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「読者よ、悟れ。」光と闇を切り分け、時代に警鐘を鳴らす。

4.「カルト被害者救済活動」はプロテスタント固有のクルセード(十字軍)であり、それはプロテスタンティズムのDNAに組み込まれた「分裂抗争」遺伝子が仕掛ける戦争でもある。

一度、これまで見てきたことを振り返ろう。まず、ニッポンキリスト教界全体がカルト化の危険に陥っていることを筆者は指摘した。そしてカルト化とは、教会間の激しい拡大競争が生み出した現象であること、教団が主導し、積極的に推し進めている、自己組織拡大としての教会成長プロジェクトが、副産物としてカルト化教会を生んでいるということを指摘した。言い換えるなら、今日のキリスト教会の構造的基盤となっている、聖職者階級による信徒階級への支配と搾取という構図が、そもそも信徒の資材化という発想を生んでおり、そのような考え方こそが、カルトの理念の基盤となるものであり、そのような考えある限り、教会が次第にカルトへと結びついていくのは必然であるという見解を示した。

ここで「聖職者階級制度」という言葉を筆者は用いているが、それは決して、筆者が独自に生み出した造語ではない。例を挙げるなら、すでに半世紀近く前に、ウォッチマン・ニー氏(1903-1972)が、キリスト教のあらゆる宗教組織に特有の聖職者階級の存在は、聖書の理念に明らかに反しているという見解を示している( 「ニー兄弟が受けた啓示、12、聖職者制度と宗教組織。13、普遍的な祭司職」参照。歴史を遡れば、同様の見解は、他のキリスト教徒の中にも見出せよう。

このようにして、聖職者階級の存在こそが、教会の腐敗の最たる原因なのであり、カルト化の根源なのである。しかし、そのようにカルト化の原因を自分たちが作り出してきたことを見たくないがゆえに、すなわち、ニッポンキリスト教界に行き渡っている不平等を崩したくないがゆえに、教界の聖職者たちのほとんどが、カルト化の問題に対策も講じず、ただ知らぬふりを決め込んでいる。
このような無責任な人たちの罪がいずれ問われることになるのは言うまでもない。

だが、それでは、次に、「カルト化教会の被害者救済」を看板に掲げ、被害者の奪回と回復を積極的に支援しているように見える、ニッポンキリスト教界のごく一部の教会や牧師についても、同様に、考えてみなければならない。
この教界の大部分が、カルト化教会の被害者をただ見捨てているだけなのに対し、そのような一部の教会は、早くから被害者に支援の手を差し伸べてきており、その行為は同胞を助けたいという、温かい志ゆえであったように思われる。

だが、この「救済運動」の実態は何なのか。
それは、本当に被害者の人生を救う運動だったのかどうか。
あるいは、表に掲げる看板とは裏腹に、別の目的が隠されているのではあるまいか。
…この問題を提起することこそが、本稿の主要目的であり、議論の核心部分である。

そこで、いよいよ本題に入るために、カルト化教会で被害を受けた人々の奪回と回復、裁判を助長している勢力について考えてみることにしよう。

まず、被害者による裁判について、もうう一度、言及する。
最初に述べたように、筆者は教会でこうむった被害を解決する手段として、一時、裁判について検討したが、受けた被害に対して、裁判が有効な解決をもたらしてくれるという結論には至らなかった。その理由は、決して、裁判によって得られる報いが少なすぎたためだけではない。

裁判というものは、およそこの世の政治闘争であり、力の闘いである。
裁判が政治的な権力闘争の場である限り、そこに正義だけを期待することには無理がある。弁護士という職業一つを取っても、彼らは裁判に正義があるからという理由では働かず、何らかの利益が自分に得られるとみなさない限り、被害者の弁護には応じない。

さらに、当事者でないのに、裁判の周辺にむらがってくる、ウンカのような群れがいるが、それは裁判によって得られる利益があるからこそ、集まってきているのである。
裁判の当事者でなくとも、裁判によって利益を得ている人たちがいる。
たとえば、「被害者代表」がそれである。

裁判を通して得られる利益とは、決して、金銭だけではない。
目には見えにくいが、(原告・被告などの当事者以外の)人たちが、裁判を通して得られる最大の利益とは、社会的名声である、と筆者は考えている。
つまり、裁判に間接的に関わることによって、自己の美名を広く世に知らしめようとする人たちがいる。自分は弱者の痛みを見過ごせず、弱者のためにかいがいしく立ち働く勇気を持った自己犠牲的人間であり、救済者であり、正義の味方であると世間に思わせ、そのような美名によって、自らの権力を高めようとする人々がいる。

このような現象は何も裁判に限ったことではない。
歴史を振り返ると、あらゆる侵略戦争の口実に、「正義のための闘い」というスローガンが使われてきた。歴史上あまた起こってきた「弱者救済運動」は、多くの場合、政治闘争や侵略戦争に結びつき、暴力と流血なしに終わったためしがほとんどない。どんな性質のものであろうと、弱者救済運動は、政治的な闘争を呼び起こす原動力となり、出世をたくらむ野心家たちの権力奪取のために、巧みに利用されて来たのだ。

「虐げられてきた弱者を解放する」という美名のもとに、歴史上、人類は大量の血を流して来た。それだけでなく、「弱者解放」のスローガンを唱えることによって、政治的権力を拡大してきた人たちが無数にいることを思い出す必要がある。

権力闘争があるところには、膨大なエネルギーが渦巻いているため、その磁場に生じる力を利用して、「濡れ手に粟」式に利益を得ようとする人物が必ず現れる。虐げられた弱者が、次第に力を持ち始め、マイノリティからマジョリティへと転換し、弱者から強者へと変わる時、今までの抑圧を公然と覆し始めるような時、その下克上のパワーを巧く利用すれば、圧倒的な政治権力を手に入れて、政治指導者の地位にまで上りつめることが、実際に可能だったのである。
弱者が弱者でなくなる時、そこには時代を覆すほどの大きなパワーが生まれる。そのパワーを、己が利益のために利用しようと、運動の周りに群がるハイエナのような人々が、いつの時代にも存在してきた。

「弱者救済物語」が、政治的出世をたくらむ人々にとって、どんなに「美味い話」に化けるか、最近の例をとって説明しよう。
北朝鮮の拉致被害者「救済」活動により、一躍、脚光を浴び、「政界のプリンス」とまで呼ばれた安倍元首相のことを覚えておられるだろう。
日本国家は拉致問題を長い間、放置し、見殺しにして来た。官僚も政治家も、拉致被害者に関わりあっても、何ら利益がないことが分かっていたからこそ、そうして来たのである。
ところが、小泉政権下で、どういうわけか拉致被害者が急に帰国し、突然、拉致問題が世間の注目を浴びて、弱者たる被害者に国民の余りある同情と関心が集まるや否や、国策は急に昨日までと正反対のものになり、外務省の中には拉致問題の対策室が作られ、さらに、そのような国策の変更と、弱者に集まった同情票にあやかり、自分が拉致被害者の「救済者」として脚光を浴びようと、急にスポットライトの下に這い出て来る政治家が現れた。
こうして、拉致被害者を勇敢に救済する「白馬の王子様」として名乗り出た「政界のプリンス」の実体が、いかにお粗末なハリボテに過ぎなかったかは、歴史によって証明されているので、今更、言うまでもないだろう。

さらに別な角度から注目しよう。この「プリンス」が無能だったおかげで、飛躍的に出世した別の一群がいた。安倍政権時代に、首相の欠点に歯に衣着せぬ痛烈な批判を浴びせたことが国民に受けて、一躍、メディアに引っ張りだこになり、世論にもてはやされる有名人となった政治家がいたことを覚えておられるだろうか。

ところで、日本国民は「正義の仕置き人」の物語が大好きだ。日本のテレビでは、何十年間と相変わらず、『水戸黄門』や、『忠臣蔵』や、『暴れん坊将軍』のドラマが定期的に放映されている。特に、年末になると、必ず新しいバージョンに模様替えされて、繰り返される『忠臣蔵』の物語に、何かしらの疑問を覚えた人もいるかも知れない。何が日本国民をこれほどまでにこのような物語にひきつけているのだろうか。
この事実が物語るのは、このような勧善懲悪の物語が、一種のカンフル剤として定期的に日本国民に投与されているということであり、その効き目は抜群で、この投薬がなければ、この国民はストレスのあまりやけくそな暴動に走るかも知れないほどである。

日本だけに限ったことではない。どこの国でも、庶民は常日頃から、無能で横暴な上司に苦しめられている。だが、とばっちりを恐れるがゆえに、上司にもの申せず、鬱憤だけがたまっていく。そこで、誰か強い人が自分の代わりに、勇気を持って、誰も彼もからも恨みを買っているような横暴な権力者に、一太刀浴びせてくれないだろうかと思う。それがたとえテレビドラマであっても、国民はそれにカタルシスを感じて、気分爽快となる。そして、そのように自分の鬱憤を代弁してくれる人間が現実に現れると、その人はきっと「正義の味方」なのに違いないと、民衆はあまりにも簡単に思い込み、すぐに一票を投じようという気になる。彼の正体をきちんと確かめたわけではない。本当はとんでもない野心家かも知れないのに、「勧善懲悪」というスローガンを聞くと、人々は疑う心さえ、あっけなく失くしてしまうのだ…。
(このことを何より顕著に証明した最近の例は、小泉元首相が投げかけた「郵政民営化」というスローガンに対する国民の反応なのだが、今はそのことは脇に置いておく。)

このように、勧善懲悪物語には、日本国民の警戒心を眠らせる「催眠効果」と、「カンフル剤」としての側面があるが、そのような効果を巧みに利用して、人気を集める政治家がいる。すでに没落しつつある権力者を痛烈に批判したからといって、本当は、大した危険は伴わないのだが、権力者批判を恐れている庶民には、それさえすごい勇気の賜物のように思われる。そこで、野心家は、「どうだ、こうして仕返しも恐れず、大胆に正義を語るオレ様は、すごい勇気の持ち主なんだぞ。意気地なしのおまえらの代弁をしてやっているのだ」と、信じ込ませ、恩に着せることができる。
そのような、大した犠牲も伴わない舌先三寸の批判によって、国民の人気を集め、正義の人をきどることは簡単に可能である。安倍批判により出世を遂げた政治家は現在、軒並み大臣になっているが、中には以前には一度も大臣になったことのない議員もいた。上司の無能ぶりをこれでもかと暴き出した彼ら自身には、果たして、どのくらいの力量があるのだろう。それはこの先の歴史が証明するだろう。

弱者救済の物語や、勧善懲悪の物語がメディアに登場して来た時、クリスチャンはその表向きの筋書きにとらわれず、よくよく注意して物事の実態を見極める必要がある。
弱者救済運動のパワーにあやかって政治的出世を遂げる人物は、本当に救済者なのだろうか。無能な権力者を痛烈に批判している人が本当に実力者なのだろうか。

