4.「カルト被害者救済活動」はプロテスタント固有のクルセード(十字軍)であり、それはプロテスタンティズムのDNAに組み込まれた「分裂抗争」遺伝子が仕掛ける戦争でもある。
一度、これまで見てきたことを振り返ろう。まず、ニッポンキリスト教界全体がカルト化の危険に陥っていることを筆者は指摘した。そしてカルト化とは、教会間の激しい拡大競争が生み出した現象であること、教団が主導し、積極的に推し進めている、自己組織拡大としての教会成長プロジェクトが、副産物としてカルト化教会を生んでいるということを指摘した。言い換えるなら、今日のキリスト教会の構造的基盤となっている、聖職者階級による信徒階級への支配と搾取という構図が、そもそも信徒の資材化という発想を生んでおり、そのような考え方こそが、カルトの理念の基盤となるものであり、そのような考えある限り、教会が次第にカルトへと結びついていくのは必然であるという見解を示した。
ここで「聖職者階級制度」という言葉を筆者は用いているが、それは決して、筆者が独自に生み出した造語ではない。例を挙げるなら、すでに半世紀近く前に、ウォッチマン・ニー氏(1903-1972)が、キリスト教のあらゆる宗教組織に特有の聖職者階級の存在は、聖書の理念に明らかに反しているという見解を示している( 「ニー兄弟が受けた啓示、12、聖職者制度と宗教組織。13、普遍的な祭司職」参照。歴史を遡れば、同様の見解は、他のキリスト教徒の中にも見出せよう。
このようにして、聖職者階級の存在こそが、教会の腐敗の最たる原因なのであり、カルト化の根源なのである。しかし、そのようにカルト化の原因を自分たちが作り出してきたことを見たくないがゆえに、すなわち、ニッポンキリスト教界に行き渡っている不平等を崩したくないがゆえに、教界の聖職者たちのほとんどが、カルト化の問題に対策も講じず、ただ知らぬふりを決め込んでいる。
このような無責任な人たちの罪がいずれ問われることになるのは言うまでもない。
だが、それでは、次に、「カルト化教会の被害者救済」を看板に掲げ、被害者の奪回と回復を積極的に支援しているように見える、ニッポンキリスト教界のごく一部の教会や牧師についても、同様に、考えてみなければならない。
この教界の大部分が、カルト化教会の被害者をただ見捨てているだけなのに対し、そのような一部の教会は、早くから被害者に支援の手を差し伸べてきており、その行為は同胞を助けたいという、温かい志ゆえであったように思われる。
だが、この「救済運動」の実態は何なのか。
それは、本当に被害者の人生を救う運動だったのかどうか。
あるいは、表に掲げる看板とは裏腹に、別の目的が隠されているのではあるまいか。
…この問題を提起することこそが、本稿の主要目的であり、議論の核心部分である。
そこで、いよいよ本題に入るために、カルト化教会で被害を受けた人々の奪回と回復、裁判を助長している勢力について考えてみることにしよう。
まず、被害者による裁判について、もうう一度、言及する。
最初に述べたように、筆者は教会でこうむった被害を解決する手段として、一時、裁判について検討したが、受けた被害に対して、裁判が有効な解決をもたらしてくれるという結論には至らなかった。その理由は、決して、裁判によって得られる報いが少なすぎたためだけではない。
裁判というものは、およそこの世の政治闘争であり、力の闘いである。
裁判が政治的な権力闘争の場である限り、そこに正義だけを期待することには無理がある。弁護士という職業一つを取っても、彼らは裁判に正義があるからという理由では働かず、何らかの利益が自分に得られるとみなさない限り、被害者の弁護には応じない。
さらに、当事者でないのに、裁判の周辺にむらがってくる、ウンカのような群れがいるが、それは裁判によって得られる利益があるからこそ、集まってきているのである。
裁判の当事者でなくとも、裁判によって利益を得ている人たちがいる。
たとえば、「被害者代表」がそれである。
裁判を通して得られる利益とは、決して、金銭だけではない。
目には見えにくいが、(原告・被告などの当事者以外の)人たちが、裁判を通して得られる最大の利益とは、社会的名声である、と筆者は考えている。
つまり、裁判に間接的に関わることによって、自己の美名を広く世に知らしめようとする人たちがいる。自分は弱者の痛みを見過ごせず、弱者のためにかいがいしく立ち働く勇気を持った自己犠牲的人間であり、救済者であり、正義の味方であると世間に思わせ、そのような美名によって、自らの権力を高めようとする人々がいる。
このような現象は何も裁判に限ったことではない。
歴史を振り返ると、あらゆる侵略戦争の口実に、「正義のための闘い」というスローガンが使われてきた。歴史上あまた起こってきた「弱者救済運動」は、多くの場合、政治闘争や侵略戦争に結びつき、暴力と流血なしに終わったためしがほとんどない。どんな性質のものであろうと、弱者救済運動は、政治的な闘争を呼び起こす原動力となり、出世をたくらむ野心家たちの権力奪取のために、巧みに利用されて来たのだ。
「虐げられてきた弱者を解放する」という美名のもとに、歴史上、人類は大量の血を流して来た。それだけでなく、「弱者解放」のスローガンを唱えることによって、政治的権力を拡大してきた人たちが無数にいることを思い出す必要がある。
