たされているクリスチャンの醸す雰囲気は普通とは異なる。その霊的な場に人々が引き寄せられることは当然。イエスも多くの、特に虐げられた人々を吸引した。

また私たちのマインドには創造する力があることはバベルの塔の件で神が証言している。彼らが思い巡らすことは妨げられることはないと(Gen 11:6)。そして言葉にもその力があることは何度も書いている。

われわれはこの物理的世界と霊的世界の狭間に生きている。神と悪魔と人は三角関係のダイナミックスに置かれている。諸霊の影響を受けているのが世の中の人々、そしてオツムだけのキリスト教徒だ。彼らは霊の世界、あるいは霊の場を知らない。その場の振動(波動)がこの物理的世界に現出するのだ。

中東情勢も、個人の経験も、みな原則はひとつ。われわれのフェイスによる言葉はその霊の場に波動を起こす。フェイスによって霊の場の波動、すなわちサブスタンスをこの世界に現出させる(Heb 11:1)。

イエスは内にいます父の言葉をご自身の霊の波動としてとらえ、それを語り出された。これが死者を生かし、水をワインに変え、癒しやしるし・不思議をなしたのだ。物質界も場の波動であり、霊的世界も場の波動。そのふたつの領域を結ぶのがわれわれの言葉だ。内なる霊の波動による言葉を語り出すとき、それは何かを生じる。

Ickeも言っている、マインドのトランスフォーメーションこそが鍵だ、と。目の前の世界、現象を変えるのではなく、自分の内が変われば自ずと世界も変わると。まことにそのとおり。小さな自分というカプセルから飛び出せ!船から水面に一歩を踏み出したペテロのように。神のレーマがあれば水面も固体化するのだ! 
   

 「自分の内が変われば自ずと世界も変わる」などと言って、神に目を向けさせず、ひたすら「自分の内」に目を向けさせていくのは、グノーシス主義者の常套手段である。グノーシス主義者はもともと神を人間と同一とみなしているため、神を見いだすためには、人が自己を見つめることが必要だと言って、自分自身に目を向けさせる。それはどこまで行っても、被造物だけしかおらず、まことの神が不在の世界である。そこでは、「神」は人間の認識を通してしか得られないものとされ、あたかも被造物の付属物のごとく貶められ、被造物に存在を乗っ取られているからである。

Eden Mediaは、神秘主義の独自の概念である「松果体」や「サードアイ」に、まるで聖書に起源があるかのように見せかけながら、人類超人化計画を推進しようとする。あまりにも荒唐無稽なため、あえて紙面を割いて分析する必要もないようには思うが、以下では、笑い出したくなるような、こじつけとしか言えない語呂合わせが展開されている。
 
 聖書における「松果体」について…

古代人は松果体(PINEAL GLAND)を知ってた。
マインドとの繋がりを。
それは難解だった。
実際、聖書も触れてるくらいだ。

それでは、聖書に松果体(PINEAL GLAND)が登場する
節句を挙げていこう。
「創世記 32章30節」

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、
なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)
と名付けた。

ペヌエル=Peniel="Pineal Gland"(松果体)」


だが、ここで語られているのは、単なる語呂合わせだけではなく、聖書において、ヤコブがヤボクの渡しで神と格闘した際、「もものつがい」を外され、「顔と顔とを合わせて神を見た」ことを、Eden Mediaはグノーシス主義の立場に立って、これを「覚醒」による「真の自己の発見」と結びつけようとしているのである。
 
本来のキリスト教の解釈では、ペヌエルで神との格闘の中でヤコブの「もものつがいが外された」ことは、ヤコブの中で、生まれながらの古き人が、主と共なる十字架につけられて霊的に死んだことを意味する。もちろん、それが起きたのは、キリストの十字架よりも前の時代であるから、ヤコブに起きたことは、キリストの十字架の霊的予表である。

「もものつがい」が外された時、ヤコブの生まれ持った天然のエネルギーの中で、最も強靭で手に負えなかったアダムの堕落した命に由来する本能的な力が、神の力によって「デス・タッチ」を受けて、霊的に死を経たのである。

ヤコブという人物が、かなりわがままで狡猾な策略家で、自分が望んだものは何が何でも手に入れるまで絶対に後には引かないというタイプだったことは、聖書の色々な記述から明らかである。だが、そんな性格ゆえに、ヤコブの人生には様々な苦難が連続して起こった。

むろん、そうしたヤコブの強い性格の中には、神への信仰を決してあきらめないという長所も含まれていたが、同時に、それはヤコブ自身が自分ではどうすることもできない、彼らの頑なで手に負えない天然の内なる自己をも意味していた。

しかし、ペヌエルでは、それまでのヤコブの人生に絶えず働いていた肉的なエネルギーに、神の側からの霊的死が適用されて、そのエネルギーが死んで無効化されたのである。神との格闘の中で、十字架の霊的死に触れられた後で、ヤコブは足をひきずるようになった。そのことは、ヤコブの人生にそれまでずっと働いていた強力な肉的エネルギーが死んだことを意味し、その時から、ヤコブはそれまでのように生まれながらの「古き人」に生きるのではなく、キリストの十字架の死とよみがえりを経た「新しい人」に生きるようになった。すると、それまで、彼の人生に絶え間なく襲いかかっていた困難や試練が徐々に取り去られて行き、神の祝福は、以前よりももっと滞りなく豊かにヤコブの上に流れ出るようになったのである。

キリスト教の正統な解釈では、ペヌエルは「キリストの十字架におけるアダムの自己の死」を象徴する場所である。すなわち、人間の堕落した生来の肉的なエネルギーがすべて神によって触れられて死ぬ場所である。神を見るためには、人は生まれながらの自己に対する死を経なければならないのである。

ところが、グノーシス主義者は、このようなペヌエルの正統な意味をまるで逆にしてしまう。彼らは、ペヌエルで、ヤコブは「鏡」の中に映る自己を見つめてこれを「神」だと認識し、天然の自己を保存してこれに死ぬことなく、肉的なエネルギーの中で「覚醒」して、自ら神に到達したと、話の趣旨を捻じ曲げてしまうのである、

Eden Mediaでは、ペヌエルのエピソードは、ヤコブが十字架の霊的死によって自己を否んだ結果として、神との出会いと祝福の中に入れられたことを意味するのではなく、むしろ、ヤコブが自ら自分は神であるという認識に達して、ヤコブの内側で「アセンション」が起き、彼は超人的な能力を手にして神からの祝福に与り、自ら神と同じものになった、という正反対のとんでもない解釈を施されているのである。 
 

「”ペヌエル”で何が起きていたか説明すると、
ヤコブは夜明け前になっても起きてたんだ。
そんな彼は最高神の天使と格闘中だった。
それは”YAH”(ヤハウェ)の天使だ。
ヤコブが最高神の化身の天使と格闘していると
ヤコブはももの関節をはずしてしまう。

それでも、ヤコブは最高神から
祝福をもらうのに必死で
「祝福するまでは離さない」と言った。
すると、最高神は彼に祝福を与え、彼の名前を
”イスラエル”に変えた。

ヤコブは「顔と顔とを合わせて神を見たので、
その場所を”ペヌエル”と名付けた。
「面と向かって、神を見たため…」



さらに、ここで、Eden Mediaの解説者が、「神(God)」と呼ばずに、最高神(Most High)」などという聞きなれない名を持ち出していることにも注意したい。もちろん、「最高神」などという呼び名は、聖書の神が、唯一の神であることを否定する立場に立っていなければ、出て来るはずのない言葉である。
 
「最高神」という存在は、他にも「下級神」がいて、神は一人ではないという前提なしには生まれない呼び名である。そこで、Eden Mediaが「最高神」と呼んでいるのは、グノーシス主義における「真の至高者」だということがすぐに分かる。つまり、彼らの言う「神」とは、聖書の唯一の神ではなく、グノーシス主義の「至高者(=鏡=虚無の深淵)」のことなのである。
 
このことは、Dr.Lukeが近年、「神」という呼び名を使わずに、やたらと「エロヒム」という言葉を多用している事実をも思い起こさせる。「エロヒム」とは、以下にも記すように、スピリチュアリズムの世界では、極めて広く使われている独自の概念なのである。



Dr.Lukeの出しているポスター。エロヒム(神々)とはKFCの「覚醒」した信者らを指す。


以下は、Dr.Lukeが2016年7月4日に書いた「あなたがたはエロヒムだ!」と題する記事。これはKFCの事実上の「覚醒宣言」であった。

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW! 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35


ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!<後略>



むろん、以上で述べられているようなDr.Lukeの聖書解釈は、完全に荒唐無稽で成立し得ないものであることは、別の記事の中で、すでに説明したので繰り返さない。以上で、Dr.Lukeが「われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!」などと述べているのは、間違いなく、ニューエイジの「アセンション」と同一の「超人化」を指しており、KFCの信徒らが「覚醒」に至り、自らを「神々」とみなし始めたことを宣言したものである。
 
スピリチュアリズムにおいても、「エロヒム」の概念は広く使われているが、それが何を意味するのかを見てみよう。以下の記事では、「エロヒムとは天使だ」と言われてはいるものの、そこで言う「天使」とは、「最高神」から直接、創造され、「最高神」のパワーを受けとる「被造物」もしくは「下級神」といったような意味合いである。

また、スピリチュアリズムでは、「エロヒムは高い、効果的な波動を持つ強力な存在」などと言われていることも興味深い。やはり、「霊の波動」などという怪しげな概念を強調するDr.Lukeのメッセージと非常に重なる部分が多く、Dr.Lukeがこのような従来のキリスト教とは全く無縁の用語を強調し始めた理由が、ニューエイジやスピリチュアリズムの影響にあったことが推察される。




 
Eden Mediaは、神秘主義者の言う「アセンション」に、あたかも聖書的な根拠があるかのような虚偽の説明を続ける。

次は「マタイ6章22節」
読み上げると「体のともし火は目である」
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが…」