くどいようだが、「てこの原理」を上手く使いさえすれば、誰にとっても、出世することはさほど難しいことではない。要するに、シーソーの片側に自分が立ち、もう一方の端に重い荷物をドーンと載せれば、自分の立ち位置が飛躍的に上昇するだけのことである。この原理を政治の世界で応用することができれば、誰でも、実力なしに、簡単に出世の階段を駆け上ることができる。

荷物は重ければ重いほど良い。問題は大きければ大きいほど良い。
腐敗がひどければひどいほど、「仕置き人」の需要が高まる。世間を騒がせるようなひどい事件が起これば起こるほど、「救済者」を求める人々の気持ちは高まる。
うんと需要が高まったところを見計らって、「救済者」の看板を掲げて誰かが登場してくる。
民衆は救いをあまりにも渇望しきっているので、看板をみただけで、あっけなく騙される。
没落あるところに、上昇あり。この歴史的原則を覚えて、物事を慎重に判断されたい。

さて、あまりにも道草が長くなったので、本題に戻らなければいけない。
教会のカルト化という問題を見過ごしにし、被害者をただ見殺しにするようなクリスチャンも問題だが、では、もう一方で、弱者救済というお涙頂戴物語を巧みに利用して、飛躍的に自分の名声を高めてきたような人たちが、本当に弱者の味方なのだろうか。

世間を揺るがすような腐敗教会が現れた時、その腐敗に対していち早く立ち向かう人は、「正義の仕置き人」のように見える。世間から同情を集めている弱者を救済するという名目で裁判に関われば、その人の名声は高まるだろう。だが、そういう勧善懲悪物語を自己の出世の手段としている者たちがいないかどうか、そのことについてクリスチャンはよくよく考えてみなければならない。

このような意見を提示すれば、恐らく、次のような非難が筆者に向けられることだろう。

" 現在、カルト化した教会で被害を受けた信徒の「救済活動」に携わっているクリスチャンは、善良な動機でそれをやっているのです。その活動は、ニッポンキリスト教界を道徳的堕落から救うために、行われている正義の活動なのです。
大体、同業者から憎まれながら、何のもうけにならないボランティアで骨折って、弱者の味方として活動しているというのに、その動機がまるで野心的なものであるかのように疑われなければならないとは、情けないことです。
腐敗した教会が現れても、ただ見てみぬふりをする普通のクリスチャンに比べて、私たちははるかに勇気を持って良心的に行動しているし、一部の被害者は、それをまさに待ちに待った救いのように受け取っています。なのに、なぜその活動が悪いかのように言われなければならないのでしょうか?

なぜ、救済活動に関わる人々の動機を、あなたは疑うのでしょうか?
そのようなクリスチャンが非難されて、その活動が否定されなければならないとしたら、では、他の誰が被害者のために働き、彼らをカルトから救い出すというのでしょうか?
何の恨みがあって、あなたは我々の救済活動を否定するのでしょう?"

だが、結論を下す前に、じっくりと物事を冷静に考え直してみて欲しい。できる限り冷静に、客観的に、筆者はこの先、救済活動の本質が何であるかを、誰にでも分かるように説明したいと考えている。

そもそも、キリスト者は、「救済者」と世間からみなされる人物に対して、心底、慎重に接する必要がある。それがどこから来たものなのか、彼の活動の真の目的は何なのか、出所をよく吟味しようともせず、ただ自称「救済者」の語る大義名分を聞いただけで、安易に信用することは避けねばならない。

繰り返すようだが、ヒトラーが第一次世界大戦により荒廃し、傷つけられていたドイツ国民のプライドを「回復する」という名目で登場してきたことを思い出さねばならない。
「虐げられたプロレタリアートの解放」というスローガンを提唱してこそ、レーニン、スターリン、毛沢東は多大な権力を手にし、血みどろの闘争を可能にすることができた。

宗教について言えば、カトリックが免罪符の売買を始めとして、多大なる腐敗に落ち込んで権威失墜していたからこそ、同業他者の自滅をバネに、プロテスタントが台頭した。
そして、このことは後にも詳しく触れることになるが、同じ宗教の別の宗派に対抗する必要性から生まれて来たプロテスタントには、「対抗せよ!」という遺伝子がDNAにまで組み込まれている。

兄カトリックに絶縁状を突きつけて生まれた弟プロテスタントが、今日、己が家族のメンバーに次々と絶縁状をつきつけ、互いの教義を否定し合い、互いに勘当しあって、多重分裂に陥り、内部抗争に終始しているのは、全く驚くに当たらない。そもそも、一致ではなく分裂を基本理念として生み出されたプロテスタントには、最初から最後まで、多重分裂と内部抗争が運命づけられていると言っても過言ではない。分裂抗争が遺伝子レベルで徹底しているプロテスタントには、分裂以外の将来は何もないだろう。たとえカトリックとロシア正教が事実上の和解と提携に至ったとしても(それもまた考えにくいが)、そこにプロテスタントはまずいないものと考えられる。

今日、プロテスタントのクリスチャンにはこの宗派の輝かしい側面だけが強調されており、闇の側面は隠されている。だが、歴史上、プロテスタントが創立100年も経たないうちに、カトリック同様の腐敗に落ち込んでいる事実は見逃せない。カルヴァン、サヴォナローラのような、プロテスタントの原理主義的指導者は、彼らが唱えた輝かしい教義とは裏腹に、信徒に残酷な恐怖政治を強いた。
プロテスタントもカトリック同様、魔女狩り的な宗教裁判を行い、「異端」と断定した信徒を火刑などに処してきた。(詳しくはシュテファン・ツヴァイク著、『権力と闘う良心―カルヴァンと闘うカステリオン―』を参照。)

こうして、歴史上、堕落した権力が没落するに当たり、それに代わる「新しい正義」を唱える勢力が登場してきたが、それらが前の主人よりも優れた主人になったという例は、筆者が覚えている限り、ほとんど見当たらない。むしろ、そのような善悪の闘いはすぐに流血へと結びつき、新たな恐怖政治と、政治的対立を生み、それがゆえに、世の中は前よりももっと悪くなってしまったという例の方が多いことだろう。

普通に教理を学んだクリスチャンならば、誰でも知っていることであるが、真実の救済者は、人間ではなく、キリストただお一人である。にも関わらず、もしも神ではなく、限られた能力しか持たない人間が、「人民の救済者」を自称したり、「弱者の救済運動」を宣言して、腐敗した権力に闘いを挑むことを目的に掲げて活動しているならば、それらの人々の正体が何であるのかを、よくよく注意して見極める必要がある。

さて、プロテスタントの「カルト被害者救済運動」に話を戻せば、この運動は、元を辿れば、キリスト教以外の「カルト宗教」からの信者奪回運動がそもそもの始まりであった。つまり、プロテスタントのキリスト教界が「カルト」と断定した他宗教から、信者を奪回し、奪い取る運動がその始まりだったのである。

プロテスタントのキリスト教界では、数十年前から、このような「カルト救済十字軍の遠征」が始まっている。牧師たちが、様々な家庭から要請を受けて、創価学会、統一教会、エホバの証人、ヤマギシ会などの「カルト宗教」へ、信者を奪回するために赴く。そして説得工作によって信者を奪回し、キリスト教に改宗させる。
だが、キリスト教界から「カルト」呼ばわりされ、信者を力づくで奪い取られ、闘いを挑まれた他宗教の側から見れば、それは正義の運動どころか、クリスチャンの独りよがりに基づいた単なる「侵略行為」でしかなかったであろう。

筆者は、この「カルト被害者救済活動」は、要するに、プロテスタントの十字軍であったと解釈している。
その昔、カトリックの十字軍が、正しい宗教を広めるとの名目のもと、イスラム文化圏に出かけて行き、イスラムの文化の富を略奪し、イスラム教徒を無理やりキリスト教に改宗させたのと同様のことを、20世紀のプロテスタントもやっていたのである。さらに、ここにはプロテスタンティズムのDNAとしての他宗教に対する根深い対抗意識も含まれていたことだろう。

「カルトの圧迫と支配から、犠牲者を解放する」という表向きの美名とは裏腹に、この「プロテスタントの十字軍」の本質的な目的は、プロテスタントに新しいフロンティアを開拓し、新しく領土と領民を奪取すること、他宗教に戦争と侵略をしかけることによって、他宗教の富を奪い、プロテスタントの領土を拡大し、教会成長を実現させることにあった。
今日のプロテスタントの「カルト救済十字軍の遠征」は、主として、他宗教ではなく、キリスト教内部のカルトへとシフトしている。だが、そもそもの始まりは他宗教からの信者奪回運動であったことを覚えておく必要がある。

さて、ここから先、「カルト化教会の被害者の救済運動」の歴史に関して筆を進めるが、その際、架空の物語を引き合いに出すことをお許しいただきたい。この先に書かれていることは、筆者が一般論から導き出した、フィクションの物語である。

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3.ニッポンキリスト教界のカルト化の最たる原因は、教会内の階級制度にある。

「教会のカルト化」という現象が世間をこれほど騒がせているにも関わらず、様々な教団教派の上層部がこの問題をほとんど放置し、取っている対策があまりにもお粗末である理由は、一体、どこにあるのだろうか。

かつて、教会のカルト化監視のために共同機関を設立しなければならないという訴えが、キリスト教界の中から提示されたことがあった。にも関わらず、その計画は各方面からの反対に妨げられて、未だ実現していない(村上密Blog 記事「カルト化予防対策」参照)
さらに、裁判の過程で、犯してきた悪行がこれでもかと世に露呈しているような悪徳牧師を、他教会の有名牧師たちがこぞってかばいだてするか、あるいは「障らぬ神に祟りなし」とばかりに、臆病に沈黙している現状がある(ブログ吉祥寺の森から 記事「ORCの儀間盛夫と関わった人たち」参照)。呆れる他ない。

こうしてみると、「教会のカルト化」という問題は、未だ、ニッポンキリスト教界の中で一種のタブーとして扱われているのだと考えざるを得ない。この「業界」は、カルト化問題の拡大を少しも食い止めようとせず、必要な対策も講じないでおり、そのような自浄能力の欠如のために、はかりしれない悪評を世間からこうむっていにも関わらず、その現状を嘆かわしいと思うことすらしていないのだ。

なぜ、カルト化の問題が、ニッポンキリスト教界全体にとって、そのように無関心に目を背け、消極的にしか関わることのできないタブーなのだろうか?
すぐに思いつく理由として、いくつかのことが挙げられる。たとえば、カルト化教会の牧師と親戚関係にある牧師たちは、きっと身内意識から、悪徳牧師を擁護せざるを得ないのだろう、あるいは、カルト化教会の不祥事を取り上げると、業界の評判がますます落ちると危惧する牧師であれば、「臭いものには蓋」式に、そのような問題にできるだけ触れたくないという態度を取るのも無理もない…、等々。
だが、ここにはそれ以上に、もっと根深い原因が隠されていると筆者は考えている。