権力闘争があるところには、膨大なエネルギーが渦巻いているため、その磁場に生じる力を利用して、「濡れ手に粟」式に利益を得ようとする人物が必ず現れる。虐げられた弱者が、次第に力を持ち始め、マイノリティからマジョリティへと転換し、弱者から強者へと変わる時、今までの抑圧を公然と覆し始めるような時、その下克上のパワーを巧く利用すれば、圧倒的な政治権力を手に入れて、政治指導者の地位にまで上りつめることが、実際に可能だったのである。
弱者が弱者でなくなる時、そこには時代を覆すほどの大きなパワーが生まれる。そのパワーを、己が利益のために利用しようと、運動の周りに群がるハイエナのような人々が、いつの時代にも存在してきた。
「弱者救済物語」が、政治的出世をたくらむ人々にとって、どんなに「美味い話」に化けるか、最近の例をとって説明しよう。
北朝鮮の拉致被害者「救済」活動により、一躍、脚光を浴び、「政界のプリンス」とまで呼ばれた安倍元首相のことを覚えておられるだろう。
日本国家は拉致問題を長い間、放置し、見殺しにして来た。官僚も政治家も、拉致被害者に関わりあっても、何ら利益がないことが分かっていたからこそ、そうして来たのである。
ところが、小泉政権下で、どういうわけか拉致被害者が急に帰国し、突然、拉致問題が世間の注目を浴びて、弱者たる被害者に国民の余りある同情と関心が集まるや否や、国策は急に昨日までと正反対のものになり、外務省の中には拉致問題の対策室が作られ、さらに、そのような国策の変更と、弱者に集まった同情票にあやかり、自分が拉致被害者の「救済者」として脚光を浴びようと、急にスポットライトの下に這い出て来る政治家が現れた。
こうして、拉致被害者を勇敢に救済する「白馬の王子様」として名乗り出た「政界のプリンス」の実体が、いかにお粗末なハリボテに過ぎなかったかは、歴史によって証明されているので、今更、言うまでもないだろう。
さらに別な角度から注目しよう。この「プリンス」が無能だったおかげで、飛躍的に出世した別の一群がいた。安倍政権時代に、首相の欠点に歯に衣着せぬ痛烈な批判を浴びせたことが国民に受けて、一躍、メディアに引っ張りだこになり、世論にもてはやされる有名人となった政治家がいたことを覚えておられるだろうか。
ところで、日本国民は「正義の仕置き人」の物語が大好きだ。日本のテレビでは、何十年間と相変わらず、『水戸黄門』や、『忠臣蔵』や、『暴れん坊将軍』のドラマが定期的に放映されている。特に、年末になると、必ず新しいバージョンに模様替えされて、繰り返される『忠臣蔵』の物語に、何かしらの疑問を覚えた人もいるかも知れない。何が日本国民をこれほどまでにこのような物語にひきつけているのだろうか。
この事実が物語るのは、このような勧善懲悪の物語が、一種のカンフル剤として定期的に日本国民に投与されているということであり、その効き目は抜群で、この投薬がなければ、この国民はストレスのあまりやけくそな暴動に走るかも知れないほどである。
日本だけに限ったことではない。どこの国でも、庶民は常日頃から、無能で横暴な上司に苦しめられている。だが、とばっちりを恐れるがゆえに、上司にもの申せず、鬱憤だけがたまっていく。そこで、誰か強い人が自分の代わりに、勇気を持って、誰も彼もからも恨みを買っているような横暴な権力者に、一太刀浴びせてくれないだろうかと思う。それがたとえテレビドラマであっても、国民はそれにカタルシスを感じて、気分爽快となる。そして、そのように自分の鬱憤を代弁してくれる人間が現実に現れると、その人はきっと「正義の味方」なのに違いないと、民衆はあまりにも簡単に思い込み、すぐに一票を投じようという気になる。彼の正体をきちんと確かめたわけではない。本当はとんでもない野心家かも知れないのに、「勧善懲悪」というスローガンを聞くと、人々は疑う心さえ、あっけなく失くしてしまうのだ…。
(このことを何より顕著に証明した最近の例は、小泉元首相が投げかけた「郵政民営化」というスローガンに対する国民の反応なのだが、今はそのことは脇に置いておく。)
このように、勧善懲悪物語には、日本国民の警戒心を眠らせる「催眠効果」と、「カンフル剤」としての側面があるが、そのような効果を巧みに利用して、人気を集める政治家がいる。すでに没落しつつある権力者を痛烈に批判したからといって、本当は、大した危険は伴わないのだが、権力者批判を恐れている庶民には、それさえすごい勇気の賜物のように思われる。そこで、野心家は、「どうだ、こうして仕返しも恐れず、大胆に正義を語るオレ様は、すごい勇気の持ち主なんだぞ。意気地なしのおまえらの代弁をしてやっているのだ」と、信じ込ませ、恩に着せることができる。
そのような、大した犠牲も伴わない舌先三寸の批判によって、国民の人気を集め、正義の人をきどることは簡単に可能である。安倍批判により出世を遂げた政治家は現在、軒並み大臣になっているが、中には以前には一度も大臣になったことのない議員もいた。上司の無能ぶりをこれでもかと暴き出した彼ら自身には、果たして、どのくらいの力量があるのだろう。それはこの先の歴史が証明するだろう。
弱者救済の物語や、勧善懲悪の物語がメディアに登場して来た時、クリスチャンはその表向きの筋書きにとらわれず、よくよく注意して物事の実態を見極める必要がある。