Yehushua(イエス・キリスト)…
”人の子”と呼ばれる方
または、罪の贖いのために死んだ方は、
目を”単数形”で話す。

しかし、我々には”二つの目”が…
となると、Yehushuaが話した”目”は
違う目だったはずだ。
”一つの目”と言うからね。

彼は”マインドの目”を語ってた。
それは人間に洞察力を与える目のことだよ。
だから、この”光”…この”目”が…

Yehushuaが話していた
この一つの目が濁っていると…
そして閉じていると、
あなたの身体は全身暗い。
Yehushuaは松果体の存在を知っていただろう。

なぜかって?
彼は最高神”YAH”の息子で、
人間を自分自身に摸って
デザインしたわけだからね。
だから、最高神に摸って、人間をデザインしたということは、
その体の器官やその機能を知った上で創造し―
それらが”身体”と”魂”に与える
影響を知っていたはずだからね。



だが、以上のような記述も、真っ先に「聖書は神による人間の取扱説明書」などと主張していたDr.Lukeの記述を思い起こさせる。Dr.Lukeは、自らのブログの解説を、次のように記していた。

「Dr.Lukeのキングダム・フェローシップ・ブログ。聖書を宗教から解放すべく自然科学者の視点から解き明かす。聖書は神による人間の「取り扱い説明書」であり、物理的世界と霊的世界の関係を啓示しており、スーパーナチュラル。WHOも「霊的健康」なる概念を提唱するが、『霊精神身体医学』を開拓する。



しかし、これはどこから見てもツッコミどころ満載のデタラメな記述である。その根拠として、まず、第一に、聖書は「自然の人は神の霊に関する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント2:14)と述べており、霊の事柄は霊によってしか解釈できず、魂で理解することはできないと教えているため、Dr.Lukeの言うように、「自然科学者の視点から聖書を解き明かす」ことは絶対に無理であることがすぐに分かる。なぜなら、自然科学は、人間の魂による探求によって生まれたものであり、神の霊とは無関係であり、必ずしも信仰に基づかないからである。

また、聖書は、神が人間に与えられた約束(契約)であり、人間の側でも神に対して守るべき義務を定めている。聖書は神と人間との間に結ばれる契約であって、決して、Dr.Lukeの言うように、人間の「取扱説明書」ではない。聖書を人間の「取扱説明書」とみなすDr.Lukeの考えの中からは、人間本位の考えが読み取れるだけであって、聖書の中心は、人間ではなく、まことの神ご自身であり、聖書はキリストを中心とする物語であるという概念が抜け落ちている。やはり、ここでも、被造物しか存在しないグノーシス主義の世界観を見て取れるのである。

さらに、仮に聖書が「物理的世界と霊的世界の関係を啓示している」としても、聖書が一環して述べていることは、物理的世界と霊的世界との接点は、十字架で死なれたキリストという、ただ一人の「神と人との仲介者」(Ⅰテモテ2:5)なしには絶対に成立しないということである。このキリストの十字架の死と一つとなって、人が古き自己に死ぬことなくして、人が神に受け入れられ、神の霊と一つとされることは絶対にないという点が完全に抜け落ちている。

さらに、Dr.Lukeの引き合いに出す「霊的健康」なる概念を唱えるWHOは、以下の通りの紋章を使っている。これを見れば、WHOの唱える「霊的健康」なる概念が、どういうものであるかがよく理解できるのではないかと思う。このようなシンボルに従って行けば、霊的健康どころか、霊的病以外には待ち受けているものはないだろう。

 

 世界保健機関(WHO)で使われている「アクレピオスの杖」

 
 
救急車で使われている「アクレピオスの杖」


以上のWHOや救急車で使われているシンボルは、「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、ギリシア神話で名医とされるアスクレピオスが持っていたと蛇の巻きついた杖を指す。むろん、聖書とは何の関係もない概念である。しかし、今日、この「蛇」のからみついた「杖」のマークが、医療・医術の象徴として世界的に広く用いられている。

この杖は、『龍の正体』でウィルソンの昇進の儀式の際に師匠が持ち出して来た魔術師の杖を思い出される。もちろん、シャーマンの杖に、蛇はいない。なぜなら、そこに絡みついている蛇は、悪魔に由来する見えない邪悪なエネルギー(=「気」)を指しているからである。



このような事を考え合わせても、Dr.Lukeが唱えている「霊精神身体医学」なるものは、邪悪な霊的パワーによって人体を変容させる内丹術とほとんど変わらない、非科学的かつ非聖書的な偽りの概念であると言えよう。

彼が目指しているのは、グノーシス主義者と同じように、邪悪な起源を持つ人間の堕落した魂の世界や、堕落した肉的なパワーを、神の御霊と「融合」させるという身体的錬金術なのである。

そして、Dr.Lukeと同じように、Eden Mediaも、本来は、霊によって解釈することしかできない事柄を、この世の物質的世界の諸現象に置き換え、霊に属する概念を、肉に属する概念にすり替えて行く。

むろん、以下のマタイ第6章22節の記述も、「サードアイ」や「松果体」のことを指しているのでは全くないが、Eden Mediaはそれも文脈を捻じ曲げて解釈してしまう。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22)

以上の御言葉は、神の霊が人の内に住んで、御言葉の意味を啓示し、それによって光(正しい知識)を与えることがなければ、人間は自分だけでは何事も正しく理解し、判断することができないということを示したている。確かに、ここで言われている「目」とは、霊の目のことなのだが、それは、キリストの霊と一つになった人間の霊が、霊の中の直覚において、御霊を通して、神の啓示を受けて、何が神の喜ばれることで、何がそうでないかをわきまえる(見る)ことを示している。

一言で言えば、「目が澄んでいる」とは、信者が神の聖霊から御言葉を通して霊的啓示を受けることを指しているのであり、「松果体」やら「松果体を流れるエネルギー」やら「サードアイ」なる概念とは全く何の関係もない話である。そうしたものは、たとえ百歩譲って、作り話ではなく実在すると仮定したとしても、徹頭徹尾、この世の物質世界における物理現象の域を出ない、霊的な事柄とは何の関係もない話である。

しかし、Eden Mediaは、本来、神の「霊(Sprit)」によってしか見極められないはずの事柄を、肉に属する「思念(mind)」の話にすり替え、ひたすら、人間の生まれながらの自己の内側で、すべてを自己完結させて、神に至り着く道を切り開こうとする。そして、「ヤコブはペヌエルで最高神から松果体を開いてもらい、超能力に目覚めたのだから、あなたもそれに倣うべきだ」などと、とんでもない解釈を語り出すのである。

「だから、松果体をデザインした時
主はその明確な役割を知っていたんだ。
”セロトニン”や”メロトニン”
といったホルモンを分泌する
この松果体という小さな器官は―
人間に”夢”や”幻想”をもたらす機能も果たすんだ。

だから人々は鮮明なイメージをマインドで見れるわけだ。
その場で体験しているかのように…。
実際は睡眠中なのにね。スゴイ。

両目は閉じてるのに、

鮮明なイメージが見れるんだ。

例えば、数年前に亡くなった親族が
鮮明に浮かび上がったりする。
または学校のイジメっ子が
現れることもあったり―
そんな彼と遭遇してしまう
恐怖を感じたりする。

(注:こうして死者に言及したり、やたら不気味で不快なイメージばかりを描くところに、Eden Mediaの悪趣味がよく表れている。そんなイメージしか見られない「第三の目」など、開眼する必要は全くないものである。)

あるいはあなたのマインドで創造される
不思議でアブストラクトなイメージを見れたりもする。
それは実際、存在しないが、
あなたはそれを両目が閉じた状態で見れるんだ。

最高神はヤコブを祝福し、彼の松果体を開いた。
そうだ、その通り。
”最高神”が…彼の松果体を開いた。

要するに…あなたは自分の部屋でヨガのポーズをとり
サードアイを開こうとしてはならない。
それは違う。
そんなことすると、あらゆる悪質な存在に隙を与え、
精神分裂症になるだけだからな。
自分で開こうとするならな。

そうでなく、あなたは最高神に集中し、

彼を賛美し、
最高神のガイダンスに従い、
彼に開いてもらうべきなんだ。
それが正しいやり方だ。

では、あなたが、最高神の霊に

身体を引き渡すなら何が起きると思う?
その魂は?
神の息吹(ルアク)は?
聖書によると、”神の息吹(ルアク)”は何をもたらすと?
それはあなたを完ぺきな真理へと
導いてくれると教える。
洞察力を与える。

だから、こうした奇妙なモノは必要ない。
ヨガ、メデイテーション、マントラやら…
周波数やら、トーンやら、
松果体を開くにはね…
最高神に集中すれば、彼が開いてくれる。


Eden Mediaは、「最高神(=グノーシス主義における真の至高者)」を賛美していれば、自然と、「真の至高者」が「松果体」の開き方を教えてくれて、「サードアイ」が開眼するのだと言っていることは、Dr.Lukeの唱えている「セレブレーション」の内容を思い起こさせる。要するに、KFCの「セレブ」は、ニューエイジが考える「霊的覚醒(=アセンション)」を呼び起こし、「人が神になる」ための場なのだと見て良いだろう。

 



以上の記述において、Eden Mediaはいつもの例にならって、一方では、「ヨガや、瞑想や、マントラや、周波数や、波動やらは要らない」と言いながら、他方では、「彼らが言うことは必ずしも嘘ではない」と真逆の結論を述べ、それらを肯定する。そして、「サードアイ」やら「松果体」やらと言った概念は、オカルト的・魔術的・悪魔的なものではなく、使い方次第によっては十分に有益なものとなるため、ニューエイジの思想の価値を「見直す」べきだ、などと人々に訴え、悪魔的起源を有する呪われたものを、クリスチャンが信仰生活の中に積極的に取り入れるよう促していくのである。その主張は、Dr.Lukeとほとんど変わらない。

「言った通り、古代人は松果体を知ってた。
世界中の文化を見渡せばわかる。
それが古代インドだったり、ヒンドゥーだね。
あとは古代中国や…日本もそうだ。
古代エジプト、古代マヤ。
どこ行こうが、皆、松果体を知ってた。

どっかのヨギーが、ヨガを通して、
サードアイの開き方を教えてるからと言って…
彼らは最高神と繋がりを持たない未熟な形で
開こうとしているかもしれないが、
彼らが言うことは、必ずしも嘘ではない。

要は、サタンは何でも悪用できる。
例えば、火を使って、放火することも出来れば、
調理することもできる。
それは、あなたとその意図次第。

では”サードアイ”や”松果体”と言うコンセプトは
本当に悪質でオカルトと言い切れるのか?
”悪魔”で”魔術的”だと…
考えるべきだ。」


 
先に述べたDr.Lukeの主張と、Eden Mediaと驚くほどそっくりである。彼らは「ニューエイジは危険だ」とか「サードアイや松果体などはオカルト的だ」と決めつけず、もう一度、本当にそれらが間違っているのか、考え直すべきであり、ヒステリックに拒否反応するのではなく、「きちんとした見極めが必要」だ、などと言うのである。

これは、かつて蛇がエデンの園で、次のように人類に尋ねたことの繰り返しである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。

今日も、蛇は人類に語り掛ける、「ほんとうに神はあなたにそれを禁じられたのですか? ニューエイジは危険だ、魔術だ、オカルトだから、関わってはならないと、神がほんとうに言われたのですか? 