カルト化教会の問題が、主として、信徒による内部告発の形で世間に露呈していることに注目すれば、その原因は明らかとなる。カルト化教会の問題に多くの聖職者が目を背けたがるのは、そこに、「牧師が信徒を訴える」という下克上の構図、つまり、「牧師に対する信徒によるクーデタ」の構造を見て取れるからであるというのが、筆者の結論である。

想像するに、全国に教会を持つあらゆる牧師たちにとって、何よりも悪夢であり、決して自分の身にだけは起こって欲しくない事態は、「信徒によるクーデタ」、つまり、信徒による糾弾のために、自分が辞職に追い込まれ、教会を失うという事態であろう。

今日、ニッポンキリスト教界の多くの牧師たちには、牧師館舎に住み、教会からの献金に依存して生活しているという共通点がある。そのような彼らにとっては、自分の教会を失うことは、即、家を失い、生計を立てる手段を失うことを意味する。たとえどんなに教会を成長させることができたとしても、しょせん、教会は牧師の所有物ではない。そのため、ほとんどの牧師は、たとえ多くの信徒から尊敬され、権勢を誇っていたとしても、教会を追われる恐怖を完全に拭い去ることはできない。
教団に勤務するか、教育機関などで教鞭を執るか、あるいはテレビのパーソナリティになる、国会議員になる、または文筆業で生計を立てるなどして、何らかの副業を持っていない限り、牧師は自分の教会を失えばただの失業者である。そんな牧師たちが、「信徒による牧師の不祥事追求」によって、社会的面子を失うにとどまらず、自教会を追われ、家族まるごと路頭に迷う羽目に陥ることを思えば、多大な恐怖を感じるだろうことは、容易に想像できる。

正真正銘、神により頼み、教会からの収益に頼らず生活を維持している牧師も、日本に一部はいるであろうが、そのような良心的な聖職者を除き、教会から吸い上げる献金によって生計を維持している大多数の牧師たちは、信徒によるクーデタや、内部告発を恐れないはずがなく、何とかしてそのような、自分の地位と生活を脅かすような告発や追求は未然に防ぎたいと思って当然である。

そこで、まさかの「クーデタ」が他教会に起こったのを見た時、大勢の牧師たちが、それを自分にだけは起こってほしくない、いや、起こるはずがない出来事だと考えて、目を背けるのも無理もない。「信徒による反乱」は、教会の権力構造を根本からゆるがす力を持っている。震源地がどんなに遠くても、他教会で起こった地震のニュースが、多くの牧師に失業の危機を思わせるがゆえに、彼らを震撼させるのだろう。

人間、誰にでも落ち度はある。牧師が人格者だとは限らない(いや、それどころかむしろ逆の事例の方が多いくらいだ。)牧者としての我が身の至らなさを痛感していればこそ、多くの牧師には、カルト化教会の崩壊と、そこを司る牧師の社会的転落が、他人事のようには思えない。

日本におけるプロテスタントのキリスト教界は、筆者自身の経験に基づいて判断したところでも、概して、下からのフィードバックを赦さないトップ・ダウン式の構造となっている。このような風通しの悪い業界に、権威者として長くとどまっていると、どうしても性格が独裁者的になり、我が身を客観的に振り返る能力が失われていくことは避けられない。

ニッポンキリスト教界の「センセイ」方の中には、保身だけしか念頭になく、自分を奉ってくれるイエス・マンの取り巻き信徒だけを無意識に求め、可愛がり、反対意見は容赦なく駆逐し、反対者は教会から追放することによって、教会を私物化し、自らを客観的に振り返って反省し、他人と協調しながら生きていく能力を全く失ってしまっているような人間があまりにも多すぎる。
そのことは、以前から幾人もの人々に指摘されてきた。(例えば、Dr.Luke氏の分析を参照。「今日、<教職と信徒>という構図が一般的であり、ニッポンキリスト教には信徒が自分のことを「牧師先生」と呼ばないと怒り出す御仁もいるようです」。)

そのような牧師たちが、カルト化教会の牧師が追い込まれているのを見ても、保身の思いから、その出来事には目をつぶるか、あるいは、「決してこの教会にだけは起こらない出来事」として言及するだけなのは不思議でない。
カルト化教会の出来事を見て、「私たちの教会運営にも同じような腐敗を生み出す問題点があったのだと思い至りました。あるいは、カルトに陥る危険が十分にあったのだと悟りました。他者の失敗から学び、己を反省して、悔い改め、教会運営をもっと透明なものにすることによって、そのような危険に誰も巻き込まれなくて済むよう、努力したいと思います。この教会をもっと民主的な場所にするために、私も自分を省みます、皆さんも努力しましょう」と呼びかける牧師はまずいない。

カルト化教会で被害を受けた信徒が、別の教会の牧師のもとへ相談に行っても、決まりきった、「牧師を赦しなさい」という聖職者擁護の一点張りの返答で追い返される例がほとんどであるのも、このような事情のためであると言えよう。たとえ他人の教会の出来事であっても、信徒が牧師を訴えたという話を聞くだけで、多くの牧師たちは「もし自分がそうなったら・・・」と、カルト化教会の牧師の立場に身を置いて恐怖を感じ、我が身可愛さから、自分たちの階級を擁護すればこそ、被害者の悲痛な訴えに耳を塞ぎ、カルト化教会のニュースから耳を背けようとするのであろう。(あるいは、ひょっとすると、自分たちがその悪徳牧師と同じ穴のむじなだという自覚が無意識にもあるのかも知れない。)

それくらいに、信徒による反乱や、内部告発に対してアレルギー反応しか示せないのが、ニッポンキリスト教界の悲しい現状である。そのような自浄能力のない、下からのフィードバックを受けつけない、自己反省能力に欠ける教界が、教会のカルト化という問題を直視せず、ただ聖職者擁護の立場だけに立って、ろくな対策も取らずに問題を放置しているのは、至極当然の結果である。

「人は皆、原罪を抱えた罪人です。あなた方は皆、罪を悔い改めなければなりません」と、講壇から大胆にも信徒の罪を指摘している多くの牧師センセイ方が、自らの罪を信徒に指摘されるという段になると、それを全く好まず、頑なになり、決して自分への批判を許そうとしないのは大きな矛盾であるが、いずれにせよ、信徒による牧師への告発、それは、未だに日本キリスト教界のタブーである。なぜなら、それは自分を守りたいだけの保身的牧師の威信を脅かし、引いては、自己組織を守り抜きたいだけの利己的な教界のヒエラルキーを、根幹から揺るがしかねない出来事だからである。

極言するならば、教会のカルト化という問題に、ニッポンキリスト教界が決して真面目に向き合わないのは、それが必然的に、教会における階級制度の問題に通じるからである。

「階級制度?何、それ?」と、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしてこの文章を読んでいるクリスチャンも、中にはいるかも知れない。そのような人たちには、以下に書き記すことを、できるだけ先入観を取り払って、真剣に考えていただきたいと筆者は思う。

ニッポンキリスト教界は、牧師対信徒という二つの階級から成り立っている。牧師は羊(信徒)を牧し、豊かな草原に導くという建前とは裏腹に、実際は、羊を支配し、羊を搾取することによって、自分の階級を成り立たせている集団である。

クリスチャンの方々よ、どうか目を覚まして、よく考えて欲しい。
ニッポンキリスト教界における教会が信徒のために存在していると思っているなら、大きな間違いである。信徒は教会に通うことで、牧師の支配に服し、教会の拡大に貢献し、牧師の名誉欲を満たし、次には食欲を満たすために、喜んで我が身を犠牲とする家畜となるべく、巧みにマインドコントロールされているのだ。

牧師は神の名を用いながら、羊を自分の必要のために無報酬で働く道具にしている。羊の財産を「神のため」という名目により、長い時間をかけて、少しずつ横領している。そこでは、牧師に喜んで犠牲を捧げる気のない不熱心な羊は、あれやこれやの理由をつけて追い払われる。
牧師は、美味しそうな羊を見つけては、それを食らって、肥え太る。その太った牧師と肥大した教会を食らって、教団がますます肥え太る。

クリスチャンはいい加減に目を覚まさなければならない。
今、ニッポンキリスト教界の教会にいるのは、牧者でなく、牧者に扮装した狼であり、ハイエナである。そしてハイエナどもを操っている勢力が教会の背後に控えている。もしも人生を食い物にされたくなければ、絶対に、このような教会には近寄ってはならない。搾取されていることに気づいた羊は、一刻も早く、そこを逃げ出しなさい。その際、荷物に未練を持って後戻りしない方がよろしい。

「クリスチャンを教会の魔の手から救わねばならない!!」
これが今日の腐敗した教会のあまりにも悲しい現実である。

このように、信徒を道具化し、教会が収益を上げるための単なる資材とみなすような階級制度が公然とまかり通っている限り、キリスト教界に民主的な運営はあり得ないと、筆者は考えている。今、ニッポンキリスト教界が、どれほど非民主的で、組織優先になっていることだろう。教会同士の横のつながりは希薄であり、信徒同士の情報交換の場は限られている。上部組織(教団)は教会にトップ・ダウン式に指令を送るだけで、末端の信徒からの意見を汲み上げるルートはない。教団は教会に君臨し、教会を支配している組織である。

もし、一教会単位の活動だけに注目するならば、教界の問題がそこまで深刻化しているとは気づかないかも知れない。ワンマン牧師がおらず、収支報告がちゃんとなされ、役員会による意思決定が成り立っている教会ならば、一見、あたかも、その教会は経済にも透明性があり、自由で民主的な運営がなされているように思われるかも知れない。しかし、ひとたび、教団単位の活動に目を向けると、そこには収支報告もなければ、議事録もなく、何の情報も、一般信徒の目にはほとんど触れることがない現実がある。

教団の決定に関して、信徒は通常、蚊帳の外に置かれた存在だ。重要な決定は全て聖職者たちだけの密室の会議において下される。教団の各要職に支払われている手当がいくらなのか、知っている信徒が何人いるだろうか。教団の理事とは一体、何のために存在する役職なのか、その職務内容を知っている信徒がどのくらいいるだろう? 教団の規約を牧師は信徒に知らせているか? 教団のどの会議において、どのセンセイがどのような方針を打ち出し、どのような方法で意志決定が行われたのか、誰が賛成したのか、反対したのか、一般信徒に知りうる手段があるだろうか? そのような密室で決定されることこそが、教会を左右し、信徒を左右し、教団全体を左右する、重大な影響力となるというのに?
教団において、重要な情報は、上層部にいる聖職者たちだけが握っている。つまり、情報の独占と、決定権の独占が行われているのである。