弱者救済運動のパワーにあやかって政治的出世を遂げる人物は、本当に救済者なのだろうか。無能な権力者を痛烈に批判している人が本当に実力者なのだろうか。
くどいようだが、「てこの原理」を上手く使いさえすれば、誰にとっても、出世することはさほど難しいことではない。要するに、シーソーの片側に自分が立ち、もう一方の端に重い荷物をドーンと載せれば、自分の立ち位置が飛躍的に上昇するだけのことである。この原理を政治の世界で応用することができれば、誰でも、実力なしに、簡単に出世の階段を駆け上ることができる。
荷物は重ければ重いほど良い。問題は大きければ大きいほど良い。
腐敗がひどければひどいほど、「仕置き人」の需要が高まる。世間を騒がせるようなひどい事件が起これば起こるほど、「救済者」を求める人々の気持ちは高まる。
うんと需要が高まったところを見計らって、「救済者」の看板を掲げて誰かが登場してくる。
民衆は救いをあまりにも渇望しきっているので、看板をみただけで、あっけなく騙される。
没落あるところに、上昇あり。この歴史的原則を覚えて、物事を慎重に判断されたい。
さて、あまりにも道草が長くなったので、本題に戻らなければいけない。
教会のカルト化という問題を見過ごしにし、被害者をただ見殺しにするようなクリスチャンも問題だが、では、もう一方で、弱者救済というお涙頂戴物語を巧みに利用して、飛躍的に自分の名声を高めてきたような人たちが、本当に弱者の味方なのだろうか。
世間を揺るがすような腐敗教会が現れた時、その腐敗に対していち早く立ち向かう人は、「正義の仕置き人」のように見える。世間から同情を集めている弱者を救済するという名目で裁判に関われば、その人の名声は高まるだろう。だが、そういう勧善懲悪物語を自己の出世の手段としている者たちがいないかどうか、そのことについてクリスチャンはよくよく考えてみなければならない。
このような意見を提示すれば、恐らく、次のような非難が筆者に向けられることだろう。
" 現在、カルト化した教会で被害を受けた信徒の「救済活動」に携わっているクリスチャンは、善良な動機でそれをやっているのです。その活動は、ニッポンキリスト教界を道徳的堕落から救うために、行われている正義の活動なのです。
大体、同業者から憎まれながら、何のもうけにならないボランティアで骨折って、弱者の味方として活動しているというのに、その動機がまるで野心的なものであるかのように疑われなければならないとは、情けないことです。
腐敗した教会が現れても、ただ見てみぬふりをする普通のクリスチャンに比べて、私たちははるかに勇気を持って良心的に行動しているし、一部の被害者は、それをまさに待ちに待った救いのように受け取っています。なのに、なぜその活動が悪いかのように言われなければならないのでしょうか?
なぜ、救済活動に関わる人々の動機を、あなたは疑うのでしょうか?
そのようなクリスチャンが非難されて、その活動が否定されなければならないとしたら、では、他の誰が被害者のために働き、彼らをカルトから救い出すというのでしょうか?
何の恨みがあって、あなたは我々の救済活動を否定するのでしょう?"
だが、結論を下す前に、じっくりと物事を冷静に考え直してみて欲しい。できる限り冷静に、客観的に、筆者はこの先、救済活動の本質が何であるかを、誰にでも分かるように説明したいと考えている。
そもそも、キリスト者は、「救済者」と世間からみなされる人物に対して、心底、慎重に接する必要がある。それがどこから来たものなのか、彼の活動の真の目的は何なのか、出所をよく吟味しようともせず、ただ自称「救済者」の語る大義名分を聞いただけで、安易に信用することは避けねばならない。
繰り返すようだが、ヒトラーが第一次世界大戦により荒廃し、傷つけられていたドイツ国民のプライドを「回復する」という名目で登場してきたことを思い出さねばならない。
「虐げられたプロレタリアートの解放」というスローガンを提唱してこそ、レーニン、スターリン、毛沢東は多大な権力を手にし、血みどろの闘争を可能にすることができた。
宗教について言えば、カトリックが免罪符の売買を始めとして、多大なる腐敗に落ち込んで権威失墜していたからこそ、同業他者の自滅をバネに、プロテスタントが台頭した。
そして、このことは後にも詳しく触れることになるが、同じ宗教の別の宗派に対抗する必要性から生まれて来たプロテスタントには、「対抗せよ!」という遺伝子がDNAにまで組み込まれている。
兄カトリックに絶縁状を突きつけて生まれた弟プロテスタントが、今日、己が家族のメンバーに次々と絶縁状をつきつけ、互いの教義を否定し合い、互いに勘当しあって、多重分裂に陥り、内部抗争に終始しているのは、全く驚くに当たらない。そもそも、一致ではなく分裂を基本理念として生み出されたプロテスタントには、最初から最後まで、多重分裂と内部抗争が運命づけられていると言っても過言ではない。分裂抗争が遺伝子レベルで徹底しているプロテスタントには、分裂以外の将来は何もないだろう。たとえカトリックとロシア正教が事実上の和解と提携に至ったとしても(それもまた考えにくいが)、そこにプロテスタントはまずいないものと考えられる。