いや、あなたはもう一度、それについて考え直してみるべきです…。あなたはヒステリックな思い込みに陥っているだけです。きちんとした見極めさえできれば、ニューエイジだろうと、オカルトだろうと、神秘主義だろうと、実に無害で、有益なものなんですよ…。あなたが考えているような危険なものじゃありません。あなたはせっかくのチャンスを、自分の狭い了見のせいで、台無しにしているんですよ…」


このような主張に、決してクリスチャンは耳を傾けるべきではない。Dr.Lukeは「聖書を宗教から解放しなければならない」などと述べて、聖書を「キリスト教」の枠組みからも取り出さなければならないなどと主張するが、その結果、起きるのは、あらゆる忌むべき思想と聖書との「混合」である。

もしDr.Lukeの言うように「オツム」が崩壊して滅びに至るような人々が出現するとすれば、それはキリスト教徒ではなく、むしろ、クリスチャンを名乗りながらも、「二度目の林檎」を取って食べ、ニューエイジの神秘主義思想を内に取り入れた人々である。なぜなら、神を畏れることを捨て、真理を捨てた者が、正常な意識を保つことはなく、蛇の言うことは常に嘘だからである。

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

ニューエイジの思想に従って、「人類の集合意識」にアクセスし、これと融け合い、さらなる「高次の霊的意識(=虚無の深淵)」と融合するために、「アセンション」を経ることは、「この世の君」であるサタンの意識に直接アクセスする権限を得るのと同じことであるから、そのような「覚醒」が、もし信者の内で起きれば、その信者は、サタンのための開かれた通路となり、もはや二度と聖書の神への正しい信仰に立ち戻ることはできまい。

前回の記事の冒頭で、黙示録に登場する「獣の刻印」に関する御言葉を引き合いに出したが、そこでは、獣を拝む者には「すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」と記されている。この獣の刻印なるものが、具体的に何であるのかは定かではないが、今、分かっていることは、この獣の刻印が押される場所が、「額」すなわち、「サードアイ」と同一の場所であるか、もしくは、ヒンドゥー教で、「聖なる手」とみなされている右手だということである。

このことは、獣の刻印が、悪魔の支配の印であるにも関わらず、あたかも聖なる刻印であるかのようにみなされて、彼らが「聖なる体の部位」だと主張するところに選んで押されるということである。

むろん、獣の刻印が何であるかは分からないとはいえ、神秘主義思想家らの言う「サードアイ」とは、それ自体が、獣の刻印の予表のようなものだと筆者には思われてならない。

そこで、KFCの「セレブレーション」も含めて、ペンテコステ運動の集会や、それに関わる信者たち、Eden Mediaの言う「超越瞑想者の集会」や「サードアイの開眼」など、「クンダリーニ覚醒」によって「蛇」の邪悪なエネルギーを呼び覚まし、サタンに通じる「集合意識」にアクセスして、暗闇の勢力に扉を開く手段には、決して関わらないようにと勧められるのみである。

そのような「覚醒」は、聖書のまことの神への礼拝や賛美とは何の関わりもなく、そのような悪魔的礼拝に関われば、クリスチャンはもはや神の子供ではなくなり、命の書から名前を削られ、救いからも除外されて、神の敵となり、真実なクリスチャンに戦いを挑む暗闇の兵士とされた上、外の暗闇に打ち捨てられるであろう。

このような忌むべきオカルト思想に関わりながら、クリスチャンが同時に神の民であり続けることは不可能である。汚れたものとは分離せよ、という聖書の原則を厳に守らねばならない。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

・獣の刻印としての「サードアイ」~人が暗闇の勢力に自己を開くことの危険~

「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるが良い。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(黙示13:15-18)

Eden Mediaは、聖書に基づく警告であるかのように見せかけながら、実は反キリストの思想を宣伝する媒体となっていることはすでに述べたが、この媒体は、時を追うごとに、その正体をあからさまに見せ始めている。直近の動画の一つ「【4月】全能の目・松果体のお話。」では、冒頭から、「地球上の誰もが目に見えない形で、つながりを持つ。それが”暗黒エネルギー”や”暗黒物質”とのつながりだ。そして、それを利用し、あらゆるコトが実現できる。」などと、とんでもない話が始められる。

むろん、「暗黒エネルギー」「暗黒物質」などを通して、人間同士が互いにつながり合い、超能力を発揮できるなどという話が、キリスト教とは何の関係もないことは明白である。「暗黒エネルギー」「暗黒物質」といった名前を聞いただけで、これはオカルトだと判断して差し支えない。

この動画では、「暗黒エネルギー」とは何を意味するのか、具体的な内容は示されていないが、これまでの話の流れから察すると、それは「気」や「マインド」のことであり、要するに、「クンダリニー(蛇)」に由来する悪魔的なエネルギーであることが、説明なしでも十分に理解できる。

要するに、冒頭からこの動画は、「悪魔に由来する邪悪な暗黒エネルギーを活性化して、あなたも我々と共に覚醒し、超人となり、人類全体でつながり合って、神に反逆しましょう」と言っているに等しいのである。

この動画の後に続く「悟り」では、そのような路線に沿って、人が暗黒エネルギーに覚醒するとどうなるのかという話が続行される。それについては次回以降に説明するが、「全能の目・松果体のお話。」の動画で語られるのは、人類を超能力に目覚めさせる鍵となる「サードアイ」の開眼というテーマである。



世界中の古代文明は”なにか”を知ってた。

我々に”能力”があることをな…
”超能力”だ。

念動、テレパシー、幽体離脱、
これらはすべてリアルだ。
実際起きる。
実在する。

けど仕組みは?
それは
ここ最近のエビデンスによると
「松果体」がこれらの能力の鍵を握るという。

それでは人間の身体で
最も重要な器官の一つの話をしよう。
闇に閉ざされた…
「ザ・サードアイ」


 
私たちは、前回までの記事において、「サードアイの開眼」は、ヨガの修行「クンダリーニ覚醒」の一環であることを見て来た。これは、人の体の中で背骨の下に眠っている「蛇」を目覚めさせて、「蛇」の上昇によって、人が「覚醒」して「神」になろうとする神秘主義の反キリスト的な修行法である。

Eden Mediaは、以前の動画では、蛇(クンダリニー)が悪魔的なエネルギーであることを認め、「クリスチャンはクンダリーニ覚醒には絶対に関わってはいけない」と警告していた。にも関わらず、今回の動画では、「サードアイ」なる概念が、悪魔的な起源を持つものである事実を無視・否定して、むしろ、「サードアイを開眼せよ」と宣伝する側に回っているのだから、その自己矛盾に呆れる他ない。

グノーシス主義は常にこうして、あるメッセージを打ち出すと同時に、次の瞬間にはそれを自分で否定し、まるで壊れたレコードのように、どこにもたどり着かない永遠の堂々巡りを繰り返すのである。


 
神秘主義の思想では、「第三の目」の開眼は、事実上、「悟り」と同一視されている。そこで言う「悟り」とは、結局、人間が超人化するという「アセンション」を指している。

今ここで、少しの間、動画の解説を脇に置いて、まずは「サードアイ」なる概念の詳細から見ていきたい。むろん、この「第三の目」は、Eden Mediaが述べているように、「最近のエビデンス」によって存在が科学的に証明されたわけではなく、実在が全く証明されていない、古代から神秘主義思想で用いられている独自の概念である。
 
さらに、クリスチャンの観点から見れば、この「第三の目」は「悪魔の目」と呼ぶ他ないものである。
 
「第三の目」は、仏教やヒンドゥー教にも見られる。たとえば、ヒンドゥー教の最高神の一人であるシヴァ神には「第三の目」があり、大仏の眉間などに見られる「白毫(びゃくごう)」(白い毛を巻いたもの)も、実質的には、神秘主義者らの言う「サードアイ」と本質的に同一だとみなせる。

仏像の白毫は、目ではなく、白い毛を巻いたものであり、表向きには、ヒンドゥー教の「シヴァ神」の第三の目とは直接的には関係がないとされる。
 
だが、「シヴァ神」の第三の目も、白毫も、同じように、ヨガの「第六のチャクラ」に当たる位置にあり、また、光り輝いて世界を照らす源となったなどの神話的記述が共通していることを見ると、それらは両方、世界を照らす「悟りの智慧」を意味しており、よって本質的に同じ概念であるとみなせる。

「第三の目」の概念

“内なる目”“松果眼”とも称される神秘主義や形而上学で扱われる概念
 多くの場合、直接認識、精神集中、幻視、透視、千里眼、予知、体外離脱に関連付けられ、また内なる世界や上位意識への扉として扱われる。また肉体的な特徴以上に、統一、均衡、事物の相対的把握、解脱、超越的英知、光の結晶、霊的意識、悟りを象徴するという。

シヴァの額の目や仏陀の白毫、およびヨーガのアージュニャーチャクラがこれに当るとされる(白毫は正確には第三の目を模した毛)。シヴァの第三の目は炎のように輝いて全世界を照らし、仏陀の白毫も光を放って世界を照らすものとして語られる。