さらに、教団に出入りする金銭の総額も、信徒には不明である。
教会単位の収支報告には、牧師への謝礼金が記されている。だが、もしもその牧師が教団内で別の要職を兼ねているとすれば、牧師は教会からの収入の他に、教団からの収入ももらっているはずである。だが、それは教会の収支報告には載らないため、信徒の目には触れない。
そうなると、牧師が実質的にどの程度の給料をもらっているのか、信徒には知りようがないということになる。
教会単位の収支報告という、信徒に見える形の金の流れとは別に、信徒の目には隠された別の金の流れがある。それは教団へ入る金、教団から出て行く金だ。この流れに透明性がないことは大問題である。不透明なところに、淀みが生じ、腐敗が生じない方がおかしいのだから。

情報が表に出ず、金の流れも不透明な教団という組織は、一般信徒には分からない「御簾の向こうの世界」である。そこに住む「雲上人」たちこそが、教界を牛耳っている特権階級、富と情報を一手に握って教会を動かしているブレーンなのだが、このような上層階級の存在は、一般信徒の目からは巧みに隠されている。
もしも、この階級制度を認めないような信徒、この階級制度に気づいて、それに刃向かうような信徒がいれば、有形無形の圧力によって、この「業界」から追放されるだろう。我が教団の運営方針に疑問があるなら、無理にこの教団に属さなくてよろしい、というわけだ。

だが、どのように言い訳してみたところで、ニッポンキリスト教界の聖職者たちが、信徒に君臨し、礼拝や儀式を「エサ」にして信徒を支配し、信徒から利益を吸い上げていることは否定しようのない事実だ。信徒を霊的に養ってやるふりをしながら、その実、彼らは奉仕や献金という名で、信徒の金と労働を無償で吸い上げる。信徒は、聖職者階級の食い扶持を維持するために、利用され、踏み台にされているとは、気づきもせずに、自分の奉仕や献金が、「神に用いられている」と信じ込んで、喜んで金や労働を提供していく。

さらに、日曜礼拝を守らなければ、信徒は信仰を維持できない、という事実無根の教えが教会では公然と語られている。信徒は信仰的に未熟で浅はかなので、一人で考えていれば、誤った信仰に堕ちていくだけであり、教会につながって初めて真の信仰を維持できるのだという荒唐無稽な説が、まことしやかに教え込まれているがゆえに、信徒の多くが、どんな不祥事が教会に起こっても、その教会を離れては信仰を失うという事実無根の恐怖に陥って、教会に縛りつけられている。

教会から離脱する力を精神的に奪われ、教会に不当に縛りつけられ、生き血を吸われている信徒が、全国にどれほどいることだろう?
教団や教会組織が用いる、伝道や宣教といった美的スローガンは、その実、聖職者たちが支配を続け、さらに支配を拡大していくための口実でしかない。それはその昔、カトリックがクルセード(十字軍)という名前でイスラム文化圏を侵略したのと同じ発想に基づいている。

教会には、自己組織の拡大のために、新しい開拓伝道所を作るための資金はあっても、その資金を、信徒の真面目な苦労をねぎらい、感謝の意を示すために用いることには決して同意しない。たとえ信徒が教会に通い続けてますます貧しくなり、失職し、ホームレスになったとしても、牧師が身を挺して、その信徒を救わねばならない義務はないと、牧師たちは断言することだろう。実際に「羊のために命を棄てる」覚悟を決めている奇特な牧師を、この「業界」に見つけることができるだろうか? そんな牧師はまずいないものと思われる。だが、その一方、信徒の方では、教会が財政難に陥っても、必死の努力でそれを建て直し、多大な献金を払い続けることで、牧師一家全員の生活を支えてあげなければならないという、つりあわない義務を負わされている。それは明文で規則化されているわけではないにしろ、ほとんどの信徒たちが、それを「教会員の義務」の一つとしてとらえ、無意識に、暗黙の了解のうちに背負っているのが現状だ。
牧師への謝礼だけでない。ボーナス月に呼びかけられる特別献金、様々な災害の被災地への義捐金、会堂建築のためのローン…、終わりなき献金と奉仕のノルマが信徒の生活を押しつぶし、食いつぶしている。

このような状態では、教会は、いわば、聖職者階級のもうけのためだけに運営されている、倒産寸前の会社のようなものである。信徒はそこで給料さえもらえず、虚しくただ働きさせられているのに、その不公平さに気づくだけの知性も情報も与えられず、会社が倒産しては自分が困ると信じ込んで、せっせと身を粉にして会社に貢いでいる。それだけ働いても、信徒に帰ってくるものといえば、ぱっとしない日曜礼拝の説教、クリスマスのお決まりのイベントや、誰のために開かれているのかもよく分からないような虚しいバザー、伝道の本質からかけ離れたコンサートと、さらなる集金の呼びかけ…、要するに、五感に訴えかけることはあっても、そのためにへとへとになるまで働かされ、決して霊の滋養とはならないような、うわべだけの興行的催しである。これほどまでに報いがないのに、なぜ仕えつづけるのか。まことに呆れた話である。
教会はいつまで経っても豊かにならず、大した収益にもならない、伝道にもならないようなプロジェクトを山ほど組んでは、財政難だ、財政難だとしきりに訴え、信徒からさらに金と労働を巻き上げていく。世間の人々がこのような組織を胡散臭い目で眺めて、素通りしていくのは当然のことだ。このような泥棒教会、振り込め詐欺教会を、クリスチャンが自分の生活を犠牲にしてまで支え続けなければならない義務がどこにあるだろう。

このような教会は、結局、宗教の名を借りた、支配と搾取の形態でしかない。しかし、あまりにも多くの教会がこのような泥棒根性に堕ちており、もはやニッポンキリスト教界全体が、このような盗人精神に汚染されていると言って過言ではない。信徒の真面目な労働(奉仕)への未払い賃金の叫びは、主の耳にまで届いていることであろう。

聖職者という特権階級の存在こそが、教会に道徳的腐敗を生み出す根源なのだ。支配階級の存在があるからこそ、信徒の家畜化、資材化が推し進められる。
宗教の美名を用いて、羊を救ってやると言いながら、まるで罠でもしかけるように、羊を食い者にしようと虎視眈々と待ち構えている教会組織に、キリストの愛や、将来の希望などあろうはずがない。それはまさに、盗み、滅ぼし、殺すためにだけ存在している組織なのだ。

ニッポンキリスト教界がこのような組織である限り、そこに民主主義が訪れることは決してないだろう。聖職者による不祥事は、上層部によって隠蔽されるか、無視されるだけであり、この「業界」にカルト化教会がいくつ現れようとも、どれほどの教会が自滅しようと、ニッポンキリスト教界がそれを由々しき問題ととらえて、自浄すべく、対策を打ち出すことはないものと思われる。

階級制度を崩したくない、その一心で、教界は権威主義に凝り固まり、支配階級へのわずかな不満も言えないように、信徒の精神を強迫的な教えでがんじがらめにし、奉仕と献金で肉体的にへとへとにし、力のない説教で信徒の信仰を無力化し、骨抜きにして、霊的に窒息寸前に追い込み、教会から離脱する自由と意志を信徒から奪いながら、教会を私物化して、隅々まで統制の行き渡った全体主義的空間に変えてしまっている。このような泥棒精神が、やがて先鋭化して、カルトに至るのは必然である。

カルト化教会は、恥知らずにも、羊をむさぼり食うことを長年に渡り当然のごとく実行してきたニッポンキリスト教界の偏ったイデオロギーが生み出した副産物であり、ニッポンキリスト教界の歪んだイデオロギーから必然的に生まれて来る有毒廃棄物のようなものである。

従って、ニッポンキリスト教界のカルト化という問題に、真実、メスを入れようと思うならば、キリスト教界における聖職者階級の存在意義そのものを問わなければ意味がない。
聖職者階級が、経済的に、また権威的に、信徒の階級に対して優越性を誇っている限り、下層階級である信徒たちが搾り取られるのは当然の結果なのであり、そのような因果関係を一切、無視して、ただ「教会のカルト化」という問題だけを取り上げて議論することは、まさに「木を見て森を見ず」であり、問題の本質を覆い隠すカモフラージュでしかない。

教会のカルト化問題を早くから追及してきた村上密氏は記事において、健康な教会の条件として、聖書的な用語をちりばめながら、三つの条件を挙げている。だが、そこでは階級制度の問題は一切触れられていない。これに対し、筆者が善良で健康的な教会に欠かせない条件として挙げるのは、難解な聖書用語を一切、使わない、クリスチャンでないどの人々にも理解できる、たった二つの簡単な原則だ。
 
①、健康な教会では、牧師が牧会活動を理由に、信徒から給料(謝礼)をもらわない。
  (=牧師が教会からの収入に頼って生活しない。)
②、健康な教会では、信徒が奉仕に関して、牧師と区別されることなく扱われている。
  (=牧師が奉仕に給料をもらっているなら、信徒ももらっており、牧師がもらっていないなら、信徒ももらわない。)

とどのつまり、牧師と信徒との間に、経済的に不平等な扱いが一切ないこと、それが健全な教会に欠かせない条件である、筆者はそう確信している。
だが、この簡単な基準を満たしている教会が、全国にどのくらいあるだろうか。
むしろ、牧師と信徒を経済的に不平等に扱う教会運営が、ニッポンキリスト教界では常識となっていることの異常さに気づかなければならない。

経済的不平等は、富の不公平な分配だけに終わらず、待遇や扱いにおいても差別を生む。
ニッポンキリスト教界では、一般に、教会内での牧師の権限が絶大であるのに対し、信徒の方は実に軽い存在である。役員会で信徒が意見を述べても、牧師が無視すれば、それで終わりとなり、採用される見込みはほとんどない。
一般的に、信徒はまるで牧師の家畜であるかのように、牧師の一存で動かされ、牧師の利益のために己が身を粉にして差し出すことは大いに奨励されながらも、家畜の分際で、牧師に噛みついたり、文句を言ったりするようなことは到底、容認されないような雰囲気が業界に満ちている。
羊はただ黙って主人について行けばいいという、信徒を見下した考え方が蔓延している。羊には、主人たる牧者の行いが正しいかどうかをチェックする小賢しい知恵などは要らないし、何よりも、羊が、自分は牧者と対等であるなどという、大それた意識を持つなど、言語道断である。

こうして、羊と牧者との間には、圧倒的な身分格差が生まれている。
新約は「万人祭司」の時代であるにも関わらず、教会内で、信徒に「祭司」としての誇りや自覚は少しも見られず、それらは牧師によって根こそぎ奪われ、信徒はひたすら無力化され、卑屈になっている。

教会内で信徒が牧師を批判することがためらわれるような雰囲気がないだろうか? 牧師が問題のある教会運営に走っても、信徒はそれを止めることが許されない雰囲気を感じないだろうか? 牧師にたてつくことは罪であるから、センセイの言うことは、たとえどんなに筋道が通らなくても、異議申し立てしない方が良いという考えが、教会内で多数派になっていないか? 信徒が自分の用事で礼拝堂を使うことに、何か非常な引け目を感じないでいられるか? 教会内で信徒だけが集まって自由に会話することが、何かしら、ためらわれるような空気がないだろうか? 何よりも、日曜が来る度に、重い足取りで、信徒が教会に向かっていないだろうか? 礼拝のメッセージを心の中では軽薄だと思いながら、眠い目をこすりながら、嫌々、聴いていいないだろうか? 硬貨を入れることがためらわれるような、スケスケの献金箱が礼拝中に回って来ないだろうか? お金がない時に助けになってくれそうな人は教会にいるだろうか? 奉仕を断わることにプレッシャーを感じないだろうか? 教会内で、牧師の寵愛を得ようとして競争している信徒がいないだろうか? 虚勢を張って元気そうにふるまわなければ、行けない雰囲気が教会にないだろうか? 親しかった信徒が、ある日、突然、何も言わずに姿を消して、以後、礼拝に来なくなったということが頻繁に起こっていないだろうか? etc.