今日、プロテスタントのクリスチャンにはこの宗派の輝かしい側面だけが強調されており、闇の側面は隠されている。だが、歴史上、プロテスタントが創立100年も経たないうちに、カトリック同様の腐敗に落ち込んでいる事実は見逃せない。カルヴァン、サヴォナローラのような、プロテスタントの原理主義的指導者は、彼らが唱えた輝かしい教義とは裏腹に、信徒に残酷な恐怖政治を強いた。
プロテスタントもカトリック同様、魔女狩り的な宗教裁判を行い、「異端」と断定した信徒を火刑などに処してきた。(詳しくはシュテファン・ツヴァイク著、『権力と闘う良心―カルヴァンと闘うカステリオン―』を参照。)
こうして、歴史上、堕落した権力が没落するに当たり、それに代わる「新しい正義」を唱える勢力が登場してきたが、それらが前の主人よりも優れた主人になったという例は、筆者が覚えている限り、ほとんど見当たらない。むしろ、そのような善悪の闘いはすぐに流血へと結びつき、新たな恐怖政治と、政治的対立を生み、それがゆえに、世の中は前よりももっと悪くなってしまったという例の方が多いことだろう。
普通に教理を学んだクリスチャンならば、誰でも知っていることであるが、真実の救済者は、人間ではなく、キリストただお一人である。にも関わらず、もしも神ではなく、限られた能力しか持たない人間が、「人民の救済者」を自称したり、「弱者の救済運動」を宣言して、腐敗した権力に闘いを挑むことを目的に掲げて活動しているならば、それらの人々の正体が何であるのかを、よくよく注意して見極める必要がある。
さて、プロテスタントの「カルト被害者救済運動」に話を戻せば、この運動は、元を辿れば、キリスト教以外の「カルト宗教」からの信者奪回運動がそもそもの始まりであった。つまり、プロテスタントのキリスト教界が「カルト」と断定した他宗教から、信者を奪回し、奪い取る運動がその始まりだったのである。
プロテスタントのキリスト教界では、数十年前から、このような「カルト救済十字軍の遠征」が始まっている。牧師たちが、様々な家庭から要請を受けて、創価学会、統一教会、エホバの証人、ヤマギシ会などの「カルト宗教」へ、信者を奪回するために赴く。そして説得工作によって信者を奪回し、キリスト教に改宗させる。
だが、キリスト教界から「カルト」呼ばわりされ、信者を力づくで奪い取られ、闘いを挑まれた他宗教の側から見れば、それは正義の運動どころか、クリスチャンの独りよがりに基づいた単なる「侵略行為」でしかなかったであろう。
筆者は、この「カルト被害者救済活動」は、要するに、プロテスタントの十字軍であったと解釈している。
その昔、カトリックの十字軍が、正しい宗教を広めるとの名目のもと、イスラム文化圏に出かけて行き、イスラムの文化の富を略奪し、イスラム教徒を無理やりキリスト教に改宗させたのと同様のことを、20世紀のプロテスタントもやっていたのである。さらに、ここにはプロテスタンティズムのDNAとしての他宗教に対する根深い対抗意識も含まれていたことだろう。
「カルトの圧迫と支配から、犠牲者を解放する」という表向きの美名とは裏腹に、この「プロテスタントの十字軍」の本質的な目的は、プロテスタントに新しいフロンティアを開拓し、新しく領土と領民を奪取すること、他宗教に戦争と侵略をしかけることによって、他宗教の富を奪い、プロテスタントの領土を拡大し、教会成長を実現させることにあった。
今日のプロテスタントの「カルト救済十字軍の遠征」は、主として、他宗教ではなく、キリスト教内部のカルトへとシフトしている。だが、そもそもの始まりは他宗教からの信者奪回運動であったことを覚えておく必要がある。
さて、ここから先、「カルト化教会の被害者の救済運動」の歴史に関して筆を進めるが、その際、架空の物語を引き合いに出すことをお許しいただきたい。この先に書かれていることは、筆者が一般論から導き出した、フィクションの物語である。
3.ニッポンキリスト教界のカルト化の最たる原因は、教会内の階級制度にある。
「教会のカルト化」という現象が世間をこれほど騒がせているにも関わらず、様々な教団教派の上層部がこの問題をほとんど放置し、取っている対策があまりにもお粗末である理由は、一体、どこにあるのだろうか。
かつて、教会のカルト化監視のために共同機関を設立しなければならないという訴えが、キリスト教界の中から提示されたことがあった。にも関わらず、その計画は各方面からの反対に妨げられて、未だ実現していない(村上密Blog 記事「カルト化予防対策」参照)。
さらに、裁判の過程で、犯してきた悪行がこれでもかと世に露呈しているような悪徳牧師を、他教会の有名牧師たちがこぞってかばいだてするか、あるいは「障らぬ神に祟りなし」とばかりに、臆病に沈黙している現状がある(ブログ吉祥寺の森から 記事「ORCの儀間盛夫と関わった人たち」参照)。呆れる他ない。
こうしてみると、「教会のカルト化」という問題は、未だ、ニッポンキリスト教界の中で一種のタブーとして扱われているのだと考えざるを得ない。この「業界」は、カルト化問題の拡大を少しも食い止めようとせず、必要な対策も講じないでおり、そのような自浄能力の欠如のために、はかりしれない悪評を世間からこうむっていにも関わらず、その現状を嘆かわしいと思うことすらしていないのだ。
なぜ、カルト化の問題が、ニッポンキリスト教界全体にとって、そのように無関心に目を背け、消極的にしか関わることのできないタブーなのだろうか?