ヘッドティカのように、第三の目を模したような装飾品も存在。
みんなでつくるpixivの百科事典参照。



白毫(びゃくごう)は、仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い毛。右巻きに丸まっており、伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)あるとされる。眉間白毫とも。三十二相の31番目であり、白毫相、眉間白毫相とも。仏教美術での表現から、膨らみや模様と誤解されることがあるが、誤りである。

光を放ち世界を照らすとされる。『法華経』序品には、仏(ガウタマ・シッダールタ)が無量義処三昧の瞑想に入ったとき、白毫が光を放ち東方一万八千世界を照らし出すというシーンが描かれている(爾時仏 放眉間白毫相光 照東方万八千世界)。

白毫の位置は、インド哲学における第6チャクラのアージニャーである。シヴァ神などいくつかのヒンドゥー教の神はその位置に第3の目を持つ。ヒンドゥー教徒が同じ位置にする装飾であるビンディーやティラカと、俗に混同されるが、直接の関係は薄い。
Wikipedia白毫から 

 

 
ビンディ(結婚したヒンドゥー教徒の女性が額につける装飾)


ヒンドゥー教の最高神の一人とされる「シヴァ神」の第三の目


仏像の白毫


 
私たちが常日頃から見ている座禅のポーズをした仏像は、ブッダが「クンダリーニ覚醒」を行う修行の最中であること、また、仏像の白毫は、ブッダが「覚醒」を経て「サードアイ」が開眼した事実を伝えているのだと見て良いだろう。もしくは、仏像はブッダという人間を指しているというよりも、それ自体が、「覚醒(=アセンション)」の象徴なのである。

ちなみに、ヒンドゥー教の「シヴァ神」は、ほとんどの場合、首に蛇を巻いた姿で描かれ、髪の毛にも蛇が絡んでいるが、それは「シヴァ神」が、古代インドにおける「ナーガ(蛇)」信仰と合体して出来た存在だからだと言うことができよう。「ナーガ(蛇)」信仰とは、むろん、本質的にはルシファーへの信仰、悪魔崇拝に他ならない。

悪霊シヴァの起源」などの記事の解説では、「ナーガ(蛇)」信仰も、「シヴァ神」も、もとは悪霊(悪鬼)とみなされていたものが、「神」とされるようになったのだとする。十二神将などと同じように、「シヴァ神」も悪鬼が神格化されたものだという考えには説得力がある。

今日でも、「シヴァ神」を描いた画の中には、不気味なオカルト信仰としか見受けられないような描写が多数含まれているのは、もともとこれが悪鬼であったからだと考えれば理解できる。

 
ヒンドゥー教の最高神である「シヴァ神」はほとんどの場合、蛇を首に巻いた姿で描かれる。今でこそ「吉祥」を表すとされているが、激しい怒りですべてを焼き尽くす「破壊の神」でもあり、もとは悪鬼とされていたものが神格化されたという説は正しいのではないかと想像される。



ヒンドゥー教における「シヴァ神」は「破壊と創造の神」とされており、宇宙の根本原理とされる「ブラフマン(力)」と同一であるとされるが、ここで言う「ブラフマン」とは、グノーシス主義における「虚無の深淵」や、内丹術における「道」とほとんど同一の概念であるとみなしてよいだろう。

シヴァという世界観」などの記事によれば、「シヴァ神」の姿は「リンガ」にたとえられる。インドには至る所に「リンガ」の形となった「シヴァ神」が祀られ、「ヨーニ」と合わせて崇拝の対象となっているという。そこから分かるのは、「シヴァ神」とは、一言で言えば、「割礼を受けていない男性的なエネルギーの象徴」であって、ヒンドゥー教では、それが世界を創造した根源的なエネルギーであるとみなされ、創造と破壊を続ける根源的な力だとみなされて、神格化されて崇拝の対象となっているということである。

老子は、人間は「神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだす」という過程を経て生み出されるという「神→気→精」の経路を主張し、人間がこれを自ら逆行し、「精→気→神→虚」の経路をたどることで、世界の根源である「道(=虚無の深淵)」への復帰が可能であるとした(内丹道)。「シヴァ神」というシンボルが表しているのは、まさに老子の主張と同じである。老子の述べた「精→気→神→虚」とは、「シヴァ神(リンガ)」や「クンダリニー(蛇)」と同一のエネルギーを意味する。

また、「シヴァ神」の髪の毛にも蛇が絡みついているように、仏像の額に巻いている白毫も、その起源は、とぐろを巻いた白蛇にあると考えるのが妥当ではないだろうか。つまり、それはブッダを「覚醒」に至らせた力も、クンダリニー(蛇)に由来することを暗示しているのである。

そう考えると、相当に多くの謎が解けて来るのではないだろうか。なぜ旧約聖書で、イスラエルの民に属する男子たちは、生まれて八日目に割礼を受けなければならなかったのか。割礼とは、聖書の神が、決して人間の生まれながらの堕落したエネルギー(=人間の生まれながらの自己=肉の力=天然の男性的なパワー)を聖なるものとは認められず、人間が神に受け入れられるためには、(男であれ女であれ)、生来の本能的な力に対して十字架の霊的死を経なければならないという事実を示している。
 
このように、聖書の神は、決して人間の生まれながらの堕落した肉的な力を、神に属するものとして受け入れられることはない。割礼は、人類の生まれながらの肉的な力に対する霊的死の適用を意味する。だが、「シヴァ神」に見られるような異教信仰においては、割礼を受けない男性的パワー、人間の堕落した生まれながらの本能的な肉の力が、そのまま「世界の根源」として崇拝の対象とされ、誉め讃えられる。だが、それは元来は「ナーガ(蛇)」や「クンダリニー(蛇)」に由来することを見ても、悪魔的な力なのである。

「ビンディ」は、ヒンドゥー教徒の女性(被造物全体の象徴)が結婚することで、「割礼を受けていない生まれながらの男性的なエネルギー(=ナーガ(蛇))を主人として、その堕落した悪魔的な力と結びつき、その支配下に入ったことを象徴的に表す印だと言えよう。そして、ヒンドゥー教徒の女性に限らず、「第三の目」を開眼させた者たちはみな、その印によって、彼女たちと同じように、自分が悪魔的なパワーの支配下に入ったことを自ら言い表しているのである。

さて、この蛇(クンダリニー)に由来する 「サードアイ」は、「プロビデンス(=神の摂理)の目」(万物を見通す目)と同じものである。

「プロビデンスの目(Eye of Providence)」は、キリスト教の聖堂などの建築物などでも使用されていたことから、「神の全能の目(all-seeing eye of God)」を意味するものとして、表向きには、三位一体を象徴するキリスト教のシンボルであるかのように言われて来た。

だが、筆者は、これがキリスト教のシンボルだというのは、ほとんどあり得ないことだと考えている。

聖書には次の一説があり、神が確かに全能の目を持っておられることを示している。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9.)

だが、以上の御言葉は、神が「ご自分と心ひとつになっている人々」を見つけ出し、その人々を助けるために、深い関心を持って、全地を見渡し、人類の中にご自分に忠実な信徒を探されている、ということを表しているだけである。
 
以上の御言葉の意図は、ピラミッド・アイとも呼ばれる、自分の象徴を誰にでも見せつけようとするあの自己顕示的な「目」とは全く別物であると筆者は考えている。

私たちは、神の他にも、「全能の目」を持ちたがっている存在が確かにいることを知っている。その存在は、神のように人々を助けるためではなく、神を超えて万物の支配者となるために、人類の心を不当に監視し、覗き見て、弱点を掴み、恐怖に陥れ、暴力と殺戮によって支配しようと、神に等しい「全能の目」を持ちたがっているのである。むろん、その存在とは悪魔である。

錬金術や、フリーメイソンで用いられている「プロビデンスの目」は、神の目ではなく、悪魔の目であるが、それを考えるとなおさらのこと、この「目」が、もともとキリスト教の中で作られたシンボルであったとは考えにくく、これは地上の組織としてのキリスト教界の中枢部が、悪魔的思想に取り込まれて堕落してしまった時に、その腐敗と一緒に外からキリスト教界の中に持ち込まれたと考えるのが妥当ではないかと思う。


 
Wikpediaから 左から順に、キリスト教界で用いられているとされる「プロビデンスの目」のデザイン、錬金術で使われていたシンボル、フリーメイソンの初期のシンボル



さらに、フリーメイソンや錬金術のシンボルである「プロビデンスの目」の起源は、古代エジプトの「ホルスの目(=ラーの目)」にあるとされる。ホルスとは、古代エジプト神話において太陽神ラーの子孫とみなされている「天空と太陽の隼の神」である。ホルスの両目は、太陽と月にたとえられ、右目が太陽の象徴である「ラーの目」、左目は月を象徴する「ウジャトの目」と呼ばれる。


ラーの目」とホルス



「プロビデンスの目」や、神秘主義者が主張している「サードアイ」は、一言で言えば、ホルスの両目である「太陽の目」と「月の目」という二つの目の「統合」の象徴である。そのことは、以下の図からも明白であろう。太陽と月との統合という概念は、光の源である太陽(≒男性、創造主)と、太陽の光によって輝く月(≒女性、被造物)との「統合」を意味しており、要するに、神と人とを融合させようというグノーシス主義的錬金術を指す。

 



ホルスの左目の呼び名である「ウジャト」とは、コブラの姿か、もしくは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、古代エジプト神話の女神である。つまり、これも古代インドの「ナーガ(蛇)」や「クンダリニー」と同じように、蛇を神格化した「女神」である。


ウジャトの像



 

「ウアジェトの目」は、周期的に満ち欠けする月の象徴であることから、欠けた月が再び満ちるように、「失ったものを回復させる」「完全なるもの、修復されたもの」という意味がある。

エジプト神話では、ホルス神の左目である「ウアジェトの目」は、ホルス神が父オシリス神の仇であるセト神を討つ時に失われたが、(この左目はホルス神の下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後、)知恵の神にして月の神・時の神であるトート神によって癒され(ホルス神の下に戻り)、回復した

そのため、「ウアジェトの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルス神が癒された目を父オシリス神に捧げたというエピソードから、供物の象徴(シンボル)ともされた。

また、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。ミイラ(死者)に添えられることもある。ツタンカーメンの「ウジャトの目の胸飾り」が有名である。