…そういったことは、全て、聖職者の意向により、いかに信徒が日頃から、封建的で誤った牧師優先の道徳観念、自分に対する卑屈な考えを心にいやというほど植えつけられているかを示す、明らかな証拠である。

聖職者が神に成り代わって、信徒の心と生活を支配している。牧師が、羊のために命を棄てる牧者になっていないどころか、羊の命を吸い尽くしてまで生き延びる利己的な狼となり果てている。そのような行いが、教会内のあらゆる道徳的腐敗に通じないはずがない。信徒の献金を着服し、信徒にわいせつ行為を行い、信徒の名誉を傷つけるような、あからさまに羊を貪り食う恐ろしいカルトが、ここから生まれて来ない方がおかしいのだ。

ニッポンキリスト教界の階級制度にこそ、カルト化の根源がある。
カルト化教会は、ニッポンキリスト教界の歪んだ仕組みが必然的に生み出す有毒廃棄物である。

2.ニッポンキリスト教界全体が徐々にカルト化しているのはなぜか。

さて、日本のキリスト教界のカルト化の抑止力になりそうもない裁判や、「カルト化教会被害者の救済運動」是非を問うよりも前に、まず、何よりも、カルト化教会の腐敗には見てみぬふりを決め込み、被害者の痛みには何ら注意を払おうとしない多くの「同胞クリスチャン」の冷酷さについて書いておかねばならない。
教会のカルト化という病理は、すでに書いたように、日本のキリスト教界全体に蔓延しつつある。だが、そのことについて、最も責められるべき存在が、もちろん、被害者であるはずがない。たとえ裁判にあまり効果がないように見えても、なけなしの力を振り絞って裁判に赴いている被害者を責めるのは、あまりにも思いやりに欠ける言語道断な行為である。さらに、今でもカルト化教会から脱出できずにいる信徒たちが、「相変わらず、真実に気づかず、愚かにも騙され続けている」といって、非難したり、笑い者にする態度にも大きな問題があろう。

教会のカルト化という問題に最も大きな責任を負っているのは、問題の渦中にある被害者ではなく、それをそ知らぬ顔で、「対岸の火事」として、暢気に眺めては、消火活動さえしようとせずに、ただ、あ~でもない、こ~でもないと議論ばかりしている無数の大衆クリスチャンである。
中でも、最大の責任を負うのは、自らの保身にしか関心がなく、同業者が堕落してもそれを見てみぬふりして、止めようともしない臆病な聖職者たちであり、さらに、被害者が「公に立ち上がる」ことだけを期待して、自らは何の痛みも支払わずに、沈黙の中に引っ込んでいるキリスト教界の「普通のクリスチャン」たちにも責任があろう。

全国にあるプロテスタントのキリスト教会の中で、教会のカルト化という問題に対して(ここで言うカルトとは、他宗教を含まず、キリスト教界内のカルト化した教会のことを指す)沈黙を破っている教会はまことに少ない。
同じキリスト教界で傷つき、躓き、難民となってカルト化教会から流れ出た信徒に、安らぎと回復の場を提供するために、門戸を開いている教会はまことに少ない。カルト化教会の被害者を支援しようと動いている教会はごくわずかであり、実に多くの教会がその「被害」の存在さえ否定する。
カルト化教会で被害を受けた信徒が、他の教会の牧師に相談しても、その痛みに同情してもらえるどころか、「赦しなさい。誰にでも欠点や弱さはある。牧師を訴えてはいけない」などの言葉で冷たく追い払われることが多い。多くの教会は、ただ権威者をかばい、長いものには巻かれろ式の態度を取るだけで、被害者の存在には「他人事」と、知らぬふりを決め込んでいる。

なぜ教会の不祥事がこれほどまでに明るみに出てさえ、多くの牧師が被害者の痛みを否定し、被害者を支援しようとしないどころか、問題牧師を擁護するような発言を繰り返すのか? なぜ一部の教会の腐敗の問題に、他の教会は概して真面目に取り合わず、目を背けるのか?

その理由を指摘する前に、まず前もって説明しておかねばならない事実がある。それは、このキリスト教界全体が今、どういう現状にあるかということである。
端的に言うならば、ニッポンキリスト教界は、癒着となれあいによって成り立つ一種の利権団体であり、ほとんどの教会の牧師が、己が利益を失わないでいたいがために、他教会の牧師を敵に回すような発言を控えたいと思っている。
大学なども同じであるが、キリスト教界内の「センセイ」同士の間では、よほどひどい問題が起こって自分がとばっちりでもこうむらない限り、お互いの仕事には口出ししないという暗黙の鉄則がある。どんな若手であろうと、神学校を出たてであろうと、人間的に未熟であろうと、一旦、センセイになってしまった人間を、同業者は、プロの職業人、専門家として丁重に扱うべきというのがこの「業界」のルールなのだ。

だが、それならば、「センセイ」同士は協力関係にあるからこそ、お互いにかばいあい、馴れ合っているのだろうか。同じ聖職者としての保身の思いから、強い連帯で団結しているのだろうかという疑問が生ずるが、実はそうではない。

宗教という美しいベールを外して、物事を見てみれば、容易に分かることがある。
仮に教団を株式会社にたとえてみよう。教団が親会社であれば、教会は教団のミッションの下請けとなる子会社、あるいは代理店窓口である。牧師はその代理店の運営を任されて、本社から代理店に出向、もしくは天下った営業マンとみることができる。
全国津々浦々にたくさんの代理店があり、それらがみんな「キリスト株式会社」を名乗っている。同じ宗教に属しているのだから、それらの教会は一見、同じ目的のために協力して活動する、「キリストの身体」であるように見える。だが、実際にはそうでないところがミソなのだ。

たとえば参考までに、携帯電話の販売代理店を例にとって、その仕組みを説明してみよう。今、全国津々浦々、日本のどんな地方のあらゆる隅々にまで、あらゆる携帯電話会社のショップが建てられている。ドコモ、au、ソフトバンク…。都市部なら、あらゆる会社の窓口がまるでコンビニのように街中にひしめいているのを見ることができよう。同じauの代理店でも、一丁ほど歩けば、もう別の店の看板に突き当たる。
重要なことは、これらの店が全てお互いに協力関係になく、競争関係にあるということだ。ドコモとauが競争関係にあるくらいのことなら、誰にでも想像できよう。しかし、重要なことは、同じ会社の代理店同士であっても、それらは競争関係にあり、少しも仲良くやってはいないということだ。同じauの代理店同士で、客の取り合いがある。近所の目と鼻の先ほどにある、同じ会社の代理店が、不倶戴天の敵となる。地域に密集した代理店同士の間で、すさまじい客の争奪合戦が繰り広げられる。新たな代理店が建てられ、代理店が過密状態になればなるほど、競争は激化する。一丁先にある同業他社代理店、同業自社代理店が最も恐るべき敵になる。

このような末端に至るまでの競争システムの導入によって、今、携帯電話会社は売上げを伸ばしている。代理店同士を激しく対立させ、競争させることによって、会社は自らの手を汚すことなく、全体の成績を上げることができる。業績の伸びない代理店は、取り潰すだけのことだ。ノルマを課し、達成したところには報償をくれてやる。代理店は生き残るために、何が何でも客を増やそうとする。その結果が、闇雲で客のことを考えない、違法な販売活動になったり、または不正な契約書偽造、過剰な違約金の請求になったりしている。

携帯電話を解約する時に違約金を払わされたという苦い経験をお持ちの方は多いだろう。あの違約金というものは、代理店と顧客との間の契約によって結ばれているのであり、親となる会社は直接、そこに関与していないことになっている。そのため、もしも顧客が違約金の支払いに納得せず、またはサービスに何らかの不満があって、訴訟を起こしたとしても、そこで訴えられるのは代理店であって、サービスを提供している本社ではない。現場の汚れ仕事を全て、前線兵士としての代理店に任せることで、親となる会社は後方に退き、自分には一切火の粉のかからない高みから、その熾烈な戦闘を悠々と見物しているのである。

これと同じ構図は社会の至るところに見出せる。たとえば、偏差値教育、受験教育がそうである。もしも国が優秀な若い人材を確保したいと本気で願うならば、本来、文部科学省がスウェーデンのような充実した教育制度を我が国に実現させれば良いだけである。ところが、国は労力を払って教育制度を充実させる代わりに、ただ子供同士に過酷な競争を強いることによって、学校の子供たちの間に見えない戦争を起こし、その戦いを勝ち抜いていく人間だけを「優秀」だと認め、優遇しようとする。競争において、落伍者となりたくない、馬鹿にされたくないとの思いから、皆はそのしかけに気づかず、必死に勉強をする。偏差値という物差しによる競争に踊らされている子供にとっては、クラスメートが敵だ。隣の机にいる子は友達ではなく、競争相手だ。ママさんたちにとっては、近所の子が競争相手だ。こうして社会は戦々恐々とし、子供同士が張り合い、家と家が張り合い、世帯が互いに比べあって、地域社会全体が競争意識に生きるようになる。

だが、競争による成長は長くは続かない。それは絶えざる戦闘状態であるから、追い立てられた人の心を荒廃させ、やがて社会の疲弊を招く。そして人を競争相手としてしか見られなくなり、愛する能力を育くめなかった人々の深刻な心の闇が、やがて様々な凶悪事件に形を変えて、日々、明るみに出るようになる。今日、受験システムによる競争の弊害は、誰にも否定できないほどまでに広く我が国で認識されている。(たとえば文部科学省中央審議会でさえ「過度な受験競争の緩和」の必要性をはっきりと認めている。)

さて、話を戻せば、この競争システムと同じ原理が、日本キリスト教界にも導入されている。同じ教団に属しているからといって、牧師と牧師が協力関係にあると思ったら、間違いである。同じ会社の代理店同士が競争相手であるように、同じ教団に属する各教会がやはり競争関係にある。こうして、日本全国津々浦々の教会が、牧師が、互いに競争状態にあるというのが、今のニッポン・キリスト教界の現状である。教団同士が対立するというのなら、まだ話は分かるが、同じ教団に属する教会さえも互いに競争しているというのが、ニッポンキリスト教界のどうしようもなく嘆かわしい現状なのである。