すぐに思いつく理由として、いくつかのことが挙げられる。たとえば、カルト化教会の牧師と親戚関係にある牧師たちは、きっと身内意識から、悪徳牧師を擁護せざるを得ないのだろう、あるいは、カルト化教会の不祥事を取り上げると、業界の評判がますます落ちると危惧する牧師であれば、「臭いものには蓋」式に、そのような問題にできるだけ触れたくないという態度を取るのも無理もない…、等々。
だが、ここにはそれ以上に、もっと根深い原因が隠されていると筆者は考えている。
カルト化教会の問題が、主として、信徒による内部告発の形で世間に露呈していることに注目すれば、その原因は明らかとなる。カルト化教会の問題に多くの聖職者が目を背けたがるのは、そこに、「牧師が信徒を訴える」という下克上の構図、つまり、「牧師に対する信徒によるクーデタ」の構造を見て取れるからであるというのが、筆者の結論である。
想像するに、全国に教会を持つあらゆる牧師たちにとって、何よりも悪夢であり、決して自分の身にだけは起こって欲しくない事態は、「信徒によるクーデタ」、つまり、信徒による糾弾のために、自分が辞職に追い込まれ、教会を失うという事態であろう。
今日、ニッポンキリスト教界の多くの牧師たちには、牧師館舎に住み、教会からの献金に依存して生活しているという共通点がある。そのような彼らにとっては、自分の教会を失うことは、即、家を失い、生計を立てる手段を失うことを意味する。たとえどんなに教会を成長させることができたとしても、しょせん、教会は牧師の所有物ではない。そのため、ほとんどの牧師は、たとえ多くの信徒から尊敬され、権勢を誇っていたとしても、教会を追われる恐怖を完全に拭い去ることはできない。
教団に勤務するか、教育機関などで教鞭を執るか、あるいはテレビのパーソナリティになる、国会議員になる、または文筆業で生計を立てるなどして、何らかの副業を持っていない限り、牧師は自分の教会を失えばただの失業者である。そんな牧師たちが、「信徒による牧師の不祥事追求」によって、社会的面子を失うにとどまらず、自教会を追われ、家族まるごと路頭に迷う羽目に陥ることを思えば、多大な恐怖を感じるだろうことは、容易に想像できる。
正真正銘、神により頼み、教会からの収益に頼らず生活を維持している牧師も、日本に一部はいるであろうが、そのような良心的な聖職者を除き、教会から吸い上げる献金によって生計を維持している大多数の牧師たちは、信徒によるクーデタや、内部告発を恐れないはずがなく、何とかしてそのような、自分の地位と生活を脅かすような告発や追求は未然に防ぎたいと思って当然である。
そこで、まさかの「クーデタ」が他教会に起こったのを見た時、大勢の牧師たちが、それを自分にだけは起こってほしくない、いや、起こるはずがない出来事だと考えて、目を背けるのも無理もない。「信徒による反乱」は、教会の権力構造を根本からゆるがす力を持っている。震源地がどんなに遠くても、他教会で起こった地震のニュースが、多くの牧師に失業の危機を思わせるがゆえに、彼らを震撼させるのだろう。
人間、誰にでも落ち度はある。牧師が人格者だとは限らない(いや、それどころかむしろ逆の事例の方が多いくらいだ。)牧者としての我が身の至らなさを痛感していればこそ、多くの牧師には、カルト化教会の崩壊と、そこを司る牧師の社会的転落が、他人事のようには思えない。
日本におけるプロテスタントのキリスト教界は、筆者自身の経験に基づいて判断したところでも、概して、下からのフィードバックを赦さないトップ・ダウン式の構造となっている。このような風通しの悪い業界に、権威者として長くとどまっていると、どうしても性格が独裁者的になり、我が身を客観的に振り返る能力が失われていくことは避けられない。
ニッポンキリスト教界の「センセイ」方の中には、保身だけしか念頭になく、自分を奉ってくれるイエス・マンの取り巻き信徒だけを無意識に求め、可愛がり、反対意見は容赦なく駆逐し、反対者は教会から追放することによって、教会を私物化し、自らを客観的に振り返って反省し、他人と協調しながら生きていく能力を全く失ってしまっているような人間があまりにも多すぎる。
そのことは、以前から幾人もの人々に指摘されてきた。(例えば、Dr.Luke氏の分析を参照。「今日、<教職と信徒>という構図が一般的であり、ニッポンキリスト教には信徒が自分のことを「牧師先生」と呼ばないと怒り出す御仁もいるようです」。)
そのような牧師たちが、カルト化教会の牧師が追い込まれているのを見ても、保身の思いから、その出来事には目をつぶるか、あるいは、「決してこの教会にだけは起こらない出来事」として言及するだけなのは不思議でない。
カルト化教会の出来事を見て、「私たちの教会運営にも同じような腐敗を生み出す問題点があったのだと思い至りました。あるいは、カルトに陥る危険が十分にあったのだと悟りました。他者の失敗から学び、己を反省して、悔い改め、教会運営をもっと透明なものにすることによって、そのような危険に誰も巻き込まれなくて済むよう、努力したいと思います。この教会をもっと民主的な場所にするために、私も自分を省みます、皆さんも努力しましょう」と呼びかける牧師はまずいない。
カルト化教会で被害を受けた信徒が、別の教会の牧師のもとへ相談に行っても、決まりきった、「牧師を赦しなさい」という聖職者擁護の一点張りの返答で追い返される例がほとんどであるのも、このような事情のためであると言えよう。たとえ他人の教会の出来事であっても、信徒が牧師を訴えたという話を聞くだけで、多くの牧師たちは「もし自分がそうなったら・・・」と、カルト化教会の牧師の立場に身を置いて恐怖を感じ、我が身可愛さから、自分たちの階級を擁護すればこそ、被害者の悲痛な訴えに耳を塞ぎ、カルト化教会のニュースから耳を背けようとするのであろう。(あるいは、ひょっとすると、自分たちがその悪徳牧師と同じ穴のむじなだという自覚が無意識にもあるのかも知れない。)
それくらいに、信徒による反乱や、内部告発に対してアレルギー反応しか示せないのが、ニッポンキリスト教界の悲しい現状である。そのような自浄能力のない、下からのフィードバックを受けつけない、自己反省能力に欠ける教界が、教会のカルト化という問題を直視せず、ただ聖職者擁護の立場だけに立って、ろくな対策も取らずに問題を放置しているのは、至極当然の結果である。
「人は皆、原罪を抱えた罪人です。あなた方は皆、罪を悔い改めなければなりません」と、講壇から大胆にも信徒の罪を指摘している多くの牧師センセイ方が、自らの罪を信徒に指摘されるという段になると、それを全く好まず、頑なになり、決して自分への批判を許そうとしないのは大きな矛盾であるが、いずれにせよ、信徒による牧師への告発、それは、未だに日本キリスト教界のタブーである。なぜなら、それは自分を守りたいだけの保身的牧師の威信を脅かし、引いては、自己組織を守り抜きたいだけの利己的な教界のヒエラルキーを、根幹から揺るがしかねない出来事だからである。