第一中間期と中王国時代に、「ウアジェトの目」(左目)と「ラーの目」(右目)を左右に合わせた両目が、ミイラを納めた(ミイラは体の左側を下にして納められることが多かった)柩の左側面に描かれたりした。これはミイラを守る護符とも、死者(ミイラ)がこの世(棺の外)を見るための窓とも解釈される。目は太陽の昇る方向である東に向けられていた。
Wikipedia 「ホルスの目」から



ここで、戦闘中に失われた「ウジャトの目」をホルスに回復させたのは、「知恵の神にして月の神」とされる「トート神」だったとされる。この「トート神」は、歴史的に広範な地域、すなわち、エジプトの外の新バビロニアや古代ローマ帝国でも信仰された対象だったようで、今日でもオカルトにおいて重要な役割を果たしているとされる。

知恵の神、書記の守護者、時の管理人、楽器の開発者、創造神などとされ、王族、民間人問わず信仰された。そのためある程度の規模を持つ神殿には、トートのための神殿が一緒に作られている。」

創世神の一人であり、言葉によって世界を形作るとされる。

「誕生について諸説ある。ヘリオポリス神話において世界ができた時、自らの力で石から生まれたとされる説が有名である(この場合、早く生まれたために足が悪くなったとされる)。<略>

ヘルモポリス神話において世界は、八柱神(オグドアド)によって作り出されたとされている。その後この神々が眠りにつくが世界が終焉を迎えた時、また新しい世界を生み出すために目覚めさせなければならない。この役目を請け負ったのがトートだとされる。あるいは、トートが創造神とされた。」

トートは、魔法に通じておりイシスに数多くの呪文を伝えた。病を治す呪文も熟知していることから医療の神の面もある。<略>」

トートは、ギリシア神話のヘルメス神と同一視された。楽器の開発者とされるなど、他にも神話上に多くの役割を持っている。ピラミッドの建設方法を人間に伝えたのもトトであるとされる。」 Wikipedia 「トート


 
「トート神」はトキの姿で描かれたことから、トキの頭部を「白蛇」の姿に重ね合わせる説もないわけではない(たとえば、「瀬織津姫 & クンダリーニ…No.83」。また、「トート神」自身が蛇の姿になって現れたりしていたとする説もある。
 
さて、「サードアイ」は「太陽」と「月」の統合の象徴であるから、そのシンボル自体が、「太陽」と「三日月」を組み合わせたものだと言われる。

さらに、以下の解説においては、この「全能の目」としての「サードアイ」が、ただ単に「監視する」という意味だけでなく、「裁き」や「正義」「力」を象徴しているとされていることも興味深い。

つまり、「悪魔の目」が全地をあまねく監視する目的は、「正義」の名のもとに「裁き」を行い「力」を行使するためだというのだ。この目は単なる偽りの「知恵」を指しているだけではなく、自分にとって「悪」と見えるものに裁きを下し、実力行使で排除する「力」を兼ね備えた裁きのシンボルなのである。

(このことは、たとえば、「シヴァ神」が「創造と破壊の神」とされ、怒ると「第三の目」から炎を出して対象を焼き尽くすなどとされていることとも重なる。それは「光」であると同時に激しい怒りと憎悪によってすべてを焼きつくす力としての「炎」をも意味するのである。)


「目」の起源

この「目」のシンボル(象徴)の本質は、「月」と「太陽」のシンボルを、合成したものである。「月」は「三日月」、「太陽」は「丸」で表現される

「月」と「太陽」のシンボルを、「月」を上に、「太陽」を下になるように、縦に並べると、横向きの「三日月」が瞼に、「丸」が瞳に、すなわち「目」のように、見える。

「目」の意味

中世からルネサンスにかけて以降、三位一体の象徴としてデザインが用いられた。三位一体の盾から、この三角形の中心にある「目」は、「完全なる神」、「究極の神」、「至高存在」を表している。この目は、光輝いていることから、「光明神」である。「目」は、「目覚めた者」の象徴であり、「知恵(智慧)」と「理性」の象徴である。「知恵(智慧)」と「理性」は、蒙を切り裂き啓く、鋭利な「光」にたとえられる。ゆえに「光明神」は、「知恵(智慧)と理性の神」である。

また、「光明神」は、「太陽神」と同一視される存在であり、いと高きところ(天空)より、その光で世界を遍く照らし、闇=悪=不正の存在を見逃さない(許さない)ことから、「監視する神」であり、「正義の神」であり、ゆえに「裁く神」である。力無き正義は無力である。正義無き力は暴力である。ゆえにこの神は「知」と「力」を兼ね備えた存在である。


「☆青い空大好き☆➀②③ プロビデンスの目」から抜粋




こうした記述からも、「悟りの知恵(般若)」と表裏一体となっている残酷な般若の面という裏側が見えて来る。つまり、「すべてを見通す目」の目的は、表向きには、人に神のような知恵を与えるということになっているが、裏では、このような「第三の目」に覚醒することは、「正義」の名のもとに、容赦のない暴力の行使によって、自分に従わない全ての人々に危害を加え、排除する装置が稼働することをも意味するのである。

このことは、キリストの十字架の死を否定し、キリストの霊的死にあずかることなく、人類の生まれながらの肉の力を使って、神に至り着こうと目指す人々が、本物の十字架を経由しない代わりに、偽りの「十字架」を作り出し、まことの神によらない、身勝手な裁き(私刑)を行うことをよく表しているのではないだろうか。

一方では、彼らは、人類が自力で神に回帰して、地上の楽園を実現できると言うが、他方では、必ず、その実現のために、何かしらとてつもない犠牲が人類に必要となると言う。そして、圧倒的多数の人々を抑圧し、排除するための暴力装置という必要もない犠牲を生み出すのである。

そのようにして、人類が自ら作り出す偽りの十字架が、般若の面や、「薬師如来」を守護する「十二神将」や、「国体」や「和の精神」といった理想論とワンセットになった治安維持法、共産主義ユートピアをもたらすために不可欠とされた秘密警察、カルト救済活動につきもののカルト監視機構、安倍政権の制定した共謀罪などに表れているのである。

要するに、生まれながらの人類を神とする反聖書的な思想と、人類が人類を監視し、気に入らない者に裁きを下すための暴力装置としての「悪魔の目」は一体なのである。「和の精神」は、表向きには、人類を希望で照らす太陽のような「叡知の光」を指すと同時に、不浄のものをすべて焼き尽くしてしまう地獄の火炎としての側面を持つのである。

もう一度、以下の聖書の御言葉を引用して、「悪魔の目」が目指している目的が、神の目とは全く正反対であることを確認しよう。

神の目:「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9.)

悪魔の目:「悪魔は自らが全能だとみなしているその目をもって、あまねく全地を監視し、その心が悪魔と一つでない人々(=特にクリスチャン)を断罪し、裁き、実力行使によって排除する。
 
さて、Eden Media に話を戻すが、神秘主義において、「サードアイ」は「松果体」と切り離せない関係にあるとされて来た。このことを知っていれば、まさにEden Mediaの動画は、神秘主義思想そのものであることが分かる。

以下は、神秘家の記した「天空神ホルスの錬金術 天空神ホルスの目覚め:AS2012(60)」 という記事からの転載である。この記事を読めば、神秘主義者が「サードアイ」と「松果体」とをどのように関連づけて考えていたのかが大体分かるだろう。以下の記事では、「サードアイ」とは文字通りの目のことではなく、また「松果体」それ自身でもなく、「松果体を流れるエネルギーである」とみなしている。




こちらが一般的にホルスの眼と呼ばれるデザインです。


 こちらは私たちの脳の構造を表したものです。

一般的に言われる「ホルスの眼」のデザインは「松果体」を中心にした脳の部位を様式化したものです。


こちらは神経網の断面図。

 

ホルスの眼は第三の眼だけではなく、松果体を取り囲んでいる器官をデザイン化したものです

眼の下に突き出ているのは「橋」と「延髄」である「脳幹」です。
そして眼から左斜め下に伸びて最後で螺旋になっているのは「小脳」へ繋がっている神経です。

眼の上に描かれている眉毛のようなカーブは右脳と左脳の間にある「海溝」と呼ばれる溝です。
そして瞳を囲んでいる部分が、海馬と脳弓です。

驚きですね。

太古のエジプト文明では、すでに脳の具体的な構造を理解していたわけです。
その構造の理解は、現代の医療の理解を遥かに超えたものです。

なぜなら「エジプトの死者」の書は一般的に理解されているエジプト人の捉えていた死後の世界、黄泉の世界観を表したものではないからです。
死者の書に書かれている内容は、多次元的な世界へ移行するための技術です。
死後の世界を描いた死者の書ではなく、ファラオ達の通過儀礼としての「アセンションの書」なのです。

以上の記事では、第三の目は松果体そのものではなく、松果体を流れるエネルギーであるとみなしている。

ホルスは第三の眼ではなく、隼・ハヤブサとして松果体の器官に関係するエネルギーを表したものです。
さて次の段階ですが、このデザインの理解のポイントは頭の上と両足に合計三つの赤い玉があしらってあることです。
上の石盤の両足の近くにはアンクが描かれています。
こちらはホルスを立体的に作り上げたもの。
下の胸当てのデザインは、「 隼の姿をしたホルス」が両方の羽を左目の形をしているように見える脳の中心部を表すシンボルに接続されています。
ホルスの翼の片方は眉毛=海馬に、手前の翼は目尻=脳弓に、そして足は小脳に繋がる管に接続されています。 
ホルスは脳の中心部にエネルギーを与える存在ということです。
ホルスの波動は脳の後頭部から入って来るのです。<略>
ホルスの翼は頭の赤い宝石が波動で包まれるという比喩です。
そして松果体は赤い色です。 


では目頭の下から出ているのは何でしょうか?
コブラをデザイン化したものです。
<略>
エジプトの死者の書は、コブラを出現させるためのテキスト、波動を使った体内の錬金術を教える書なのです。

 

以上の記事が「エジプト死者の書」は、「波動」を使って「コブラ」を目覚めさせて、「アセンション」を引き起こすための手順書だったとしていることは興味深い。このようなニューエイジ思想の記述を読む時、私たちは、Dr.Lukeが「祈りとは波動」だと述べたり、以下のように語っていることを思い出さずにいられない。