今日、キリスト教界において一般的に考えられている牧師の成功のイメージとは、教会という己が牙城をどれほどビッグにできるか、という一言に尽きる。真の信仰者から見れば、まことに馬鹿らしい、お粗末な発想でしかないのだが、要するに、それはサイズの問題であり、規模が大きく、権勢さえ大きくなれば、それが成功とみなされるのがキリスト教界における一般的考え方である。
そこで、そのような物差しに従って、教会同士が我勝ちに「売上げ」を伸ばそうと、熾烈に競争する。どれほど多くの羊(信徒)を獲得できるか、どれほど多額の献金を集められるか、どれほど献身者を増やし、神学校へ送りこみ、教団へ献上する金を増やして、教団のおぼえめのでたい教会となれるか。要するに、顧客数と収益を伸ばし、自己組織を拡大できるかどうか、それが牧師が世の中に成功者として名をはせ、上からの覚えのめでたい教会の運営者になれるかどうかの分かれ目である。

あらゆる競争の背後に仕掛け人がいることを思えば、このようにして、牧師の自己顕示欲や名誉欲、持ち物の誇りなどという原始的欲求をたくみに刺激しながら、牧師同士の競争を煽って激化させ、それぞれの教会を目いっぱい拡大させることによって、利益を得ている存在があることが分かろう。それは教会の背後に存在する教団である。
教会が大きくなると、誰が一番利益を得るかを考えれば、全ては単純明快、一目瞭然だ。通常、献金が増えれば牧師の収益が増えるという単純な発想になりがちだが、それだけにとどまらない。教会から収益の一部を確実に吸い上げているのは教団であり、それぞれの教会が目いっぱい成長した時、教団は各教会から莫大な利益を吸い上げることができる親会社になるのである。一言で言えば、教団がより肥え太るという目的のために、教団は各教会の競争を煽っているのである。

それでも、一見、教団内の牧師の間には穏やかな協力や、友好的なつきあいがあるように見えるかもしれない。牧師や牧師夫人は定期的に集まって、和やかにテーブルを囲み、互いのために祈りあっているように見えるかも知れない。だが、それは見せかけであり、事実の半面に過ぎず、その裏には壮絶な妬みや争い、足の引っ張りあいが隠されている。プロテスタントの聖職者階級の世界は、ヴァチカンと同じくらいに、嫉妬渦巻く、闇に覆われた世界であり、江戸時代の大奥以上にドス黒いものがそこには存在していると言って良い。

だが、争ってばかりでは家は立ち行かない。従って、ある程度、社会的に成功した牧師に対して、教団は必ず優遇策を取る。そこでお家制度のようなものが確立する。
どんなに自分が成功者となっても、いつ他人に妬まれ、足元をすくわれるか分からないのでは、人は心休まる時がない。そこで、何とか自分の地位を強化し、同業他者からの憎しみと妬みをかわそうとして、人が取る作戦は、いつの時代も同じである。
強力な他者と親戚関係になることによって、友好条約を取り交わすのである。

牧師の世界にも、今や二世、三世がひしめき、多くの聖職者がお家同士のつながりを持った上で、講壇に立っている。聖職者の妻帯が禁じられていないプロテスタントにおいては、カトリックに比べ、特にこのような面での俗化の動きがはなはだしい。いまやキリスト教界も政治と同じく、地盤、鞄、看板の世界になっている。

キリスト教界の牧師たちの中には、自分の息子や娘たちを、できれば神学校へ送り出したいと考えている者が多い。自分の子供には、神学校で適当に見合いをさせ、できるなら優れた牧師の家庭から、立派な娘や息子たちをめとらせたい。神学校に来るような人の中には素行不良な者はまずいないから、神学校は最高の結婚相談所となる。そうやって、見合いさせてできた息子娘夫婦が、神学校を卒業すると、今度は、若く魅力的な牧師夫妻になって、新たに業界へ送り出される。このようにして、同業他者と親族同士の契りを結びながら、永遠に自分たちの家系から牧師を量産することによって、牧師たちは馴れ合いの構図をより強固なものとし、自分たちのお家を強化して、争いをなだめ、対立を免れようとしているのである。

キリスト教界における聖職者たちの血縁化、政略結婚はどのくらい進んでいるのだろうか。仮に、一つの教団や、教団を超えて、キリスト教界の中で家系図のようなものを作ってみればよい。驚くほど多くの牧師たちが親戚、縁戚関係にあることが分かるだろう。彼らはそれを自由恋愛だと主張するかもしれないが、そこには、その昔、様々な大名が自分の娘を、他の有力者に政略結婚のための道具として差し出していたのとほぼ同じ構図が見られる。

神学校というところは、今やこうして、若い献身者がキリストのことを第一に考えて節制に励み、自己鍛錬の修行を積む場ではなく、卒業後、いかに有利にこの業界で世渡りをしていくかを画策する者たちが、その第一歩を踏み出そうと、自分の地位を強化してくれそうな有力なお嫁さん候補、お婿さん候補を探すための、単なる結婚相談所のように成り果てている感が強い。
だが、そうやって有力者の娘や息子をもらえる人々は、幸運な方だろう。そのように聖職者の家と親族関係を結ぶことによって自らの立場をより強固にしていくことができない献身者は、コネという防波堤のない実力勝負の競争の舞台に、神学校卒業後、最初から立たされることになる。

さて、このようにしてニッポンキリスト教界は、末端に至るまでの競争原理によって成り立っている。各教会同士が熾烈な競争関係にあるからこそ、この業界ではどんな事柄においても団結や一致というものが全く見られないのであり、特にプロテスタントはそうであるが、未だに各教団教派が互いを否定しあって、多重分裂といがみあいに終始している。

この業界では、牧師は絶えず「営業成績」を気にかけていなければならない。少なくとも、同業他者が業界にひしめいて競争しているような現状では、他者に競争心を持つなと言われも無理である。よほど達観した、世俗を超越したような牧師でなければ、自分の教会の「規模」を一切気にかけず、人からどうさげすまれたり、無能扱いされようとも、ただキリストのように無我無私に神に仕え、人に仕えることだけを念頭において、黙々と働き続けることはできない。自分の教会が成長しなければ、自分は優秀な働き手でなく、プロジェクトに失敗したのだと自信を失いかけるのが人の心である。ましてや他者の成功の前には、自分の無力を思わされることであろう。

だが、経済成長にさえ限りがあるように、長年に渡って、クリスチャン人口が総人口の1%を超えないような日本においては、キリスト教界が教会成長をいくら叫んでみたところで、おのずと限界がある。どんな最新のメソッドを導入しようと、どんなマニュアル本に従おうと、教会成長にはあまりにも大きな限界が立ちはだかっているのは明らかである。日本においてクリスチャン人口はこれまで決してマジョリティになったことがなく、リバイバルは何十年と起きたためしがない。この国の国民がこぞって、キリスト教を求めたことは、歴史上、一度もないのだ。
そんなところで唱えられる「一億総福音化」、「福音村の建設」、「リバイバル」などというものは、はっきり言ってしまえば、日本の現実をきちんと見据えることもできず、過去の歴史から教訓を学びとることさえできないでいるクリスチャンの、まことに能天気でお気楽な夢である。

夢は夢であり、どんなに題目だけ唱えていたところで、絵に描いた餅が腹を膨らませてくれることはない。
そこで、成長しない売上げを伸ばすためには、何か過激な手段をとるしかない。
同業他者があっと驚くような成長ぶりを示してやるためには、何か、他の人が思いつかないような手段をとるしかない。今まで通りのことをやっていたのでは駄目なのだ。

カルトは、実は、ここから出て来るのである。

すなわち、過酷な競争が過激で違法な活動を生み、それがその活動を支えられるだけの過激な思想を生み出していくのである。
ヒトラーが、第一次世界大戦後のドイツの荒廃の中から生まれて来たように、過酷な取立て、苛酷なノルマ、過酷な重圧と競争こそが、ファシズムや全体主義を生みだす源となるのである。

つまり、一部の教会がカルト化しているのは、決して、一部の教会だけの問題ではない。
日本キリスト教界が末端の教会に至るまで、「教会成長」という偏差値に踊らされ、過酷な競争原理の中で争っているからこそ、その中から、他の教会を出し抜いて、違法な活動によって、抜け駆け的に、収益を上げようとして、過激な活動に走って自滅するカルト化教会が登場してくるのだ。

多くのクリスチャンは、カルト化は堕落した一部の教会だけに特有の問題だと思っている。ニッポンキリスト教界に属している限り、カルト化の根となるものが、あらゆる教会にれっきとして存在しており、自分の教会も決して例外ではないのだとは、夢にも思ってみない。
ほとんどの信徒はこう思っている。
「うちの教会だけは正しい。今も将来も決して間違わない。うちの先生は立派な人だ。あんなよその教会の悪徳牧師とは全然違う。私たちはこの教会に導かれて、とても恵まれている。あんなカルト化教会に通って、騙されなくて本当に良かった…。」

そんなことは大嘘である。
多くのクリスチャンたちのそのような態度は、「主よ、私はあの卑しい取税人のようでないことを感謝します」と祈った聖書の金持ちの姿そのものである。カルト化教会の問題は、本当は、あらゆるクリスチャンにとって他人事ではない。
「主よ、私だけは、正しい信仰を維持することによって、あの人たちのように、騙されなかったことを感謝します」という祈りは適切ではない。
神の目に義とされるのは、このような自己過信的なクリスチャンではなく、騙されて悪事の片棒をかつがされたことにより、主の前に自分が罪を犯したことを悟って深く恥じ、涙ながらに頭を垂れて、途方に暮れている被害者たちの方だろう。

教会が、「自分たちだけは正しい。決して間違うはずがない」という夢物語の中でまどろんでいる限り、カルトという危険は、知らないうちに、彼らに忍び寄る。そして気づいた時はもう遅すぎる。
来たるべき危険に、決して目を覚まさないように仕向けている勢力がある。どこか高いところで、自分たちは決して手を汚すことなく、地上の人々に「教会成長」のノルマを課しては、過酷な競争を強いて、互いを争わせて戦争状態にし、それによって売上げを伸ばしている人たちがいる。
このようなやり方に疑問を持たない限り、教会がカルト化の危険と縁を切ることはできないであろう。

「カルト化問題なんて、他人事。うちの教会には全然関係ない」と、牧師や信徒に信じ込ませることで、自分たちがすでに陥っている危険な罠のカラクリに、絶対に気づかせないようにしている勢力がある。これは狡猾な策略である。
1.裁判は、日本キリスト教界のカルト化の抑止力となるだろうか。

現在、すでに紹介したような、いくつかの道徳的に退廃した教会では、被害を受けた元信徒が立ち上がり、牧師に対して裁判を起こすなどしている。筆者は自分自身が教会で受けた仕打ちについて、どう対処すべきか考えているうちに、これらの人々と接触を持つことになった。
カルト化教会の被害者が、教会や牧師に対して裁判を起こすように奨励している人々がいる。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏などがその代表だ。

だが、筆者は、村上氏の教会へ赴き、牧師とも話し、カルト化した教会に長年在籍した被害者であって実際に裁判に加わられた方からも話を聞いたが、その情報だけをもとに判断すれば、残念ながら、裁判という方法が、教会で虐待を受けた信徒が心身ともに回復するために非常に効果的な方法であるという印象は受けなかった。その上、村上氏が裁判の他に、被害者のための確かな立ち直りの方法論を持っているように見受けられなかった。
それだけでなく、後に詳述することになるが、なぜ、同じキリスト教界に属している牧師が、別の牧師を訴えるというやり方を支持しているのか、それによってどのような解放が生まれているのかが全く不明であり、「カルト化教会被害者の救済運動」という活動そのものに、非常に腑に落ちないものを感じながら、筆者はその教会を後にすることになった。

今、限られた力を尽くして裁判を起こしている被害者にはまことに申し訳ない気持ちになるが、裁判によって、カルト教会の被害者が十分に報われることはまずないと考えて良いだろう。
なぜなら、裁判のためにかかる膨大な費用、時間は動かせないものである。が、それに対し、裁判を通して、被害者が受け取ることができる補償額は、受けた被害の大きさに対してあまりにも小さい。
裁判は、被害者への十分な金銭的賠償を保障しないだけではない。裁判は、心のケアをも保障しない。被害者が、道を誤った教会に在籍しているうちに失った年月、家族や友人との絆、キャリア、心の平安、社会常識、信仰…、そういったものを裁判によって取り戻すことは事実上、不可能であり、それらを回復するための複雑極まりない心理的プロセスを耐え抜いていくことは、ひとえに被害者自身の今後の前向きな努力によるしかない。

さらに、傷ついた人たちは、まず、その傷が癒されなければならない。回復には時間が必要である。その回復がなされない前に、新たな闘いに赴くのは心理的に危険である。だが、裁判を起こすことを考え始めるならば、時効という壁があるため、被害者は自分の心の十分な回復を待ってから行動を起こすわけにはいかない。
このようにして、裁判という手段を選ぶことは、傷ついて弱くなり、立ち上がれなくなっている弱者が、十分な回復期間も経ないまま、並々ならぬ力を振り絞って、活動に赴くことを意味する。弱者は、自らが踏みにじられた弱者であることを証明するためだけにも、なけなしの力を振り絞って、裁判という闘いに赴かなければならない。争う力がない者は、自らの無実を証明することさえできない。
これは、弱肉強食の競争原理が隅々まで行き渡った我々の社会のどうしようもない残酷さである。

カルト化教会の被害者が、裁判を通じて、受けた被害を公然と世に訴えれば、そのことが教会のカルト化の抑止力になると主張する人々がいる。だが、本当にそうだろうか。

世間は往々にして、犯罪被害者にこう言う。「あなたが真実を公に語ってくれればねえ。あなたの証言が、二度とこのような事件を誰も起こさないための、歯止めになるのよ。あなたの証言には、社会を是正する力があるのよ」
だが、このように、主として被害者の力によりすがって、社会悪を是正し、改革を成し遂げようとすることには、大きな問題がある。一つの団体が、裁判沙汰になってから、ようやく初めて、自分の団体内の不祥事や、権力者による犯罪の存在に気づいているようでは、対応が遅きに失するというものだ。裁判になるよりももっと前に、ごくごく小さな火種のうちに、メンバーが危険性を察知して、適切に警告を発したり、批判したりし、対策を講じてさえいれば、あるいはメンバーでなくとも、そばにいる人々がその危険に気づいてさえいれば、傷つけられてボロボロになった被害者が、自分の回復もままならないうちに、ただ犯罪の存在を訴えるという最低限のことのために、最後の力までも振り絞って、裁判に赴かなければならないような状況は避けられるのである。
裁判という方法でしか、物事を解決できなくなっている時点で、もはやキリスト教界にはどうしようもないほどの弱者への無関心と、専横、冷酷さが満ちていると言えよう。

裁判とは、被害者の力によりすがって、物事を是正しようとする動きである。従って、力のない者には裁判さえ起こせない。カルト化教会で深刻な被害を受けても、それに裁判を起こすことができる被害者は、全体のごく一部である。どんな犯罪の場合でもそうであるが、最も深刻な被害を受けた弱者は、往々にして、自分が受けた被害を自分で世に語る余裕も持たない。

歴史上あらゆる犯罪事件に共通して言えることだが、最も深刻な被害は、決して世の中に公表されたことはなく、裁判で表ざたになることもなく、手記に著されることもなく、ただ被害者の胸のうちだけにしまわれ、暗闇から暗闇へと消えていき、天だけがその証人になるしかない。
善良な人間は、被害者が公に被害を語るのを待ってから動いているようでは、その善良さも敏感さも大したものではない。被害者の力によりすがって社会を是正しているうちは、その活動は残酷なものであり、決して本来の意味を発揮することはないだろう。


受けた被害を、口にすることができないほどに、追いつめられた人々がいる。
その人たちにさえ、死力を尽くして、裁判を起こさせるように仕向けなければ、事件を解決できないような世の中は、到底、ノーマルな社会だとは言えないし、善良で思いやりある人々は、そのような残酷な要求を被害者に対して突きつける前に、自分自身が死力を尽くしてやるべき課題があることに思いをはせるべきである。

さらに、そこまでの力を振り絞って被害者が裁判を起こしても、追いつめられた悪徳牧師や悪徳役員らが心から謝罪したという例をほとんど聞いたことがない。裁判に悪人を更生させる力がないことは、残念ながら、歴史上、様々な人物が様々な場面で証言して来た。
つまり、カルト化した教会にいた信徒が裁判を起こしても、端的に言えば、被害者は報われる可能性が極めて少ない。裁判によってさらに資金と労力を失いながら、それでも、自らの傷を癒し、回復していくための努力を地道に続けるしかない。

このような悲しい現状に鑑みて、筆者が思うことは、Dr.Luke氏をはじめとして、かなりの人々がそう主張するように、ニッポンキリスト教というこの危険な業界からは、ただ速やかに離れ去ることだけが、この「業界」から受ける害を最小限におさえるための最善の道だということだ。

神の声さえ退ける悪人の心を自分の努力によって正せると思うな。聴く耳のない者に向かって真実を語るのは、豚に真珠だ。豚は真珠を踏みつけて、こちらにくるりと向き直り、突進して噛み付いてくるだろう。真実は、声をかければふり向くだけの耳のある人に向かって、語るべきだ。
家の中に置いてきた高価な着物を取りに戻ろうとするな。取りに戻っているうちに家屋が焼け落ちて、下敷きになるかも知れないから。

筆者にも、教会という家屋の中に置いてきた持ち物がある。だからそれを取り返せるなら取り返したいという気持ちは痛いほど分かる。教会籍もそうであるし、何よりも、教会にかけてきた長年の月日や、献金、奉仕、そこで築いてきた人脈、傷つけられたプライド…。だが、今はこのソドムとゴモラから脱出するにあたり、そのような置き去りにしてきた自分の財産に未練を抱いている場合ではないのだと思う。ましてやそれらを取り返すために画策している場合でもないだろう。

近い将来、一つ、二つの裁判ではもはや誰も対応しきれないような末期的事態がこの「業界」に到来することだろう。腐敗がこれでもかと明るみに出る日が来よう。その時、「ニッポンキリスト教界」は教団教派を問わず、業界ごと炎上し、腐った屋台骨もろともに焼け落ちて、瓦解するだろう。そのようにして、いわば、この業界に天罰が下る時が来る。だが、その時に、最後まで家屋の中に残っていた人々は大きな痛手をこうむることになろう。この団体と関わってはいけない。中にいる人は一刻も早く、外へ逃れ出るべきである。荷物を取ろうとしてふり向くべきではない。

被害者は、裁きを主に向かって要求すればよい。本当に神を信じるならば、努力によって是正できないことは、御心に任せるしかない。主は復讐の神でもあり、傷つけられた人の心の叫びに長く耳をふさがれるような方ではない。辱められ、いたぶられ、嘲られる苦しみは、イエスご自身が誰よりも、ご存知なのだ。神は被害者の味方である。

我が身を省みる力さえ持たないような、堕落しきった悪人にいつまでも関わりあうことが、善良なクリスチャンに任された使命ではない。ましてや、教会内にキリストの名を騙った背教を広めているような「まむしの子孫」にあえて関わっていては、自分の命さえも危うくなると思った方が良いだろう。
カルト化教会に、たとえ裁判を起こしても、それで取り戻せるものはまことに少ないのだ。それなのに、限られた力を尽くして、裁判を起こすことが、被害者にとって有意義であるかのように思わせている牧師たちには、よくよく注意されたい。なぜ彼らは同業者を訴えるような裁判を助長し、他の教会が破滅する後押しをしているのであろうか。そのことを次の項で書きたい。

近年、日本における(特に)プロテスタントのキリスト教界全体が、危機的状況に陥っている。
現在の日本のキリスト教界は、何かがおかしい、この「業界」は、根本から何かが狂っている、もはや手の施しようのないほど霊的に病んでいるのではないか…、という危機感を帯びた説がネット上で散見されるようになった。

「ニッポンキリスト教界」全体への危機感は、特に、キリスト教とつながりのない人々ではなく、主に、キリスト教徒自身の側から、いわば「内部告発」として問題提起されていることが注目に値する。このような、普通に信仰を持つクリスチャンの側から見た、「業界」全体への切迫した危機感は、ネット造語とも言える「ニッポン・キリスト教界」というカタカナ用語に象徴的に表れている。(キリスト教界の不祥事にはうんざり顔で筆を進めていたDr.Luke氏でさえ、最近は「ニッポンキリスト教会から可及的速やかにエクソダスせよ!」という主張を、だんだん他人事でない迫真性をもって、あらゆるキリスト教徒に呼びかけるほどの異常事態となっている。)

このような危機感はどこから来るのか。なぜ普通のクリスチャンたちが、キリスト教界全体が危機的状況にあって、取り返しのつかないほど病んでいると判断せざるを得ないのか。
その原因として、まず筆頭に、相次ぐ教会の不祥事の代表としての「教会のカルト化」という問題が挙げられる。教会を覆う闇については、今後様々な角度から分析していくつもりであるが、まずはカルト化の問題を連続して特集することにしよう。

最近では、「アエラ」2008年7月28日号や「ハーザー」2008年9月号に、ハレルヤ・コミュニティ・チャーチ(浜松)、沖縄リバイバル・チャーチ、沖縄キリスト福音センター美浜教会における呆れた乱脈運営の実態が特集として掲載された。つまり、牧師による教会の拝金主義的な乱脈経営、女性問題、献金の横領着服など、これらの教会の陥った想像を絶する道徳的退廃ぶりが、様々な事件の形を通して大々的に明るみに出た。(ブログ「吉祥寺の森から」などでも盛んに議論が繰り広げられているので参考となる。)