極言するならば、教会のカルト化という問題に、ニッポンキリスト教界が決して真面目に向き合わないのは、それが必然的に、教会における階級制度の問題に通じるからである。
「階級制度?何、それ?」と、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしてこの文章を読んでいるクリスチャンも、中にはいるかも知れない。そのような人たちには、以下に書き記すことを、できるだけ先入観を取り払って、真剣に考えていただきたいと筆者は思う。
ニッポンキリスト教界は、牧師対信徒という二つの階級から成り立っている。牧師は羊(信徒)を牧し、豊かな草原に導くという建前とは裏腹に、実際は、羊を支配し、羊を搾取することによって、自分の階級を成り立たせている集団である。
クリスチャンの方々よ、どうか目を覚まして、よく考えて欲しい。
ニッポンキリスト教界における教会が信徒のために存在していると思っているなら、大きな間違いである。信徒は教会に通うことで、牧師の支配に服し、教会の拡大に貢献し、牧師の名誉欲を満たし、次には食欲を満たすために、喜んで我が身を犠牲とする家畜となるべく、巧みにマインドコントロールされているのだ。
牧師は神の名を用いながら、羊を自分の必要のために無報酬で働く道具にしている。羊の財産を「神のため」という名目により、長い時間をかけて、少しずつ横領している。そこでは、牧師に喜んで犠牲を捧げる気のない不熱心な羊は、あれやこれやの理由をつけて追い払われる。
牧師は、美味しそうな羊を見つけては、それを食らって、肥え太る。その太った牧師と肥大した教会を食らって、教団がますます肥え太る。
クリスチャンはいい加減に目を覚まさなければならない。
今、ニッポンキリスト教界の教会にいるのは、牧者でなく、牧者に扮装した狼であり、ハイエナである。そしてハイエナどもを操っている勢力が教会の背後に控えている。もしも人生を食い物にされたくなければ、絶対に、このような教会には近寄ってはならない。搾取されていることに気づいた羊は、一刻も早く、そこを逃げ出しなさい。その際、荷物に未練を持って後戻りしない方がよろしい。
「クリスチャンを教会の魔の手から救わねばならない!!」
これが今日の腐敗した教会のあまりにも悲しい現実である。
このように、信徒を道具化し、教会が収益を上げるための単なる資材とみなすような階級制度が公然とまかり通っている限り、キリスト教界に民主的な運営はあり得ないと、筆者は考えている。今、ニッポンキリスト教界が、どれほど非民主的で、組織優先になっていることだろう。教会同士の横のつながりは希薄であり、信徒同士の情報交換の場は限られている。上部組織(教団)は教会にトップ・ダウン式に指令を送るだけで、末端の信徒からの意見を汲み上げるルートはない。教団は教会に君臨し、教会を支配している組織である。
もし、一教会単位の活動だけに注目するならば、教界の問題がそこまで深刻化しているとは気づかないかも知れない。ワンマン牧師がおらず、収支報告がちゃんとなされ、役員会による意思決定が成り立っている教会ならば、一見、あたかも、その教会は経済にも透明性があり、自由で民主的な運営がなされているように思われるかも知れない。しかし、ひとたび、教団単位の活動に目を向けると、そこには収支報告もなければ、議事録もなく、何の情報も、一般信徒の目にはほとんど触れることがない現実がある。
教団の決定に関して、信徒は通常、蚊帳の外に置かれた存在だ。重要な決定は全て聖職者たちだけの密室の会議において下される。教団の各要職に支払われている手当がいくらなのか、知っている信徒が何人いるだろうか。教団の理事とは一体、何のために存在する役職なのか、その職務内容を知っている信徒がどのくらいいるだろう? 教団の規約を牧師は信徒に知らせているか? 教団のどの会議において、どのセンセイがどのような方針を打ち出し、どのような方法で意志決定が行われたのか、誰が賛成したのか、反対したのか、一般信徒に知りうる手段があるだろうか? そのような密室で決定されることこそが、教会を左右し、信徒を左右し、教団全体を左右する、重大な影響力となるというのに?
教団において、重要な情報は、上層部にいる聖職者たちだけが握っている。つまり、情報の独占と、決定権の独占が行われているのである。
さらに、教団に出入りする金銭の総額も、信徒には不明である。
教会単位の収支報告には、牧師への謝礼金が記されている。だが、もしもその牧師が教団内で別の要職を兼ねているとすれば、牧師は教会からの収入の他に、教団からの収入ももらっているはずである。だが、それは教会の収支報告には載らないため、信徒の目には触れない。
そうなると、牧師が実質的にどの程度の給料をもらっているのか、信徒には知りようがないということになる。
教会単位の収支報告という、信徒に見える形の金の流れとは別に、信徒の目には隠された別の金の流れがある。それは教団へ入る金、教団から出て行く金だ。この流れに透明性がないことは大問題である。不透明なところに、淀みが生じ、腐敗が生じない方がおかしいのだから。
情報が表に出ず、金の流れも不透明な教団という組織は、一般信徒には分からない「御簾の向こうの世界」である。そこに住む「雲上人」たちこそが、教界を牛耳っている特権階級、富と情報を一手に握って教会を動かしているブレーンなのだが、このような上層階級の存在は、一般信徒の目からは巧みに隠されている。
もしも、この階級制度を認めないような信徒、この階級制度に気づいて、それに刃向かうような信徒がいれば、有形無形の圧力によって、この「業界」から追放されるだろう。我が教団の運営方針に疑問があるなら、無理にこの教団に属さなくてよろしい、というわけだ。
だが、どのように言い訳してみたところで、ニッポンキリスト教界の聖職者たちが、信徒に君臨し、礼拝や儀式を「エサ」にして信徒を支配し、信徒から利益を吸い上げていることは否定しようのない事実だ。信徒を霊的に養ってやるふりをしながら、その実、彼らは奉仕や献金という名で、信徒の金と労働を無償で吸い上げる。信徒は、聖職者階級の食い扶持を維持するために、利用され、踏み台にされているとは、気づきもせずに、自分の奉仕や献金が、「神に用いられている」と信じ込んで、喜んで金や労働を提供していく。
さらに、日曜礼拝を守らなければ、信徒は信仰を維持できない、という事実無根の教えが教会では公然と語られている。信徒は信仰的に未熟で浅はかなので、一人で考えていれば、誤った信仰に堕ちていくだけであり、教会につながって初めて真の信仰を維持できるのだという荒唐無稽な説が、まことしやかに教え込まれているがゆえに、信徒の多くが、どんな不祥事が教会に起こっても、その教会を離れては信仰を失うという事実無根の恐怖に陥って、教会に縛りつけられている。
教会から離脱する力を精神的に奪われ、教会に不当に縛りつけられ、生き血を吸われている信徒が、全国にどれほどいることだろう?