少しでも神秘主義の思想の構造を知っている者であれば、Dr.Lukeの語る以上のようなメッセージは、ニューエイジの思想から深い影響を受けたものであることをすぐに見て取ることができる。そして、次の記事で指摘するように、Dr.Luke自身が、ニューエイジから積極的に発想を取り入れたことを隠していない。

つまり、Dr.Lukeの語るメッセージは、実質的には、Eden Mediaと同じように、実質的にニューエイジと同じ「覚醒(=アセンション)」へと人々を導く暗闇の思想なのである。

あたかも聖書に根拠があるかのように見せかけながら、「五感を超えた能力を身に着けよ!」と述べて、「覚醒」による超人化を促しているという点では、Eden Mediaと同じなのである。

むろん、そこでは「サードアイ」を開眼せよとは言われていないかも知れない。だが、「サードアイ」なるものはもともと実在しないので、神秘主義者らが「サードアイを開眼せよ」という言葉で表している内容も、実質的には、脳内の「松果体」もしくは「松果体に流れるエネルギー」を「覚醒」させることを通して、五感を超えた能力を身に着けよ、ということであり、人々を超人的エネルギーに目覚めさせようとしている点は、Dr.Lukeの主張と実質的に同じである。

以下の「太陽神「ホルスの目」は、「第3の目」の象徴」という記事を見れば、「第三の目」が五感を作り出す根源、すなわち、五感を超えた見えない知覚や認識の世界全体を象徴していることが分かる。このような認識こそ、根本的には、人が「道」と一体化した「大円境地」を指しているのであり、偽りの知識に目覚めてすべてをさかさまに見るようになった「サタンの目」の意味なのである。




Wikpediaのページに掲載されている「ホルスの目」
これはいったい何を意味するのかと言えば、こちら↓



人間の感覚を表すそれぞれ六つの部分に分かれているのです。

更に、↓



数学の方程式=宇宙の方程式に繋がります。

この世は、数字でできていて、数字が基本
数字で説明、解釈できる世界なんですね。

そして「ホルスの目」の極意にいきます!

「目は水晶体というレンズを通して、フィルムという網膜に映像が映し出され
視神経を通って電気信号で脳に伝わって初めてものが見える、光を感知する。
つまり、目は脳の一部であって、私達は脳でものを見ている」ということは
知識として持っていましたが、その正体が、脳の中心にある「松果体」だったのです。
そして、その「松果体」が「第3の目」=「ホルスの目」に繋がっているのです!<略>



松果体は、松ぼっくりの形に似た脳の中心にある小さな内分泌器で
概日リズムを調節するホルモン、メラトニンを分泌する働きがあるのですが
これが「第3の目」の働きをすることが、近年の研究でわかってきました。

「目を持たない魚たちは松果体で見ていた」というもので
「光の探知に関しては目より松果体のほうが役割が大きい」との
興味深い実験結果も出ています。
詳しくは、
こちらのサイトへ。


松果体は、顔正面の額の高さの位置にあります=「第3の目」


;
 
<続く>

・Eden Mediaが推奨する偽りの「人類超人化計画」(アセンション)の危険性について 

6.錬金術とグノーシス主義は同一である ~なぜフリーメイソンは石工団体なのか?~

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

悪魔の目的は、神の能力、支配権を奪い取って、神を超えることにある。そこで、悪魔は人類をそそのかす際にも、自分が望んでいるのと同じ欲望を吹き込もうとする。

そのやり方は、人類誕生の当初から今日までも変わらない。私たちは、Eden Mediaの動画を通して、東洋神秘主義が目指していた悪魔的な超人思想(=人を神のように変容させる術)が、今やニューエイジ思想の中に最も先鋭化した形で受け継がれているのを見て来た。

これまで見て来たように、神秘主義は、ただ思想であるだけではなく、人体を変容させるための方法論でもある。たとえば、古代中国の錬丹術などがまさにその方法論に当たり、何らかの刺激や訓練(修行)を通して、人体を変容させて、眠っている力を引き出し、神のような超自然的な能力を備えさせようとするのである。

その意味で、錬金術も、ただ卑金属を金に変えることだけを目的としていたのではなく、ここにも、人類が不老不死を手に入れ、悟りの智慧を得て神に等しい者になろうとする悪魔的な欲望が込められている。
 

錬金術における最大の目標は賢者の石を創り出すことだった。賢者の石は、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられた。また後述の通り、神にも等しい智慧を得るための過程の一つが賢者の石の生成とされた。

「中国では『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれている。厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術である。
 Wikipedia「錬金術」から

 

現代人は、「賢者の石」などという言葉を聞けば、すぐさまハリー・ポッターの映画などを思い出し、ファンタジーだと一笑に付して終わりたくなるかも知れないが、この概念は、歴史上数多くのグノーシス主義者が追い求めた悲願を意味し、これまでオカルト研究者、魔術師、錬金術師のみならず、自然科学者の関心さえも惹きつけて来た。今日では、万有引力の法則の発見で知られるアイザック・ニュートンも、膨大な労力を錬金術(オカルト)の研究に注ぎ込んでいたことはよく知られている。

あらゆる錬金術師の至上命題は、卑金属を金に変える至高の物質とされ、かつ、治癒不可能な病や傷をさえ瞬時に治す「神の物質」とされていた「賢者の石」の製造と、それによる金の錬成にあった。

ニュートンの死後に残された蔵書のうち、数学・自然学・天文学関連の本が16%であるのに対して、神学・哲学関連は32%を占めていることを見れば(アイザック・ニュートンのオカルト研究)、いかに彼が生涯をオカルト研究に費やしていたかが分かるだろう。

ここで言う「神学」とは、正統な神学のことではなく、錬金術に集約される異端的オカルト研究を指す。ニュートンは、聖書の中に、何とかして錬金術の根拠を探し求めようと、ソロモン神殿などの研究を行っていたが、彼はそもそも三位一体を信じていなかったので、キリスト教徒としての正統な信仰に立っておらず、「神学者」と呼ぶのは全くふさわしくない。ニュートンの名誉をおもんばかって、後世の人々がオカルト研究を「神学・哲学研究」と言い換えているだけである。

ニュートンの錬金術師としての研究の主要な目的は、まずは「賢者の石」の発見、次に賢者の石と同一か、もしくはこれを液体化したものと考えられている「エリクシル」の発見にあった。

また、心理学者ユングも錬金術に注目していた。彼は心理学と錬金術との関係性を研究し、そこから「いっさいの神秘主義は、対立しあうものの結合を目指している」という結論を引き出したという。

心理学者カール・グスタフ・ユングは、錬金術に注目し、『心理学と錬金術』なる著書を書いた。その本の考察のすえにユングが得た構図は、錬金術(のみならずいっさいの神秘主義というもの)が、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである。
Wikipedia「
錬金術」から

結局、錬金術とは、何とかして卑金属(≒人間)から金(≒神)を生み出し、両者を「統合」させることで、生まれながらの人類という堕落した卑しい種族の中から、聖なる全知全能の「神」を作り出そうとするまさにグノーシス主義的な異端の(詐欺的)試みであったと言えよう。

ちなみに、あらゆる錬金術師の悲願が「賢者の石」を作り出すことにあると考えれば、なぜフリーメイソンが「石工」集団の名で呼ばれているのかも、おのずと理解できるのではないだろうか?

そして、錬金術が、大きく見れば、人体の外にある物質を通して「霊薬」としての「仙丹(=賢者の石)」を作り出し、これを摂取することで、人間が不老不死に到達しようとする外丹術であるならば、人が座禅や瞑想や呼吸法などの修行を通して、体内の丹田(腹)に「気」を集めることで「仙丹」を練り、不老不死に到達しようとするのが、内丹術である。

今日、神秘主義の探求者の間では、錬金術のような外丹術よりも内丹術の方が主流になっているように思われるが、ヨガや、座禅や、瞑想、気功、武術には、人が自らの力で「気」を集めることにより、人体を変容させて永遠に到達しようとする内丹術が受け継がれている。

もちろん、「気」などというエネルギーが実在するという科学的証明は一切ない。そのような超自然的エネルギーがもしあるとすれば、それはただ悪霊に由来する魔術のような力でしかないことはすでに述べた。従って、「気」を引き出すことで、人間が超自然的な力を得て、自ら神を乗り越えようとする内丹術は、聖書の神に反逆する魔術でしかないことも、すでに説明して来た通りである。

だが、神秘主義者らは、今日も変わらず、人間を「神のように」するために、「気」を汲み出すことで超人的な人体の変容を目指しているのであり、それを彼らは「悟り」とか「覚醒」と呼ぶ。

東洋思想における「悟り」(=般若)とは「覚醒」と同義であって、これはただ単に人間の頭の中だけで理解される「知恵」ではない。彼らの言う「悟り」の概念には、人間が神のように変容するための具体的方法論としての修行が含まれており、東洋思想における「悟り」とは実質的に超自然的な能力の「覚醒」を伴うものなのである。

そして、そのような意味での「覚醒」こそ、創世記で蛇が人類に吹き込んだ「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようにな」るという「偽りの知恵」だったのであり、それこそが、鈴木大拙の言う「知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになる」結果として生まれる「行を支配する知」(もしくは「行」と一体化した「知」)なのである。

そう考えると、なぜキリスト教に偽装したグノーシス主義の媒体に"Eden Media"という名称がつけられたのか、その意味も見えて来よう。私たちはこの媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、キリスト教の信仰を装いながら、その実、聖書とは決して相容れないものをキリスト教と合体させようとするグノーシス主義的な偽りの「統合」に根差していることをすでに見て来たが、”Eden Media” の意味する "Eden"とは、「入不二界」と同じであり、要するに、鈴木の述べた「第二の林檎を食べ」た後に出現する人類の楽園を意味しており、すべての神秘主義者が飽くことなく目指している人類の地上における幸福社会、第二のエデン、すなわち、「道」との一体化のことなのである。

私たちクリスチャンは知っているはずだが、真のキリスト者であれば、エデンに回帰することなどを決して目指したりしない。私たちの到達目標は、失われたエデンではなく、神の聖なる都としての新エルサレム、新しい天と地である。しかし、グノーシス主義者には、必ず時間軸を逆行して、人類が創造される前の状態に自力で回帰することで神と一つになろうとする、原初回帰という特徴がある。