だが、キリスト教界での不祥事は遡ればもっとたくさんある。主の十字架クリスチャンセンターのカルト化、京都シティ・チャーチのカルト化と訴追された宣教師の国外逃亡、聖公会京都教区の司祭による女児への性犯罪事件(当該司祭は未だ職を辞していない)、日本基督教団東海教区の会計担当者による献金約6900万円の着服事件(2007年)などなど。
このようにして、今、教団教派を問わず、一つならずのキリスト教会が、一般常識からかけ離れた違法な集金、集客活動に走ったり、その結果として、組織全体が行き詰まり、反社会的活動に陥り、あるいは恐怖政治に陥って機能しなくなり、崩壊したり、もしくは崩壊直前と言うしかないような「末期的」様相を呈したりしている。

教会がこのような違法で、非道徳的で、反社会的かつ非人間的な支配や、集金活動に走り、また、そのような過激な活動を支えられるだけの過激で極端な理念を創造し、それを権威者がマインドコントロールの手法をたくみに用いながら、恐怖政治によって信徒に教え込んで行き、実践するよう強要していくこと、教会が大なり小なりそうした傾向に陥っていくことを総称して、「教会のカルト化」現象と呼ぶ。

(ここではカルトという用語の専門的定義について詳細に議論するつもりはないので、定義の問題については概略的説明にとどめておく。筆者が今後説明しようとしている様々な現象に関しては、ひょっとすると、「キリスト教会の全体主義化」という表現の方が、「教会のカルト化」という表現よりもふさわしいかも知れない。だが、今日のキリスト教会の道徳的腐敗傾向を示す用語として、「教会のカルト化」という言葉がすでに一般に普及しているため、この用語で統一することにしたい。)

想像するに、「教会のカルト化」現象は、日本のキリスト教界全体に忍び寄っている危険である。どの教会もその危険を完全に免れられてはいない。裁判で起訴され、世間に波紋を呼ぶほどの大事件に至らなくとも、潜在的なカルト、つまり「準カルト」、「準々カルト」の状態にある教会は日本全国にはかり知れないほど多いと考えられる。
それはキリスト教界全体の根っこに存在する制度的欠陥が、カルト発生の源となっているからであると筆者は考えているが、制度の問題については、後日に筆を譲ろう。

このような問題意識が、どれほど現実に根ざした、事実無根のものでないかを説明しておくために、まずは筆者自身が教会で実際に体験して来た恐ろしい事実のことを書いておこう。
筆者は、聖霊派アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のとある教会で幼少期を過ごした。クリスチャンホームに育ったボーンクリスチャンではないにしろ、筆者は幼少期から教会というところの空気を吸い続けて育った。その筆者が通っていた教会に勤務していたT牧師は、教団内では要職についていたが、教会内の信徒たちの間では、下からのフィードバックを許さない、独裁的な教会運営を繰り返すということで評判が芳しくなかった。

20年以上、そのようなやり方でT牧師は一つの教会に勤務した後、ついに信徒からの道徳的追及によって辞職にまで追い込まれた。その際、使途不明金の存在も指摘されたが、教団はこの事件全体に関して信徒に納得のいく説明は行わなかった。そしてT牧師は、辞職に追い込まれ、教会を失った。当該教会は教団に別の牧師の赴任を要請したが、希望した人物には次々と断わられ、現在当該教会に赴任している牧師夫妻のもとでも、ひどい独裁運営ぶりが繰り広げられているという話を筆者はそこの信徒から聞いている。T牧師は辞職に追い込まれたとはいえ、教団内で親戚関係となっている別の牧師の教会に引き取られ、かなりの高齢となって聴覚にも衰えが見られるようになった今でも、まだ教職活動を続けている。

筆者はこの事件が起こった当時、キリスト教界全体に対して問題意識を持つほどの判断力はなかった。そのため、この事件にただ精神的に痛手を被っただけであり、教会という組織とは何なのかという疑問をこの事件をきっかけに深く考えようとすることはなかった。一言で言えば、それは筆者がたまたま通った一つの教会が、偶然、腐敗に陥ったに過ぎないという風に受け止めており、キリスト教界という「業界」全体が、これに類似する道徳的な腐敗という病魔に同じようにとりつかれているかも知れないなどとは考えもしなかった。幼い頃から「日曜礼拝を守る」ことの重要性を教え込まれて育った筆者は、教会の権威、教会の存在意義自体に疑問を持ったわけでなく、しばらく信仰生活そのものから離れていたが、そのことにさえ後ろめたさを覚えており、その良心の呵責を振り払うために「日曜礼拝を守る」ことができる別の教会を探し続けた。

端的に言えば、その頃の筆者は、キリスト者の信仰生活は教会と不可分のものだと思い込んでおり、その教会とはこの世の宗教法人としての教団や教会を意味するという非常に狭い考えを持ち、そのような宗教法人としての教会を離れては、自分のような弱い者は、到底、一人では信仰を維持できないという自信喪失状態に陥っており、そのことを奇妙だと思うことさえないほど、未熟であった。

そうして、その後、とあるきっかけから、福音派のフリーメソジスト教団のある地方教会に通い始めたが、そこで前の教会よりもさらにひどい事件に遭遇させられ、日本の教会のあまりにもお粗末な現状に、目を覚まさせられることになった。筆者は悪徳牧師としか言いようのない男に遭遇した。筆者はこの頃、クリスチャン、特に聖職者と呼ばれる人々の中に、このように嘘つきでどうしようもない恥知らずな人間が混じっているとは想像も出来なかった。そこでこの悪徳牧師の言うことを信用した挙句、さんざんに裏切られ、騙された。奉仕を強要され、約束は破られ、牧師の恥知らずな嘘と厚かましい要求に振り回され、人生で大きな痛手を被った。

この牧師は何食わぬ顔で今も当該教会に勤務し、教鞭も執っているので信徒はよくよく注意されたい。(参考のために彼を仮名で、金蓄勝蛇(カネチク・カツミ)牧師と記しておく。知恵のある人はこの名前から読み解いていただき、絶対にこのような人物には近寄らないように警戒していただきたい。さらに、この牧師はヤクザともつながりがあるので要注意である。)もしこれを事実無根の誹謗中傷と解釈し、この事件を筆者による捏造、デッチアゲ、虚偽と考える人がいるならば、筆者に公の場で議論を申し込でいただければ、証拠資料を持参してそれに応じたいと希望する次第である。その時こそ、S教会の問題だけでなく、フリーメソジスト教団の問題をも世に知らしめることが可能となろう。
そしてこの金蓄牧師は、彼のいる関西北摂の教会(金蓄は主任牧師ではない)を詐欺教会と考えた筆者が、そこを去って、転籍を要求したにも関わらず、筆者の要請を無視し続け、今に至るも、書類さえ返送しないでいる。教団側に筆者はもちろん、この恥知らずな牧師の起こした事件について抗議しを申し入れたが、何らまともな対応がなかったため、筆者はフリーメソジスト教団そのものが機能不全に陥っており、良識に基づいた判断はこの教団には到底、望めないものと結論を下した。

筆者が遭遇した事件を詳しく述べることがこの論説の目的ではないので、実体験はこの程度にとどめておくが、このように、たかが地方の目立たない小さな教会でも、権威者、つまり聖職者の側からの不祥事、信徒虐待の例は枚挙に暇がないのである。

そこで筆者自身の判断によれば、「アエラ」、「ハーザー」誌に特集されたような牧師の横暴、「教会のカルト化」の例は、日本キリスト教界の氷山の一角でしかない。現在、名も知れない全国の多数の教会が、カルト化の初期症状から末期症状に至るまで、様々な形態で、堕落と崩壊の途上にあり、ほとんどの場合、教会や教団内での自浄作用は働かず、被害者はただ泣き寝入りを強いられているものと思われる。
そして仮に新聞雑誌に取り上げられるほどの大々的な不祥事にまで発展しなくとも、横暴で専横的な牧師がいるような教会では、牧師の横暴に泣かされている信徒は数知れず、下手に牧師に口答えして対立関係に陥ろうものなら、その信徒は牧師によって公然と冷遇され、叱責され、やがて教会にいられなくなって、事実上、追い出されたも同然に教会を失い、他の信徒との友情までも失い、別の教会へ転会しようにも、牧師が転籍を許さないため、あるいはその牧師との接触がはばかられるため、転籍すらままならないような現状に陥っているということは日常茶飯事である。

ほとんどの教会は、信徒を「主にあって結び合わされた永遠の兄弟、仲間」だとはみなしていない。自分から教会を去った信徒に対しては、牧師はほとんど連絡を取ろうとせず、たとえ正会員であったとしても、まるで初めから何の関係もなかったかのように、関係を絶ってしまうのが通常である。たとえ連絡を取るにしても、それは一方的な言い分を告げるのが目的であって、信徒が何に躓いたかを探り、その原因を作ったことを反省するためではない。そのような牧師の冷たい態度に、他の大多数の信徒も大方、右へ倣えする。信徒は教会の催しに足を運び、献金を払い続けている限りにおいてしか、仲間とみなされない。「カネの切れ目が縁の切れ目」なのだ。

今、日本のキリスト教会には、無数の「死せる魂」(幽霊信徒)が登録されているはずである。かつて何かのきっかけで信仰を持ち、その教会で洗礼を受けたり、転会式を済ませ、純粋な思いで信仰を守ろうと決意したクリスチャンたち。かつてその教会から同胞として迎えられた人たち。しかし、何かのきっかけで教会の人間関係に躓き、その団体に疑問を持って、去って行った人たち。そこには様々な苦悩があり、ドラマがあっただろう。だが、教会はこれらの「失われた羊」に対して、何の関心も払わず、ただ去るにまかせ、なぜ彼らが去らなければならなかったのか、考えることすらせず、何の対策も取ってこなかった。
歴史的に見て、今日の教会は大量の離脱者が出てもなお我が身を省みることのできない、愚かで独善的で客観性に乏しい組織と成り果てている。それは、信徒を人としてみておらず、家畜や資源のように利用することしか考えて来なかったことの当然の結果なのであるが。これが日本キリスト教界で一般的に見られる日常風景である。

さて、「教会のカルト化」という言葉は、キリスト教会の急激な組織拡大の試みに伴う道徳的堕落の危険に警鐘を鳴らすための用語として、十数年前から、使われるようになった。だが、「教会のカルト化」への警鐘は、ニッポンキリスト教界全体の堕落を食い止めるに十分な効果を発揮しなかった。それは筆者自身の体験によっても断言できるし、また、キリスト教会の堕落と崩壊の例が、未だに後を絶たないどころか、ますます世間を騒がせるような大規模で報告されるようになっていることで実証されている。

筆者の予想では、そうした過激化、カルト化の報告例は今後ますます増えるはずである。
ニッポンキリスト教界全体が、もはや道徳的に崩壊前夜に瀕しているといっても過言ではない、いや、事実、そうなのである。