教団や教会組織が用いる、伝道や宣教といった美的スローガンは、その実、聖職者たちが支配を続け、さらに支配を拡大していくための口実でしかない。それはその昔、カトリックがクルセード(十字軍)という名前でイスラム文化圏を侵略したのと同じ発想に基づいている。
教会には、自己組織の拡大のために、新しい開拓伝道所を作るための資金はあっても、その資金を、信徒の真面目な苦労をねぎらい、感謝の意を示すために用いることには決して同意しない。たとえ信徒が教会に通い続けてますます貧しくなり、失職し、ホームレスになったとしても、牧師が身を挺して、その信徒を救わねばならない義務はないと、牧師たちは断言することだろう。実際に「羊のために命を棄てる」覚悟を決めている奇特な牧師を、この「業界」に見つけることができるだろうか? そんな牧師はまずいないものと思われる。だが、その一方、信徒の方では、教会が財政難に陥っても、必死の努力でそれを建て直し、多大な献金を払い続けることで、牧師一家全員の生活を支えてあげなければならないという、つりあわない義務を負わされている。それは明文で規則化されているわけではないにしろ、ほとんどの信徒たちが、それを「教会員の義務」の一つとしてとらえ、無意識に、暗黙の了解のうちに背負っているのが現状だ。
牧師への謝礼だけでない。ボーナス月に呼びかけられる特別献金、様々な災害の被災地への義捐金、会堂建築のためのローン…、終わりなき献金と奉仕のノルマが信徒の生活を押しつぶし、食いつぶしている。
このような状態では、教会は、いわば、聖職者階級のもうけのためだけに運営されている、倒産寸前の会社のようなものである。信徒はそこで給料さえもらえず、虚しくただ働きさせられているのに、その不公平さに気づくだけの知性も情報も与えられず、会社が倒産しては自分が困ると信じ込んで、せっせと身を粉にして会社に貢いでいる。それだけ働いても、信徒に帰ってくるものといえば、ぱっとしない日曜礼拝の説教、クリスマスのお決まりのイベントや、誰のために開かれているのかもよく分からないような虚しいバザー、伝道の本質からかけ離れたコンサートと、さらなる集金の呼びかけ…、要するに、五感に訴えかけることはあっても、そのためにへとへとになるまで働かされ、決して霊の滋養とはならないような、うわべだけの興行的催しである。これほどまでに報いがないのに、なぜ仕えつづけるのか。まことに呆れた話である。
教会はいつまで経っても豊かにならず、大した収益にもならない、伝道にもならないようなプロジェクトを山ほど組んでは、財政難だ、財政難だとしきりに訴え、信徒からさらに金と労働を巻き上げていく。世間の人々がこのような組織を胡散臭い目で眺めて、素通りしていくのは当然のことだ。このような泥棒教会、振り込め詐欺教会を、クリスチャンが自分の生活を犠牲にしてまで支え続けなければならない義務がどこにあるだろう。
このような教会は、結局、宗教の名を借りた、支配と搾取の形態でしかない。しかし、あまりにも多くの教会がこのような泥棒根性に堕ちており、もはやニッポンキリスト教界全体が、このような盗人精神に汚染されていると言って過言ではない。信徒の真面目な労働(奉仕)への未払い賃金の叫びは、主の耳にまで届いていることであろう。
聖職者という特権階級の存在こそが、教会に道徳的腐敗を生み出す根源なのだ。支配階級の存在があるからこそ、信徒の家畜化、資材化が推し進められる。
宗教の美名を用いて、羊を救ってやると言いながら、まるで罠でもしかけるように、羊を食い者にしようと虎視眈々と待ち構えている教会組織に、キリストの愛や、将来の希望などあろうはずがない。それはまさに、盗み、滅ぼし、殺すためにだけ存在している組織なのだ。
ニッポンキリスト教界がこのような組織である限り、そこに民主主義が訪れることは決してないだろう。聖職者による不祥事は、上層部によって隠蔽されるか、無視されるだけであり、この「業界」にカルト化教会がいくつ現れようとも、どれほどの教会が自滅しようと、ニッポンキリスト教界がそれを由々しき問題ととらえて、自浄すべく、対策を打ち出すことはないものと思われる。
階級制度を崩したくない、その一心で、教界は権威主義に凝り固まり、支配階級へのわずかな不満も言えないように、信徒の精神を強迫的な教えでがんじがらめにし、奉仕と献金で肉体的にへとへとにし、力のない説教で信徒の信仰を無力化し、骨抜きにして、霊的に窒息寸前に追い込み、教会から離脱する自由と意志を信徒から奪いながら、教会を私物化して、隅々まで統制の行き渡った全体主義的空間に変えてしまっている。このような泥棒精神が、やがて先鋭化して、カルトに至るのは必然である。
カルト化教会は、恥知らずにも、羊をむさぼり食うことを長年に渡り当然のごとく実行してきたニッポンキリスト教界の偏ったイデオロギーが生み出した副産物であり、ニッポンキリスト教界の歪んだイデオロギーから必然的に生まれて来る有毒廃棄物のようなものである。
従って、ニッポンキリスト教界のカルト化という問題に、真実、メスを入れようと思うならば、キリスト教界における聖職者階級の存在意義そのものを問わなければ意味がない。