「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)

 
むろん、鈴木大拙の以上の主張も、すでに説明した通り、錬金術のような詐術であって、これは徹底的に神不在のグノーシス主義である。アダム、エバのいたエデンには、聖書の神の言葉を人間がわきまえ、それに従うという「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」だけが存在したわけではなかった。そこには、「知」と「行」が一体化した世界があったのである。ところが、鈴木はそこから「神の言葉を知るという知」を除き去り、エデンには聖書の神の言葉も、それをわきまえる「知」もなく、ただ「行」だけがあったことにしてしまっている。

その後、蛇に由来する偽りの「知」が出て、失楽園が起きたのであるが、鈴木は、失楽園の原因となった悪魔的な「知恵」をも、聖書の神の言葉を知る「知恵」とすりかえ、人類が自ら神に逆らったため、神の言葉を知る「知」から排除されたことを棚に上げて、知性(聖書における神の言葉に立脚する知性)が二分性を帯びており、人間を罪に定めたり、排除したしりするから、表面的で薄っぺらなもので、人間の本質たり得ないと決めつける。

そこには、聖書の神の御言葉が、ただ人間を排除するものだという決めつけがあるだけで、聖書の御言葉が本来的に目指しているのは、キリストの十字架を通して、人間を神に立ち帰らせることだという神の側からの救済の観点が完全に抜け落ちている。

そして、鈴木は、そのようにして、すりかえと歪曲とごまかしと決めつけに立脚して、「神の言葉を知るという知」を全面的に退け、人類は失楽園の原因となった蛇に汚された偽りの「知」を保存しつつ、これをもとの「行」と一致させることで、第二のエデン(「入不二界」)に復帰できるというのである。

これが禅者の言う「悟り」の本質である。要するに、蛇に由来する偽りの「知」と「行」を一致させることで、人類が聖書の神の言葉を退け、神から疎外されたまま、神不在の状況の中で、「二度目の林檎を食べ」て、隠れた内なる目を開眼させて、自分だけの力で神のような超人の世界に足を踏み入れることができるという教えである。二度目の林檎を食べるとは、要するに、人類が再び、蛇に由来する偽りの知恵に基づいて、「内なる目を開眼させる=悟りを得る=覚醒する」ことを意味する。

これは、結局、創世記において、蛇が「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と人類に言ったことの発展・繰り返しであり、「目が開ける=第三の目が開眼する」、「神のようになる=覚醒して超人的能力を身に着ける」、「決して死なない=不老不死に到達する」、「善悪を知るようになる=悟りを得てすべての物事を聖書の神の秩序とはさかさまに被造物を中心に見るようになる」と理解できる。

大仏像などが、常に座禅のポーズを取っているのは、「覚醒」が起きるための修行中であることを表す。そうして彼らが得ようとしている「悟り」は、頭の中だけで得られる知識ではなく、人体を変容させるための「行(修行)」を含んでいる。つまり、「悟り(般若)」とは、単なる思想ではなく、人類が「神のように」変容するための方法論なのである。


7.座禅(ヨガ)は蛇(クンダリニー)による「覚醒」によって人類を超人化する偽りの「道」
 


鎌倉大仏殿高徳院 PHOTEK

 
日本人は、至る所で、座禅を組んで修行をしている仏像などを見ているものの、あまりにも何気なくそれを通り過ぎているため、自分たちが一体どのようなシンボルに取り囲まれているのか、それにどれほど危険な思想が込められているのかを理解することはほとんどない。

人類が自らの内にある悪魔的能力を開発することによって自ら神に到達するという「アセンション」の概念は、比較的最近になって生まれたわけではなく、実質的に、古代からずっと絶え間なく存在していた。そこで、今回、改めて、神秘主義思想家らの言う「悟り」が、蛇の教えによる「覚醒」と不可分の関係にある大変に危険な思想であることを、鎌倉の大仏の座禅のポーズなどが根本的に何を意味するのかを通して考えて行きたい。

今日、仏教の寺などで一般向けに行われている座禅は、精神統一の方法であるなどと教えられており、そこでは、「悟りを得て神のようになる」という神秘主義思想の本来の中核となる超人思想の要素はかなり薄れているか、あるいは抜け落ちている。

だが、禅は、もともとサンスクリットの dhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、もしくはその音写としての禅那(ぜんな)から来る名称で、日本の禅宗も、中国禅から来たものであり、その始祖はインド人で中国で禅を広めた菩提達磨(ボーディダルマ)であるとされる。また、座禅とヨガの根源は同じであり、インドの古典哲学「ヨーガ・スートラ」に由来する。

 


(月岡芳年画『月百姿 破窓月』Wikipediaから)
 だるま人形のモデルともなった菩提達磨。手足がない人形に模されるのは、達磨が偽りの知恵に基づき、修行によって「覚醒」した(=「悟り」を得た)結果、自らの思念によって肉体を制圧し、肉体の限界を超えて、手足を使わなくても、まるで霊だけであるかのように自在に動き回り、「神のように」超能力を行使する術を身に着けたことを意味する。

 
このように、座禅とヨガは基本的に同じ概念でり、同じ目的を目指していると言える。そのことを理解した上で、前回、取り上げた、Eden Mediaの「ニューエイジ思想の呪縛 / ヨーガ 」の中で触れられていたヨガの危険性を改めて振り返りたい。

この動画では、ハタ・ヨーガにのめり込んでいたとする解説者が、ヨガの危険性について語る。むろん、Eden Mediaは、すでに述べたように、ニューエイジ思想を非難しているように見せかけながら、実質的には、人々をニューエイジの只中に誘導するという悪しき循環のシナリオになっているため、視聴者はこれがキリスト教の信仰に立つメディアではないということにはよくよく注意して、これを鵜呑みにしないようにしなければならない。ただし、ヨガの起源が悪魔的思想にあるという指摘そのものは事実であるため、一体、座禅やヨガの意味するところが何なのかを理解するために、その危険性が指摘されている部分だけを取り出して見てみたい。

 

ハタ・ヨーガは”月と太陽””光と闇””男と女”
主要目的は内部の対極をバランスさせることです。

しかし、この概念は間違いであり、
別の機会に取り上げる予定です。
ここでは詳しい内容は述べませんが―
根源はオカルトであり、悪魔的です。

(注:対極にあるものを融合するとはグノーシス主義の概念であるから
オカルト的であり、悪魔的であるという指摘は正しい。)

では”ヨーガ”の意味は?
グーグルで”yoga”の意味を調べてみます。
すると現れる定義は、
「ヒンドゥー教の霊的な禁欲苦行」
「主な手法は呼吸法、簡単な瞑想、そして様々なポーズである」

まず気付くのが「ヒンドゥー教の霊的作法」
肝心なのが、そのルーツが間違った宗教にある事です。
私はヒンドゥー教徒の聖典「ハガヴァッド・ギーター」の勉強を行いました。

そして認識すべき事は一つ一つのヨーガのポーズは
ヒンドゥー教の神に対する礼拝になると言う事です。





ヨーガを始める多くの人は、この事実について全く知りません。
ナイーヴな状態です。
しかし、霊的な根源は間違った宗教にあり、
関わるべきではありません。

私が深くのめり込んだのが”クンダリーニ・ヨーガ”でした。
クンダリーニ・ヨーガは
ヨーガの種類の中でも、最も悪魔的です。
主要思想は、背骨の最下部に
休眠中の蛇がいると言うものです。



そこで体験するのが”クンダリーニ覚醒”です。
クンダリーニ覚醒では、螺旋の蛇が背骨を上昇します。
チャクラを経由し、松果体に到達します。
そこはクラウン・チャクラであり、”神意識”が芽生えるのです。

蛇が上昇し、頂点に到達すると―
”悟りの目”と言われるサードアイに達します。



そこであなたが神であると説得します。
ヨーガの最終段階は、神に到達する事だからです。
自分が神であると認識し、すべてが神となるのです。


この解説から、結局、ヨガが目指しているのは、「アセンション」つまり、「人が神のようになる」ことなのだと分かる。そのためには「サードアイ(隠れた第三の目)」の開眼が必要であり、蛇の助けを借りねばならないというのである。
 
聖書の創世記では、蛇の姿をした悪魔が、外側から人類に忍び寄って偽りの知恵を語りかけて欺いたように思われるが、「クンダリーニ覚醒」では、その蛇が人体の中に侵入し、人を内側から「覚醒」させるというのであるから、これは恐ろしい修行である。

だが、聖書において、人類が神に食べることを禁止されていたにも関わらず、取って食べた「善悪知識の木の実」は、実質的に「蛇の卵」だったとのかも知れないという推測も生じる。人類が神に背いて堕落してしまった時に、人類は悪魔の支配下に落ち、その際、霊的な文脈において、悪魔的な種子がすべての人類に植えつけられたのだと考えることもできよう。

 

(*ちなみに、Eden Mediaの動画には、以上のような不気味な映像や、ぞっとさせるような表現が満ちている。ある意味ではそれらの指摘は当たっているのだが、それでも、明らかに、この動画が単なる警告という目的を超えて、あらゆる箇所で不気味さを強調し、このような異常な悪魔的シンボルを人々に見せつけるために作られていることをも感じさせる。)

さて、ヨガという言葉には、「従わせる」という意味が込められているが、これが何を意味するのかを考えてみたい。この語は、もともとは牛馬などの家畜にくびきをつけてつなぐ、という意味を持つ。「十牛図」でも、グノーシス主義的な意味での「神的自己(真の自己)」を牛にたとえ、人類が「真の自己」を発見し、これを制する(一体化する)ことによって、世界(永遠)との合一を目指すという過程が描かれる。
 


十牛図

 
ここで「牛」がモチーフとして使われているのは、ヒンドゥー教では、牛が聖なる動物として崇拝の対象となっていることにちなんでいるだけでなく、牛は、「神的自己」でありながら、同時に、人体にもなぞらえられていると考えられる。