聖職者階級が、経済的に、また権威的に、信徒の階級に対して優越性を誇っている限り、下層階級である信徒たちが搾り取られるのは当然の結果なのであり、そのような因果関係を一切、無視して、ただ「教会のカルト化」という問題だけを取り上げて議論することは、まさに「木を見て森を見ず」であり、問題の本質を覆い隠すカモフラージュでしかない。
教会のカルト化問題を早くから追及してきた村上密氏は記事において、健康な教会の条件として、聖書的な用語をちりばめながら、三つの条件を挙げている。だが、そこでは階級制度の問題は一切触れられていない。これに対し、筆者が善良で健康的な教会に欠かせない条件として挙げるのは、難解な聖書用語を一切、使わない、クリスチャンでないどの人々にも理解できる、たった二つの簡単な原則だ。
①、健康な教会では、牧師が牧会活動を理由に、信徒から給料(謝礼)をもらわない。
(=牧師が教会からの収入に頼って生活しない。)
②、健康な教会では、信徒が奉仕に関して、牧師と区別されることなく扱われている。
(=牧師が奉仕に給料をもらっているなら、信徒ももらっており、牧師がもらっていないなら、信徒ももらわない。)
とどのつまり、牧師と信徒との間に、経済的に不平等な扱いが一切ないこと、それが健全な教会に欠かせない条件である、筆者はそう確信している。
だが、この簡単な基準を満たしている教会が、全国にどのくらいあるだろうか。
むしろ、牧師と信徒を経済的に不平等に扱う教会運営が、ニッポンキリスト教界では常識となっていることの異常さに気づかなければならない。
経済的不平等は、富の不公平な分配だけに終わらず、待遇や扱いにおいても差別を生む。
ニッポンキリスト教界では、一般に、教会内での牧師の権限が絶大であるのに対し、信徒の方は実に軽い存在である。役員会で信徒が意見を述べても、牧師が無視すれば、それで終わりとなり、採用される見込みはほとんどない。
一般的に、信徒はまるで牧師の家畜であるかのように、牧師の一存で動かされ、牧師の利益のために己が身を粉にして差し出すことは大いに奨励されながらも、家畜の分際で、牧師に噛みついたり、文句を言ったりするようなことは到底、容認されないような雰囲気が業界に満ちている。
羊はただ黙って主人について行けばいいという、信徒を見下した考え方が蔓延している。羊には、主人たる牧者の行いが正しいかどうかをチェックする小賢しい知恵などは要らないし、何よりも、羊が、自分は牧者と対等であるなどという、大それた意識を持つなど、言語道断である。
こうして、羊と牧者との間には、圧倒的な身分格差が生まれている。
新約は「万人祭司」の時代であるにも関わらず、教会内で、信徒に「祭司」としての誇りや自覚は少しも見られず、それらは牧師によって根こそぎ奪われ、信徒はひたすら無力化され、卑屈になっている。
教会内で信徒が牧師を批判することがためらわれるような雰囲気がないだろうか? 牧師が問題のある教会運営に走っても、信徒はそれを止めることが許されない雰囲気を感じないだろうか? 牧師にたてつくことは罪であるから、センセイの言うことは、たとえどんなに筋道が通らなくても、異議申し立てしない方が良いという考えが、教会内で多数派になっていないか? 信徒が自分の用事で礼拝堂を使うことに、何か非常な引け目を感じないでいられるか? 教会内で信徒だけが集まって自由に会話することが、何かしら、ためらわれるような空気がないだろうか? 何よりも、日曜が来る度に、重い足取りで、信徒が教会に向かっていないだろうか? 礼拝のメッセージを心の中では軽薄だと思いながら、眠い目をこすりながら、嫌々、聴いていいないだろうか? 硬貨を入れることがためらわれるような、スケスケの献金箱が礼拝中に回って来ないだろうか? お金がない時に助けになってくれそうな人は教会にいるだろうか? 奉仕を断わることにプレッシャーを感じないだろうか? 教会内で、牧師の寵愛を得ようとして競争している信徒がいないだろうか? 虚勢を張って元気そうにふるまわなければ、行けない雰囲気が教会にないだろうか? 親しかった信徒が、ある日、突然、何も言わずに姿を消して、以後、礼拝に来なくなったということが頻繁に起こっていないだろうか? etc.
…そういったことは、全て、聖職者の意向により、いかに信徒が日頃から、封建的で誤った牧師優先の道徳観念、自分に対する卑屈な考えを心にいやというほど植えつけられているかを示す、明らかな証拠である。
聖職者が神に成り代わって、信徒の心と生活を支配している。牧師が、羊のために命を棄てる牧者になっていないどころか、羊の命を吸い尽くしてまで生き延びる利己的な狼となり果てている。そのような行いが、教会内のあらゆる道徳的腐敗に通じないはずがない。信徒の献金を着服し、信徒にわいせつ行為を行い、信徒の名誉を傷つけるような、あからさまに羊を貪り食う恐ろしいカルトが、ここから生まれて来ない方がおかしいのだ。
ニッポンキリスト教界の階級制度にこそ、カルト化の根源がある。
カルト化教会は、ニッポンキリスト教界の歪んだ仕組みが必然的に生み出す有毒廃棄物である。