すなわち、ヨガにおいては、人間が自らの思念によって、自分の肉体にくつわをかけて、自在に引き回すがごとくに、己のすべての肉体感覚をないがごとくに滅却する能力を身に着け、肉体の限界を超えて、肉体を離脱して、あたかも霊だけになったかのように、自在に超自然的な働きをなす前提を整える。

「十牛図」の真の意味もそこにあり、一般向けの理解や解釈がどうあれ、この神秘主義思想の本来的な意味においては、ヨガのような修行によって、人間が体を完全に制圧する術を学ぶことによってしか、彼らの考える(偽りの)完全な「悟り」を得て、人が「神意識」に目覚め、「永遠」と一体化して「神のようになる」ことはできない、という意味が込められているものと考えられる。(まさに以下に引用するペンルイスの指摘の通りである。)
 

 

「十牛図」から。
この図は、人が「真の自己」(牛の姿で表される)を発見し、これと一体化して「悟り」に至る過程を絵図で表したとされる。上記の四~六の図では人が思いのままにならない「牛」を制御する方法を会得し、「真の自己」と一体化する過程が描かれている。各画像の出典は、

ヨーガ (योग) は、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞根√yuj(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、牛馬を御するように心身を制御するということを示唆しており、「くびき」を意味する英語yokeと同根である。『ヨーガ・スートラ』は「ヨーガとは心の作用のニローダである」(第1章2節)と定義している(ニローダは静止、制御の意)

森本達雄によると、それは、実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、自らの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中する(結びつける)ことを通じて「(日常的な)心の作用を止滅する」ことを意味する]。
Wikipedia「ヨーガ」より

 

先に引用したように、ペンルイスは、東洋神秘主義の導師(グル)たちが、思念によって肉体感覚を完全な制圧し、服従(=Yoga)させて、すべての肉体感覚を滅却する術を身に着けているがゆえに、邪悪な超自然的な力を発揮できると記している。

「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

「インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」

ジェシー・ペン-ルイス著「魂の力」対「霊の力」 

 

「クンダリーニ覚醒」とは、このようにして、人が自分の肉体を完全に制圧して、その限界から離脱することで、「神意識」なるものと融合するための前提条件だと考えられる。

さらに、そこで、言われている「チャクラ」なる概念も、非科学的で全く実在が証明されておらず、古代インドの神秘主義に由来する概念に過ぎないが、それが「円盤」や「輪」を意味するものであるということを心に留めておきたい。
 

「チャクラ(梵: चक्र, cakra; 英: chakra)は、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する語である。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。
輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。」

「身体エネルギーの活性化を図る身体重視のヨーガであるハタ・ヨーガでは、身体宇宙論とでもいうべき独自の身体観が発達し、蓮華様円盤状のエネルギー中枢であるチャクラとエネルギー循環路であるナーディー(脈管)の存在が想定された。これは『ハタプラディーピカー』などのハタ・ヨーガ文献やヒンドゥー教のタントラ文献に見られ、仏教の後期密教文献の身体論とも共通性がある。

現代のヨーガの参考図書で述べられる身体観では、主要な3つの脈管と、身体内にある6つのチャクラ、そして頭頂に戴く1つのチャクラがあるとされることが多い。この6輪プラス1輪というチャクラ説は、ジョン・ウッドロフ(英語版)(筆名アーサー・アヴァロン Arthur Avalon)が著作『蛇の力』 (The Serpent Power) で英訳紹介した『六輪解説』 (Ṣaṭcakranirūpaṇa) に基づいている。
Wikipedia「チャクラ」より

 

さらに、「クンダリニー」とは一体、何を意味するのか調べてみよう。すると、Wikipedia「チャクラを参照すると、それは「蛇の姿をした女神」であることが分かる。第一から第六までの「チャクラ」なるものについての詳細は、ここでは細かく引用しないため、上記ソースを参照されたいが、これを見ると、背骨の下にあるとされる「第一のチャクラ」において、「蛇=クンダリニー」が「休眠」しているということになっており、「覚醒」とは、この蛇が活性化し、次第に頭部まで昇りつめ、人間の全身を制御することで、超人的な変化をもたらすことを指す。「悟りの目」なる「サードアイ」が開眼するのは、この蛇が眉間にある「第六のチャクラ」まで到達した時だとされている。

「クンダリニー(蛇)」の正体とは何なのかさらに調べると、それは「人体内に存在する根源的生命エネルギー」であるとされる。
 

クンダリニー(Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、人体内に存在する根源的生命エネルギー。宇宙に遍満する根源的エネルギーであるプラーナの、人体内における名称であり、シャクティとも呼ばれる。クンダリーニ、クンダリニと表記されることもある。

クンダリニー・ヨーガなどにより覚醒させられると神秘体験をもたらし、完全に覚醒すると解脱に至ることができるとされているが、覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じる様々な快・不快の症状をもたらすと主張している。
Wikipedia「クンダリニー」より 

「クンダリニー」とは「プラーナ」とも呼ばれているため、「プラーナ」が意味するところも調べてみると、以下の通りである。
 

プラーナ(梵: प्राण、prāṇa) は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。Wikipedia「プラーナ」より

 

これでほとんどの謎が解けたのではないかと思う。武術や座禅や瞑想や呼吸法などの修行によって引き出される「気」というものは、まさに「クンダリニー」すなわち蛇に由来する悪魔的な力だったのである。古代インド哲学や、それを継承する東洋神秘主義思想は、蛇に由来する堕落したパワーをすべての生命の「根源的エネルギー」であるかのようにみなしているということである。

ここで蛇(クンダリニー)が女神とされているのは、おそらくは、サタンも神の被造物(霊的女性)であることから来ているものと思われる。グノーシス主義では、ソフィアの過失なども含め、女性人格の側から男性人格への簒奪が行われるが、それは結局、被造物から神への反乱という意味合いを持つ。

クンダリニーは離れ離れになったシヴァ神(ヒンドゥー教の最高神)と再結合を果たすために、人体に侵入しており、この堕落したエネルギーの活性化により、休眠状態を解いて頭頂部にまで上り詰めるというが、それが果たされれば、堕落した肉的エネルギーが人間の精神を制圧し、人体を完全に操ることになる。

このことは、人間の全身がグノーシス主義的思想によって占められることを意味し、結果として、霊的に「頭のない体」が出来上がる。なぜなら、人間の内側で、精神が肉体をコントロールするのではなく、肉体に由来する本能的で悪魔的なエネルギー(「気」、もしくは「思念」)が、人間の肉体ばかりか精神までも完全に制圧し、知性・理性を駆逐してしまうことは、人が理性を失った状態になることと同じだからである。

これが、グノーシス主義が目指している「嬰児的回帰」の具体内容である。老子が説いている「道への復帰」としての「精→気→神→虚の逆行」の過程も上記と同じことを指しており、人間が知性を退け、彼らが「万物を生み出す根源的なエネルギー」であるとみなす「精、気」に自ら立ち戻ること(嬰児的回帰)を通して、人類が自ら創造された過程を自力で逆行して、すべての創造の根源であり永遠の生命とされる「道」まで昇り詰め、「天地造化の秘密を奪う」ことを終局的な目的としているのである。(人体におけるクンダリニー上昇の過程は、人類の天までの上昇の過程と重なるであろう。)
 

クンダリニーは、神話を研究したソヴァツキーによれば、受精後の肉体の形成にはじまり、人間を終生にわたり成熟・進化させる究極の力であるという。また、フランスのエミール・デュルケームはあらゆる種類の神々の原料のことを集合意識と述べているが、クンダリニーはそれに該当する可能性があると主張する。
Wikipedia「クンダリニー」より

   

『老子』第十六章は「帰根復命」によって、道への復帰をいう。内丹術はこれらに基づいて、「道生一、一生二、二生三、三生万物」という天地万物の生成の「順行」に対し、修煉によって、「三は二となり一と化し道に帰る」という「逆行」に進むことができるとする。人間においては、神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだすという「神→気→精」が順行の経路であり、「精→気→神→虚」の逆行が根源への復帰であるとした。これが内丹道の説く天地造化の秘密を奪うことであるこの「逆修返源」の方法は「順成人、逆成仙」の原則となり、性と命が虚霊である「元神」(本性・本来の真性)にたち帰り、迷いを去り道を得る、万物と感応し道と交わる、永遠の生命たる道まで昇り一体となる修道(中国語版)の基礎理論となった。

『老子』は神秘思想を語った章があり日本では哲学と考えられていたが、現在では何らかの修行を伴ったとする研究者が増えている。『荘子』は道と一体になる手段として「坐忘」「心斎」を説いている。それを承け紀元前から紀元2世紀の『淮南子』までの初期道家で、虚に至る高度な瞑想実践が行われたとする説も発表されている。
Wikipedia「内丹術」より 

 

一体、彼らが、こうした修行によって到達できるとしている「神意識」なるものは、何なのだろうか。それを人類の「集合意識」だととらえている説もあるから興味深い。そう考えると、なぜグノーシス主義者が個人の悟りでは満足せず、集団的覚醒を促そうとしているのか、その理由も見えて来るだろう。

さて、このように座禅やヨガにおける「悟り」や「覚醒」は、蛇(悪魔)の偽りの知恵に由来するグノーシス主義的な悪しき概念であり、邪悪なエネルギーによって人間の内なる「神的自己」(本当はそのようなものは人間の内に存在しないので、これは邪悪な生まれながらの自己を肥大化したものである)を「覚醒」させて、人間を「神のように」変容させようとする手段であることを理解したい。

その上で、Eden Mediaが出している直近の動画「【4月】全能の目・松果体のお話。」や「悟り」を見てみると、この媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、むしろ、反キリストの到来に備えて、人類超人化計画(集団的アセンション)の達成に奉仕しようとするものであることが分かる。

Eden Mediaが真の目的としているのは、人類が「クンダリニー(蛇=悪魔)」の力によって「覚醒」し、「サードアイ」を開眼し、超能力を身に着けて、「神のよう」になって、存在し得ない地上の楽園たる「第二のエデン」に自力で回帰することであり、これはキリスト教に偽装しようとしてはいるものの、その本質は完全に偽りの神秘主義思想を「布教」する媒体なのである。

<続く>

Powered by ニンジャブログ  Designed by ピンキー・ローン・ピッグ
忍者ブログ / [PR]